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2012.06.07 柔らかい(気分の)ファッシズム、暴力的な(実体の)ファッシズム、(ハシズムの分析、その23)
〜関西から(66)〜
広原盛明(都市計画・まちづくり研究者)
「ハシズムを解剖する」と題した大阪シンポにおいて、最後の総合討論の柱になったのは「ファッシズムとは何か」をめぐるテーマだった。このテーマを提起した第3報告者(ヘーゲル哲学者)は、ファッシズムというと強権的・暴力的なイメージが強いが、ヒトラーの政権掌握はワイマール憲法下の国会議員選挙、国会議決などを通して合法的・非暴力的に行われたことを忘れてはならないと強調した。
またファッシズムというと、何か巨大な組織が初めからあって、その背後にこれを操る財界や資本家との太い絆があったように思われるが、ヒトラーも初めは小集団からの出発であり、名称も「国家社会主義ドイツ労働者党」と名乗ってあたかも労働者や社会的弱者の味方であるように装い、しばしば資本家さえ攻撃するような言辞を弄して登場してきたことを指摘した。
その意味で、「橋下・維新の会」は「初期のナチス」によく似ている(ナチスとの相似形)と分析し、彼らは短期的には財界の言いなりでも使い走りでもなく、「正義の味方」として振る舞う可能性があること。また国政進出の場合は、「脱原発・民主党政権打倒」といった反権力的な旗印を掲げて総選挙に打って出るかもしれないと警告した。
そして、ファッシズムは橋下氏のような“個人”が生み出すというよりも、“民衆”(選挙民)が生み出す側面があることに注意を促し、ヒトラーの場合も、第1次大戦後のドイツの荒廃した状況(敗戦の痛手、天文学的なインフレ、重い賠償金、膨大な失業など)の下での国民の絶望観・閉塞感の蔓延が、この重圧をはねかえすためには、乱暴でもリーダーシップのあるヒトラーに権力を託す他はないとの気持ちを強め、政権掌握への道を開いたと結論づけた。
この分析視点は、生活保護率全国一、失業率全国一、街頭犯罪件数ワーストワンなど、大阪を取り巻く全国最悪・全国最低の経済社会状況が「橋下・維新の会」を生み出す背景となり、土壌となっていることを客観的に解明するもので、“大阪事情”に詳しい人たちには共感できる点が多かった。ただ私は、もうひとつの報告の柱である「橋下・維新の会」とヒトラーのイデオロギー状況の相似形についても興味をひかれた。
それは、ナチスが登場する以前の19世紀末のヨーロッパやドイツにおいて、帝国主義にもとづくヨーロッパ資本主義の行き詰まりが顕在化し始め、それとともに文化的には“世紀末現象”が広がり、思想的には「ニヒリズム」(虚無主義)や「アナキズム」(無政府主義)が蔓延したとの指摘である。その典型がニーチエのニヒリズム思想であり、ニーチエは近代啓蒙思想、民主主義思想、立憲主義思想、共和主義、社会主義など近代文明総体を否定することによって、情念や生命力の赴くままに行動することを主張した。
このような思想が20世紀の第1次大戦敗北後のドイツで流行することになり、「ニヒリズム+アナキズム=政治的ニヒリズム」となって、ナチズムの台頭を準備することになったのだという。ヒトラーはニーチエ的なニヒリズムを利用して、民主主義も立憲主義も、平和条約も国際連盟も無視し、ドイツの再軍備を推し進め、第2次世界大戦を引き起こしたのであった。
報告者は、現在の大阪の一般市民の中に「(既存の)政党や政治家はどうせ信用ならない」という“政治的ニヒリズム“がひときわ高いことを指摘し、このような思想状況がヒトラーとナチスを生み出した20世紀ドイツと酷似していることを指摘して報告を終えた。
その後の総合討論のなかで、私が考えたのは次のような仮説だった。
(1)ファッシズムは「柔らかいファッシズム」と「暴力的なファッシズム」の2種類があり、前者が下部(裾野)、後者が上部(頂点)という2段構造になっていること。時間的には、先行現象である「柔らかいファッシズム」がまず広がり、後続現象の「暴力的なファッシズム」の登場と拡大を準備すること。
(2)「柔らかいファッシズム」は“気分的な社会現象”(厳密に言えば思想的現象)であり、民衆の政治的ニヒリズムがその基盤になっていること。「暴力的なファッシズム」は“実体的な政治現象”であり、極右集団による威圧的行動や暴力行為などをともないながら、次第に極右政党による専制体制へと発展する可能性があること。
(3)橋下・維新の会は、目下、「柔らかいファッシズム」の萌芽段階にあり、「大阪限定版」といえるが、マスメディアの無批判な報道や既成政党の追従がこのまま継続するときは「全国版」へと拡大し、本格的なファッシズムすなわち「暴力的なファッシズム」に成長する恐れがあること。
政治学や社会思想史には疎い筆者のことゆえ、いささか妄想めいたこの仮説には必ずしも自信があるわけではない。しかしマルティン・ニーメーラー(ナチスに迫害されたプロテスタントの神学者・牧師)の言葉にもあるように、ファッシズムは「柔らかいうちに芽を摘む」ことが鉄則であり、その機を逸すれば歴史が再び繰り返されないとは限らない。
ニーメーラーの後年の回顧は次のようなものだ。「ナチ党が共産主義者・社会主義者・学校・新聞・ユダヤ人などを次々と攻撃したときに、私は何もしなかった。ナチ党はついに教会を攻撃した。私は牧師だったから行動した。しかしそれは遅すぎた。」(ミルトン・マイヤー著、田中浩・金井和子訳、『彼らは自由だと思っていた―元ナチ党員の十人の思想と行動』、未来社、1983年)
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