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お天道さま曰く:日本人に革靴は似合わない。草履下駄が足に馴染む
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2012年06月11日 世相を斬る あいば達也
巷では野田君の生死が掛かる“消費増税法案”の行く末絡みで“政局”が語られている。拙ブログも、その流れに呼応したコラムを書き続けている。しかし、少々飽きてきた(笑)。考えてみると、所詮“官僚政治”の顛末につき合っているだけで、政治家の真意が伝わってこない話ばかりだ。政治家に“真意”なんてモノを求めること自体がナンセンス、と云うニヒリズムもあるが、それはそれで、二進も三進も行かない闇だらけの世の中になってしまう。
たまには、先々に明るさを感じるコラムも書きたくなるものだ。そのような情緒を頼りに、目を閉じ、明り探しの瞑想に耽ってみた。生憎、雨模様の週末だったが、薄曇りの合い間から太陽も顔を出す天候になっている。明り探しには追い風かなどと思いながら、事実を積み重ねてみる。事実の積み重ねが、明るさとは逆方向に驀進してしまう“とば口”など見つからない事に気づく(笑)。何とも言えない無力感だ。それなら、此処は“妄想”に一縷の望みを託し、“明るい日本の未来”を考える事にした。
単なる妄想で“明るい日本の未来”を想定するのも、実はかなりの困難が伴う。何故なら、個々人によって、思い描く“明るい日本の未来”そのものが異なるのだから厄介だ。その妄想の拠って立つ土俵を、倫理哲学におくか、実社会におくか、これ自体で答えは自ずと異なるものになる。おそらく、お天道様でも、お釈迦様でも、最低二通りの答えがあってしかるべき、と筆者などは考える。今回の大飯原発再稼働騒動などは、卑近な例にうってつけだ。
野田と云う日本の首相は、原発再開是非の“判断権”が自分にあると勘違いしている。善意に受けとめても“裁量行政権”は我にあり、と思い込んでいる。マスメディアも識者諸氏も、その部分への“そもそも論”に挑戦する逸材は見当たらない。原発の再稼働云々の前に、考え決定すべきは“原発による電力供給”の是非であった。もっと砕いて言うならば「直近の利便合理性VS将来へのツケ回し」と云う議論の場を提供する事が出来た筈なのだ。原発が“将来へのツケ回し”と云う意味が判らない人もいるだろうが、放射能で汚染された場合に受ける被害は、次世代、次々世代ほど深刻であり、その倫理哲学的判断を、先送りしているのは厳然たる事実である。
このような“そもそも論”を矮小化し、多くの民の視線をはぐらかすのが、最近流行りの“東大話法”なのである。フリー・ジャーナリストの神保鉄生氏が、少々時期尚早に「再稼働において、首相の云うところの“責任の取り方”とは、具体的に?」との質問に、野田は再稼働を即断する理由を並べ立て、何ひとつ、神保氏の質問に答えていなかった。これも初歩的“東大話法”と云うことなのだろう。“東大話法”イコール“霞が関文学”と云う事のようだ。使用済み核燃料の最終処分の議論も宙に浮いたままだ。消費増税で、どの世代が、どの程度の期間、消費税を払うか?の議論も置き去りにされている。この議論をすれば、「将来へのツケ回しは許されない」と云う野田のフレーズが、完璧なマヤカシだと判るわけだ。
マスメディアが、このような原則論を語らずに、直近論を語る手法も“東大話法”なのである。目先の“利便合理的部分”に焦点を当て、多くの国民の視線をはぐらかすわけだ。まぁ徳川幕府以来の民衆支配構造なのだから、一朝一夕には治らないのだろう。そ民衆側にも、その方が楽だと云う肌感覚があるわけで、一概に官僚どもが悪だと決めつけるのも憚られる。民の方にも重大な瑕疵はあるのだろう。まぁそこに言及すると、妄想すら成り立たなくなるので、やめておこう(笑)。
“明るい日本の未来”などと云う言葉自体が怪しいと云う意見もあるだろう(笑)。たしかに「下山の思想」を標榜する筆者の“明るい”は不愉快と云う人が多い。「どうしてそんなにネガティブな考えしか浮かばないのかね?」多くの先輩諸氏の苦言が飛んでくる(笑)。「いや〜、生れつきのひねくれ者ですから、そう云う風にしか世の中をみられないンです」と笑って、足早に通り抜ける。…そうじゃないんだよ!アンタらのアンテナが壊れているだけさ…とは決して言わない。俗に云う処世術だ。感性が固まった人間と云うもの、話して判る人々ではない。否、執拗に話せば、理解程度するかもしれないが、残念ながら納得とか、賛同、気づきは望むべくもない。
五木寛之の「下山の思想」は未だ日本人に優しい。日本人は戦後の焼け野原から、一つの最高クラスの山の登頂に成功したのだ。登頂に成功したら、安全確実に下山しなければならない。そして、無事下山し、休養を経て次なる名峰への挑戦が始まる。今は、エベレストの頂上から下山している途中なのだ。安全に下山してこそ、次なる名峰への挑戦も可能なわけで、第一義は無事平地に戻ることである。幾分慰めも籠めて同氏は、下山の思想を語っている。一種成功体験を忘れられない人々への慰撫が籠められているが、老境に達した作家の優しさだろう。ただ、同氏は著書「下山の思想」の後半で、靴への拘りを語りながら、“靴と草鞋下駄の対比”をさり気なく語っている。この部分は筆者の感覚と同じ部分だ。
日本人の身体に西洋の皮靴は合わない。あきらかに同氏が辿りついた悟りである。特に「親鸞」を執筆する中で得た思想なのだろう。まぁこの辺は、興味のある方は「下山の思想」をザザッと読んでみて欲しいと云う事だ。正直筆者の場合、日本人には、真の民主主義とか、自由主義とか、資本主義とか、何処か偏平足が必死に西洋人の真似をして革靴を履いているようにも見える(笑)。家で靴を脱ぐ習慣と脱がない習慣の違いも大きい。多湿な日本の気候上も革靴が適しているとは思えない。無理に無理を重ねて「脱亜入欧」に勤しんでいる姿は滑稽でさえある。
日本人は戦後の一時「猿まね」と言われた時期がある。日本の企業が作る製品の多くが西洋の猿まねコピー品だった。単なる猿まねでなかったのは、日本人には創意工夫の精神と繊細な使い心地への拘りがあった。勿論、想像力で世界を席巻した企業も現れたが、長く世界に君臨する事はなかったし、今では昔話と言っても過言ではない。負けたくない心意気は認めよう。しかし、これからの世界は、共生と云うイメージ抜きには語れない世界がそこまで来ている。ところが、日本人ほど「共生」の精神から遠ざかった国民も世界に類をみない。
否、そもそも論では、充分に共生的民族であったにも関わらず、今では世界一、弱者を救済するのが嫌いだと云う国民になっている。あの自由競争のシンボルであるアメリカよりも「共生」を嫌う国民になっている。繁栄栄華は滅びると云う、あまりにもたしかな人間社会を無視している。歴史がすべてを証明しているではないか。にも関わらず、永遠的繁栄と栄華を望み、成功体験から抜け出せない日本人。この姿を醜いとは思わないのだろう。倫理哲学歴史学から観察すれば、やはり未開人の類である。今、我々は心で考える時に至っている。その答えは様々で良いが、心で考えるべき時代だ。
自慰行為を憶えた猿と似ている。死ぬまで快感を求めてやまない。象徴的な人種が、霞が関官僚であり、経団連に巣食っている人間どもだ。野田の馬鹿が昨日も堂々と叫んでいる。さも実しやかな真実を語っていると云う顔つきは、悲劇であり喜劇だ。原発再稼働の無権者の無謀な判断を「精神論だけでやっていけるのかというと、やはり国民生活、経済への影響を考えて、万が一ブラックアウト(停電)が起これば、大変な悪影響が出る」。馬鹿じゃないのか、停電がどうした?充分対応可能だろう?経済への影響も、発電努力と節電努力で、乗り切れないわけがない。製造業を死に物狂いで守る姿こそ、時代遅れないのである。日本の製造業も、自己責任で選択すべき時代が来ているのだ。民間企業の多くは、既に実践中である。居残りの僅かな大企業のために、国民の富を収奪し、隠匿物資よろしく横流ししているに過ぎない。本当に醜き政治家の見本のような男である。
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