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政権交代後を睨み、50年100年先までの構想を探りたいと思います。
抽象的な紹介で申し訳けありませんが、此処も皆様の御意見で埋めていただきたいと思います。
現在、我が国のみならず多くの国で直面している問題は
資本主義経済の発達に伴う経済的矛盾に関するものであり
物質と情報の氾濫のなかで人間性が見失われている現象であります。
我が国でも、いろいろな問題が噴出しております。
それを政権争いの面で取り上げているだけでは根本的な解決は得られないと思います。
経済のグローバル化を否定するのではなく、民主主義も大切にして、何が考えられるのでしょう。
副題として「身の丈に合った環境つくり」を挙げて、意見を展開して行きたいと思います。
(心の事)
現代の人の心の問題は、人間自身が人間性を見失っていることからきているものと言っていたことの続きです。
200年以上前、ヨーロッパで民主主義の思想が勃興したころ、人々が考えた自由とは、個性とは、今から思えば随分と謙虚なものであったと思います。
それまで続いたキリスト教の影響からルネッサンスで人間性を取り戻した人々は、折から起こった市民革命などで、政治的にも封建君主から自立できたのです。
その自由は、集会の自由であり、引越しの自由であったり、仕事を選ぶ自由などであったと思います。
また人々の希望は、美味しいものを食べたり、小旅行を楽しんだり、趣味の時間を楽しむことであったと思います。
それらは誠実に働く事で叶えられ、殆どの人がそれを目指し、着々と手に入れることができました。
人々は自分のやるべき事、他人がやっている事を容易に理解してました。
同じような価値観を持っている人達の間では自然とルールも生まれ、皆がそれに習う事は自然でありました。
現代は様相が違うのです。
物質的にすでに豊かな生活の中で昔の人が希望とした殆どの希望はすでに叶えられ、溢れる情報の前に、価値観は多様化し孤独の中で自分の希望を(生きがい)探さねばならなくなっています。単純に家族的連続性の上に自己を認識できないのです。
人類の一部の英知がリードしてきた科学技術の発達に伴う生活環境に心がついて行けていないのです。
荒唐無稽な例えをしますが、
SF映画の宇宙船の中や小惑星で人生を送っている様子を見て、皆さんどの様に思われることでしょう。
殆どの方は、あんな生活よりも現在の地球の生活を望まれると思います。
あの方達は、精神そのものが未来用に変身しているものと思います。
ところが現代の科学は、200年か300年後にはあのような事が現実に起こせるようなスピードで進んでいるのです。
一方で、資本主義経済のシステムも、グローバル化と言って、巨大資本の力は、人間の幸せを基準とするような判断の付け入る余地をなくして進んでいます。
国家も資本をコントロールを出来なくなっていて、逆に資本の論理で動いています。
このように世界は、物質的、精神的な両面で一個の人間の背丈をはるかに越えて流れて行こうとしています。
我々は見失いがちになった人間性を回復しなければなりません。
それが時代の挑戦に対する応戦であります。
この応戦をする事によって人類は更なる展開を始められるのです。
その意識を多くの人たちが合わせ持ったとき、人類はまた新しい方向へ進む事が出来ます。
現在、我々がすることはその為の環境を作る事です。持つ事です。
人間は頭脳でいろいろ考えますが、科学技術の世界はさておき、自らの行動はいつでも周囲の環境に左右されるものなのです。
難しい理論の問題ではなく、生活の環境を見直す事により、人々の生活に関する考え方などは影響されるのです。
心の問題シリーズのとりあえずの結論として「身の丈に合った生活環境の回復」が現代の社会に必要であることを申し上げることにします。
「身の丈に合った生活環境」とは単純な事を言っております。
生きる為の糧として、農業、漁業、林業に励む人々の生活がある事と、その存在を敬虔にみる民がある事です。
人々の余暇の過ごし方で山登りや魚釣りなどを好む人が多くなる事、特に少年期の人間がより自然に親しむ事も必要でしょう。
さらに、衰退しがちな、豊作祈願の村祭りなどが息を吹き返すことであります。
具体的な言い方をすれば、第一次産業の保護育成を意識的に国家の命題とすることです。資本の論理に任せずに、人間性の維持のための分野と割り切ることも、ずっと長い将来を見たとき必要なのではないでしょうか。
少年期に自然に親しむ経験をさせるには、長期の林間学校制度を教育に取り入れる事です。現在は地方に住みながらもその環境に目も向けない子供たちがいます。都市部、地方に関わらず、集団で自然と対面する期間をある程度提供する事は、人間性の醸成に役立つ事と思います。
地方の村祭りは現在の細々と残っています。世話役不足の関係で中止の憂き目にあっているところもあります。
大概の村祭りは数百年の伝統を持っています。やめる事は簡単です。現在続けられている祭りでも、意味も稀薄なまま仕方なくやられている場合もあります。
村祭りは実質的な豊作祈願があったとしても、地域社会の共生の為の確かな生活の知恵と思います。
村祭りなどに言及しましたが、そうかと言って伝統的なものの保存を言っているのではありません。
人類が歩んできた自然の発想を見失ってはならないと言うことです。
どのような形になるかも知れませんが、我々はそう言う領域を大切にしなければならないと言うことです。
(経済の事)
始めにグローバリゼーションについての認識を確認したいと思います。
グローバリゼーションとは「国際化。特に、経済活動やものの考え方などを世界的規模に広げる事とあります。
経済のグローバル化は、世界の潮流となっているが、その背景としては、
(1)輸送・通信分野の技術進歩による時間的・空間的距離の短縮、
(2)規制緩和や市場開放など自由化の進展、
(3)旧社会主義圏の崩壊と新興工業国の台頭により市場が世界的規模で拡大 (市場経済規模は27億人から55億人に一気に倍増) したこと、が挙げられる。また、今後は、
(4)インターネットを代表とする情報通信ネットワークの拡大、
(5)NGOの国際的な活動の活発化等が世界経済の一体化を促進していると考えられています。
また企業活動のグローバル化には、大きく分けて5つの段階があるといいます。
第1段階は輸出、
第2段階は海外販売網の整備、
第3段階は天然資源、低廉な労働力、海外マーケットを目的とする生産や技術開発拠点の海外移転、
第4段階は事業推進のために必要な経営資源の移転、
第5段階は世界的規模での経営戦略の展開となる。企業が現地生産等の海外直接投資を増やし、多国籍化していくにつれ、モノ、カネ、ヒトの国境を越えた移動が活発化し、国境の制約が相対的に薄れ、相互依存関係が深化していく。
現在は第5段階に進みつつあり、世界を一つの市場として各国の企業が激しい競争を繰り広げるメガ・コンペティション(大競争)が始まり、提携や買収など競争力強化を目的とした世界的規模での企業の再編成が進んでいる。国境を越えたM&A(企業の合併・買収)の急増、大型化している。一企業内でも、部品供給と完成品組み立てを複数の国で分業する企業内貿易が、国際貿易に大きな割合を占めるようになっている。
また、貿易の拡大、金融取引に関する規制緩和の推進、情報通信ネットワークの拡大により、世界の金融市場の一体化が急速に進展している。
我が国の現状に当てはめてみると、第一第二段階は30〜40年前に経験したように思います。
各種商品の増産に継ぐ増産のために日本各地に工場が進出しました。
第三段階は、20〜30年前の状況を省みれば納得が行くと思います。
輸出が好調で日本各地に展開していた大企業の地方の工場は、安価な労働力を求めて生産のシフトが海外に移ったため、次々と閉鎖されて行きました。
同時に、国内向けの商品の生産も海外で行う流れも始まりました。
これも、国内におけるグローバル化の一連の様相です。
第四段階は、各企業の企業活動の本格的な海外移転が始まりました。
生産拠点の移転だけでなく、企業そのものが海外へ移ったのです。
ここ20年の企業のすさましい海外進出です。
企業は輸出の概念から開放されて、真に多国籍企業となって行きました。
第五段階は現在進行中との事ですが、文字通り企業は国境をものとも思いません。
巨大資本は、関係するそれぞれの国家の意志を凌駕して展開しています。
本来、国家が拠って立とうとする基本的な社会の生産システムも企業の論理の中で昇華されてゆきます。
国家の国つくりの構想も、資本の力の前に蹂躙されてしまいます。
巨大化した資本の動向を無視して国家の戦略も立てられなくなってしまっています。
全てがこのような極端に走っているとは言いませんが、十年くらい前からはこのような傾向が強まっているのが現代の特徴といえます。
今まで述べてきた事が、不都合と決め付ける事も出来ません。
経済のグローバル化が進んだ御蔭で、我々は安価で豊富な物資を手に入れられるようになりました。
発展途上国と言われていた国が、思わぬ繁栄を遂げられるようにもなりました。
世界経済の規模も飛躍的に膨れ上がったといえます。
かつ、この傾向は資本主義経済体制の究極の流れに沿っているのです。
その中で、我々は手放しで喜んでいるだけでは済まされない事態にも遭遇しているのです。
今から250年も昔、ヨーロッパで起こった産業革命により活気つく経済活動は、やがてアダムスミスなどにより資本主義経済の理念を醸成して行く事になる。
当時の想定する理想的経済人とは、「自らが最も優位性を持つただひとつのモノを生産することに特化する人間」であり、「分業によって技術革新がおこなわれ、労働生産性が上昇することによって富(生産物の増大)は生まれる」と考えた。
この点、よく統治された社会ではその最下層まで富裕が広く行き渡るが、それを可能とするものは分業に他ならないとスミスは語っている。
分業によって支えられている労働はすべてのものの価値の根源でもあり、その尺度でもある。
そして、人間の利己的本能と利他的本能は全能の神が人間創造のとき、人間の幸福のために与えたもの。これらを発揮することによって人間は最も幸福になる。言い換えると自分の利益を追求した経済活動(競争)はみんなを幸せにするという「公共の善」をもたらす。しかもそれは自然に実現する。→「神の見えざる手」と言う言葉で現されている。
また政府は余計な介入をしてはならない。市場を「自由放任」の状態にしておかねばならないと経済自由主義を唱えた。
その後の資本主義の研究はまず「需要と供給の関係」について色々と分析が進んだ。競争市場では、需要と供給が一致することにより市場価格と取引数量が決定される。
最初で一番単純な需要と供給の法則。
(1) 価格が下がると需要は増える。
(2)価格が上がると供給は増える。
(3) (1)と(2)より、需要と供給がバランスしたところで価格が決まる。
ところがこの方式は、現代社会では色々と矛盾を含んでいることに気がつきます。
少し先走ったところまで行きますが、
最初に考えられた、需要と供給の法則’は、農業が産業の中心で、製造業、サービス業が未発達で市場経済も未成熟だった19世紀以前には、説得力がある原理だったかもしれません。
かつては供給(農作物の収穫量)は、気象条件など人間が制御できない要素で決まってしまいました。また、不足した物資をとなり町や隣国から取り寄せるということもなかなかできませんでした。
しかし、これを21世紀の今、グローバル競争の中、流通網の発達と共に市場は途方もなく拡大しそのまま「市場経済の根本的な原理」としておく事は出来なくなっている。
つまりは、自由な経済活動が「公共の善」をもたらすと言う「神の手」が信じられなくなってきている。
また、音楽や文字・映像など情報産業の生産物はそれぞれCDや本・ビデオなどに記録されて販売されています。そしてCDメディアや紙・ビデオテープには需要に応じていくらでもコピー、印刷できます。その結果他の生産物のようには需要と供給の関係が成り立たない。
マクロ経済学は、「政府・企業・個人という経済主体」の行為を、大きな観点から総合的に分析する学問であり、「GDP・国民所得・物価・貯蓄・消費・投資・国際収支・景気指数などの集計概念(集計データ)」を元にして研究が進められます。 マクロ経済学の目的を簡単に言ってしまえば、『将来の経済状況(景気変動,デフレ,インフレ,バブル)の予測』であり『有効な経済政策(政府の財政・金融政策)の実行のための理論構築』です。マクロ経済学は、国民の自由な経済活動のみに基づく市場原理(競争原理)を完全に信頼することは出来ないというケインズ経済学の前提に立っています。
次に経済政策としてのマクロ経済学の実態を述べます。
これは。1国あるいは世界経済の短期的な(数年単位)での経済活動の変動、つまり景気循環に関する施策です。
政府はいわゆるマクロ経済政策によって景気循環を抑制、特に不況時に産出量
の落ち込みを軽減させることができると考えられています。マクロ経済政策は財政政策と金融政策の2つに分けることができます。
財政政策は公共事業などの政府支出と租税などの収入を景気の変動に応じて
調整することで経済の生産活動に影響を及ぼそうとするものです。一般に不況
時には生産の落ち込みを抑えるため収入に比べ支出が拡大され、好況時には
逆の調整が行われます。
いっぽう金融政策はお金の流通量である貨幣供給量などを政策手段として用い
ます。一般に不況時には貨幣供給量の拡大、好況時には抑制が行われます。
これらのマクロ経済政策は景気循環の抑制にどの程度の効果があるのでしょう
か? 90年代を通じて日本の財政赤字は大きく拡大しました。 これは不況が長期
間続き、その間政府支出と比較して税収が大きく落ち込んだためです。この不況の長期化はマクロ経済政策の実施が不十分、もしくは誤った政策が採られたためなのでしょうか?それともマクロ経済政策は景気回復に効果を発揮することができなかったのでしょうか。
景気循環、そしてマクロ経済政策の問題はマクロ経済学の中心的なテーマであ
り、マクロ経済学のみがここでとりあげた様々な問いに対して満足のいく答えを提供しているといえます。ただし財政政策、金融政策の効果を考える上では制度面の理解も不可欠ですから、財政学や金融論を学ぶことも重要です。
(新自由主義)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
新自由主義(しんじゆうしゅぎ、英:neoliberalism、ネオリベラリズム)とは、市場原理主義の経済思想に基づく、均衡財政・福祉および公共サービスの縮小・公営企業民営化・経済の対外開放・規制緩和による競争促進・情報公開・労働者保護廃止などをパッケージとした経済政策の体系、競争志向の合理的経済人の人間像、これらを正統化するための市場原理主義からなる、資本主義経済のレジームをいう。
フォーディズム[1]に続く資本主義経済のレジームであり、フォーディズムを支えた、国家による富の再分配を主張する社会民主主義(英:Democratic Socialism)、国家が資本主義経済を直接に管理する開発主義国家の経済政策などと対立する。計画経済で企業と個人の全てが国家の管理下である共産主義とは極対軸の経済思想である。
資金・財・労働力・技術など移動を自由化を前提するグローバル資本主義は、新自由主義を一国をこえて世界まで広げようとするものといってよい。
「評価」
「社会といったものはない There is no such thing as society」と説き、また「市場にオルタナティブはない There is no alternative to market」として市場を絶対視したサッチャーの下、自助の精神が取り戻されたという評価や、以下の各国に共通した双子の赤字の課題を残しつつも、英国が英国病を克服したこと、米国が石油危機に端を発するスタグフレーションを脱し、1990年代にはビル・クリントン政権下でインターネットなどの新産業が勃興して産業競争力を回復したこと、南米ではブラジルが1990年代までの深刻なインフレの制圧に成功しブラジル通貨危機までの安定成長を遂げていることなどは、グローバル資本主義、新自由主義の功績であると評価されている。 また、日本におけるバブル後不況の克服も新自由主義的改革の成果と評価されることもある。
「批判」
冷戦に勝利をもたらした思想として世界中に広まり、1992年頃に思想的に全盛期を迎えたが、ドイツ再統一後の経済的混乱、ロシア及びCIS諸国と東欧諸国の経済・政治的混乱、またソ連及び東欧諸国における共産主義は本来の思想精神とはかけ離れていた為に行き詰まった事が明らかとなり、また1997年のアジア通貨危機から発した世界金融危機における2001年のアルゼンチン経済危機や、新自由主義者の巻き返しとも言えるイラク戦争におけるイラク及び中東諸国の政治的混乱を契機に世界的に批判が高まっていく。
西側諸国では、労働者に対する責任転嫁は格差社会を拡大したとの批判もあり、またチリにおけるシカゴ学派の功績は事実と大きく異なることが明らかになり、ジョセフ・E・スティグリッツら公共経済学の立場からも新自由主義的な政策で国民経済が回復した国は存在しないことが指摘されている[6]。債務国の再建策として新自由主義的な経済政策を推し進めていたIMFも、2005年に理論的にも実践的にも新自由主義的な経済政策の推進は誤りだったと認めている。
南米では、1990年代初頭から米国主導による新自由主義の導入が積極的に行われ、貧富差が拡大、犯罪多発や麻薬汚染、経済危機といった社会問題が頻発、ストリートチルドレンの増加やアルゼンチンの財政破綻が起こった。また、ベネズエラのチャベス政権のような国民経済を重視する政権が相次いで誕生する原因にもなった。 また、日本においても改革の結果失業率は下がったものの、地域間格差の拡大、非正規雇用の増加などの問題を生んだとして批判される。
日本では、小泉政権による新自由主義政策の是非は定かではないとの意見もある。失われた10年ともいわれた長期不況は、欧米や南米のような供給不足による不況ではなく、需要不足による不況として生じていたものであるとの認識の下、小泉政権下での新自由主義的政策路線は、この不況を欧米と同様の構造的不況として、供給サイドの強化により著しい株価下落と失業率の増加を招いたこと、2002年から続く外需先導での経済成長は、米国の経済成長や財務省による円安介入との効果も考えられるとの評価もなされている。
ハイエクは,国家の役割を増やすこと自体を自由への脅威であり,社会主義的だというようなことを主張している。こうした考えは,徴税や軍隊をも自由への侵害だとする極端なリバタリアンにも通ずるが,しかしハイエク自身は国家の役割を否定しているわけではないし,自らの自由主義は自由放任主義ではないことを強調している。また,かれは,国際関係においては,カント主義的な超国家的な国際機関の役割を認めている。
かれの思想の源流は,オーストリー学派的な個人主義,自由主義,功利主義,主観主義,主観的心理的価値論や論理実証主義にある。そこから,社会主義・共産主義を個人主義・自由主義と相容れない集産主義・全体主義として批判するのである。
かれは,個人は絶対であり,個人の自由は不可侵であり,競争は個人の主観的で心理的な努力を最大限に引き出すのが競争であり,その結果については,各個人が背負う偶然であり,それを運命として享受するという心理的な態度が必要だと主張する。かれの競争や市場の概念はまったく具体性がない抽象的な一般論であり,価格機構の役割についての論も同様の一般論である。かれによれば,競争は,「個人の努力を統合する手段」である。しかし,商品価格をめぐる資本主義的競争は,「各部面における生産価格が,これらの中位組成の部面における生産価格,すなわちk+kp'(費用価格プラス平均利潤率と費用価格との積)にならって形成されるように,社会資本を,相異なる諸生産部門のあいだに分配する」(『資本論』岩波文庫(6) 270頁)のである。
ハイエクは,経済諸関係や生産諸関係を,市場一般や競争一般から説いて,主観的自由主義・個人主義という心理的立場からする社会主義批判を,より正確には,集産主義・全体主義批判を展開するのである。かれは,カント主義者らしく折衷主義的に,社会主義の終局目的を完全否定しないし,国家の役割をも否定しないし,消極的には政府の介入行動の必要性をも主張している。かれにとっては自由ですら積極的なものではなく,何かからの自由というふうに消極的に定義されるものでしかない。だが同時にかれは,自由それ自体が目的であるとも言う。「ヨーロッパ近代史を通じて,社会発展の一般的方向は,慣習または法規によって日常の行動を拘束されていた個人を解放することにあった」(22頁)。かれは,「法の支配は自由主義時代に初めて意識的に発展したものであり,単に安全保障としてのみでなく,また自由の法的表現として,最大の成果の一つである」(105頁)として,カントの言葉を引いている。
以上は、現代社会の有り様を認識するための意見である。
このアンチテーゼとしての「新しい日本のかたち」探りたいものです。
最初の心の問題として、文中にも書いていますが、我々は身の丈に合った尺度で、いろいろな事象と対峙することも考えねばならない。
実際に、僅かではあるが、その様な機運は垣間見られる。
国家とは何であるかを問うたとき、これもハイエクが触れているように、経済のシステムと国家の有り様が密接に結びついていることを直視しなしなければならない。
今までの民主国家の成り立ちの大きな要素となってきた社会福祉の政策も、国家の運営の片手間(金額は過大でも発想において重大に考えてこなかった)に思案していては成り立たなくなってきている。
現在は、これを単なる増税で解決しようとしている。
「新しい日本のかたち」と言っても、必ずしも共生が主題となんるとは限らないが、私は、そうであってはならないとおもう。
共生のためには、安定した社会をもたらすためには、冒頭で触れた現状をもたらすテーゼに対するアンチテーゼの確立を必要とする。
それがなければ、何時までも対症療法に終始し、旧テーゼの中の世界に埋没する。
アンチテーゼの具体的な文言はまだ見つけることが出来ず、抽象的な発言に留まっているが、先ず、こういうものは、多くの皆さんの心の中に組み込まれなければテーゼとして機能しない。
政治における国家像、政策の基本理念とは、この根源に始まり、スタートし、このテーゼの帰結する結果を目指すことである。
余りにも抽象的でありすぎるので、私が考える「新しい日本のかたち」の極、一旦を書いて終わりにします。
「国民皆雇用の社会の実現」
「身の丈にあった社会も取り戻す」
皆様の御意見を伺いたいところです。
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