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今の日本には未だマルクスの定義『国家は支配階級が被支配階級を支配する為の機関』が存在していた!
http://www.asyura2.com/12/senkyo131/msg/584.html
投稿者 アサマタロー 日時 2012 年 6 月 18 日 08:12:56: UiY46YlCu.Moc
 

【市民社会の市民は利己的な個人の集まりである。】
個人は市民としては不平等だが、公民としては平等な権利を持っている建前だった。
国家は利己的な個人の集まりの市民社会に従属してしまっている。そして、マルクスの表題の国家定義が生まれた。

昨秋の信州への地震・放射能疎開で学生時代の本の大半を捨てた。少し待てば良かった。今はウイキペディアが頼りだ。カーチスの『代議士の誕生』は捨てなかった。日本人の敵を再確認したい為だった。
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【政権交代選挙の意義と正統性】
2009政権交代の民主平和革命政権樹立は、庶民・国民が終戦直後の一時期以来長らく待ち望んでいた。それなのに、旧戦勝国:宗主国アメリカは日本の自主独立外交を認めず、角栄の日中国交回復の時と同様に、東アジア共同体構想等を潰しに来た。

売国奴は角栄時:福田赳夫・立花隆?〜鳩山・小沢時:菅・仙谷・岡田・野田・前原等のCIA日本人協力者が改めて日本を奴隷・隷属国家に貶めた。日本は高いエネルギーをアメリカに買わされ、アメリカが国内で作れない原発を1/24の狭い国土の地震国に作らされ、核燃料の保管もさせられた。核兵器開発の下請け危険物保管者だ。それで原発のノウハウを貰えたのだった。

奴隷・隷属国家を断ち切る国民願望の政権交代選挙だった!!それが全て元の黙阿弥にされた。

だから、その正統性がクーデター民主偽装菅・野田政権に全く無い事は国民衆目の一致する事実だ。国民の民意を代表しない国会が増税・課税することは出来ない!
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【だから日本保守?の安倍らの自主独立憲法主張が嘘っぽくてならない。】
お爺さんの岸信介は巣鴨プリズン優等生でCIA協力者になり、工作資金の高いドルを円転し、政治資金に活用し急速に首相になった。安倍さんは戦後日本政治史を真剣に勉強して欲しい。
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【恐慌の概念は現代経済学では説明出来ない。】
これもマルクスの亡霊が教えてくれる。こんな国民国家で無い=奴隷国家で世界恐慌を迎えれば、昭和恐慌以上の悪影響を受けるは必定だ。庶民日本人にとって危急存亡の時だ、
そう思いませんか!庶民国民諸君!!
 

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コメント
 
01. 2012年6月18日 08:31:03 : hVWo8DcXjM
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【恐慌】(きょうこう、英: crisis、独: Wirtschaftskrise)は、景気循環の過程のうち、好況局面で突如発生する深刻な景気後退である。経済学の研究分野の1つである。***マルクス経済学では、資本主義経済に固有の現象として恐慌を重視する。***
目次 [非表示]
1 概要
2 マルクス経済学の恐慌論
2.1 生産と消費の矛盾
2.2 恐慌と過剰資本の価値破壊
2.3 資本による消費制限の突破
2.4 マルクス恐慌論の方法をめぐって−恐慌の可能性の現実性への転化−
2.5 その他の諸学説
3 関連項目
4 参考文献
概要 [編集]

19世紀には10年周期の景気循環により、恐慌現象が頻繁に起きていた。20世紀前半には世界恐慌が起きた。20世紀後半には経済政策の成果などもあり、凄惨な恐慌現象はあまり見られなくなったとされていた。政府や中央銀行当局のマクロ経済学に関する知識も蓄積され、適切な金融政策をとることによってかつて見られたような恐慌は回避できるとするのが一般的であった。それゆえ現在の経済学、特にマクロ動学理論においては経済成長論の方が重要視されている。また、持続的な好景気局面にあった1990年代のアメリカ経済は、「景気後退や恐慌を克服した新たな経済」という意味でニューエコノミーと呼ばれた。
***しかしサブプライムローン問題に端を発し、2008年9月15日のリーマンブラザーズ破綻をきっかけとする世界金融危機と、引き続く世界規模の大幅な景気後退をもって、世界恐慌と呼ぶケースが増えており21世紀資本主義においても恐慌は発生しうるとの認識が急速に拡大している。***
マルクス経済学の恐慌論 [編集]

マルクスは、恐慌局面にある資本主義の様々な諸現象(信用制度の崩壊、企業・銀行倒産、失業者の増大等)のうち、根本的な現象を***過剰生産***ととらえた。そして恐慌現象の本質を、資本主義に内在する基本的矛盾から発生する諸矛盾の爆発であり、この爆発を通じた強制的な内的統一性の回復の局面である、と把握した。
「世界市場恐慌は、ブルジョア経済のあらゆる矛盾の現実的総括および強力的調整として理解されなければならない。」(マルクス『剰余価値学説史』U、全集26巻第2分冊、689ページ。
生産と消費の矛盾 [編集]
資本主義の基本的矛盾とは、部分的ではない一般的な過剰生産傾向を生む生産と消費の矛盾である。
資本は一方では、資本家の衝動としてはより多くの利潤を得るために、また諸資本間の競争による蓄積の強制によって、生産力をどこまでも発展させようとする傾向をもっている。***資本は他方では、賃金労働者の賃金を、生活必需品の範囲の最低限にまで制限しようとする傾向をもっている。***無制限の生産力の発展と、労賃によって制限された大衆の消費力とは、資本がいくら商品を生産しても、消費制限のために売れないという、過剰生産傾向を生む。この生産と消費の矛盾は、資本が自ら生み出し、資本につきまとう恒常的な矛盾(生きている矛盾)であり、恐慌の発生根拠となる。*************************
「すべての現実の恐慌の究極の根拠は、どこまでも、資本主義的生産の衝動に対比しての、すなわち、あたかもその限界をなすのはただ社会の絶対的な消費能力だけであるかのように生産諸力を発展させようとする衝動に対比しての、大衆の窮乏と消費制限なのである。」(マルクス『資本論』第三部)
恐慌と過剰資本の価値破壊 [編集]
恐慌局面では、企業倒産、株価下落、信用制度崩壊、インフレーション等を通じて、多すぎる資本(過剰資本)の価値が破壊され、社会的総資本の量が縮小する。この結果、消費制限に対して過剰となっている生産力が破壊され、消費と生産の均衡が取り戻される。過剰資本とは、利潤率が低いために資本として運動できない資本のことである。生産力の上昇は資本の有機的構成の高度化をもたらし、利潤率の傾向的低下をもたらして(利潤率の傾向的低下の法則)、過剰資本を生み出す。恐慌は過剰な資本と生産力を破壊して、資本による生産の再活性化を準備する。すなわち景気回復するためには、恐慌による過剰資本の価値破壊が必要条件となる。この意味では、恐慌は資本主義的生産の総過程を更新するプロセスであり、資本の生命力の発露である。
旧ソ連の教科書的なマルクス主義経済学では、恐慌を資本主義の全般的危機の現われであるとしていたが、これはマルクスの理解とは異なる。恐慌そのものは資本主義の諸矛盾の爆発であるが、恐慌がそのまま資本主義体制の危機につながらないことは、これまでの資本主義経済の歴史を見ても明らかである。マルクスによれば恐慌は資本主義が理想的な経済体制ではないこと、資本主義的生産関係が生産力の発展にとって桎梏となっていること、資本主義は永遠ではなく歴史的に一時的に成立する経済関係にすぎないこと、を示す現象にすぎない。
資本による消費制限の突破 [編集]
賃金労働者の消費制限による市場の限界は、資本が自分に与えた制限-内的制限-である。資本はこの制限を突破するために、様々な方法を駆使する。
資本家や富裕層による奢侈品の消費、すなわち浪費はその一つの方法である。
利益の再投資すなわち資本蓄積は、支払賃金の増大による労働者の生活手段の消費拡大とともに生産手段の消費拡大をもたらす。
資本は新たな使用価値を開発し、それに対する人々の欲望を喚起することを通じて、社会的欲望の限界による消費制限を突破しようとする。
国家の財政出動(ケインズ政策)は、租税収入や国債発行による資金を支出し国家が買い手となることによって、巨大な消費をつくりだす。軍事費に国家予算を投じることによって経済成長が可能であるとするのが、軍事ケインズ主義である。また、グリーンニューディールなど、環境対策に国家予算を投じて市場を拡大しようとするのが環境ケインズ主義である。賃金労働者の生活安定のために国家財政を投じる社会保障制度は、賃金労働者の消費能力を増大させて国内市場を大きくする。ベーシックインカムなどの最低限所得保障政策は、生存権保障だけでなく貧困者の消費拡大による経済的効果も見込まれている。
なお、ケインズ経済学に対置されるサプライサイド経済学の政策は、資本間の競争を自由化し企業倒産やM&Aを促し、生産の集中・集積と過剰資本の価値破壊を促すことによって、利潤率の回復を促して景気回復をはかろうとするものである。生産と消費の矛盾に対して、消費を拡張するのでなく、意図的に過剰生産を調整しようとする。失業者や非正規雇用の増大によって国内市場が縮小するなど、副作用も大きい。
貿易は、狭い自国市場の制限を越えて海外市場での販売を可能にする(ただし外国資本との摩擦を生む)。国内市場の制限を突破して海外市場を求める資本の国際的運動は、国境の垣根を低くし世界市場をつくりだす。EU(欧州統合)も各国の狭い消費市場をこえた巨大な統一市場を創出する試みである。
貿易とケインズ政策が結びつく場合もありうる。政府開発援助は、先進国国家の財政出動によって先進国企業のための市場を途上国でつくりだす政策である。
消費者信用は、生活費に限定された賃金労働者の低い賃金の制限を超えることを可能にする。ただし、世界金融危機 (2007年-)の発端となったアメリカのサブプライムローン問題に見られるように、借金による消費拡大はあくまでも一時的なものであって、生産と消費の乖離を大きくする。一般に、様々な信用制度の発展は、貨幣量の制限を超えた消費をつくりだして好況時には生産に刺激を与えるが、生産と消費の矛盾を大きくし、恐慌の規模を深刻なほど大きなものとする。
このように様々な方法を駆使して資本が消費制限を突破しうる間は、恐慌は起こらず、好景気はつづく。しかしその間にも生産力の上昇はつづく一方で、消費制限の拡大方法には限りがあり、生産と消費は乖離して矛盾が蓄積されていく。19世紀資本主義では、以上のような消費制限突破の諸手段は未発達であり、10年周期の周期的恐慌現象として現れた。20世紀資本主義においては、兌換貨幣から不換貨幣への移行と管理通貨制度の採用によって、国家の財政出動の能力が飛躍的に高まったこと、帝国主義時代における植民地市場の獲得、第二次大戦後のドル体制のもとでの外国貿易の発達によって消費制限が飛躍的に拡大し、景気循環は長期化し、国際的な相互依存が強まっている。また、1929年恐慌(世界恐慌)や2008年恐慌(世界金融危機 (2007年-))のように、ひとたび恐慌が起こればグローバルな規模で激烈な長引くものとなっている。
マルクス恐慌論の方法をめぐって−恐慌の可能性の現実性への転化− [編集]
マルクス経済学者は「恐慌の必然性」を論証する、という問題の立て方をしてきた(たとえば富塚良三『恐慌論研究』)。しかし、マルクス恐慌論研究者の久留間鮫造は、マルクスの文章を主題別に抜粋する『マルクス経済学レキシコン』を編纂し、恐慌についてマルクスが何を述べているかを調べ上げた。そして、マルクスは「恐慌の必然性」という言い方をどこでもしていない。マルクスは「恐慌の可能性を現実性に転化させる諸契機」と表現しているのであって、「恐慌の必然性」という不明瞭な表現をするべきではない、と述べている(久留間鮫造『マルクス経済学レキシコンの栞』)。恐慌は、資本の基本的矛盾が究極の根拠となって起こるものであるが、この根拠も可能性にすぎない。いつでも生産と消費の矛盾は存在するが、恐慌になる場合もあればならない場合もある。恐慌とは、この根拠の上に様々な諸条件がそろったときに初めて可能性が現実性に転化して発生する資本主義の総合的な現象である。「恐慌の必然性」という把握の仕方では、マルクスの恐慌論の内容が不明確になる。これが久留間鮫造の主張の要旨であり、『資本論の方法』を著してマルクスの用いた弁証法的論理学の方法を研究した見田石介もこれを支持した。
その他の諸学説 [編集]
不比例説
過少消費説
不比例説は生産の無政府性により生産と消費が不均衡になるため起こるとするものであり、ミハイル・トゥガン=バラノフスキーらによって主張された。過少消費説は大衆の消費不足と資本家の消費制限から説くものでありジャン=シャルル=レオナール・シモンド・ド・シスモンディ、ヨハン・ロードベルトゥス、また最近の経済学者ではポール・スウィージーやポール・A・バランによる。
関連項目 [編集]

世界恐慌
世界金融危機 (2007年-)
昭和恐慌
昭和金融恐慌
バブル経済
利潤率の傾向的低下の法則
ケインズ主義
軍事ケインズ主義
サプライサイド経済学
参考文献 [編集]

マルクス『資本論』『剰余価値学説史』
久留間鮫造『マルクス経済学レキシコン』
富塚良三『恐慌論研究』
見田石介『資本論の方法』
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用終わり〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


02. 2012年6月18日 08:39:57 : hVWo8DcXjM
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

【世界恐慌】(せかいきょうこう)とは、世界的規模で起きる経済恐慌(world crisis)のこと[1]、あるいは1929年に始まった経済不況(The Great Depression)を指す。後者の事件は大恐慌、世界大恐慌とも言われる。
当記事では、世界恐慌の概要とともに、とくに1929年から発生した世界恐慌について詳述する。
目次 [非表示]
1 概説
2 1929年に始まった世界恐慌
2.1 背景
2.2 展開
2.2.1 大不況から世界恐慌へ
2.3 各国の状況
2.3.1 アメリカ
2.3.2 イギリス
2.3.3 イタリア
2.3.4 ソ連
2.3.5 中国
2.3.6 ドイツ
2.3.7 日本
2.3.8 フランス
2.4 世界恐慌期の各国工業生産の推移
2.5 世界恐慌前後の各国貨幣用金の分布状況の推移
2.6 社会主義・共産主義への傾倒
2.7 社会科学における解釈とその影響
2.7.1 政治経済学
2.7.2 経済学
3 参考文献
4 脚注
5 関連項目
概説 [編集]

ある国の恐慌が次々と他国へと波及し、世界的規模で広がる事象を世界恐慌という[2]。
マルクス経済学では、資本主義諸国の経済の有機的連関によって、資本主義経済の矛盾も世界的に爆発的に広がる危険性を持つと捉える[3]。恐慌がこうした要因で波及した世界恐慌の最初の例として、クリミア戦争が終結した時に穀物価格が急落したことにより1857年に起こった恐慌[4][5][6]が挙げられる。
上の分類における世界恐慌のもっとも代表的な例が1929年にアメリカ合衆国のウォール街で起きたパニックをきっかけに世界各国を襲った大恐慌であり[7]、単に「世界恐慌」と書いてこの1929年の事件を表す場合もある。
1929年に始まった世界恐慌 [編集]

ニューヨーク・ウォール街の群衆
1929年10月24日にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落したことを端緒として世界的な規模で各国の経済に波及した金融恐慌、および経済後退が起きた。1929年10月24日は「暗黒の木曜日」(Black Thursday)として知られ、南北戦争に次ぐアメリカの悲劇といわれた。
背景 [編集]
第一次世界大戦後、1920年代のアメリカは大戦への輸出によって発展した重工業の投資、帰還兵による消費の拡張、モータリゼーションのスタートによる自動車工業の躍進、ヨーロッパの疲弊に伴う対外競争力の相対的上昇、同地域への輸出の増加などによって「永遠の繁栄」と呼ばれる経済的好況を手に入れた。
1920年代前半に既に農作物を中心に余剰が生まれていたが、ヨーロッパに輸出として振り向けたため問題は発生しなかった。しかし農業の機械化による過剰生産とヨーロッパの復興、相次ぐ異常気象から農業恐慌が発生。また、第一次世界大戦の荒廃から回復していない各国の購買力も追いつかず、社会主義化によるソ連の世界市場からの離脱などによりアメリカ国内の他の生産も過剰になっていった。
また、農業不況に加えて鉄道や石炭産業部門も不振になっていたにもかかわらず投機熱が煽られ、適切な抑制措置をとらなかった。アメリカの株式市場は1924年中頃から投機を中心とした資金の流入によって長期上昇トレンドに入った。株式で儲けを得た話を聞いて好景気によってだぶついた資金が市場に流入、個人投資家も、信用取引により容易に借金が出来、さらに投機熱は高まり、ダウ平均株価は5年間で5倍に高騰。1929年9月3日にはダウ平均株価381ドル17セントという最高価格を記録した。市場はこの時から調整局面を迎え、続く1ヶ月間で17%下落したのち、次の1週間で下落分の半分強ほど持ち直し、その直後にまた上昇分が下落するという神経質な動きを見せた。それでも投機熱は収まらず、のちにジョセフ・P・ケネディはウォール街の有名な靴磨きの少年が投資を薦めた事から不況に入る日は近いと予測し、暴落前に株式投資から手を引いたと[8]述べた。
展開 [編集]


ダウ平均株価の指数を表すグラフ。1929年10月の「暗黒の木曜日」を境に株価は一気に下落している。
そのような状況の下1929年10月24日10時25分、ゼネラルモーターズの株価が80セント下落した。下落直後の寄り付きは平穏だったが、間もなく売りが膨らみ株式市場は11時頃までに売り一色となり、株価は大暴落した。この日だけで1289万4650株が売りに出されてしまった。ウォール街周囲は不穏な空気につつまれ、400名の警官隊が出動して警戒にあたらなければならなかった。
シカゴとバッファローの市場は閉鎖され、投機業者で自殺した者はこの日だけで11人に及んだ。この日は木曜日だったため、後にこの日は「暗黒の木曜日(Black Thursday)」と呼ばれるようになった。翌25日金曜の13時、ウォール街の大手株仲買人と銀行家たちが協議し、買い支えを行うことで合意した。このニュースでその日の相場は平静を取り戻したが、効果は一時的なものだった。
週末に全米の新聞が暴落を大々的に報じたこともあり、28日には921万2800株の出来高でダウ平均が一日で13%下がるという暴落が起こり、更に10月29日、24日以上の大暴落が発生した。この日は取引開始直後から急落を起こした。最初の30分間で325万9800株が売られ、午後の取引開始早々には市場を閉鎖する事態にまでなってしまった。当日の出来高は1638万3700株に達し(これは5日前に続く記録更新であり、以後1969年まで破られなかった)、株価は平均43ポイント(ダウ平均で12%)下がり、9月の約半分ぐらいになってしまったのである。一日で時価総額140億ドルが消し飛び、週間では300億ドルが失われた計算になったが、これは当時の米国連邦年間予算の10倍に相当し、アメリカが第一次世界大戦に費やした総戦費をも遥かに上回った。
投資家はパニックに陥り、株の損失を埋めるため様々な地域・分野から資金を引き上げ始めていった。この日は火曜日だったため、後にこの日は「悲劇の火曜日(Tragedy Tuesday)」と呼ばれるようになった。そしてアメリカ経済への依存を深めていた脆弱な各国経済も連鎖的に破綻することになる。
過剰生産によるアメリカ工業セクターの設備投資縮小に始まった不況に金融恐慌が拍車をかけ、強烈な景気後退が引き起こされた。
産業革命以後、工業国では10年に1度のペースで恐慌が発生していた。しかし1930年代における恐慌(世界恐慌)は規模と影響範囲が絶大で、自律的な回復の目処が立たないほど困難であった。
大不況から世界恐慌へ [編集]
第1次世界大戦後の米国経済の圧倒的な存在感(当時世界の金の半分以上が米国に集まっていた)のため、一般的には米国の株価暴落がそのまま世界恐慌につながったとされているが、バーナンキをはじめとする経済学者は異なる見解を示している[9]。
1929年のウォール街の暴落は米国経済に大きな打撃を与えた。しかし当時は株式市場の役割が小さかったために被害の多くはアメリカ国内にとどまっており、当時の米国経済は循環的不況に耐えてきた実績もあった。不況が世界恐慌に繋がったのは、その後銀行倒産の連続による金融システムの停止に、FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の金融政策の誤りが重なったためであった。
暴落の後、米国には金が流入していたが、FRBはこれを不胎化させ、国内のマネーストックの増大とは結び付けようとしなかった。これにより米国では金が流入しているにも関わらずマネーストックが減少し続けた。その為金本位制をとる各国は金の流出に対し、金融政策を米国のそれと順応させるを得ず(各国は金の流出を抑えるために金利を引き上げざるを得なかった)、不況は国際的に伝播していった。
特に金本位制を取っていたドイツやオーストリアや東欧諸国は十分な金準備を持たず、また第一次世界大戦とその後のインフレにより金融システムが極めて脆弱な状態であった。その為、米国やフランスへの金流出により金準備が底をついてしまい、金融危機が発生した。
大不況が世界に広まるきっかけとなったのは1931年5月11日のオーストリアの大銀行クレジットアンシュタルト(Creditanstalt, 1855年にロスチャイルド男爵により設立。クレディ・アンシュタルトとも。)の破綻であったとされる。クレジットアンシュタルトは株価暴落に伴う信用収縮の中で突然閉鎖した。東欧諸国の輸出が激減し経常収支が赤字となり、旧オーストリア帝国領への融資が焦げ付いたこと、加えて政府による救済措置が適切に行われなかったことが破綻の原因となった。オーストリア向けの融資が焦げ付いた要因としては、3月の独墺関税同盟の暴露に対するフランスの経済制裁により、オーストリア経済が弱体化したことが致命的であった。
クレジットアンシュタルトの破綻を契機として、5月にドイツ第2位の大銀行・ダナート銀行(「ダルムシュテッター・ウント・ナティオナール」)が倒産し、7月13日にダナート銀行が閉鎖すると、大統領令でドイツの全銀行が8月5日まで閉鎖された。ドイツでは金融危機が起こり、結果多くの企業が倒産し、影響はドイツ国内にとどまらず東欧諸国、世界に及んだ。
当時の米国大統領、ハーバート・フーヴァーの「株価暴落は経済のしっぽであり、ファンダメンタルズが健全で生産活動がしっかり行われている(ので大丈夫)」という発言は末永く戒めとして記憶されることになった(当時の大経済学者アーヴィング・フィッシャーエール大学教授の所論でもあった)。
金本位制の元で、経済危機はそのまま経済の根幹を受け持つ正貨(金)の流出につながる。7月のドイツからの流出は10億マルク、イギリスからの流出は3000万ポンドだった。さらに数千万ポンドを失ったイングランド銀行は1931年9月11日金本位制を停止し、第1次世界大戦後の復興でやっと金本位制に復帰したばかりの各国に衝撃を与えた。イギリスは自国産業保護のため輸入関税を引き上げ、チープマネー政策を採用した。ポンド相場は$4.86から$3.49に引き下げられた。ブロック経済政策は世界中に波及し、第二次世界大戦の素地を作った。
特に1929年2月に金本位制に復帰したばかりの日本は色々な思惑から、世界経済混乱の中で正貨を流出させた(金解禁は1930年1月から1931年12月10日まで)。この決定は「嵐の中で雨戸を開けた」と評され、昭和恐慌から太平洋戦争へ至る道筋を作ったと言われる。
(当時金価格は1トロイオンス$20.67、4.25スターリングポンドであった。戦後はニクソンショックまで1トロイオンスあたり$35の固定相場である。今1トロイオンスの地金は約8万円なので、$1億=現在金価値約4000億円相当と考えられる(2008年10月現在)。ただし、当時の経済規模を考えると10倍以上のインパクトがあったと思われる)
各国の状況 [編集]


大恐慌により家を失い、流浪の身となった子供達


ニューディール政策の一環TVAの公共事業に従事する労働者
未曾有の恐慌に資本主義先進国は例外なくダメージを受けることになったが、その混乱の状況や回復の過程・速度については各国なりの事情が影響した。植民地を持っている国(イギリス・フランス)やアメリカは金本位制からの離脱や高関税による経済ブロックによる自国通貨と産業の保護に努めたが、必ずしも成功しなかった。ソビエト連邦や日本、ドイツといった全体主義国家の場合、産業統制により資源配分を国家が管理することで恐慌から脱したが、全体主義政党や軍部の台頭が宗主国諸国との軋轢を生んだ。恐慌の発生以降も各国での通貨問題を解決するための多くの試みがなされたが恒常的な協調体制が構築されたわけではなく、結局外為相場の国際的調整は第二次世界大戦後のIMF設立を巡る議論の中に送り込まれることとなった[10]。第一次世界大戦後、世界恐慌まで続いていた軍縮と国際平和協調の路線は一気に崩れ、第二次世界大戦への大きな一歩を踏み出すこととなった。この中で経済政策で対応し、かつ満州を経済圏として持った日本のGDPは1934年に恐慌前の水準に戻り、ニューディール政策を採ったアメリカは1936年には恐慌前の水準に回復したものの37年不況により再び34年の水準まで逆戻りし、1941年まで恐慌前の水準に回復することができなかった[11]。
アメリカ [編集]
「アメリカ合衆国の経済史」も参照
共和党のフーヴァー大統領は古典派経済学の信奉者であり、国内経済において自由放任政策や財政均衡政策を採った。その一方で1930年にはスムート・ホーリー法を定めて保護貿易政策を採り、世界各国の恐慌を悪化させた。1931年、オーストリア最大の銀行が倒産してヨーロッパ経済の更なる悪化が予想されたことに対しようやくフーヴァーモラトリアムと称される支払い猶予を行ったが、既に手遅れであり恐慌は拡大する一方だった。1932年後半から1933年春にかけてが恐慌の底辺であり1933年の名目GDPは1919年から45%減少し、株価は80%以上下落し、工業生産は平均で1/3以上低落[12]、1200万人に達する失業者を生み出し、失業率は25%に達した[13]。閉鎖された銀行は1万行に及び、1933年2月にはとうとう全銀行が業務を停止、社会主義革命の発生すら懸念された。
こうした中、修正資本主義に基づいたニューディール政策を掲げて当選した民主党のフランクリン・ルーズヴェルト大統領は公約通りテネシー川流域開発公社を設立、更に農業調整法や全国産業復興法を制定した。
フーバー政権の1930会計年度の歳出予算は対GDP比3.4%程度だったが、1934年にルーズベルト政権は10.7%まで引き上げた[14][15]。
ただ、ニューディール政策はその後労使双方の反発があり、規模が縮小されるなどしたため1930年代後半には再び危機的な状況となった。このため、同政策にどれほどの効果があったかについては経済学者の間で賛否両論が分かれている。多くの労働組合が賃金の切り上げを要求、実質賃金の切り上げ(ワグナー法)は他の大勢の労働者の解雇につながった。
1936年、すでにインフレ傾向にあったことを警戒したFRBは金融引き締めに転じ預金準備率を2倍に引き上げた。米国の債務残高はGDP比40%という前代未聞の水準に達したため、ルーズベルト大統領とヘンリー・モーゲンソー財務長官は財政均衡に舵をきり、財政健全化を進めようとした。1936-38年にはGDP比5.5%の財政赤字を解消した。しかしこの1937年の財政支出大幅削減予算により1938年は不況になり、実質GDPは11%下がり失業率は4%上昇し[16]、「ルーズベルト不況」と呼ばれることになる。ニューディール期間中財政支出赤字の対GNP比が10%を超えた年は2度である。アメリカ経済の本格的な回復はその後の第二次世界大戦参戦による莫大な軍需景気を待つこととなる。太平洋戦争が起こり、連邦政府はようやく見境のない財政支出を開始し、また国民も戦費国債の購入で積極財政を強力に支援した。1943年には赤字が30%を超えたが失業率は41年の9.1%から44年には1.2%に下がった[17]。しかしダウ平均株価は1954年11月まで1929年の水準に戻ることはなかった。


ルーズヴェルトのニューディール政策によりアメリカの経済は一時的ではあるが回復傾向に転じた。写真は活気が戻りつつある1935年のニューヨーク
イギリス [編集]
労働党のマクドナルド内閣は失業保険の削減など緊縮財政を敷くがその政策から労働党を除名され、代わりに保守党と自由党の援助を受けてマクドナルド挙国一致内閣を組閣する。それとほぼ同時期の1931年9月21日、ポンドと金の兌換を停止、いわゆる金本位制の放棄を行った。なおイギリスが金本位制の放棄を行ったのをきっかけに金本位制を放棄する国が続出、1937年6月にフランスが放棄したのを最後に国際的な信用秩序としての金本位制は停止した。勢力にかなりの蔭りが出ていたイギリスでは広大な植民地を維持していくことができずウェストミンスター憲章により自治領と対等な関係を持ち、新たにイギリス連邦を形成、これを母体にブロック経済(スターリング・ブロック)を推し進めていくことになる(ただしインド帝国はブロック経済下でも東アジアと密接な経済関係にあったことが知られる)。
イタリア [編集]
「イタリアの歴史」も参照
イタリアは元々第一次世界大戦直後から経済混乱に陥りミラノ株式取引所も不振が続いていたため、逆に世界恐慌の影響はほとんど受けず、多くのイタリア人は株価大暴落の知らせを聞いても、「ああそうか」というだけで今までどおり暮らしていたと言う[18]。
1861年に統一されたばかりのイタリアは第一次世界大戦で領土を獲得できると期待していたが徒労に終わった。イタリアでは共産主義と国粋主義の対立が長引いていたが、ムッソリーニの組閣によりファシスト党の一党独裁が始まって以降、イタリアでは共産主義者の大半は国外に逃亡し、ストライキによる鉄道の遅延は解消された。ファシストは古代ローマの栄光を取り戻すことを目指していたが、現実のイタリアは荒廃しており、国民が豊かになるためのチャンスは他国へ移民することであった。ファシスト政権は公共土木工事と産業統制による中小企業の整理統廃合に注力し、政権は独身者への課税と母親への褒賞により出生率は向上した。
ソ連 [編集]
ソ連は共産主義国家だったため、主要国の中でただ一国、世界恐慌の影響を全く受けず非常に高い経済成長を続けた。以後、スターリンの推進する五カ年計画で着々と工業化を進めていった。ソビエトのプロパガンダもあり、自由主義諸国の研究者の中には社会主義型の計画経済に希望を見出す者も多く出たが、実際にはホロドモールや食糧の徴発でポーランドに脱出するロシア人の漸次増加が起きていた。極東・シベリア開発には政権により意図的に作り上げられた「にわか囚人」が大量に動員された[19]。
中国 [編集]
「法幣」も参照
中国は当時南京国民政府の成立(1928年)当初であり、清朝以来の幣両制を元制に移行させつつある段階であった。中国の主要な港湾はすべてイギリスにより支配されており、関税の自主権を持たない状況にあった。この状況で中国は世界恐慌に見舞われた。中国の幣制は金本位制ではなく銀本位制を取っていた(銀元)ため、当初は国内の物価も安定しており、国際交易にも問題は発生しなかった。1931年9月に立て続けに発生した満州事変とイギリスの金本位制度離脱は中国の経済にとって負の画期であり、国際交易ではそれまでの銀流入傾向が流出に転じ、物価の下落や商工業・海外貿易の縮小に見舞われた。1934年にはアメリカの銀買上法が成立し米国が銀の法定備蓄を開始すると国際市場での銀価格は急騰し、中国から大量の銀が流出し、金利の高騰や物価の下落、銀行の倒産などが発生した。
ドイツ [編集]


ナチスによる式典で演説するヘルマン・ゲーリング。世界恐慌で国民の生活がどん底に叩き落されたドイツでは、アドルフ・ヒトラー率いるナチズムの台頭を招く。
「ナチス・ドイツの経済」も参照
第一次世界大戦の敗戦で各国から巨額の賠償金を請求され、ハイパーインフレーションやフランスのルール占領などにより極度に弱体化が進んでいたドイツ経済はその後、一時的に経済の回復傾向が続いていたが、そこを襲った大恐慌によって深刻な状態へ陥った。アメリカ資本は次々と撤退し、復興しかけていた経済は一気にどん底に突き落とされた。失業率は40パーセント以上に達し銀行や有力企業が次々倒産、大量の失業者が街に溢れ国内経済は破綻状態となる。とくに1931年3月23日にオーストリアと締結した関税同盟をヴェルサイユ条約と非難したフランスが制裁としてオーストリアの資本を引き揚げたことがきっかけとなりオーストリア最大の銀行クレジット・アンシュタットが破綻したことが欧州全体に深刻な金融危機をもたらした。
その中、共産主義とナチズムが台頭。失望した人々の期待を受けて国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が大躍進を遂げ1933年、ヒンデンブルク大統領の下で国家社会主義ドイツ労働者党党首のヒトラー内閣が成立。ドイツ国会議事堂放火事件でドイツ共産党を弾圧し全権委任法を成立させる。翌年、大統領の死去と共にヒトラーは総統に就任、第三帝国が成立した。
ヒトラーはソ連での計画経済の成功を受けて作成された四カ年計画に基づき軍拡と公共事業の拡大(アウトバーンの建設等)を実施した。また、民間の重工業化を支援した。二次に亘るこの計画により失業者は劇的に減少し、経済的な回復は達成された。
その後、ヴェルサイユ条約、ロカルノ条約を相次いで破棄、ラインラントに軍隊を進駐させる。
日本 [編集]
大戦後の恐慌、関東大震災、昭和金融恐慌(昭和恐慌)によって弱体化していた日本経済は、世界恐慌の発生とほぼ同時期に行った金解禁の影響に直撃され、それまで主にアメリカ向けに頼っていた生糸の輸出が急激に落ち込み、危機的状況に陥る。株の暴落により、都市部では多くの会社が倒産し就職できない者や失業者があふれた(『大学は出たけれど』)。恐慌発生の当初は金解禁の影響から深刻なデフレが発生し、農作物は売れ行きが落ち価格が低下、1935年まで続いた冷害・凶作、昭和三陸津波のために疲弊した農村では娘を売る身売りや欠食児童が急増して社会問題化。生活できなくなり大陸へ渡る人々も増えた。(参照:金解禁)
高橋是清蔵相による積極的な歳出拡大(一時的軍拡を含む)や1931年12月17日の金兌換の停止による円相場の下落もあり、インドなどアジア地域を中心とした輸出により1932年には欧米諸国に先駆けて景気回復を遂げたが、欧米諸国との貿易摩擦が起こった。1932年8月にはイギリス連邦のブロック政策(イギリス連邦経済会議によるオタワ協定)による高関税政策が開始されインド・イギリスブロックから事実上締め出されたことから、満州や台湾などアジア(円ブロック)が貿易の対象となり、重工業化へ向けた官民一体の経済体制転換を打ち出す。1937年には重工業の比率が軽工業を上回った。さらには1940年には鉱工業生産・国民所得が恐慌前の2倍以上となり、戦況が悪化する1942年夏まで景気拡大が続いた。ただし、統制経済下であり、物資不足となった。
1931年12月の高橋蔵相就任以来、積極的な財政支出政策(ケインズ政策)により日本の経済活動は順調に回復を見せたが1935年頃には赤字国債増発にともなうインフレ傾向が明確になりはじめ、昭和11年(1936年)年度予算編成は財政史上でも特筆される異様なものとなった。高橋(岡田内閣)は公債漸減政策を基本方針とした予算編成方針を1935年6月25日に閣議了解を取り付けたものの、軍部の熾烈な反発にあい、大蔵省の公債追加発行はしないとの方針は維持されたものの特別会計その他の組み換えで大幅な軍備増強予算となった。結局この予算は議会に提出されたものの、翌1936年1月21日に内閣不信任案が提出され議会が解散し不成立となった。実行予算準備中の2月26日に二・二六事件が発生し高橋の公債漸減主義は放棄されることになった[20]。
経済政策では1931年(昭和6年7月公布)の重要産業統制法による不況カルテルにより、中小産業による業界団体の設立を助成し、購買力を付与することで企業の存続や雇用の安定をはかった。また大企業を中心に合理化や統廃合が進んだ。重要産業統制法はドイツの「経済統制法」(1919年)をもとに包括的立法として制定され、同様の政策はイタリアの「強制カルテル設立法」(1932年)、ドイツの「カルテル法」(1933年)、米国の「全国産業復興法」(1933年)などがある。1930年代には数多くの大規模プロジェクトが実施された[21][22][23][24][25][26][27][28][29][30]。
フランス [編集]
フランスでは世界恐慌の影響を1931年まで逃れる事に成功した[31]。1931年9月21日にイギリスが金本位からいちはやく離脱しポンドの平価切下げ(チープマネー政策)を実施して以降、フランス経済は明確に下降し、すべての指標が恐慌の進行を示した。外国貿易は持ちこたえフランス銀行の金準備はなお増え続けたが、失業は増大し物価は卸売物価も小売物価も著しく低下した。労働時間給はゆるやかに下降を始め、株式相場の崩壊は顕著であった。1931年7月に始められた原料と食料品に対する輸入数量割当制度が、イギリスの金本位離脱に続く6ヶ月間にさらに拡大され、1932年2月にはフランスで小麦粉に使用される小麦の90%が国内産であることを義務付ける法案が成立した[32]。
フランスは第一次大戦の賠償金として1320億金マルク[33]をドイツに請求し、約200億金マルクに相当する現物給付を受けていた[34]が、現金での支払いをもとめ1923年1月11日にルール地方を占領していた[35]。フランス政府はドイツからの賠償支払いを前提に大幅な赤字財政をとっており、賠償金の支払いが期待できないことが明らかになり始めた1923年以降、フランは為替相場で下落しインフレが昂進した[36]。
1928年には金為替本位制に復帰したがイギリスが旧平価で復帰したのに対し、フランスはフラン安の新平価で復帰したため経常収支は黒字化し、また金為替本位制に否定的な立場から金の流入政策をとり、対外投資を引き上げ、経常収支の黒字を金で受け取ることを求めた。このフランスの金の吸収はとりわけロンドンの金準備への圧力となり、イギリスを再度の金本位離脱に追い込むことになった[37]。
イギリスと同様、ファシズムに対抗するため仏ソ相互援助条約を締結。そしてコミンテルンの指導を受けたレオン・ブルム人民戦線内閣を組閣する。
世界恐慌期の各国工業生産の推移 [編集]
年 アメリカ イギリス フランス ドイツ 日本 ソ連
1928年 93 94 92 99 90 79
1929年 100 100 100 100 100 100
1930年 81 92 100 86 95 131
1931年 68 84 86 68 92 161
1932年 54 84 72 53 98 183
1933年 64 88 81 61 113 196
1934年 66 99 75 80 128 238
1935年 76 106 73 94 142 193
(1929年=100)[要出典]
世界恐慌前後の各国貨幣用金の分布状況の推移 [編集]
年 アメリカ イギリス フランス ドイツ 日本 世界総計
1925年末 4,399 814 978 316 576 10,244
1926年末 4,492 845 978 464 562 10,496
1927年末 4,379 842 977 471 542 10,602
1928年末 4,141 836 1,271 676 541 11,052
1929年末 4,284 791 1,641 569 542 11,272
1930年末 4,593 792 2,099 552 412 11,756
1931年6月 4,956 865 2,212 359 424 12,078
単位:100万ドル、イギリスは連合王国およびアイルランド含む。 (出典:League of Nations,Statistical Year Book,1931-2,pp.266-9)[38]
社会主義・共産主義への傾倒 [編集]
世界各国が大恐慌に苦しむ中、NEP(ネップ)で経済発展を続けるソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)とヨシフ・スターリン書記長の神格化傾向が進んだ。大恐慌下で救いを求める人々の一部は共産主義に希望的な経済体制を夢見た。特に英国の支配階級で裏切りが続出した事は冷戦時代に大きな意味を持った[39]。しかしスターリンの目指したのはレフ・トロツキーの国際主義ではなくソ連の国益であった。
社会科学における解釈とその影響 [編集]
政治経済学 [編集]
世界恐慌は「基軸通貨交替」「覇権国交替」に伴う当然の、あるいは必然的な事態と考えられる。英仏を中心とする世界体制が第1次世界大戦で崩れ、米国が覇権国になる途中の出来事であった。世界の富を集めた結果として世界的に通貨が必要であったが、金本位制のもとで通貨創造が出来ない各国は米国からの資金還流を待つしかなかった。しかし米国には覇権国の責任を受ける準備が出来ておらず、国際連盟には参加せず、ドイツなどの経済的苦境を放置した。さらに保護貿易主義を取り、米国の繁栄を世界各国に分かち合うことがなかったため、世界各国の経済的苦境が結局米国自身に跳ね返った。米国の生産量に見合うだけの支払うべき資金(有効需要)がどこにもないからである。米国はその本位金保有高に見合うだけの資金創造を海外に投資することで国際分業を促進しなければならない立場にありながら、むしろ投資資金を引き上げる事で世界各国の流動性を枯渇させた。モンロー主義(孤立主義)が優勢で、ウッドロウ・ウィルソンの国際主義ではなかった。第1次世界大戦の参戦も、ルシタニア号事件とツィンメルマン電報事件が必要であった。第1次世界大戦後でさえ、ウィルソンが設立に尽力した平和のための国際組織「国際連盟」には上院の反対で参加できなかった。
レンテンマルクを発行しドイツの天文学的インフレ(レンテンマルク発行直前で1$=4兆2000億マルク)[40]を収束させたワイマール共和国のグスタフ・シュトレーゼマンの功績は結局彼の死とともに水泡に帰し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の勃興を促した。
最大の負の教訓は、軍国主義を取ったドイツ・イタリア・日本などが急速に復興し、米国のニューディール政策が必ずしも景気の回復に結び付かなかった事である。ニューディールはケインズ主義の需要喚起策の成功のように考えられている場合があるが、そうではなかった。ケインズ自身も自覚していたように、戦争が強力に余剰生産力を解消したのである。そういう意味でも1929年に始まった世界恐慌は第二次世界大戦の素地を作ったと言える。事実、ニューディールは世界経済の需給ギャップを埋めるにはあまりにも小さく、財政出動に慎重でありすぎ、期間も十分ではなかった。アメリカは第二次世界大戦によってようやく後先を考えない政府支出を始め、国民もまた強力に政策を支持したことによりようやく不況から脱却し、飛躍するのである(参照:軍事ケインズ主義)。
経済学 [編集]
当時は「市場は自身で調整を行う機能を持っており、政府の介入は極力すべきではない」という自由放任主義の考え方が主流であった。また、オーストリア学派などによって大恐慌は蓄積した市場の歪みを調整するための不可避の現象であるという見方もなされた。しかし、このような考え方では1930年代に世界が直面した大恐慌を説明し世界経済を救い上げる手立てを提供することができず、新しい経済理論が求められた。
行政府による財政出動による経済刺激策はフランス革命前後の啓蒙思想の頃から盛んに議論されてきた論題であったが、古典派経済学の過少消費説への勝利以降、政府の介入は民間の経済活動を圧迫するだけであるとの考えが通説となった(クラウディングアウト)。大恐慌の発生以降、再びこの論題がアメリカおよびイギリスで盛んに論議され、アメリカでは共和党のフーバー政権が赤字財政と国債発行に反対し、均衡予算主義のためにクラウディングアウトの議論を援用した。また、イギリスでは保守党政権下の財務省が同様の理論でケインズの立案になる自由党の提案と対立した。
ジョン・メイナード・ケインズは『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936年)の中で、政府による財政出動によって、失われた雇用の創出と有効需要の創出が可能であり、投資の増加が所得の増加量を決定するという乗数理論に基づき、減税・公共投資などの政策により投資を増大させるように仕向けることで、回復可能であることを示した。また経済学的により重要な貢献は、通貨の価値を金塊から切り離し、物価と金融市場の需給(名目金利)に通貨の価値を直接むすびつける管理通貨制度の有効性を論証してみせた点にある。後者の理論的価値についてはアメリカ議会や国際会議では十分に理解されず、ケインズの提唱するバンコールは採用されず、戦後の国際通貨体制は金塊との兌換を保証されたドルを機軸とし各国通貨がそれにリンクするブレトンウッズ体制が採用される。
反ケインジアンの筆頭とされるマネタリストのミルトン・フリードマンは、ニューディール政策が直接雇用創出を行ったことは緊急時の対応として評価するものの、物価と賃金を固定したことは適切ではなかったとし[41]、大恐慌の要因を中央銀行による金融引締に求めている。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜引用終わり〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

[削除理由]:この投稿に対するコメントとしては場違い。別の投稿にコメントしてください。
03. 2012年6月18日 08:45:35 : 513yqOx6gI
表題。VERY GOOD。
私には、何が出来るのだろう。

04. 2012年6月18日 10:06:05 : hVWo8DcXjM
今、疎開中の私に出来る事は、週1回の日帰り温泉【3〜400円/一人】で最低3〜5人以上に声掛けし、政治・マスコミのデタラメを遡及し、阿修羅掲示板を見る様に説得。意識改革を期待し、阿修羅掲示板に投稿し、批判し、野田事務所等の政治家やTVタックル、NHK等のTV局のホームページに批判・クレームを入れています。

2012.6.11に野田事務所にアサマタロー見ろと言ったのが野田のゴリ押しになったか心配中。選挙しか是正困難?

民主党議員が雑魚ばかりで我慢ならず!!


05. 2012年6月18日 10:20:23 : hVWo8DcXjM
遡及XX訴求です。【確定】が【次に】になる。

日帰り温泉で阿修羅掲示板訴求し、今は消費増税反対の意思表示はイオンボイコットだと主張中。

【たかじん】や【報道2001】や【TVタックル】や【ウエークアップ】を見て、批判を阿修羅掲示板に投稿。イライラを発散中。

日本が今変わらなければ、東京直下地震が日本に革命をモタラス、と最後の期待。


06. 2012年6月19日 04:25:00 : fKP0HA9geU
共産党がプロレタリア独裁を何十年も前にやめちゃったらしいというのに、
支配階級のほうが伝統を守っている状態なのか。だからこそ保守なのか?

07. 2012年6月19日 10:57:29 : hVWo8DcXjM
これが21世紀の国民国家か?

これはファシズムだろう!!ヒトラー:野田とゲッペルス宣伝相候補:下記列挙した。
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伊藤 惇夫(いとう あつお、1948年 - )は、日本の政治評論家(政治アナリスト)。神奈川県葉山町出身。

学習院大学法学部卒業後、出版社へ就職した後、1973年、時の総理・総裁田中角栄に誘われ自由民主党本部事務局に勤務。自民党では広報を担当し、1989年からは自民党政治改革事務局主査補として政治改革大綱を取りまとめる。その後、自民党を退職し、1994年末から新進党総務局、1996年12月から太陽党、1998年1月に民政党、4月から民主党の事務局に勤務。
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有馬 晴海(ありま はるみ、1958年4月2日 - )は日本の政治評論家。長崎県佐世保市出身。立教大学経済学部卒業。

リクルート社、国会議員秘書などを経て、1996年に政治評論家として独立。現在はニュースキャスターを務める朝日ニュースターなどのテレビ出演や、新聞・雑誌での政治評論や講演活動を続ける一方、政治研究会「隗始塾」を主催している。また、ポスト小泉レースにおいて用いられた麻垣康三という造語を発案した
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与良 正男(よら まさお、1957年- )は、毎日新聞社論説副委員長。現在、早稲田大学政治経済学術院公共経営研究科客員教授[1]。

名古屋大学文学部卒業後、1981年毎日新聞社入社。1989年東京政治部配属となり、安倍晋太郎をはじめ安倍派・三塚派を長く担当した。森喜朗内閣発足時の2000年春から1年間、官邸取材のキャップを務めた[2]。自由民主党から民主党への政権交代をテレビ・新聞を通じて国民に訴え続けた[3][4]。
======野田よりも豚らしい人相の小醜男だ!==============
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田崎 史郎(たざき しろう 1950年6月22日 - )は、日本の政治評論家。時事通信社解説委員。
三国町(現坂井市)に生まれる。
福井県立藤島高等学校卒業、中央大学法学部法律学科に入学。大学2年のときに三里塚闘争に参加して、凶器準備集合罪で逮捕。13日間留置される[1]。
1973年に卒業後、時事通信社入社。経済部を経て浦和支局に異動。1975年に浦和支局への転勤は、少数派の労働組合に所属していたことを理由にした左遷であり不当労働行為であるとして時事通信を提訴し、3年3ヶ月後に政治部に異動することで同社と和解。1979年に政治部に配属され、大平正芳総理大臣の番記者となる[2]。
新自由クラブの担当や外務省記者クラブを経て、1982年年4月から田中派を担当[3]。以来、田中派、竹下派、橋本派を中心に取材。
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橋本 五郎(はしもと ごろう、1946年12月29日 - )は、読売新聞特別編集委員。21世紀臨調運営委員。公安審査委員会委員。東日本大震災復興構想会議委員。

1946年 秋田県山本郡琴丘町(現・三種町)に生まれる
1964年  秋田県立秋田高等学校卒業
1970年 慶應義塾大学法学部政治学科卒業後、読売新聞社入社
同年、地方部浜松支局に配属
1975年 本社(現:東京)社会部に配属
1976年 本社政治部に転属
以降、政治部次長・論説委員・政治部長を歴任。渡邉恒雄の腹心といわれるようになる。
1998年 編集局次長に就任
1999年3月 日本テレビ『ジパングあさ6』『ズームイン!!朝!』にコメンテーターとしてレギュラー出演(現在は『ズームイン!!SUPER』の月・火曜コメンテーターとして出演)
2001年2月 編集委員に就任
2006年12月 特別編集委員に就任(『ズームイン!!SUPER』で語ったところによると、本来なら定年退職であるが、「特別編集委員」の肩書で読売新聞社に残るとのこと)
2011年3月29日 『ズームイン!!SUPER』番組終了に伴い、同番組を卒業。
2011年4月 東日本大震災復興構想会議委員。
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平井 文夫(ひらい ふみお、1959年8月9日 - )は、フジテレビ報道局解説副委員長。国内政治、及び外交などを専門としている。

 山口県防府市[1]出身。山口県立防府高等学校卒[2]。1982年(昭和57年)、立命館大学・経済学部卒。大学時代には探検部に所属するとともに、単身で世界15ヶ国を旅した[3]。好きなことは、夏の夕に丹精したベランダガーデンで花を愛でビールを飲むこと。好きなことばは「神は細部に宿る」。
 大学卒業後、フジテレビジョンに入社。報道局外信部ワシントン特派員、『ニュースJAPAN』プロデューサー、首相官邸キャップ、報道センター編集長、取材センター室長兼政治部長、報道局専任局長などを経て、2011年6月29日付で報道局解説副委員長に就任した[3]。
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後藤 謙次(ごとう けんじ、1949年10月5日 - )は、日本のジャーナリスト・アンカーマン。共同通信社元記者。東京都出身。2011年1月現在、政治コラムニストの肩書きで活動している。

1968年 東京都立八潮高等学校卒業。1973年 早稲田大学法学部を卒業後、共同通信社に入社し、函館支局、札幌支社編集部などを経験
1982年 共同通信社本社政治部、首相官邸、自民党(旧田中派担当)、外務省、野党担当、自民党クラブキャップ、首相官邸クラブキャップなどを担当。
1997年 編集局編集委員兼論説委員。
2002年 政治部部長。
2004年 論説副委員長兼編集委員。
2005年3月28日から2005年10月31日までTBS『イブニング・ファイブ』・『JNNイブニング・ニュース』にコメンテーターとして出演
2006年6月 編集局長。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
他に居たら教えて、その番組も見るようにします!
渡辺・三宅・大越は前出。省略。でも、文学部出は社会・心理学・新聞・宣伝から政治記者になるから政治学やウエーバーの正統性も理解しないのだ!!

文学部出の政治記者上がりは小説でも書いていろ!!



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