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80年前の今日、五・一五事件が起こった。自殺者や餓死者の増えている現在の状況は、当時の日本社会と極めて類似している。今こそ五・一五事件を見直さなければならない。
『月刊日本』5月号より
http://gekkan-nippon.com/?p=3734
五・一五事件より80年を迎える今日、我々は彼らが命を賭して提起した問いかけに、真剣に答えなければならない時期に来ている。
なぜ「青年」だったのか
五・一五事件は「青年」によって決行された維新運動であった。青年将校・三上卓たちが首相官邸を襲撃して犬養毅を殺害し、橘孝三郎率いる愛郷塾の農村青年たちが変電所を襲って東京の停電を図った。
事件の数年前に三上卓が「青年日本の歌」を創作したことからもわかるように、彼らは「青年」を自任し、「青年日本」を理想としていた。
なぜ、それは「壮年」でも「老年」でもなく「青年」だったのか。「青年」とはいったい何を意味するのか。そこに、五・一五事件を読み解くためのカギがある。
明治以来、日本の総人口は増加の一途をたどり、昭和時代に入ると六千万人を突破した。合計特殊出生率は5・0と高い値を示し、新生児や乳幼児の死亡数も低下したため、若年層が急増していた。
人口の増加は社会的競争の激化を招く。特に、三上たちの属していた海軍は、ワシントン条約により戦艦などが制限されたため、海軍兵学校の合格数が削減され、競争はさらに激しいものとなっていた。彼らは軍縮の申し子だったのである(福田和也『昭和天皇』)。
厳しい競争を勝ち抜いた若き軍人たちは熱気を帯びていた。彼らは国を変えなければならないという強い使命感を持っていた。
当時、日本経済は世界恐慌のあおりをうけ、生糸などが暴落したため、農民の生活は窮乏を極めていた。重い小作料に苦しむ農村では、娘の身売りが日常的なものとなった。それにもかかわらず、政治家たちは不毛な権力闘争に明け暮れ、財閥や軍部と癒着して私利私欲にまみれていた。
若き軍人たちは、そうした政治家や財閥、軍人が自分たちの上に居座っていることに強い不満を覚えた。実際、三上は教えを乞うために軍の上官のもとを訪れたが、何一つ教えられるところがなかったため、憤りの余り自殺し損なったこともあるという(花房東洋『「青年日本の歌」と三上卓』)。
「青年」たちの熱気は、あたかもビン内の空気の膨張がそのフタを飛ばすがごとく、上の世代へと向けられた。殺害された犬養毅が76歳と高齢であったのは象徴的である。
このように、五・一五事件には世代間闘争という側面があった。しかし、それで終わるならば古今東西を問わずよくある話である。もう一歩事件の本質へと踏み込む必要がある。
農民たちの五・一五事件
五・一五事件には農民決死隊と呼ばれる人々も参加していた。彼らは橘孝三郎が主宰する愛郷塾のメンバーであった。愛郷塾では、農業の重要性や、農村がいかに都市から搾取されてきたかが説かれていた。
資本主義に毒された都市を否定する橘たちは、兄弟村農場と呼ばれる農村共同体で生活していた。それは一種のコミューンであり、そこでは自給自足に近い生活が追求されていた。そして、農業の傍ら、愛郷塾で「青年」教育を行っていたのである。
農村の現実を知るにつけ、橘たちの怒りは大きくなっていった。世界恐慌の影響により壊滅的打撃を受けたにもかかわらず、農村は都市よりも多額の税負担を強いられている。しかも、都会人たちは、農村の犠牲の下に都市の発展があることを顧みようともしない。これは、TPPで農業が壊滅すると説いても、まるで他人事のように振舞う今日の都会人たちと同様である。
五・一五事件において橘たちが変電所を狙ったのは、電気がないだけで機能不全に陥るほど都市が脆く、貧弱な存在であることを思い知らせるためであった。そうすれば、電気もガス灯すらない暗闇の中で、農民たちがどれほどたくましく生きているかもわかるに違いない。
原発事故の影響により東京電力が計画停電を実施したことに対する批判をよく耳にするが、現代人たちが当たり前のように電気に頼ってきたという事実そのものも顧みる必要があるのではないか。橘の行動がそのことを教えてくれている。
近代の超克としての五・一五事件
橘が愛郷塾を通して目指したものは社稷の復活であった。これは権藤成卿による影響が大きい。権藤の『自治民範』は、五・一五事件の関係者たちの間でも広く読まれていた。
社稷は古代中国に起源を持ち、「社」は土地の神を、「稷」は穀物の神を意味する。つまり、社稷とは、土地に住み、穀物を食べて生活する人々の祭祀共同体のことである。
権藤たちは、この祭祀共同体に基づく民衆の自治こそが日本の国体であると考えた。しかし、この社稷は国家と資本主義によって蹂躙され、抑圧されている。それが現在の農村の荒廃を招いたのだ。
この抑圧を払いのけて初めて、社稷は正常に機能することができる。それゆえ、五・一五事件に先だつ血盟団事件では資本主義の象徴である三井財閥の団琢磨を、五・一五事件では国家の象徴である犬養毅を標的としたのである。
もっとも、これらは破壊や無秩序を目的とするアナキズムとは本質的に異なる。なぜなら、社稷を覆っている暗雲の上には、司祭である天皇がいるからだ。そこには天皇という秩序が存在するのである。そして、この暗雲を取り払うことで天皇と象徴的に直結することができる(絓秀実『反原発の思想史』)。これこそが彼らの目的であった。天皇アナキズムと言われる所以である。
実際、彼らは決して権力を奪取しようとしなかった。国家権力に属する人間として行動しないために、武器や資金も民間から調達していた。また、二・二六事件とは異なり軍隊を動かすこともなかった。天皇の軍隊を私兵化することを避けたのである。
このように、彼らの行動は国家や資本の論理を超越していた。それゆえ、五・一五事件には、京都学派が提唱した「近代の超克」としての側面もあったと言えよう。
近代の超克とは、西洋に由来する資本主義や合理主義、近代国家などを超克しようとする思想である。しかし、それは資本や国家の存在しない社会を現実に構築しようとする共産主義とは異なる。そのようなことは不可能である。実際、レーニンたちはそれを試みたが、結局権力を奪取するという国家の論理に絡みとられた。そうではなく、資本や国家の論理に囚われない行動それ自体を近代の超克と言うのである。それは実践の問題なのである。
ここに至れば、なぜ決起したのが「青年」たちであったかが明らかとなる。彼らは年齢が若かったことや農村出身であったことも幸いし、資本や近代国家の論理に染まっていなかった、あるいはそれを拒否したからである。
逆に言えば、資本や国家の論理に囚われない人間のことを「青年」と呼ぶべきであり、年齢を問題とすべきではなかろう。60代、70代の「青年」がいてしかるべきである。(以下略)
本稿は編集部の許可を得て投稿しています。
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