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(回答先: 中日新聞が意見広告掲載拒否 河村市長の南京発言巡り(朝日新聞) 投稿者 gataro 日時 2012 年 5 月 17 日 09:13:32)
ブログ:法螺と戯言より
http://blog.livedoor.jp/oibore_oobora/archives/51784661.html+++++南京大虐殺問題での週刊金曜日特集記事
「週刊金曜日」4月6日号が「南京大虐殺、まぼろし論のウソ」と題する特集を組み、お三方が寄稿しています。ウイキペディアがこの事件に関わる議論を比較的公平に紹介しているように思えます。「公平」にと書いたのには理由があります。「左翼系」論者および中国政府はこの大虐殺での死者を30万と見積もり、「右翼系」論者はそれを小さく見積もり、互いに譲らない論戦を繰り返してきたことにあります。基本的知識の無い私には両者の言い分にそれなりの理があるように見えます。この論争は随分と長く続いていましたが、このところ沈静していたようです。それに再度火がついたのが先の河村名古屋市長の「所謂南京事件はなかったのではないか」との発言でした。突然燃え上がった論争を背景にして東京新聞4月5日号は関根謙氏(慶応大学)の発言を掲載しました(当ブログ4月6日付け記事参照)。関根氏は「大虐殺捏造論は近年特に声高に叫ばれているが科学的根拠と言う美名に走って人間性の根源を見失ってはいけない」と自らの発言を結んでいます。左翼系と右翼系のどちらが「科学的根拠」をふりかざして議論していると、関根氏の目に映るのか?それが、この「週刊金曜日誌」の特集号から推察できそうに思えます。
上記週刊誌特集記事で執筆する一人は同誌編集委員である本多勝一氏です。右翼的言辞をところかまわず撒き散らす石原慎太郎氏批判です。本多氏は之までも石原批判を繰り返してきました。私は本多氏が論争相手に石原氏を選んでいることに本多氏特有の「パフォーマンス(演技)」を感じています。石原氏相手であれば、左翼陣営は殆ど条件反射的な反石原感情から本多氏の論に無批判であることが期待されます。その結果、石原氏の主張に注意深い考察がなされません。しかし、石原氏は本多氏のこれまでの主張に見られる「一貫性の欠如」を鋭く指摘しています。実際、本多氏には、これまでの言説でしばしば「大向こう受け」を狙った「演技(パフォーマンス)」風言説が見受けられます。そのために本多氏の議論には何時も説得力の欠如を見ます。念のために付け加えますが、私は石原氏のこれまでの言動、例えば目下(めした)への必要以上の尊大さは、内奥に何か鬱屈した思考を見るが故に、氏の主張を是とはしません。
しかし、対立する議論の観察にあっては、客観的に両者の主張を考察すべきであって、「南京事件で大虐殺は無かった」との命題を立てることすら間違っているとの論法に私は与しません。そうした論法から議論するのがもう一人の論者である能川元一氏(大学非常勤講師)です。氏の論考の副題は「歴史認識に欠けた”愛国者たちへ“、否定論は人間の尊厳にかかわる」と、いうもので、力みかえった姿勢です。
従って、読み進むのが辛いほどの「エモーショナル」とでも言うべき文となっています。その感情的議論を補強すべく「ホロコースト」が引用されています。私は当ブログ記事4月9日付け記事でホロコースト議論の現状が日本の言論・ジャーナリズムの有り様(ありよう)の根幹に関わっていることを書いてきました。しかし、能川氏はそうした言論事情には頓着せず、むしろ能川氏は以下のように書きます。:「欧米の公人がホロコーストを否定するような発言をすればどのような事態になるか想像頂きたい」、又別のところで「ホロコースト否定論に対して毅然とした態度を取ることが求められる欧米社会とは異なり」云々と。能川氏の認識は、「正確」です。欧米では「ホロコースト」を真正面から議論することが封じられているからです。例えば、600万の数字を疑うだけでSWCが飛んでくるからです。
能川氏と私の違いは次のように整理できます。
能川氏「ナチの悪行を否定するような調査は人道にもとる。当然それは、世論の厳しい批判にさらされ大変な事態になる。従って封じることは正当である」
私「事実の調査すら止めさせようという圧力がかかる。言論思想の自由を損なう大変な事態であり、議論を封じることは不当である」
週刊金曜日特集記事の出発点は「600万のユダヤ人が虐殺された、30万余の中国人が虐殺された」事を事実として受け入れることにあります。事件の詳細を知るべく「実際の出来事を発掘する」作業は「人間の尊厳に関わる」ことであり、そうした作業をする人間は、副題に在るように「人でなし」と断ずることは許されないと私は思います。懐疑する人および調査する人たちを十把ひとからげに「右翼的」と呼びます。自らに同調しない他者にレッテルを貼る。卑怯な行為と言えます。「科学」の介在を何とか防ごうとする思惑が肯定する方々に見られるのです。その思惑を受け入れようとするのが上に引用した関根慶応大教授のようです。
肯定派と否定派が夫々の調査結果を持ち寄ってトコトン議論することを私は望みます、既に事件から70年以上も経過していますから決着付かない論点も多々あると思います。それは「決着せず」として記録に積み上げてゆけばよいではありませんか。悪罵の投げ合いで歴史が変わるわけではありません。
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