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野田佳彦首相に原発再稼動の判断を押し付けてはいけない
http://www.asyura2.com/12/senkyo130/msg/690.html
投稿者 taked4700 日時 2012 年 5 月 30 日 23:09:41: 9XFNe/BiX575U
 

野田佳彦首相に原発再稼動の判断を押し付けてはいけない

 5月30日、野田首相と小沢一郎元民主党代表との会談が行われた。消費税増税に関しての話し合いで、結果は物別れであったようだ。会談後の野田首相の気落ちされた表情はとても切羽詰ったものを感じさせるものだった。野田首相の考えは消費税増税でなんとかアメリカへお土産を用意し、原発再稼動を止めようというものだったと思う。もちろん、これは、自分の推測に過ぎない。だから、これから書くことも自分の推測だ。

 ただ、極常識的なこととして、次のことの指摘は出来ると思う。

 原発の運転再開にあたり、その安全性の確保を政府にやってもらいたいという首長がいる。しかし、どうすれば安全性確保が出来るのか、そういった人たち自身が分かっていない。それも当然で、原発の安全性確保は全てが机上の空論だったからだ。ある程度以上の直下型地震がどんな影響を与えるか、ほとんど分かっていない。福島原発事故は、想定外の事故が起きたら、それにうまく対処することがほぼ不可能であることを示した。原発の地元の首長は、単に国の判断を待つのでは無く、安全性確保は無理であり、原発廃止しか道がないことをはっきり言うべきだ。自分で、原発安全が安全であるという宣言が出来ないから、国にその判断を押し付けるというのは、単に、卑怯であるばかりか、物事を悪化させるだけだ。

 当分事故が起こらない可能性にかけたいという感覚は分る。しかし、311の地震が起こったため、各地で次の大地震が起こる可能性はかなり高い。世界的に核廃棄物処分場が求められている現在、事故が起こらない可能性にかけることは大変に無謀なことだ。もし、事故が起こってしまえば、日本はほぼ全土が放射能汚染され、世界の核廃棄物処分場になるしかなくなるだろう。福島原発事故が国土の東端で起こり、日本の国土では西風が卓越するために漏れた放射能のほとんどが太平洋上へ拡散した。おかげで、関東地方も関西も、もちろん吸収や四国もそんなには汚染されずに済んだのだ。もし、次の原発事故が起これば、それが、たとえば国土の東端にある東海第2原発であっても首都圏に格段に近いことから、日本は経済的にも、環境的にも壊滅だ。

 原発が日本に導入された過程を見ても、原発導入が日本のことを思ってのことで決してはないことが分る。原発が安全なものではないことは、アメリカ国内で30年以上も新規に原発建設がされていないことを見れば、火を見るよりも明らかだ。原発の安全性確保など出来ないと、まず一般市民が、そして地方公務員が声を上げるべきだ。自治労の沈黙は、自治体が如何に原発マネーに依存してきたかをはっきり示している。更に、組合関係者に入試不正組が多くいることも影響しているはずだ。こうして、日本は破滅への道をひた走るのだ。破滅への道は自分かわいさによって舗装されている。危機に目をつむっていても、危機が無くなることはない。

 小さい地震を人工的に起こすことは可能だ。多分マグニチュード3程度ならかなり恣意的に地震を起こすことが出来ると思う。しかし、マグニチュード5以上、特にマグニチュード7とか8、または9の地震を人工的に起こすのは不可能だ。そもそもマグニチュード7以上の地震を人工的に起こせるのなら、原発の近くで地震が起こらないようにも出来るはずだ。そうであれば、核廃棄物の処分場を今すぐに確保する必要はない。311の地震のような何兆円もの損害を与える必要がそもそも無い。おまけに、311の地震は福島原発事故を引き起こし、原発の危険性を明らかにしてしまった。もし311の地震が人工的なものなら、事前に過酷事故にならないように手を打っていたはずだ。311の地震が人工的なものだと信じ込ませて、単に言うことを聞かせたいだけだ。大きな地震を人が制御することは出来ない。311の地震が起きた日本は地震活動期に確実に入っている。地震をとめることは出来ないが、原発は停止も廃止もできるのだ。原発廃止に踏み込むしかない。

 今の民主党の状況を見ていると、いや、マスコミを含めた全体の状況を見ていると、原発再稼動の判断を政府の一部の人たちに任せることがおかしいと気が付かれていないように見える。原発の安全性など、政治がもともと判断できるものではない。さらに、ある程度以上の大きさの地震が原発直下で起きたことがなく、原発の地震安全性が単なる机上の論理であることから、原発の安全性をきちんと評価できる科学的な根拠もないのだ。つまり、原子力規制庁とか、安全委員会とかの判断を待つということ自体も論理的に正しくない。

 野田首相は原発の危険性をはっきり意識されているはずだ。だからこそ、消費税増税を何とか実現させて、その代わり原発再稼動を避けようとされていたのだと思う。しかし、小沢一郎前代表は消費税増税を飲むわけにはいかない。それは当然のことで、もともと、現段階での消費税増税も原発再稼動も、日本にとっては、明らかに悪影響をもたらすものであり、一部の傀儡勢力に短期的な利益をもたらすだけだからだ。野田首相は、首相として、消費税増税に絡んでいろいろと条件をつけることでその悪影響を取り除くことが出来ると話をされたのかもしれない。しかし、それだからと言って、消費税増税に賛成することは、長期的に見たら確実に道を誤ることだと小沢氏は判断をされたのだろう。

 このままでは野田首相に非常に大きな圧力がかかってしまう。

 本来、今は、内閣のいろいろな大臣や民主党国会議員、その他の議員、そして、各自治体の首長、マスコミ、一般市民が原発再稼動反対の意思表示をするべきなのだ。そして、日本の総意として原発廃止に踏み込まなければいけない。理由は簡単なことだ。原発事故の影響は国民みんなに破滅をもたらし、事故の責任を政治が取ることなど、実質的に出来ないことだからだ。 

*6月8日の記事「近づく戦争・テロ社会、これらの動きを止めるべきでは?」から一連番号を付しています。<<1110>>

TC:37705,BC:156618,PC:?, Mc:?
 

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コメント
 
01. taked4700 2012年5月30日 23:24:32 : 9XFNe/BiX575U : g3a4yRCpOw
上の記事は、ネットカフェで書きました。家で携帯から自分のホームページのジオログ:「2012祈り130 2012年5月10日(木)から24日(木)まで15日分(2)」に投稿したコメントを3つ引用しました。

 今が、とても大切な時です。そして、非常に危機的なときなのです。


02. 2012年5月30日 23:49:27 : dlBRSPYgnU
3.11福島原発事故の教訓は脱原発と考えます。安全神話は嘘でした。
原子力村、官僚は事故の責任は取りません、国民が負担するしかないのです、
国民の大多数が脱原発に向くことが大切。
事故のとき、外国人はすぐ自国に帰りました、われわれ日本人は帰るところがありません。祖国をすてて中国や韓国に避難することのないように。

03. 2012年5月31日 00:00:46 : rWmc8odQao
ほっしゃん。氏
「ドジョウさんよ。「私の責任で…」って言うけど、アンタの責任って何?何かあったらアンタの財産で国民全員に保証する、ってコトか?アンタらが自己満足で責任取ってるつもりの"辞任"なんか国民の何の足しにもならんしアンタらの"定型文"「誠に遺憾です。」の軽さなんて、"世界最軽量"やからな。」
https://twitter.com/hosshyan/status/207845420574052352

どういう総理なのだ…
いったいこの国はどうなっているのか…
ホントに奴は、ドジョウではないのか…
いや、小川にいるドジョウには責任感はあるのではないか…
こんなとき、空き缶はどうしたのだ…
なんでドジョウを止めないのか…
それでも自分は脱・原発派と自称するのか…
小川に沈んで、ドジョウの棲家にでもなったのか…


04. taked4700 2012年5月31日 00:41:48 : 9XFNe/BiX575U : g3a4yRCpOw
日本の政治家は、実質的に植民地国家の日本をなんとかまともに運用しようとしてきた。ソ連崩壊まではまあまあそれがうまく行ったのだ。

ところが、1990年ごろから露骨な植民地支配が始まりだした。そのため、自民党の国会議員もいろいろな形で苦労し、それが実質的な自民党崩壊につながった。

一部の傀儡国会議員や傀儡役人などを除いて、日本のエリートたちはまあまあ良くやっていると思う。ただ残念なのは、そういった行動をちゃんと一般市民に示すことがなく、一般市民がどんどん現実を誤解していることだ。これでは、根本的な解決が出来ず、結局事態が悪化するばかり。


05. 2012年5月31日 11:40:02 : KbjUzFqPyw
日本クーデターの野田はチリクーデターの誰の役割か???????
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チリ・クーデター
チリ・クーデター(スペイン語: Golpe de Estado Chileno)とは、1973年9月11日に、チリの首都サンティアゴ・デ・チレで発生したクーデターである。世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権を、軍部が武力で覆した事件として有名である。
目次 [非表示]1 概要2 1970年選挙3 アジェンデ大統領の任期中4 クーデターの勃発5 クーデター後のチリ6 チリクーデターとピノチェト政権を題材にした作品
6.1 小説6.2 映画6.3 音楽6.4 その他7 脚註8 参考文献9 関連項目10 外部リンク
概要 [編集]
チリ共和国29代大統領サルバドール・アジェンデ
冷戦の最中の1970年、サルバドール・アジェンデ(Salvador Allende)博士を指導者とする社会主義政党の統一戦線である人民連合(Unidad Popular)は自由選挙により政権を獲得し、アジェンデは大統領に就任した。しかし、アジェンデ政権の行う社会主義的な政策に富裕層や軍部は反発し、ホワイトハウスに支援された反政府勢力による暗殺事件などが頻発した。そして、遂には1973年にアウグスト・ピノチェト(Augusto Pinochet)将軍らの軍部がクーデターを起こした。
首都のサンティアゴは瞬く間に制圧され、僅かな兵と共にモネダ宮殿に篭城したアジェンデは最後のラジオ演説を行った後、銃撃の末に自殺した。クーデター後にピノチェトは「アジェンデは自殺した」と公式に発言したが、実際にはモネダ宮殿ごとダイナマイトで爆破されたため、当時は誰も遺体を確認できなかった。モネダ宮殿に籠城したもとでのアジェンデ最後の演説では、徹底抗戦の姿勢が示されていた。このため一時期反乱軍によって殺害されたのではないかとの意見もあった。2011年5月23日、当局はアジェンデの遺体を墓から掘り返し、再度検視を行うと発表[1]、これにより死亡の状況が明らかになると期待された[2]。同年7月19日検視が終了し、自殺であるとの結果が発表された[3][4][5]。
このクーデター以降、軍事政府評議会による軍事政権の独裁政治が始まり、労働組合員や学生、芸術家など左翼と見られた人物の多くが監禁、拷問、殺害された。軍事政権は自国を「社会主義政権から脱した唯一の国」と自賛したが、1989年の国民投票により、冷戦体制とほぼ同時に崩壊した。
尚、一般に「9・11」というと2001年のアメリカ同時多発テロ事件を指す事が多いが、ラテンアメリカでは1973年のチリ・クーデターを指す事も多い。
1970年選挙 [編集]

候補者 得票数 %
アジェンデ 1,070,334 36.30%
アレッサンドリ 1,031,051 34.98%
トミッチ 821,000 27.84%
総計 2,922,385
1970年に行われた大統領選挙では、人民連合は社会主義者として知られるアジェンデ、国民党は元大統領のホルヘ・アレサンドリ(英語版、スペイン語版)、キリスト教民主党はラドミロ・トミッチ(英語版、スペイン語版)をそれぞれ擁立した。アジェンデが得票で首位になるが、過半数には至らなかったため、当時のチリ憲法の規定に従い議会の評決による決選投票が行われる。
冷戦におけるラテンアメリカにおける社会主義勢力の影響力拡大を懸念したホワイトハウスはこの動きに危機感を抱き、政府の意向を受けたCIAは元々反アジェンデ派の多い軍部にクーデターを依頼した。しかし、陸軍総司令官レネ・シュナイダー(英語版、スペイン語版)将軍は「軍は政治的に中立であるべき」という信念の持ち主であり、これを拒否。決選投票直前の10月22日、シュナイダー将軍が襲撃されて重傷を負い、26日に死亡した。陸軍のロベルト・ビオー(Roberto Viaux)将軍が関与したとして逮捕される。この件が逆に「チリの民主主義を守れ」と各党の結束を促す結果になり、決選投票でキリスト教民主同盟は人民連合を支持、アジェンデ大統領が誕生した。
アジェンデ大統領の任期中 [編集]
リチャード・ニクソン
ヘンリー・キッシンジャー
諸改革が行われ、当初は経済も好調であった。そのため、1971年4月の統一地方選挙ではアジェンデ与党人民連合の得票率は50%を超え、大統領当選時より大幅に支持を伸ばした。しかし、反共主義を掲げるテロ組織が次々に誕生するなど次第に政情が不安定化する。
また、アメリカが経済制裁や右翼勢力に対する公然非公然の支援などによって政権打倒の動きを強める。特に、当時のチリ経済が銅の輸出に大きく依存していたため、アメリカが保有していた銅の備蓄を放出してその国際価格を低下させたことが、チリ経済に大きな打撃を与えたと言われる。また、国有化政策や社会保障の拡大などの経済改革はインフレと物不足を引き起こし、その結果、政権末期には、チリ経済は極度の混乱状態に陥った。
しかし、それにもかかわらず、アジェンデ政権に対する国民の支持はさほど低下していなかった。1973年3月の総選挙では、人民連合は43%の得票でさきの統一地方選よりは減ったが、依然として大統領選を上回る得票で議席を増加させた。しかし、大統領選の決選投票ではアジェンデ支持に回ったキリスト教民主党が、アメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官の意向を受けたCIAの働きかけで反アジェンデに転回したため、アジェンデ政権は窮地に追い込まれていく。
これらの工作によるアジェンデの排除が不可能と考えた反アジェンデ勢力は、武力による国家転覆を狙うようになった。1973年6月には軍と反共勢力が首都サンティアゴの大統領官邸を襲撃するが失敗した。8月、シュナイダー将軍の後任で、やはり「軍は政治的中立を守るべし」という信念の持ち主であったカルロス・プラッツ(英語版、スペイン語版)陸軍総司令官(その後国防相も兼任していた)が軍内部の反アジェンデ派に抗し切れなくなり辞任に追い込まれたことで、軍部のクーデターの動きに対する内堀が埋められた状態となる。プラッツの後任の陸軍総司令官がアウグスト・ピノチェトであった。
クーデターの勃発 [編集]
アウグスト・ピノチェト
1973年9月11日、ピノチェト将軍はCIAの全面的な支援の下、軍事クーデターを起こした。元々反アジェンデ派が優勢な軍部はほとんどがピノチェトに同調したために政府側は有効な対応をとることができず、それゆえクーデターに対する抵抗は労働者・学生らによる自発的で悲惨なものにならざるを得なかった。
アジェンデ大統領の周囲には大統領警備隊などごくわずかの味方しかいなかったが、それでも彼は辞任やモネダ宮殿からの退去を拒否し、ホーカー ハンター戦闘機と機甲部隊の激しい砲爆撃のなかで炎上するモネダ宮殿内で、自ら自動小銃を握って反乱軍と交戦中に命を落とした。アジェンデが自殺したことは2011年判明したが、その死因については不明である(自動小銃による自殺説が挙げられている)。
クーデター後ただちに、陸軍のアウグスト・ピノチェト、海軍のホセ・トリビオ・メリーノ(José Toribio Merino)、空軍のグスタボ・リー(Gustavo Leigh)、国家憲兵隊のセサル・メンドサ=ドゥラン(César Mendoza Durán)を構成員とする軍政評議会が発足した。
政権を握った軍部はすさまじい「左翼狩り」を行い、労働組合員を始めとして多くの市民が虐殺され、その中には人気のあったフォルクローレの歌い手ビクトル・ハラ(Victor Jara)もいた。ハラが殺されたサッカースタジアムには、他にも多くの左翼系市民が拘留され、そこで射殺されなかったものは投獄、あるいは非公然に強制収容所に送られた。前年にノーベル文学賞を受賞した詩人パブロ・ネルーダ(Pablo Neruda:チリ共産党員であった)はガンで病床にあったが、9月24日に病状が悪化して病院に向かったところ、途中の検問で救急車から引きずり出されて取り調べを受けて危篤状態に陥り、そのまま病院到着直後に亡くなった。
日本では当時の政権与党である自民党の他、民社党などが反共を大義名分にクーデターを支持した。とりわけ民社党は塚本三郎を団長とする調査団を派遣し、1973年12月18日、ピノチェトは大内啓伍の取材に応じた。塚本は帰国後、クーデターを「天の声」と賛美した。ピノチェトは、クーデタ後即日社会主義国のキューバとの国交を断絶。社会主義国側も対抗して、次々とチリとの断交に踏み切った。社会主義国を名目とする一党独裁国家の中では、ルーマニアと中華人民共和国だけがピノチェト政権との外交関係を維持した。
クーデター後のチリ [編集]
クーデター後の焚書
多くの左翼系市民が外国に亡命したが、その中には著名なフォルクローレ・グループや歌手も多数含まれていた。先の陸軍総司令官カルロス・プラッツはアルゼンチンに亡命していたが、クーデターの翌年74年9月にピノチェトの創設した秘密警察DINA(英語版)の爆弾テロによってブエノスアイレスで暗殺された。またアジェンデ政権末期には軍部と連携してアジェンデ打倒に動いていたキリスト教民主党もクーデター後には非合法化され、75年10月には、キリスト教民主党の前大統領エドゥアルド・フレイ・モンタルバ(Eduardo Frei Montalva)の下で副大統領を務めていたベルナルド・レイトン(英語版、スペイン語版)が、妻と共に亡命先のイタリアで襲撃され、重傷を負う。
76年9月には、アジェンデ政権下の外務大臣で駐米大使の経験もあったオルランド・レテリエル(英語版、スペイン語版)が滞在先のアメリカのワシントンD.C.でDINAによる車爆弾で爆殺された。この事件は、よりによってアメリカの首都でのテロ活動であったため、ジミー・カーター大統領が態度を硬化させ、一時関係が悪化した。その後、関係は一時は回復したが、元の状態にまでは戻らず、アメリカ国内にはピノチェト政権に対する不信感が残った。そして、冷戦の終結により、利用価値が無くなったとされてアメリカに見放される形で、ピノチェトは1990年に大統領を辞任するが、レテリエル暗殺はその伏線にもなっている。
これら一連の非公然のテロ活動は、チリのDINA単独によるものではなく、ブラジル・アルゼンチン・ボリビア・バラグアイその他ラテンアメリカ各国の軍事政権と非公然に共同し、互いの相手国に亡命した反政府派を拘束あるいは殺害していったコンドル作戦(英語版)の一環だったことが、今日では知られている。
国内ではピノチェトの強権政治が続き、依然として反政府派市民に対する弾圧、非公然の処刑(暗殺)や強制収容所への拉致、国外追放などが頻発した。同時にシカゴ学派の新自由主義経済に基づく経済運営が行われ、外見的には経済は発展したが、同時に貧富の格差の拡大と、対外累積債務の拡大を招いた。もちろん、ピノチェト政権は政権中後期に混乱状態に陥ったチリ経済の実情を、公表しようともしなかった。
ピノチェトの独裁政権は、1989年に民政移管し、コンセルタシオン・デモクラシアからキリスト教民主党出身のパトリシオ・エイルウィン(Patricio Aylwin)が19年ぶりの選挙で大統領に当選・就任するまで続いた。そして、ピノチェトは大統領辞任後も終身の上院議員・陸軍総司令官として力を保持していたが、独裁政治による弾圧や虐殺行為、不正蓄財などの罪で告発され、総ての特権を剥奪された。尚、2005年9月、チリ最高裁は、最終的にピノチェトの健康状態から裁判に耐えられないとして、左派の活動家に対する誘拐・殺人の罪状を棄却した。また、2005年10月にはピノチェトと家族の総ての資産が差し押さえられた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
酷い勘違い男を木に登らせたものだ。国民は野田に正統性を一切与えていない。無権代理で無効だ!!!即刻辞任せよ!!政権交代選挙の顔の【鳩山・】小沢に禅譲せよ!!


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