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大飯原発決定は野田が決める?!!!国民は野田など知らない。1年前までは永田ガセメールの国対委員長程度の認識だった。永田を見捨て自殺に追い遣った奴が!!位の認識だ!!
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そんな男が決して総理に出れる正統性など無い奴が!!千葉4区の比較第1位当選者【1回落選!もっと多ければ】だけの正統性しかない奴が!!衆院当選5回?財務相だけの経験で民主党議員だけの公職選挙法適用外のデタラメ仙谷謀略不正選挙で選出されただけのペテン師野郎が!!
ふざけている!!国民を愚弄している!!この厚かましさ!!私も早稲田政治に1年在籍、政治学は東大京極純一より政治システム論等崇高だったが!政治の正統性が一番大事だった。天皇家の正統性に通じる清らかさ清浄感が野田には全くない。千葉4区以外誰も国民はこんな厚顔無知無礼な野ブタを総理として選んでも認知もしていない。急に知らないブス女がこの子は貴方の子供です!認知して下さい!と脅されている国民の気分だ!!こんな醜女【=偽装簒奪民主党】など知らないし、ましてこんな脂ぎった厚顔豚顔の子供など遺伝子も全く違い、認知したくない!!それが大多数の国民の率直な気持ちだ!!
そんな千葉4区数十万?数万?票の野郎が大飯原発再開を総理として決める?????何言っているんだ!!誰がこいつを煽てて木に登らせたんだ!!仙谷!!貴様!!癌を治されて日本の癌になってどうする!!恥を知れ!!直した医者は彼に電話してくれ!!こんな事をして欲しくて貴方の癌を治したんじゃない!!と言ってやれ!!運命を弄った医師の使命だ!!
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東日本が放射能汚染されたから、西日本も放射能汚染リスクを平等にシェアーさせておこうとの陰謀か!!損害賠償も全国平均比較だから全国平均に汚染させる??全国警察官が平等に福一警備応援で輪番出張。全国の高速は1週間ごとの汚染交代車両が今日も闇夜を疾走している。小菅・池袋・新宿・渋谷はその通り道なっていて汚染源は高速の汚染車両だ。警官だけでなく、国民にまで放射能汚染を平等に浴びせようとしている。
安全なら、霞が関・永田町に作れ!!
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【白蟻退治無くして増税なし演説】には驚いた!!同じ人間が演説して居たんだ!!双子の兄弟か?と冗談か?と本当に思っていた!!同じ人間があの様に自分の前言・選挙公約を平気で無視して出来る演説だろうか!!本当に野ブタはアルツハイマーか?!と思った。
それにマスコミは何処も誰も取り上げ批判しないで、ネットだけが方々でやっていた。
誰も国民は野田豚顔をイメージして政権交代選挙で投票して居ない!!!投票したのは鳩山の【命を守りたいロマン】と小沢の【国民の生活が第一】に最後の望みを託したのだ。
それまでに自民の身贔屓資本主義の世襲2世3世にうんざりしていた。それを世襲禁止やこども手当や高速無料化や暫定税率廃止や行政の無駄排除に本当に期待した。それを全てデタラメに食い散らし、鼠講の詐欺集団並みに全てデタラメに食い散らし後は野となれ山と成れの破廉恥仕事知らずの子供ギャング其の物だ!!!
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チリ・クーデター(スペイン語: Golpe de Estado Chileno)とは、1973年9月11日に、チリの首都サンティアゴ・デ・チレで発生したクーデターである。世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権を、軍部が武力で覆した事件として有名である。
目次 [非表示] 1 概要2 1970年選挙3 アジェンデ大統領の任期中4 クーデターの勃発
5 クーデター後のチリ6 チリクーデターとピノチェト政権を題材にした作品6.1 小説6.2 映画6.3 音楽6.4 その他7 脚註8 参考文献9 関連項目10 外部リンク概要 [編集]
チリ共和国29代大統領サルバドール・アジェンデ
冷戦の最中の1970年、サルバドール・アジェンデ(Salvador Allende)博士を指導者とする社会主義政党の統一戦線である人民連合(Unidad Popular)は自由選挙により政権を獲得し、アジェンデは大統領に就任した。しかし、アジェンデ政権の行う社会主義的な政策に富裕層や軍部は反発し、ホワイトハウスに支援された反政府勢力による暗殺事件などが頻発した。そして、遂には1973年にアウグスト・ピノチェト(Augusto Pinochet)将軍らの軍部がクーデターを起こした。
首都のサンティアゴは瞬く間に制圧され、僅かな兵と共にモネダ宮殿に篭城したアジェンデは最後のラジオ演説を行った後、銃撃の末に自殺した。クーデター後にピノチェトは「アジェンデは自殺した」と公式に発言したが、実際にはモネダ宮殿ごとダイナマイトで爆破されたため、当時は誰も遺体を確認できなかった。モネダ宮殿に籠城したもとでのアジェンデ最後の演説では、徹底抗戦の姿勢が示されていた。このため一時期反乱軍によって殺害されたのではないかとの意見もあった。2011年5月23日、当局はアジェンデの遺体を墓から掘り返し、再度検視を行うと発表[1]、これにより死亡の状況が明らかになると期待された[2]。同年7月19日検視が終了し、自殺であるとの結果が発表された[3][4][5]。
このクーデター以降、軍事政府評議会による軍事政権の独裁政治が始まり、労働組合員や学生、芸術家など左翼と見られた人物の多くが監禁、拷問、殺害された。軍事政権は自国を「社会主義政権から脱した唯一の国」と自賛したが、1989年の国民投票により、冷戦体制とほぼ同時に崩壊した。
尚、一般に「9・11」というと2001年のアメリカ同時多発テロ事件を指す事が多いが、ラテンアメリカでは1973年のチリ・クーデターを指す事も多い。
1970年選挙 [編集]
候補者 得票数 %
アジェンデ 1,070,334 36.30%
アレッサンドリ 1,031,051 34.98%
トミッチ 821,000 27.84%
総計 2,922,385
1970年に行われた大統領選挙では、人民連合は社会主義者として知られるアジェンデ、国民党は元大統領のホルヘ・アレサンドリ(英語版、スペイン語版)、キリスト教民主党はラドミロ・トミッチ(英語版、スペイン語版)をそれぞれ擁立した。アジェンデが得票で首位になるが、過半数には至らなかったため、当時のチリ憲法の規定に従い議会の評決による決選投票が行われる。
冷戦におけるラテンアメリカにおける社会主義勢力の影響力拡大を懸念したホワイトハウスはこの動きに危機感を抱き、政府の意向を受けたCIAは元々反アジェンデ派の多い軍部にクーデターを依頼した。しかし、陸軍総司令官レネ・シュナイダー(英語版、スペイン語版)将軍は「軍は政治的に中立であるべき」という信念の持ち主であり、これを拒否。決選投票直前の10月22日、シュナイダー将軍が襲撃されて重傷を負い、26日に死亡した。陸軍のロベルト・ビオー(Roberto Viaux)将軍が関与したとして逮捕される。この件が逆に「チリの民主主義を守れ」と各党の結束を促す結果になり、決選投票でキリスト教民主同盟は人民連合を支持、アジェンデ大統領が誕生した。
アジェンデ大統領の任期中 [編集]
リチャード・ニクソン
ヘンリー・キッシンジャー
諸改革が行われ、当初は経済も好調であった。そのため、1971年4月の統一地方選挙ではアジェンデ与党人民連合の得票率は50%を超え、大統領当選時より大幅に支持を伸ばした。しかし、反共主義を掲げるテロ組織が次々に誕生するなど次第に政情が不安定化する。
また、アメリカが経済制裁や右翼勢力に対する公然非公然の支援などによって政権打倒の動きを強める。特に、当時のチリ経済が銅の輸出に大きく依存していたため、アメリカが保有していた銅の備蓄を放出してその国際価格を低下させたことが、チリ経済に大きな打撃を与えたと言われる。また、国有化政策や社会保障の拡大などの経済改革はインフレと物不足を引き起こし、その結果、政権末期には、チリ経済は極度の混乱状態に陥った。
しかし、それにもかかわらず、アジェンデ政権に対する国民の支持はさほど低下していなかった。1973年3月の総選挙では、人民連合は43%の得票でさきの統一地方選よりは減ったが、依然として大統領選を上回る得票で議席を増加させた。しかし、大統領選の決選投票ではアジェンデ支持に回ったキリスト教民主党が、アメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官の意向を受けたCIAの働きかけで反アジェンデに転回したため、アジェンデ政権は窮地に追い込まれていく。
これらの工作によるアジェンデの排除が不可能と考えた反アジェンデ勢力は、武力による国家転覆を狙うようになった。1973年6月には軍と反共勢力が首都サンティアゴの大統領官邸を襲撃するが失敗した。8月、シュナイダー将軍の後任で、やはり「軍は政治的中立を守るべし」という信念の持ち主であったカルロス・プラッツ(英語版、スペイン語版)陸軍総司令官(その後国防相も兼任していた)が軍内部の反アジェンデ派に抗し切れなくなり辞任に追い込まれたことで、軍部のクーデターの動きに対する内堀が埋められた状態となる。プラッツの後任の陸軍総司令官がアウグスト・ピノチェトであった。
クーデターの勃発 [編集]
アウグスト・ピノチェト
1973年9月11日、ピノチェト将軍はCIAの全面的な支援の下、軍事クーデターを起こした。元々反アジェンデ派が優勢な軍部はほとんどがピノチェトに同調したために政府側は有効な対応をとることができず、それゆえクーデターに対する抵抗は労働者・学生らによる自発的で悲惨なものにならざるを得なかった。
アジェンデ大統領の周囲には大統領警備隊などごくわずかの味方しかいなかったが、それでも彼は辞任やモネダ宮殿からの退去を拒否し、ホーカー ハンター戦闘機と機甲部隊の激しい砲爆撃のなかで炎上するモネダ宮殿内で、自ら自動小銃を握って反乱軍と交戦中に命を落とした。アジェンデが自殺したことは2011年判明したが、その死因については不明である(自動小銃による自殺説が挙げられている)。
クーデター後ただちに、陸軍のアウグスト・ピノチェト、海軍のホセ・トリビオ・メリーノ(José Toribio Merino)、空軍のグスタボ・リー(Gustavo Leigh)、国家憲兵隊のセサル・メンドサ=ドゥラン(César Mendoza Durán)を構成員とする軍政評議会が発足した。
政権を握った軍部はすさまじい「左翼狩り」を行い、労働組合員を始めとして多くの市民が虐殺され、その中には人気のあったフォルクローレの歌い手ビクトル・ハラ(Victor Jara)もいた。ハラが殺されたサッカースタジアムには、他にも多くの左翼系市民が拘留され、そこで射殺されなかったものは投獄、あるいは非公然に強制収容所に送られた。前年にノーベル文学賞を受賞した詩人パブロ・ネルーダ(Pablo Neruda:チリ共産党員であった)はガンで病床にあったが、9月24日に病状が悪化して病院に向かったところ、途中の検問で救急車から引きずり出されて取り調べを受けて危篤状態に陥り、そのまま病院到着直後に亡くなった。
日本では当時の政権与党である自民党の他、民社党などが反共を大義名分にクーデターを支持した。とりわけ民社党は塚本三郎を団長とする調査団を派遣し、1973年12月18日、ピノチェトは大内啓伍の取材に応じた。塚本は帰国後、クーデターを「天の声」と賛美した。ピノチェトは、クーデタ後即日社会主義国のキューバとの国交を断絶。社会主義国側も対抗して、次々とチリとの断交に踏み切った。社会主義国を名目とする一党独裁国家の中では、ルーマニアと中華人民共和国だけがピノチェト政権との外交関係を維持した。
クーデター後のチリ [編集]
クーデター後の焚書
多くの左翼系市民が外国に亡命したが、その中には著名なフォルクローレ・グループや歌手も多数含まれていた。先の陸軍総司令官カルロス・プラッツはアルゼンチンに亡命していたが、クーデターの翌年74年9月にピノチェトの創設した秘密警察DINA(英語版)の爆弾テロによってブエノスアイレスで暗殺された。またアジェンデ政権末期には軍部と連携してアジェンデ打倒に動いていたキリスト教民主党もクーデター後には非合法化され、75年10月には、キリスト教民主党の前大統領エドゥアルド・フレイ・モンタルバ(Eduardo Frei Montalva)の下で副大統領を務めていたベルナルド・レイトン(英語版、スペイン語版)が、妻と共に亡命先のイタリアで襲撃され、重傷を負う。
76年9月には、アジェンデ政権下の外務大臣で駐米大使の経験もあったオルランド・レテリエル(英語版、スペイン語版)が滞在先のアメリカのワシントンD.C.でDINAによる車爆弾で爆殺された。この事件は、よりによってアメリカの首都でのテロ活動であったため、ジミー・カーター大統領が態度を硬化させ、一時関係が悪化した。その後、関係は一時は回復したが、元の状態にまでは戻らず、アメリカ国内にはピノチェト政権に対する不信感が残った。そして、冷戦の終結により、利用価値が無くなったとされてアメリカに見放される形で、ピノチェトは1990年に大統領を辞任するが、レテリエル暗殺はその伏線にもなっている。
これら一連の非公然のテロ活動は、チリのDINA単独によるものではなく、ブラジル・アルゼンチン・ボリビア・バラグアイその他ラテンアメリカ各国の軍事政権と非公然に共同し、互いの相手国に亡命した反政府派を拘束あるいは殺害していったコンドル作戦(英語版)の一環だったことが、今日では知られている。
国内ではピノチェトの強権政治が続き、依然として反政府派市民に対する弾圧、非公然の処刑(暗殺)や強制収容所への拉致、国外追放などが頻発した。同時にシカゴ学派の新自由主義経済に基づく経済運営が行われ、外見的には経済は発展したが、同時に貧富の格差の拡大と、対外累積債務の拡大を招いた。もちろん、ピノチェト政権は政権中後期に混乱状態に陥ったチリ経済の実情を、公表しようともしなかった。
ピノチェトの独裁政権は、1989年に民政移管し、コンセルタシオン・デモクラシアからキリスト教民主党出身のパトリシオ・エイルウィン(Patricio Aylwin)が19年ぶりの選挙で大統領に当選・就任するまで続いた。そして、ピノチェトは大統領辞任後も終身の上院議員・陸軍総司令官として力を保持していたが、独裁政治による弾圧や虐殺行為、不正蓄財などの罪で告発され、総ての特権を剥奪された。尚、2005年9月、チリ最高裁は、最終的にピノチェトの健康状態から裁判に耐えられないとして、左派の活動家に対する誘拐・殺人の罪状を棄却した。また、2005年10月にはピノチェトと家族の総ての資産が差し押さえられた。
===============引用終わり====================
アメリカはチリ政変の反省でより巧妙なやり方で属国支配を強めた。日本の民主革命はCIAと日本協力者により断行された。世界史的見方が最近の日本人は出来なくなった。高校世界史Bの履修が大幅低下。嘘ばかりの神話の日本史や地理を取る生徒が増えた。そいつ等がコネでマスコミ入社。馬鹿の連鎖になった。
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