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(第1章 まえがき)
世界各地で頻発するテロ、感染の勢いが止まらないエイズ禍、一方で爆発する人口増に対応しようとして世界の資源の争奪戦があり、エネルギー消費の増大と地球環境の悪化など人類は世界的困難な問題に直面している。 科学の発達のスピードは人類自身がその環境に適応できる猶予を与えてくれない。
IT産業の発達による過多な情報社会のあり様は、人類の動物的本質を自覚出来なくしてしまっている。 グローバル化した資本主義経済体制は開発途上国のみならず先進工業国内にも体制に組み込まれない貧困層を生み出しながら、世界中に撒き散らしている過度の競争原理の行き着く先を見ようとしていない。
我々人類は、歴史的に確認されている数千年前から、我々自身の背丈にあった成長をとげてきた。 数十万年といわれている、ホモサピエンスの歴史全体からみれば急激かもしれないが着実な進歩であった。 その間に我々は多種多様な物資を生産することを覚え、指導者を中心とした機能的社会組織を作り上げて来た。
宗教的なものは人々の共通認識として早くから発生していた。 文字の発明・発達は人類の社会機構の整備・科学的思考を爆発的に発達させ、また現在に連なる宗教・哲学・芸術といった精神的内容をもった文明を形成した。 中学校の教科書のような内容で恐縮ですが、人類の問題が現在いかに屈曲点にあるかを証明したく今しばらく続けさせていただきます。
ギリシャ時代近くになると、我々の精神世界は生きるための生産から開放されて独自の発達をはじめました。 宗教ではユダヤ教・ゾロアスター教などの本格的な宗教がおこります。 またギリシャ時代は、数学のターレス・自然科学のデモクリトス・哲学のソクラテスなど一大繁栄期を向かえます。
やがて世界はキリスト教・イスラム教・仏教などが指導する宗教的影響の大きな社会を形成することになります。 政治的にみればこの頃は各地の王侯が支配する封建国家の時代です。 人々は十分に発達した自然科学のもと、ずっと以前に比べ、安定した生産に従事していました。
商業も隆盛になりシルクロードなども栄えました。 しかし流通の内容は特産品の交換が主で拠点ごとによる生産の競合は少なかったと思われる。 人々の生活は現在から見れば相当虐げられたものであったろう、しかし生産手段の発達により出来た余暇の時間が宗教的活動や文芸に向かえるようになっていて一面では安定した時代といえる。
その後、ルネッサンスと言われる時代を経て、人類の大躍進が始まった。 言わずと知れた人間の自由な精神の追求・封建社会の崩壊・産業革命・各分野の科学の大発達などによる社会の変革はあっと言う間に現代の社会を造りあげてしまった。 生産面での変化は特に工業生産の面で大きく、大量生産・価格競争などの要素が組み入れられ、アダムスミスが最初に主張したような、現代資本主義の隆盛が始まった。
人文の面では人間自身の探求が深まり哲学・文学・芸術が華を開いた。 ここ300年間の人類は、戦争による悲劇はあったものの、また地球上の全ての人種では無かったものの、とんでもなく豊かな繁栄を謳歌してきました。 そのスピードは空想小説が50年で現実のものになってしまうくらいです。
しかしながら、余りにも性急な繁栄のもとで、我々は何かを見過ごしてはいなかったか、また将来のために、落ち着いて思考すべきものはないかと考えるべき時期であると思います。
(第2章 経済の事)
自給自足で生計を営む根源的な生き方は、現在でも大災害に見舞われた地域などでは一時的にせよ脳裏に浮かぶように、生物としての人類はこれを忘れてはならない。 幸いに我々の社会での現実は進歩した社会システムの恩恵により手厚く守られている。
経済における資本主義の考え方は物質面における生産・流通を飛躍的に発展させ、現在の豊かな社会を形成するにいたった。 その原動力は我々自身の本能に基づいた物質的欲望を各自が競って取得することを肯定し、またその環境を整備したことである。
永い間続いた封建領主のための生産から、自らのための生産に移行できた時代(後述の民主主義の思想とも相まって実現した)から約300年の間、人類はガムシャラに現代まで行き着いた。 そして、その結果をただ喜んでばかりいてよいのだろうか、現在及び将来について考えてみよう。 地球上ではまだまだここまで至っていない地域のあるのも事実だが、先進工業国と言われている国々においては共通に次のような事態が現出している。
1 生産手段の発達により、地域で消費する必要以上の物質が大量に生産され、そのはけ口を必要としている。
2 生産手段の機械化・ロボット化により、余剰労働力が大量に発生しているはずである。 ただし現在は余剰生産品を他の地域でさばくことで、かつ発展途上国を中心にそれを受け入れられる状況にあるので表面上は重大視されていない。
3 生産手段の高質化に伴い、生産は大組織及びそれに関係する組織が中心となり、健全な労働意欲を持っているだけでは生産に従事できない多数の人々を生み出している。
4 企業は自らの利益追求のため、従来の衣食住に基づく主生産品以外の多種多様の商品の開発生産をせざるを得なくなっている。 これ自体は豊かな生活のため悪いことではないが、新しい商品の氾濫がやがて引き起こすだろう人間の精神面の荒廃を予想したとき手放しで期待してよいものだろうか。
5 膨大な商品生産がもたらす、資源・エネルギーの消費は地球環境を考えなければならない段階に来てしまっている。
6 先進工業国と発展途上国の生産手段の格差は広まるばかりで、人口の多くをしめる途上国との調整の問題は今後増大する。
過ぎ去った時代の状況を思い出してください。 各家庭の子供の目には、近所の左官屋さん・米屋さん・うどん屋さん等々、身近にはたらく人々が映っておりました。 子供にとって、おとなになることはそれらの何かになることと、ごく自然に体得しておりました。 また人々は働くきっかけは自身で手軽に見つけられました。
現在はどうでしょう、安定した生活手段を得るためには、どこかの組織に入り込むことが必要です。 組織の窓口はあちこちにあるわけではありません、また、その職業の多くはサービス産業・IT産業など形態としては把握しづらいものが多くなってきている。 沢山の子供達は就労の根源的意味すら希薄にしか意識できておりません。 このような状況がだんだんと蔓延してきております。
資本主義経済の理論的長所は、人々が誰でも能力・努力に応じて報酬を得ることが出来、各自がその欲望に基づき行動することにより、より豊かな社会を現出することでした。 現在ではその原点の思想に限界があることを現しております。 今や資本主義の経済体制は組織から外れた人々・余剰の人々を除外して進もうとしております。
また大量の余剰商品をさばくための競争は、人間社会での自然で必要な需要供給の関係を逸脱して進んでいます。 巨大組織による強引な物資の押し付け、システムの押し付けは地域の正常な社会基盤の発達を歪なものとしております。 企業はそのために開発した商品を出来るだけ沢山売り込むことで、より巨大化しようと懸命です。
多量の物資への妄想が我々の社会の全能の神となっています。 現在、我々は大量の商品と情報の中で狂喜して生活しております。 迫り来る危機を見つめようとはしておりません。 野生のライオンもその狩猟に当たっては必要以上の狩はしません、北海道のヒグマは必要以上の鮭は取りません。
資本主義経済体制も科学も我々自身が作ってきたものです。 享楽に任してシステムをコントロールする事が出来なければ、それが最後まで人類に幸運をもたらすとは限らないのではないでしょうか。
(第3章 自由の事)
産業革命が起こり、資本主義経済体制の確立とともに、物質文明は見事に開化しました。 封建時代、それ以前の時代と違い経済の仕組は人々のものになり、自分自身で自分達の幸福をつかめる事は誰もが当然のことと疑いません。 同じころから、民主主義の考え方が発達してきました。
ところで「民主主義」とは何を言うのか改めて検証してみましょう。 民主主義の第一定義は政治権力(国を統制する機能)の主体がそれまでの君主から人民に移行した形態を言う。 具体的には選挙で為政者を選び自らの社会と統治を委ねるシステムである。 別に人権(平等・自由等)を重んじる意味があります。 また一般的に民主主義を言った場合、社会主義的な考え方(人々はスタートにおいて平等である事を重要視する)を示す場合があり、自由主義(資本主義的な考えに基づき個人の責任で皆が幸福に暮らせることを理想としている)とは異なって使われる。 それと対比する、以前の封建制における人々の生活は映像や文字で見るばかりで、もはや実感出来ない。
かわりに人々は民主主義の時代の只中に居ることにより、民主主義の意味も自覚できなくなっている。 為政者を選ぶ選挙は人々の意思の総体であるべきなのだが、真面目に参加しようとする人がだんだんと減少している、選挙にも行かないくせに、政治の内容になるとやたらと不満を言う人々が増加している。
封建制の時代でも立派な君主も存在していた。 民主政治でも、我々の代表を真摯に選ぶ努力が必要なことをもっと意識すべきだ。 他方で民主主義の第一義を限りない自由と勘違いしている沢山の人々がいる。 民主主義制度の中であるからこそ、個人の自由が保障されているのだ。 また民主主義の制度と言っても、為政者が人々の代表と言うだけで、社会秩序を維持するための制約は厳然として存在する。 個人の自由と言っても無条件で認められるものと、社会のルールを優先すべきものがあり、その境界線の認識に差異が発生している。
論理的にみても、物事を限りなく分類すると、物事の数だけの分類となり分類の意味が無くなってしまう。 同様に限りなく自由を追求することで人々は自由でなくなってしまう。 なぜなら人々が自由でいられるのは他の人がそれを認めてくれている限りであり、ある人にとっての自由が他の人の不自由をきたすなら、そこには双方にとっての自由は無くなってしまう。 そして社会で生活をしている限り、全ての人々の限りない自由が保障されることはありえない。
過度の自由競争の結果待っているものは、昔の秩序無き時代の弱肉強食の世界である。 特に先進諸国といわれる国々に住んでいる人々は、民主主義になれてしまい、都合のよい自由の追求に狂奔しているように見える。 これは大量生産により手に入る多種多様な商品の取得欲と比例している。 大切な民主主義も、人々の認識を当初の精神から見直さなければ、やがて制御出来ない享楽地獄へ向かわせる事になるのではないでしょうか。
(第4章 心の事)
青少年の心の荒廃の問題が言われて久しくなります。 子供達の事ばかりでなく、大量の商品と情報(特に映像による)の氾濫の中で生活しておる現代の人々は。 時として人間としての自らを物質の中に埋没させ、個々の精神を狭い閉塞した世界に追いやってしまいます。
人間はあくまでも動物の一種であり、自然に頼って生活するものです。 社会の一員として人とのつながりも大切なことです。 家族を養い子孫を残すことは何時でも大変な苦労が必要です。 現在の社会システムを維持するための努力も必要です。 これらの根源的な思考が人々の脳裏に存在してこそ、我々の社会は安定しているのです。 これらのことは常々、大げさに自覚すべきであるとは言いませんが、心の奥底にはしっかりと持っていて欲しいものです。
しかし先に申しました様に、現実はこれらの事をすっかり忘れさせる位に享楽的に推移しています。 人々は物質的に豊かでありすぎるのです。 映像情報による、擬似の別世界の体験に自身を見失いがちです。 特に、青少年たちは、生きる事の現実を認知出来る環境におりません。 またゲームなどの映像情報に過度に接する彼らの中には、歪(いびつ)な社会観が醸成される場合がみられます。 今の若者にとって資本主義だの民主主義と言った概念すら希薄な意識しかありません。
人の心の問題を歴史的に概略してみましょう。 人類史に最初に現れる事象に呪術があります、また有力者の死後の世界を願う沢山の遺跡がある事は良く知られております。 やがて人々は宗教の形でより体系的な精神世界の問題に対応するようになりました。
3000年位前からは思想的(哲学)体系ができました、その延長に有名なギリシャ哲学・中国思想(孔孟思想)インド哲学などが各地で殆ど一斉に開花しました。 そこでは、人々の生きるべき指針を示しているのが特徴です。 人々はいわゆる賢人を見習うことで自分の精神的問題に対処しようとしていました。
次には宗教が人々をリードした時代がありました。 沢山の人々にとって信仰心・宗教の教えが心の支えとなり、社会的には不自由な封建社会に生きていました。
そして最初に申しあげた、産業革命・資本主義・民主主義の展開が始まる少し前から、人間自身の内面を問う哲学と総称する沢山の思想が出てきました。 心の面でもこの時代から現代が始まったといえます。 観念論・唯物論・経験論・実存主義とつづく沢山の展開は人間個人の内面を定義つけようとなされたものです。 結局そのいずれもが正しくしかし十分ではなかったと思います。
資本主義経済(最も一部では共産主義経済体制も起こっておりましたが)のなか、人々は自身の存在を自問自答しながら、生産に励み、豊かな個人生活を築き上げてきました。 たしかに地球的にみれば、ごく最近までは社会生活と思想は互いに補完しあっていたと思います。 しかし、個人の自由の意識に目覚めた思惟と科学の発達、特に医学(大脳生理学)の発達は観念的思考の限界を明らかにしてしまいました。
大量の情報は思想ではまとめきれない事象をどんどん提供します。 最近の若者は、哲学者が数百ページを費やして言う論理の隙間を直感的についてしまいます。
哲学が無用になったとは言いません。 どのような論理も無欠などはありません。 真摯な思考は必要なのですが、欠点を先に見てしまう若者の多くはそれ故に考える事を放棄してしまいます。 現代では哲学は引退間際の老人の位置にあり、力強く社会をリードできる体制にはありません。
同様に宗教の教えも一部の信仰する人々以外に力を発揮できません。 このように現代ははっきりとした心の指標のない時代となっております。 先史時代に荒れ狂う大自然に人々が全能の神を意識したように、現代では大量の物質と情報が無意識のなかで人間を支配しようとしております。
(第5章 二十一世紀の事)
今まで述べてきたように、二十一世紀の初頭の人類は未曾有の繁栄を遂げ、絶好調のようにみえますが、社会の各システムに内在する危機を確実に孕んでおります。 二千年以上前に、ソクラテス・孔子・キリスト・釈迦が存在したように。 数百年まえに、デカルト・カント・アダムスミスが出たように、今人類は新しい考え方を必要としています。
しかし、これだけ複雑になった社会です、単に1人の思想家、一つの論理だけで足りるものとは思いません。 むしろ思想と言う概念そのものを考え直す必要があると思います。 資本主義経済体制の限界・民主主義体制の限界を乗り切るためには、我々の心の問題のコントロールも不可欠です。 具体的には見当もつきませんが、方向性については提案してみたいと思います。 大それたテーマですが、日ごろの考えを発表したくこの一文を作成しました。
イ 経済体制の事
グローバル化を合言葉のように現在の企業はどの分野においても巨大化を目指している、目指さねばならない状況に陥っているが、それが完結したところで良い結末が待っているとは限らない。 究極の巨大化は大変な閉塞状況を導いてしまう。 大なる事が経営を解決すると言った迷信から企業は目を覚ますべきである。
むしろ各企業は適正規模がどのくらいかを策定すべきである。 また現在では各企業による生産物資の内容は全て企業の選択に任せている、一部の医薬品等を除き、生産の内容に国家が介入することはない。 一方で人々の生活は経済システムに翻弄され、就業の面でも消費の面でもまた社会施設の整備の面でもアンバランスなところが多々見られる。
これらのことの根本を考え直してみればどうか。 我が国の国土開発の状況をみても、従来は産業育成・生産性向上が中心テーマであった。 発想を転換して、人々の生活様式・環境の整備の面から企画すればどうなるのか。 豊かな社会であることが前提だが、大都会に集中する居住形式を、せめて老後を送る人々が地方の自然の中で生活できるようにする事も出来るはずです。
人々の生活のあり方そのものに関心を向ければ、多様な企画が浮かんでくるはず。 その方向を主体に考えるなら、いままでとは異なる社会整備の形態が浮かぶはずです。 IT技術の発展により、生産拠点の分散もできるはず。
生産と消費のサークルも、より身近な範囲のシステムと認識できるものが構築できるはずです。 ただ現在のように自国の企業が世界で有数なものに成長する事が一番大切に考えているようでは政策の転換はできない。 けれども国全体がまんべんなく潤うことの方が、結局より豊かな生産を喚起することに気づかねばなりません。
このように世界が、国連・各国家・地域単位で地域にあった社会の整備を目指し、地域にあった物資生産の企画を持つ事、企業による積極的な新製品の開発意欲は大切な要素ではあるが、物資生産計画を地域ごとに策定することも今後必要になると思われる。 各企業による巨大化競争は、もはや企業自身では止められない。
政治権力(民衆)が介入して、ある程度の計画経済の考えを取り入れることが、結果として企業にとっても、我々にとっても良いのではないか。 そのためには同時に社会のあり方を変えねばならない。 我々は究極の企業の巨大化・システムのグローバル化が最終的に資本主義体制の墓場となることを理解しなくてはならない。 またこの事は地球的規模で進行する必要があり、その実現には途方もない労力が必要と思われるがいかがでしょうか。
ロ 余暇の事
随分以前のように思われる小学生の驚愕的な殺人事件以来、次々と無意味な殺人が横行している。 また1人が突飛な事件を起すとすぐに模倣犯が現れる、報道でみる我々も慣れてしまった感がある。 また我が国の青少年の無気力さは他国に比べ目にあまるものがある。
大学生と言ってもろくに本も読めないものが沢山いるのは事実のようだ。 共通する性情は自分にとって都合の良いこと、自分が興味を持っているごく一部の事以外は、精神を集中して対処できないことである。 このようになった根本は、しつけの問題でもなく、教育の問題でもない。 またまた歴史を遡ると、遺跡や考古学的資料でしか確認は出来ないことだが、ギリシャ以前の世界で、貴族階級に属する人々は、自ら生産に従事することもなく、さりとて現代のように沢山の娯楽があるわけでなく、余暇を持て余していたように見受けられる。
彼らにとって究極の関心は人の命を弄ぶ方向へ行ったと思われる。 人同士の決闘やライオンなどとの殺し合いなどが常時行われていたことが遺跡で証明されている。 後にもたびたび起こるジェノサイド(大量殺戮)の例を出すまでもなく、時として人は人を殺す事に何の罪悪感を持たないらしい。
余暇を持て余した現代の人間が、殺人志向へはしる場合も十分考えられることである。 民主主義のなかの自由の穿き違えを云々する前に、人々と余暇の関係を検証してみよう。 古代において一部の貴族社会以外は、生きるための食料の確保や王たちのための労役で休息以外の余暇などは考えられなかった。 ギリシャ以降長く続いた封建社会ではどうであったろうか。
まず支配階級の人々にとっては、隆盛した文化・芸術の世界があった、それらを媒体とした社交の場が余暇を吸収したと思われる。 一般の人々は、生産活動のため、そんなに沢山の余暇は確保出来なかったが、簡単なゲームに興じ、遊芸を起こし、たまには巡礼などの旅をした。
各地の市民革命から始まった、民主主義・資本主義の世界になって、個人の自由な生活が担保されるようになると、それまでの慎ましやかな余暇の過ごし方は、より享楽的嗜好へ変質し飲酒・遊芸等を扱う余暇産業も隆盛となってきた。 また文化・芸術を楽しむ面でも従来の貴族たちと変わらなくなってきた。 だが一部の人を除き、人々の生活は生産活動が主体であることは間違いなく、余暇の時間はあくまでも余暇として消費されていた。
ところで現代ではどのようであろうか。 週休2日制や有給休暇など、人々は自身の余暇を何気なくは過ごせなくなってしまっている。 極端に言えば人生の三分の一は余暇なのである。 ギリシャの昔から貴族たちが味わってきた優雅と退屈と向き合わねばならない人々が沢山輩出してしまった。 さらに現代はすべてのテンポが速いので、昔の貴族が向き合っていたより数倍の余暇を消化しなければならない。 人々の基本的な生活観自体が変質してもおかしくはない。 そこでは昔の人生訓など通用しない、哲学もピントはずれなものに映ってしまう。
現代の社会は、人類が営んできた生産主体の生活から開放されかけている。 この先は、殆どの人類が労働することなく生活する空想科学小説の世界が待っている。 随分と極端な言い方になったが現代の精神的病根の本質はこのあたりまで達していると思われる。
長い前置きとなったが、現代の若者にとって誤った余暇の認識をさせない方策が必要であると思います。 前にも申しましたように、現代の子供には、働くことの意味が充分に理解できません。 その上、親を含めた成人達も自身の余暇の消化に懸命です。 就労にたいする本物の醸成できないのも無理はありません。
また親を含めて物事に真摯に取り組む大人の姿よりも、適当に余暇を消化する大人の姿をみる機会が多い子供達に物事に真摯な態度を要求するほうが勝手と言うものです。 現代の子供たちは皆、昔の貴族の子供達と同様の環境にいるのです。
しかし、この世のなかで全ての人間が貴族になったのでは社会が持ちません。 現代の大人達が今のところ取りあえず楽しんでいる余暇の問題は、このように大変な問題を内包しております。 大量の物資のなかで、労働の必要のなくなった人々が次に何を目指すのか、旅行やゴルフや釣りがあるではないかと簡単に片付けられるものではありません。
余暇を主体とした人間のあり方の研究が必要です。 経済システムと同時にこの問題を解決しなければなりません。 人間は本格的な余暇文明を醸成しなければならなくなってきております。
ハ 自由の事
余暇と言う飛び入りが入ってしまいましたが、民主主義の限界の問題とも無関係ではありません。 民主主義の第一定義は権力の主体が一般の人々にあることです、これを抜きに自由・平等の問題は成立しません。 良い民主主義を維持するためには人々が無責任であってはなりません。 民主主義と言ってもただ空念仏を唱えればよいのではありません、他の体制と同じように沢山のルールがあります。 そのルールを守ることが民主主義を守ることです。 個人の自由はその範囲内で保障することであり。 君主制であったころ、君主のために個人の権利を犠牲にしなければならなかったような事態を排除することがうたわれているのであり、何でもかんでも自由にやりなさいと奨励しているわけではありません。
現在は何か束縛する事があれば、自由の侵害などと大騒ぎしますが、束縛するルールは本来私達自らが私達のために作ったものです。 封建時代のように君主の勝手で決められたものとは本質的に違います。 限りない自由の社会とは、社会組織そのものの否定です。
報道の自由の名目をたてに、実際の社会の倫理・道徳は退廃のきわみを見せております。 自主性を重んじるといった名目で教育した結果、勝手気儘な若者が輩出しております。 また先人に習う事を軽視した結果、小手先だけの知識を振り回す軽薄の輩が増えております。 こんなことで人々は本当の自由を手に入れることが出来るのでしょうか。
急がば回れと言う名言があります。 子供達に目先の自由を押し売りして結局、真の自由の意味のわからない若者をそだてて恥じない教育関係者自身も自由のはき違えをしております。 盲目的自由の追求は民主主義体制の崩壊をもたらします。
正しいルールを守る事の中に、本当に自由になれる範囲が見出されるのです、正しいルールを知らないものには自由も制限されます。 正しくないルールに抵抗すること、改善する事は正義の問題であり、自由であるか不自由であるかの問題ではありません。 自由を守るために正義の心をもって正しくないルールと対決することは、我を通してルールを破ることとは違います。 前述の余暇の時間は、個人にとって自由な選択が前提となる世界です、余暇の増加はより深刻な自由のはき違いをもたらす可能性があります。 禁煙運動が板についてきたように自由のマナーを形成し定着させて欲しいものです。
(第6章 まとめ)
映像を主体とする情報の氾濫のなかで、現代の青少年が正常な自我を形成する事自体が至難の業です。 人間にとって正常な自我の発育がどれほど大切かはここでは言及しませんが、性的衝動をはじめ、世の中の裏表を次々と詰め込まれ、ゲーム等の擬似体験の影響を連日受け続ける子供達に我々大人は何を期待しているのか。
その上、彼らが就くべき職業の窓口は極端に減少している。 大人自身が、所謂、勝ち組・負け組に厳しく選別されてゆく状況のなかで、社会は二極化がすすむ。 双方とも十分すぎる余暇をいだき、それぞれの論理で社会を破壊に導く、そこにはもはや自由な経済活動もなく、民主主義もない、まるで人類の末路をテーマとした映画のような光景が、50年後の我々の世界のように感じる。
そうはしてはいけない、資本主義の妄想も民主主義の妄想も今、我々はたださなければならない。 人類は精神的許容量を超えて物質的に進歩しすぎた。 と言うよりも大量の物質を手にして精神が質を変えてしまった。 二十一世紀はそれを矯正しなければならない。 人類は経済活動全体を制御する方法を身につけなければならない。 物質の氾濫をコントロールしなければならない。 経済活動そのものは本能に基づくものであるから、我々は人間の本質を見直す領域まで立ち入らねばならない。
プラトンが役に立たないのではない。 ショーペンハウエルが役に立たないのではない、キリストも必要だ、人間の本質は変わるものではない、彼らの言っていることは全て間違ってはいない。 ただ人々のほうが自らの本質を見失っているのだ。 しかし現代の状況で安定した精神を維持することは並大抵ではないと思う。 昔から沢山の思想家はいたが、一般の人々にとってけして身近な存在であったとは言えない。 当時の人々の考えることの総体が彼らであり、より究極的に表現しているのが彼らであっただけであり、宗教の教義のように人々に直接的に喧伝されていたものではない。
しかし現代の我々は大部分が自身を見詰め直す必要に迫られている。 先人の意見も真摯に検討しようではありませんか。 我々自身が意識的に現代に応じた我々のあり方を考えるとき、それを象徴する思想家達が現出して体現してくれるのではないか。 数百年前のルネッサンスのように、切実なる我々の意思が集約されたとき、新しい思想が現出するのではないか。 やがて現れる思想は超人間の領域をも抱合しているかもしれない。 そしてその思想は今までになく人々を束縛するものであるかも知れない。 またそれは同時に独裁に結びつかないシステムでなければならない。 安易な思想は我々をまた異なった方向の不幸へ導く。
いよいよ真剣な民主主義の本分が問われる時代の到来が近い。 矛盾する方式だが、勇気を持って確立できるように努力しなければならない。 資本主義経済システムの限界を認識し、そのシステムに振り回されない社会の仕組みを考え出さなければならない。 グローバル化が必要な面もあるが我々の身の丈にあった生活環境を合わせ持とうとする方向のなかに、来るべき社会のヒントがあるように思う。 一方で我々の精神は我々自身が創出する科学と真正面から対峙してゆかねばならない。 数十年の歳月を要するとも、我らが子孫の繁栄のために努力を始めなければならないと思います。
御長読ほんとうに有難うございました。
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