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TVタックルのみ引退の三宅久之さんの後釜があの当てにならない選挙速報の福岡政行さん?!まだ愛嬌の禿爺がマシで良い!!
http://www.asyura2.com/12/senkyo130/msg/207.html
投稿者 アサマタロー 日時 2012 年 5 月 14 日 22:59:51: UiY46YlCu.Moc
 

2012.5.14TV タックル21時〜車のワンセグ携帯で見てたので良く聞けなかったが、何故?当たらない早稲田政経人脈・命の福岡正行なのか?他に居ないのか?
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やくざの親分の風格のある須田さんは正論を勇気を持って言えそうで、対局の面白い別人は居ないのですか? 【政治評論家三宅久之氏の後釜オーディション】をやり、小沢控訴、消費増税、TPP?,等で討論会をやって欲しい。朝まで生テレビ?でも良いが。
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福岡さんは選挙速報も外れぱっなし。小沢さんへの良く分からない説明のない憎悪感?気持ち悪い発言。出来るだけ客観的に物を見ようとする学者の謙虚さがなく、作為的な言動に思う。彼が司会した代表選挙以降、民主党がどうなったか?北大の山口二郎さんも同じだった。
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【福岡 政行】(ふくおか まさゆき、1945年9月9日 - )は、東京都葛飾区出身の政治学者。
白鴎大学法学部教授。ほかに東北福祉大学、立命館大学、岐阜聖徳学園大学、ノースアジア大学他複数の客員教授を兼任。ボランティア活動ベース・「アシスト(ジャパン)の会」事務局長。専門は政治学(地方自治、現代日本政治、福祉国家論)。
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1 人物 2 著書 2.1 単著 2.2 共著 2.3 編著 2.4 共編著 2.5 訳書
3 テレビ出演 4 外部リンク 人物 [編集]

東京都立葛飾野高等学校を経て、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学大学院政治学研究科博士課程単位取得。駒澤大学法学部専任講師・助教授を経て、1992年より白鴎大学教授、2002年より立命館大学客員教授、2003年より東北福祉大学客員教授。現在、白鴎大学法学部教授、東北福祉大学特任教授。
大学時代、アナウンス研究会に在籍(逸見政孝と同期)していた。また、白鴎大学硬式野球部の部長を務めていた。東京ヤクルトスワローズのファンである。
2001年秋には日刊スポーツで競馬予想のコラムを行うなど競馬好きとしても知られる。
小沢一郎代表の辞任に伴い、2009年5月16日に行われた民主党代表選の討論会で進行役を務めた。
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それより、白髪・メガネ・喩が面白い70歳前後の良くTVタックルのVTRインタビューに出る男は何故出せないのか? 調べた。屋山太郎さんだった。 喩が面白いし、新自由主義?反面教師役として適任だと思う。
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【屋山 太郎】(ややま たろう、1932年6月4日 - )は日本の政治評論家。コラムニスト。
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1 略歴 2 役職 3 論調 4 著書 4.1 連載 4.2 単著 4.3 共著 5 脚注 6 関連項目
略歴 [編集]

福岡市生まれ。父は鹿児島市の出身で、終戦の時期には鹿児島市で過ごす。東京都立青山高等学校、東北大学文学部仏文科卒業。学生時代は剣道部に所属していた。父に対する尊敬の念は強く、屋山は「日本教職員組合に代表される反日・悪平等教育に染まらなかったのは父親の教育の賜物」と述べている。戦国中期の武将・山中鹿之助を深く敬愛している。
1959年時事通信社入社。ローマ特派員、首相官邸キャップ、ジュネーヴ特派員、編集委員兼解説委員を歴任し、1987年退社。1981年第2次臨時行政調査会(土光臨調)に参画、以後、第1次〜第3次行政改革推進審議会専門委員、選挙制度審議会委員、臨時教育審議会専門委員を務めた。
2001年には第17回正論大賞を受賞している。
2006年6月に「新しい歴史教科書をつくる会」から、八木秀次が袂を分って設立した「日本教育再生機構」に参加。中西輝政らと共に代表発起人を務める。同機構系「改正教育基本法に基づく教科書改善を進める有識者の会」代表世話人。2007年6月年金記録問題検証委員。
役職 [編集]財団法人日本国際フォーラム理事 社会貢献支援財団理事 国家基本問題研究所理事 財団法人国際言語文化振興財団理事 日本財団評議員
論調 [編集]
保守主義の理論的支柱とも言えるエドマンド・バークの信奉者であり、日本の親米保守論壇を代表する評論家の一人。経済政策は新自由主義の立場を採り、外交問題については日米安全保障条約(=日米同盟)の強化を主張している。2011年10月現在大きな議論を呼んでいるTPPへの日本の参加にも賛成の立場である[1]。
中選挙区制が派閥政治の温床となり、田中派・竹下派支配を可能にしてきたと批判し、選挙制度審議会では小選挙区制の導入を支持した。同制度肯定の観点から、郵政造反組復党問題では反対の論陣を張り、「もう、小選挙区になった以上、かつてのような馴れ合いはもはや通用しない」と述べている。屋山が中選挙区制度を問題視するきっかけとなったのは、時事通信のイタリア特派員時代、取材を通し日本と同じように長年・中選挙区制を採用し、キリスト教民主党と社会党による与野党馴れ合い・政治腐敗の現状を目の当たりにしてきたことが大きい。他方で、首相公選制の導入には反対で、その理由として、皇室を戴く日本の国柄と、政府と議会の多数派が異なり、政局が大混乱することなどを、一度導入されながら2001年に廃止に至ったイスラエルの首相の例を挙げている。かねてから懇意だった小泉純一郎に対しても、なぜ小選挙区がいいのかを説得し続けたことを著書の中で明らかにしている。また、屋山は、前述の竹下派支配は自民党の左傾化の象徴という位置付けをしている。例えば、小泉内閣発足以降問題視されることになった、6兆円にも及ぶ対中ODAを垂れ流し、その事業の窓口になっていること、日朝国交正常化を画策している勢力が同派の金丸信、野中広務であったことを注視、非難している。野中が2003年に小泉との権力闘争に敗れ失脚した際は、小泉に対し最大限の賛辞を送っている。
首相の靖国神社の参拝も積極的に主張している。郵政民営化に関しては強硬な推進論者で、仮に法案が否決された際は衆議院解散し国民の信を問うべきだと一貫して小泉政権支持を主張し続けると共に、自民党が郵政を大義に解散すれば必ず勝利すると断言していた。その根拠として、屋山は郵政民営化の議論が本格化してきた際の『報道2001』(フジテレビ)の世論調査を挙げ、同調査は首都圏限定で無党派層の動向が色濃く反映される点を指摘した。
小泉純一郎・安倍晋三両政権に対する評価は高く、小泉に関しては聖徳太子や福沢諭吉に匹敵する、「華夷秩序からの脱却を目指した三賢人」と評しており、安倍に関しては、同政権の主要な民間ブレーンの一人としての報道もなされた。屋山は小泉以上に安倍の改革姿勢を評価しており[2]、小泉ですら慎重に対決を避けていた財務省改革、政府資産売却、天下り規制に着手した点を絶賛。その中でも、天下り規制やキャリア制度廃止を盛り込んだ公務員制度改革の際、2007年3月27日に小泉内閣でもできなかった事務次官等会議を無視し閣議決定を行った点を最も評価している。安倍失脚後もその信頼は揺るがず、「体調を回復し再登板を目指してほしい」と述べている。他方、かつての橋本龍太郎内閣が行った行政改革には手厳しく、公務員削減を伴わなかったことを非難している。同時に、政府が国会に提出する法案は、議員立法という形で提出すべきだとも述べている。政府の法案提出は米国とは異なり、議院内閣制で多数派が政府を構成しているため憲法上は問題がないとされているが、政府提出の法案は現実には国家公務員がその多くを作成しているのが現実で、このことが官僚支配と、政治の指導力低下を招いていると指摘している。
ただし、小泉政権の政策の中でも、北朝鮮への融和的な政策、国交正常化を優先させていることに関してや、道路公団改革の失敗に関しては批判的である。とりわけ、道路公団民営化で道路族の主張に沿った「上下分離案」を認めたことに関しては「ペテン」だと非難した。そのため、2004年の参議院選挙の際は民主党に好意的な発言を行っていた。
安倍内閣の農水相で、自殺した松岡利勝については後年の変化とその手腕を高く評価していて、「農業自由化やFTA促進には不可欠」だとしていた。事実、松岡は郵政民営化についても推進の立場で郵政民営化・特別委員会の理事を務めていた。また、農業自由化の観点から、菅内閣が参加を掲げるTPPへの参加を積極的に支持している。一方、同内閣の閣僚・党役員の中で問題視していたのが、久間章生元防衛相と中川秀直元幹事長で、安倍と政治的理念が異なり、政権運営にプラスにならないと非難していた。
2007年6月14日付けのワシントン・ポストに、従軍慰安婦・「性奴隷説」はまったくの事実誤認だとし、米下院121号決議の完全撤回を求める意見広告「THE FACTS」をジャーナリストの櫻井よしこや作曲家のすぎやまこういち、平沼赳夫らと共に発表。これは歴史事実委員会名義で出された。
2007年5月に発覚した年金記録問題の原因は、安倍内閣や自民党ではなく、社会保険庁と全日本自治団体労働組合との長年の慣行にあると糾弾している。そのため、自治労を支持基盤とする民主党が年金問題を声高に主張するのは自己矛盾ではないかと主張している。また、年金記録問題の参議院選挙直前の発覚は、解体の危機に立たされていた社保庁の“自爆テロ説”との見方を示しており、同説は安倍と対極にある田原総一朗[3]や岸井成格[4]なども支持している。
年金記録問題について、『たけしのTVタックル』(テレビ朝日)にて、「小沢じちろう問題」と呼んでいる。また、いわゆる「政治と金」の問題では、4億円の不動産取得が取り沙汰された小沢一郎に対し、「まるで説教強盗のような理屈」だと非難している。
選挙後も産経新聞で「年金の記録漏れは、行政のトップとして安倍晋三の責任に帰せられるが、実のところ責任はない。」と安倍を擁護し、「社会保険庁の内部が怠業、ねこばばし放題という腐った職場になった責任の大半は自治労、そしてその組合を母体としている民主党の責任にも帰せられる」と民主党の責任論を主張している。麻生政権誕生後は、『WiLL』や『諸君!』などの誌上で官僚に融和的な麻生首相を痛烈に批判し、民主党擁護の文章を発表している。2009年1月16日の記者会見で、麻生政権の改革姿勢への失望から自民党を離党した渡辺喜美と国民運動を展開していく考えを明らかにした。
衆院選で自民党が惨敗し、総裁選を実施するにあたり立候補した谷垣禎一の「自民党の捨石になっても…」に対し「置石みたいなもんだ」と評していた。
外国人参政権については、明確な憲法違反だとして、一貫して批判的な立場を表明している。
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相当偏向していて反面教師として見ごたえあり、面白そうだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー政治評論家に質問し、予想が当たったか外れたが成績表を付けて欲しい。
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田原のテレ朝:暴言番組が無くなり、【たかじん】と【TVタックル】が楽しみだったが、2時間番組にして、日本人のディベート能力を高めさせて欲しい。
 

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コメント
 
01. 2012年5月14日 23:20:16 : hD3Ey1xhGU
福岡政行と屋山太郎の経歴を紹介してどうするの?
変態趣味?

02. 2012年5月14日 23:28:12 : FCXJrau9qg
三宅はもともと朝のやじうまとかいうのに出ていて、
毎朝「ナベツネの手紙」とかいうのを読むというボケをかましていたので、
視聴率低下を招いた本人としてやじうま若返りで切られた。
(その後テレ朝のワイドショーでは年取って呆けた鳥越も切られ
 (鳥越の狂気に悩まされていた赤江は報奨で残った)、
 やじうまは相変わらず視聴率が低いので芸能を強化し、朝の硬派はTBSだけになった)

三宅は一遍に切るとうるさそうなので月曜夜のお笑政治番組に回されたのだが、
この番組も切るタイミングはずっと狙われていたのでしょう。


03. 2012年5月14日 23:34:10 : KbjUzFqPyw
今まで彼らの経歴も知らずにウイキペディアも見ていなかったから、三宅さんの後釜があの外れっぱなしの福岡さんでは人材悪化・もっと面白い反面教師を期待したかっただけ!変態趣味かも?
両極が居ないと激論にならない。無職の年金生活者になったので、経歴を再確認しながらチェックし出した。暇ですみません。

04. 2012年5月14日 23:55:58 : 8Os4Y8EQgI
”当たらない福岡さん”、今晩のTVタックルで、「次の首班選では小沢さんが岡田さんを担ぐ」とご託宣。それは無いだろう、”当たらない福岡さん」に納得。

05. 2012年5月14日 23:57:37 : UPdFbAR04Q
見ていたが福岡は気が狂っていないのか?とても常人に見えなかった。機密費で毒されて必死に機密費代は小沢批判をしなければと言う醜い姿だった。須田さんが真面な解説していたので、福岡はみっとも無かった。須田さんに福岡さんは間違っていると言われ、大竹にも控訴は問題あると言われもごもごして黙ってしまった。馬鹿だね福岡は。昔から馬鹿だったけど少しも成長していない。大学でも生徒に馬鹿にされているだろう。

06. JohnMung 2012年5月15日 00:01:51 : gztmP8V1J9Vjg : VwMpY9l7I2

01>さんにまったく同意!
 なんなのって! 感じ

 真夜中ねぼけ川柳(カネなし庶民の抵抗)
 ・アサマタロー ウイキ読まして なにする気 (ザ・ローあたま)
 ・アホらしか ふくおか・ややま 興味なし (に馬鹿漫才)
 ・テレビたこ 話題払底 じじコンビ (やぶにらみ)


07. 2012年5月15日 00:38:53 : LXmsCkabz6
TVタックルの論評が出ているけど。
一番の、悪は、たけしだと思う。
自分で、核心を言わず、あおるだけあおって、知らない振り。
横にいる、有吉なんとかおばはんの、意地汚いコメントも
鼻持ちにならん。
福岡なんとかなんて、論外、あれが教授、聞いてあきれる。
要するに、たけしの意図するところが、すべて出ている。
ゲスト選びも、見ただけでわかる。
原口も、よく、あんな番組に出ていたもんだ。

08. 2012年5月15日 07:40:36 : JjSQKQLkmo
07>核心をついている。たけしの番組であり、放送局の意図がはっきり見て取れる番組。ただ出演者がどこまで裏のシナリオを認識しているのか疑問はある。すべてシナリオはこうですからまでは言えないである程度出演者の裁量に任せているのだろうと思う節がある・・。
 たけしの兄さんは反小沢さん。 横の女性は有吉ではなく阿川弘之の娘。

09. 2012年5月15日 08:14:06 : KbjUzFqPyw
たけしはバイク事故で死の淵を見たせいか神が降りたのか?急に巨匠等の評価があり、信じられないが、配下に金や飲み食いをさせるのでヨイショが多いと思っている。
しかし、フランス等が評価?本当か、【さくら】か【やらせ】か、海外番組の買い付け仲介で美味しい味見をさせているのか?

要は日本人が欲しているテレビ番組を作っているのは確かだ。TVタックル、家庭の医学は毎週努力して見ている。海外番組の紹介も時に見た。

番組は反面教師で見るべきで毒のある人が出るべきだ。たけしはそれに該当。女性問題で出版社を襲撃・暴行で逮捕起訴された人。それが【世界のたけし】?本当か?でも収入も多く、貧乏人の僻みだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー経歴引用ーーーーーーーーーーーーーーー
初めて見たが、ウイキペディアは自分で作れるのか?それにしても凄い。
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ビートたけし(本名:北野 武(きたの たけし)、1947年1月18日 - )は、日本のお笑いタレント、司会者、映画監督、俳優、作家、芸術家、東京芸術大学大学院映像研究科前教授。学士(工学)。元漫才師(ビートきよしと共に、ツービートとして活動し、現在も稀にきよしと漫才を披露する機会がある)であり、日本国外では映画監督としての知名度が高い。また、映画監督などで本名名義で活動する他、立川談志一門であり、高座名「立川錦之助」を持つ[4]。
東京都足立区島根出身。オフィス北野所属。
愛称は「たけし」、多くの芸能人からは「たけしさん」と呼ばれるが、タモリや和田アキ子からは「たけちゃん」、たけし軍団やたけしを慕っている後輩芸人からは「殿」と呼ばれており、所ジョージからは「北野さん」や「おじさん」と呼ばれ、明石家さんまからはたまに「おっさん」[5]と呼ばれる。
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1 概略2 来歴・経歴2.1 幼少時代2.2 大学時代2.3 前座時代2.4 ツービート結成
2.5 漫才ブームまで2.6 漫才ブーム2.7 漫才ブーム以後3 映画監督「北野武」3.1 監督としての経歴3.2 お笑いタレントと映画監督3.3 キタノブルー3.4 ファンを公言している著名人3.5 北野が影響を受けた映画監督3.6 監督作品4 事件・事故
4.1 フライデー襲撃事件4.2 バイク事故5 価値観5.1 映画5.2 数学5.3 社会風刺
5.4 スポーツ5.5 タップダンス・ピアノ5.6 たけしの挑戦状5.7 暴力団に対して
6 家族・縁戚7 人物7.1 友人関係8 評価9 映画出演作品10 受賞歴11 現在の出演番組(2012年現在)11.1 レギュラー番組11.2 単発・不定期番組12 過去の出演番組(レギュラー番組のみ)12.1 NHK総合12.2 日本テレビ系列12.3 TBS系列
12.4 フジテレビ系列12.5 テレビ朝日系列12.6 テレビ東京系列12.7 BS・CS放送
13 ラジオ14 CM出演15 ドラマ出演16 著作物16.1 北野武名義16.2 ビートたけし名義6.3 写真集17 音楽制作17.1 歌唱作品17.2 作詞提供17.3 参加作品18 参加したコンピュータゲーム19 写真家20 その他21 脚注22 参考文献23 外部リンク概要
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1990年代以降、タモリ、明石家さんまと共に、日本のお笑い芸人「ビッグ3」の1人として認められている。タモリを「タモちゃん」「タモリ」と呼び、明石家さんまには「明石家」「さんまちゃん」「出っ歯」と呼んでいる。また、1980年代中頃までは、萩本欽一、タモリと共に、日本のお笑い芸人「ビッグ3」であった。
一般人、芸能人(特に後輩芸人)問わず未だに発言や行動に多大な影響力をもつ人物の一人である。
現在では司会業や映画監督業が中心で、中には20年以上続く番組がある。司会者として、聞き手に回りながらも、相手の何気ない一言を即席の持ちネタにし、話の節目やオチで効果的に連呼し、使用する特徴がある。
映画監督時や『平成教育委員会』(フジテレビ系列)などの番組では本名の「北野武」名義を用い、他の番組では芸名の「ビートたけし」でタレント活動している。これに関して、2010年(平成22年)5月9日放送『平成教育委員会』では、「アカデミックな場所では『北野武』または『マス北野』、芸人として出る時は『ビートたけし』で使い分けている」との旨を述べた。
また、絵画では「ビートたけし・北野武」と言う名義で活躍もしている。
来歴・経歴 [編集]

幼少時代 [編集]
東京都足立区島根町(当時)にて、塗装職人の父(北野菊次郎)と、母(北野さき)の五男(幼少時に夭折した兄が一人いるため、実質は四男として育つ)として生まれ、「竹のようにどんなものにも耐えてすくすく伸びてほしい」との願いから、「武(たけし)」と命名された。1982年「週刊サンケイ」の小林信彦との対談では「生まれたのは浅草で、すぐ移って、物心ついた時には足立区にいたんです」と話している[6]。色白で細面、小柄だが俊敏で友人からは「ターチ」と渾名された。兄姉とは年が離れていたため、祖母に非常に可愛がられて育った(家族構成は、「家族・縁戚」を参照)。母親からは厳しく接せられた。
足立区立梅島第一小学校に入学。一年生のときは黒田先生だった。二年生のときは藤崎先生だった。教育熱心だった母の薫陶が功を奏し成績は優秀で、特に算数と図画工作が得意だった。小学校卒業後は、母親が進学校を希望したため、近隣の中学ではなく、遠く離れた足立区立第四中学校へ越境入学した。中学卒業後、東京都立足立高等学校に入学。なお、小・中・高といずれも野球部に所属(高校は、軟式野球部)したが、高校時期にヨネクラジムでボクシングを習っていたという。なお、演芸場時代は、漫才師の野球チーム「メダトーズ」に加入していた。また未成年時代に飲酒していたことも自身の著書で明かしている。
大学時代 [編集]
1965年(昭和40年)に高校を卒業し、母親の薦めで、明治大学工学部(後の理工学部)機械工学科に現役合格し入学。しかし、大学での生活には適応できず、いわゆる五月病を患うようになり、大学2年の時には、家出同然に一人暮らしを始め、新宿界隈で当ての無い日々を送るようになる。
学生運動にも参加したが熱心ではなく、ジャズに傾倒する。“LeftyCandy”や「新宿ACB(アシベ)」、「風月堂」などに入り浸った。また、ジャズ喫茶のボーイもしていて、ジャズの見識は一部で有名であった。新宿のジャズ喫茶「ビザール」では、若松孝二、小水一男らと知り合う。また「ビザール」のボーイの後輩に萩原朔美がいた。「ヴィレッジ・ヴァンガード」で、遅番のボーイとして働いていた時は、連続射殺事件の永山則夫が早番のボーイとして働いていた。「ジャズ・ビレッジ」の壁に書かれていた文章「強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔、何のあてなき人生なり」が心に残ったという[7]。
この頃は青春の葛藤期でもあり、友人の下宿に居候しアルバイト三昧の青春時代を過ごし、ジャズ喫茶以外にも、菓子の計り売りや実演販売員、ビルの解体工、クラブのボーイなどを転々とする。東京国際空港の荷役業では、ジャズ喫茶の常連客だった中上健次と共に働いた。後に通訳になろうと思い立ち、留学費用を稼ぐ目的でタクシーの運転手を務めるも半年で退社、ガソリンスタンドでアルバイトをした。この間、若松との縁で『新宿マッド』『腹貸し女』など、幾つかの若松プロ初期作品に端役ながら出演[8]したり、学生演劇に参加したが、ヴォードヴィルのような軽演劇で、舞台役者ではなく構成に携わっていたという。
大学は140単位のうち106単位まで取得していたにも関わらず、結局通学せずに除籍。のち、2004年(平成16年)9月7日、明治大学より「特別卒業認定証」[9]及び知名度アップに貢献したとして「特別功労賞」を受けた[10]。これにより、最終学歴は明治大学工学部卒業となり、学校教育法第104条および学位規則第2条の規定に従って「学士(工学)」の学位が与えられた。
前座時代 [編集]
学生運動が収束に向かったこともあって、自身も去就を模索する必要に迫られた。芸能に興味はあったが、アングラ演劇には馴染めず、「理工系なので文学的なものはわからない、しかし演芸なら自分にも理解できるだろう[11]」という理由で、いつしか芸人を志望するようになった。ただ、当時の一般認識として卑しい仕事に見られていた面もあり、子供の勉学に厳しく大学にまで入らせて芸人の道を志した息子に、母は怒り嘆き、子供の頃から厳しい勉強を強いられて窮屈な思いをしていた武は、これに猛反発。北野家においても、近所の体裁を考えて「芸人を目指した北野家の武」という存在は無かった事になっていた。[12]
1972年(昭和47年)夏、浅草のストリップ劇場・浅草フランス座で、芸人見習い志願としてエレベーターボーイを始める。当時、たけしと思しき人物を見た井上ひさしは「不機嫌そうな青年[13]」と、その印象を述べている。やがて、同劇場の経営者兼座長であった深見千三郎に師事し、前座芸人・北千太としてコント(軽演劇)を学ぶ。初舞台は、痴漢のコント。幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタップダンスの修業にも励む。座員の多くが深見を近付き難い存在として見ていたが、たけしは物怖じしなかったため、深見から気に入られた。深見に師事するものの舞台に関係の無い一般の場所で周囲の状況を考慮せず予告無しで深見はギャグ(ボケ)を連発、間髪入れずに師を即興で罵倒という技術を仕込まれ、この特異な芸の仕込みに北野は深見に四六時中振り回される形となり芸を習得、模索する事になる。この指導もあり舞台ではアドリブを駆使し、言葉の拾い方に独特の斬新さがあったため一目置かれ、後に誕生する漫才コンビ・ツービート独自の芸風の基礎として取り入れられマンザイーブームで駆使し一気に開花する。
長じて、フランス座の新人芸人とコントコンビを組むことを考える。舞台(コント)が活動の主軸を旨としていた深見は、漫才での活動を望んだ弟子の北野を即刻破門(後に解除)[14]、漫才を主軸に活動の場を放送媒体に移す。
ツービート結成 [編集]
詳細は「ツービート」を参照
コントでの芸能界デビューを模索した一方、フランス座に出入りしていた2年先輩の兼子二郎からも漫才コンビを組むよう誘いを受けた。
コントにこだわった武は漫才コンビに慎重だったが、当時フランス座は経営難で、給料の支払いすら事欠くようになっていたことや、コントコンビを組む予定の相方の病気もあり、また、背広一つで稼ぐことができる漫才に魅力を感じていたことから、「松鶴家次郎」の芸名で舞台に上がることを了承した(兼子の芸名は「松鶴家二郎」)。
当初は、兼子がツッコミの正統派の掛合い漫才で全く芽が出ず、フランス座にいた頃よりも貧窮した。兼子が一時コロムビア・ライトの付き人をして生活を凌いでいたため、その縁で空たかし・きよし(コロムビア・トップ・ライトの一門は皆「青空」の家号を名乗るが、片方の弟子なので「空」だけとなった。)と名乗り、営業に出たこともあった。演芸場のギャラは安いため、地方キャバレーなども回るようになるが、たけしは酔客相手の仕事を嫌い、出番をすっぽかしたり、酩酊して舞台に上がることが多かった。また、店を誹謗したり、客やホステスに喧嘩を吹っ掛けたので、度々舞台から降ろされたため、兼子は場繋ぎに使う奇術ネタを用意していたという。そして、この頃から「暴走ネタ・危険ネタ」へシフトしていった。
紆余曲折の後、2人はコンビ名を「ツービート(two beat)」へと変更し、たけしは「ビートたけし」、兼子は「ビートきよし」を芸名とした。
この頃、大阪で頭角を現して来たB&Bのスタイルに触発され、スピードを早めて喋りまくるスタイルへ変貌した。 服装もタキシードに蝶ネクタイからアイビー・ルックに変えて、古臭い漫才師の様式から脱却を図った。当初ツービートは、代演で松竹演芸場の舞台に上がっていたが、支配人に認められてからは出演回数も安定するようになる。毒舌の限りを尽くした掟破りのたけしのツッコミネタもさることながら、ボーイズグループの楽器を拝借して現れたり、座布団の上に座って漫才を行なうなど型破りな舞台が多く、ツービートが漫才を始めると(他の芸人が観に行くので)楽屋が空っぽになると評判になった。
漫才ブームまで [編集]
演芸場での人気とは裏腹に、その破壊的な芸風は一部の関係者に受け入れられず激しい抑圧を受け、漫才協団から脱退を求める声すら起きたという[15]。1976年(昭和51年)協団が主催するNHK新人漫才コンクールにツービートは3年連続で出場したが最優秀賞を獲得することは出来なかった。
1978年(昭和53年)、新宿区高田馬場の芳林堂書店前で持ちネタの全てを披露する漫才ライブを開催したが、この企画をした高信太郎との繋がりでたけしも、高平哲郎や赤塚不二夫、タモリなどと一時期交友関係を持った。その後、「酒を飲んで軽いジョークを言いあったりする、あのシャレた笑い」が肌に合わず、直に離れた。
1979年(昭和54年)、女流漫才師「ミキ&ミチ」の内海ミキと結婚。犬吠埼(千葉県)にて新婚旅行[16]を済ませた後、亀有のアパートで生活を始める。
11月、『花王名人劇場』(関西テレビ)において、人気落語家・月の家円鏡(8代目・橘家圓蔵)の共演者に抜擢される。古典派から「邪道」と言われた円鏡と、「邪道漫才師」ツービートを競演させ、「円鏡 VS ツービート」と銘打って放送されたこの企画が好感触を得たことで、「花王名人劇場」での「激突!漫才新幹線」制作への布石となり、後の漫才ブームへ繋がった。
漫才ブーム [編集]
1980年(昭和55年)、「マンザイブーム」(旧来の“漫才”と区別される為にカタカナ表記)が起こり、ツービートは毒舌漫才と毒舌ネタを売り物に、B&Bやザ・ぼんち等と共に一躍知名度を上げた。
速射砲さながらに喋りまくり、時おり弾倉を交換するかのごとく首を「くっ」と捻るたけしの姿は、個性派揃いの漫才師の中でも異彩を放った。その毒舌が織りなすネタの主題となったのは、ジジイ・ババア・ブス・カッペ(田舎者)で、さらにウンコとヤクザとガキが頻繁に登場した。また、金属バット殺人事件や深川通り魔殺人事件といった時事性の高い話題をいち早くギャグに取り入れた。これらの不謹慎ネタは「残酷ギャグ」等と批判を受けることもあったが、それに対してたけしは「たかが漫才師の言う事に腹を立てるバカ」と言ってのけた。日本船舶振興会のCMを皮肉って作られた「注意一秒ケガ一生、車に飛び込め元気な子」「気をつけよう、ブスが痴漢を待っている」「寝る前にきちんと絞めよう親の首」「赤信号みんなで渡れば恐くない」等の一連の標語ネタは「毒ガス標語」と言われ、ブーム初期の定番ネタとなった。
1980年(昭和55年)6月、ネタ本『ツービートのわッ毒ガスだ』を発刊し、年末までに約85万部の売上となったが、当初事務所側はせいぜい3万部程度の売り上げと見込み、印税全額を2人が受け取る契約を結んでいたため、大金が転がり込んだという。
この時期に、ツービートとして出演していた『スター爆笑座』(TBS)の司会であったせんだみつおと楽屋で雑談中に、たけしの代表的ギャグとして知られる「コマネチ!」のギャグが生まれた[17]。
1981年(昭和56年)1月、TBSで『二百三高地』の連続ドラマが製作され、ツービートは兵卒役として出演したが、たけしは乱戦の最中「コマネチ!」で自己主張をはかり、監督以下の顰蹙を買った。なお後年、ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した際には、『コマネチ!』という記念本に寄せてコマネチ本人から祝福の手紙が贈られた。
1980年(昭和55年)10月、漫才師による昼の帯番組『笑ってる場合ですよ!』(フジテレビ)で、ツービートは火曜日のレギュラーとなった。1982年(昭和57年)10月、ブームの終焉と共に番組も終了したが、最終回でたけしは客に対し「何でもゲラゲラ笑いやがって! 本当はお前らみたいな客、大っ嫌いだったんだよ!」と語った(なお、フジテレビからオファーのあった後番組の司会をたけしは断り、代わりに『森田一義アワー 笑っていいとも!』が開始された)。
1982年(昭和57年)の夏にはブームは完全に収まったが、“タレント・ビートたけし”として漫才以外でも世間に知られるようになる。以降、単独で司会をする番組を多く持つようになった。
漫才ブーム以後 [編集]
漫才ブームを生き残ったたけしは、自身のスタイルを大きく転換させる。毒舌家というパブリックイメージはそのままに、ネタに依存する消耗度の高い喋りを捨て、パーソナリティを軸とした芸風に移行していく。
また、1981年(昭和56年)元旦からニッポン放送・NRN系のラジオ番組『ビートたけしのオールナイトニッポン』、同年5月からフジテレビ系の『オレたちひょうきん族』がそれぞれ開始された。
1982年(昭和57年)から1984年(昭和59年)にかけて、番組出演中に弟子志願者(正式な門下は取らない主義の為“ボーヤ”と呼ばれる)が押しかけ、相当の数が集まった事(たけし軍団)から、集団で行うバラエティを模索。日本テレビ『スーパージョッキー』、TBS『笑ってポン』等が始まった。また、博識が評価されて、毎日放送『世界まるごとHOWマッチ』等で文化人的な出演要請も増えた。
スーパージョッキー(日本テレビ)
天才・たけしの元気が出るテレビ!!(日本テレビ)
ビートたけしのスポーツ大将(テレビ朝日)
痛快なりゆき番組 風雲!たけし城(TBS)
OH!たけし(日本テレビ)
世界まるごとHOWマッチ(毎日放送)
オレたちひょうきん族(フジテレビ)
オールナイトニッポン(ニッポン放送)
上記は、1985年(昭和60年)当時のレギュラー番組すべてであるが、このうち日本テレビ、テレビ朝日、TBS、フジテレビの20時台番組ですべて最高視聴率をマークした。なお、『たけし城』『元気』『スポーツ大将』は、全て実質ビートたけし本人の企画・構成によるものである。
その他、放送以外に歌手としてのレコードリリースとライブ活動、文学小説の出版、ファミリーコンピュータのゲーム企画も行った。この頃より、タモリ・明石家さんまと共に、「日本のお笑いタレントBIG3」と称されることとなった。
現在では漫才を披露する事はほとんどないが、まれに相方ビートきよしと共演し、漫才を披露することがある[18]。
映画監督「北野武」 [編集]

監督としての経歴 [編集]
『その男、凶暴につき』(1989年)は、監督:深作欣二 主演:ビートたけしで映画化を予定し、配給の松竹は両者の間で交渉を進めたが、スケジュールや条件で合致せず、深作が監督を辞退した。そこで松竹は人物的魅力と話題性から、たけし(以下、映画の項目では映画監督での活動名(本名)での「北野」で表記)に監督を依頼したところ、テレビの仕事と両立させることを前提として承諾。1週間おきの撮影という珍しい形態が採用された。映画監督・北野武としてのデビュー作『その男、凶暴につき』は、1989年(平成元年)に予定通り公開された。
1997年(平成9年)、映画『HANA-BI』が、第54回ヴェネツィア国際映画祭で日本作品として40年ぶりとなる金獅子賞を受賞した。発表直後、北野は「異分野出身者でも大きな賞を取れると示すことができ、これから映画を目指す者に刺激になったと思う」と語った。授賞式では「また日伊同盟を組んで他国を攻めよう(With Italy let's go to America to war)」と英語でスピーチ。帰国時の記者会見で、現地の土産物屋で購入した金獅子像のミニチュア(約280円)を披露して、笑いをとった。
第52回カンヌ国際映画祭(1999年)コンペティション部門に正式参加した映画『菊次郎の夏』で、約5分間のスタンディングオベーションを受けた。
2005年(平成17年)4月、フランスの『カイエ・デュ・シネマ』創刊600号記念号の特別編集長を務める。カイエ・デュ・シネマは300号から100号毎に映画人を編集長に招いて記念号を発行しており、過去に記念号の編集長を務めた映画監督は、ジャン=リュック・ゴダール[19] (300号)、ヴィム・ヴェンダース(400号)、マーチン・スコセッシ(500号)などがいる。
2005年(平成17年)4月、東京芸術大学で新設された大学院映像研究科の教授および映画専攻長に就任した(監督領域の教授は北野含めて2名のみ)。北野大も淑徳大学教授であったので兄弟で教授となった。
2007年(平成19年)5月、カンヌ国際映画祭60周年特別記念企画「To Each His Own Cinema」(それぞれのシネマ)に世界5大陸25ヶ国から選出された35名の著名な映画監督の中で唯一の日本人として名を連ねた。
2007年(平成19年)8月、第64回ヴェネツィア国際映画祭にて、北野の映画監督作『監督・ばんざい!』に基づき「GLORY TO THE FILMMAKER」賞が新設され、表彰式に出席した。
2008年(平成20年)6月19日、第30回モスクワ国際映画祭で「特別功労賞」 (Life-time Achievement Award) を受賞。2003年(平成15年)の新藤兼人に次ぐ2人目の日本人受賞者となった。20日の会見では「ロシアの人は自分(北野)を過大評価している」「数々の芸術家が出ているロシアで表彰されるのは恥ずかしい」と語った。
2011年秋公開予定だった『アウトレイジ2』について「宮城県」でクランクインの準備していたら「東日本大震災」に遭遇しロケが取り止めとなり「6000万円以上損害が出た」と語っている[20]。なおアウトレイジ2は『アウトレイジ ビヨンド』のタイトルとなり2012年10月6日に公開が延期された。
お笑いタレントと映画監督 [編集]
フランスと日本の文化観の違いとして「芸人という立場が映画監督としては悪影響を及ぼす、なんて気はなくて、フランス人の見方は、もっと才能があるんだっていう。この人はまだいろんなことがやれるんだって感じがあって。だからギャング映画撮っても問題ないし、バカバカしいことをやってもそれはそれとして見てくれる。映画は映画、バラエティはバラエティって分けてくれるんで、ありがたい。気が楽になった」とコメントしている。
「日本は漫才師が映画撮った、みたいな雰囲気があって、松本人志が映画撮ると、“かつて映画を撮ったお笑い人”の中に必ず俺が入っている」と、異業種の人間に対する偏見が強い日本の見方には苦言を呈している[21]。また、海外メディアが(監督・北野武としての)彼にインタビュー取材を行った際に、彼が映画製作に使う専用のオフィスへ海外メディアクルーを招き、オフィス内部の紹介やインタビューに応じる姿があった。なお、日本のメディアに対してはオフィスは基本的に非公開であったが、この海外メディアによるドキュメンタリーを扱った日本のテレビ番組で放送された際に、初めて明かされている。
人間は「振り子」である、すなわち「思い切り悪いことのできる奴は思い切りいいこともできる、思い切りバカなことのできる奴は思い切り真面目なこともできる」として、映画監督として評価を得た後もバラエティ番組に出演することにはそうした理由もある、と『新潮45』の連載内などで述べている[22]。また監督業のみならず、芸人が司会業や他の仕事を幅広く受けられるようになったマルチタレント化の先人には、度々萩本欽一の名前を挙げている。
芸事は日々進化していくものであり、お笑い芸人としては「ひょうきん族」時点で半分降りたつもりの自らの昔の漫才よりも現在旬であるタレントの漫才の方が面白いと述べている[23]。「爆笑レッドカーペット」や「あらびき団」、「M-1グランプリ」など若手芸人が多数出演する番組も観ているという。特にM-1グランプリに関しては、「漫才が進化している」「観てるこっちが緊張してくる」と絶賛している。
キタノブルー [編集]
「キタノ映画」のビジュアル面での特徴として、画面全体のトーン、小道具の色などに青が頻繁に使われるというものがあり、気品があるとして「キタノブルー」と呼ばれる[24]。特に『ソナチネ』など中盤までの作品において顕著で、ヨーロッパで高い評価を得た。突然の雨により画面が青一色になったのがきっかけとされる。極力余計な色を使用しないようにしていたことから、以降青を意識するようになったという。ただし『Dolls』以降はキタノブルーの傾向は薄れている。
ファンを公言している著名人 [編集]
蓮實重彦、淀川長治、町山智浩、山根貞男、黒澤明、ジョン・ウー、クエンティン・タランティーノ、リュック・ベッソン、ジュード・ロウ[25]、サミュエル・L・ジャクソン[26]、松本人志、太田光、浜崎あゆみ、ウッチャンナンチャン、さまぁ〜ず、香取慎吾、蜷川幸雄、トータス松本、糸井重里など、他多数。
北野が影響を受けた映画監督 [編集]
黒澤明、深作欣二、大島渚、小津安二郎、フェデリコ・フェリーニ、ジャン=リュック・ゴダール、デヴィッド・リンチ、スタンリー・キューブリック、マーティン・スコセッシなど。
監督作品 [編集]
受賞歴は各映画作品のページを参照のこと。 太字は出演も兼ねている作品
その男、凶暴につき(1989年)
3-4×10月(さんたいよんえっくすじゅうがつ)(1990年)
あの夏、いちばん静かな海。(1991年)
ソナチネ(1993年)
みんな〜やってるか!(1995年)
キッズ・リターン(1996年)
HANA-BI(1998年)
菊次郎の夏(1999年)
BROTHER(2001年)
Dolls(2002年)
座頭市(2003年)
TAKESHIS'(2005年)
監督・ばんざい!(2007年)
それぞれのシネマより「素晴らしき休日」(2007年)
アキレスと亀(2008年)
アウトレイジ(2010年)
アウトレイジ ビヨンド(2012年秋公開予定)
事件・事故 [編集]

フライデー襲撃事件 [編集]
詳細は「フライデー襲撃事件」を参照
1986年(昭和61年)12月9日に、たけし軍団と共にタクシー3台にそれぞれ4人ずつ分乗して講談社に行き、フライデー襲撃事件を起こし逮捕。翌年6月10日に懲役6か月、執行猶予2年の判決が下された(東京地裁、確定)。当時のレギュラー番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』『スーパージョッキー』への出演については、執行猶予判決が確定するまでの約8か月間謹慎することとなった。なお、当時たけしと交際していたといわれた女子大生に暴行で告訴された記者は、罰金10万円の判決を受けた。
1987年(昭和62年)、映画監督・深作欣二は、謹慎中の身にあったたけしと京都において初対面。その印象を「非常に鋭い顔をしている。笑っていても目は笑わんし、顔立ちが独特だ。いろんな人間とシビアな闘争をしてきた男の顔だ」と語った。
バイク事故 [編集]
ビートたけしは1994年(平成6年)8月2日午前1時40分、原付バイクで東京都新宿区の安鎮坂付近を走行中に自損事故を起こして重傷を負った。事故後は東京医科大学病院に救急搬送されて一命を取り留めたものの[27]、長期の入院などにより約半年間に渡ってテレビ出演が出来なくなった。また、事故は酒気帯び運転によるものであったために書類送検され、起訴猶予処分を受けた。
退院時、暫くは顔面の半分が麻痺した状態であった。リハビリにより回復したが、退院会見では「頭にボルトが入っていて飛行機の金属探知機に引っかかる」「顔面麻痺が治らなかったら芸名を顔面マヒナスターズにします」と、自らの怪我をネタにした。翌年3月4日の平成教育委員会でテレビ復帰し[28]、その後レギュラー番組にも復帰した。
テレビ朝日『やじうまワイド』で、大島渚は「僕は彼の心情を想うと、友人として何も言う気にはなれない」とコメントした。上記事故で生死の境を彷徨っていた時、たけしの夢の中に、事故の前年に亡くなった親友の逸見政孝が出てきたという。たけしは、「あれは、まだ俺は死んじゃいけない。って逸見さんが言いに来てくれたんじゃないかな」と、退院後のインタビューで答えた。
価値観 [編集]

映画 [編集]
「究極の映画とは、10枚の写真だけで構成される映画であり、回ってるフィルムをピタッと止めたときに、2時間の映画の中の何十万というコマの中の任意の1コマが美しいのが理想だと思う。例えば女性のヌードを撮影するってのも、ただ裸の女が出てるだけではなく、ストーリーの中で女が脱いでいくというものであり、グラビアは映画の原型みたいなものだと思う」と語っている[29]。また「たった1枚の絵画だけで20分も30分もその場に人を釘付けにできるのだとしたら、映画も少ないカットでそういう事ができるのを感覚的に目標にしている」と語っている。[30]
また自らが俳優として数々の作品に出演する際の姿勢として撮影方針に口出ししないようにしているため、監督を務める際にも撮影方針に意見をする俳優は嫌いだと発言している[31]。また有名俳優でも撮影後気に入らないと出演シーンを編集でカットすることもある一方で、大杉漣や寺島進など北野作品に多く出演したことで名前が知られた俳優もいる。
数学 [編集]
「幼少時代」にもあるように教育熱心だった母親は、日本が高度経済成長期であったことを踏まえ「算数を勉強しておけば将来働き口に困らないだろう」という考えから、たけしが子供の頃から算数などの理数系に力を入れて勉強するきっかけとなった[32]。 理系学部出身であったことからも分かるように、数学に対する造詣は深く、「もし道を間違えなかったら、数学の研究者になりたかった」とも語った。1980年代の民放番組の司会進行中に、「自分は漫才師になったので今がある、物理学の道に進んでいたら、もう既にノーベル賞を取っている」と真剣な面持ちで話し、編集されなかったこともあった。数学好きが高じ『たけしのコマネチ大学数学科』をスタートさせ、その才能を発揮させている。
『ここがヘンだよ日本人』では、「数学というものは哲学であって、全ての事象は数学に支配されており数学で説明できる」と発言している。『たけし・逸見の平成教育委員会』では「数学は答えさえ合っていれば良い」という独自の考えで、正解ながらも解の論拠が間違っている生徒を優秀生徒に選出した事がある。
社会風刺 [編集]
ツービート時代からの漫才はもとより、『週刊ポスト』連載の「毒針巷談」(その後「世紀末毒談」を経て「21世紀毒談」)や『新潮45』連載、さらには『ビートたけしのTVタックル』などのテレビ番組で世相を風刺する発言も多く行っており、それが話題となることもある。例えば、1990年代に「『北野党』を立ち上げる」と冗談で発言したことが大きく取り上げられたこともあった。
別の一例としては、1992年(平成4年)に『新潮45』の連載にて「『地球にやさしく』なんかできない」のタイトルで、「地球に優しくしたいなら人間殺さないといけない」と、当時の政財界やマスコミによる「エコロジーブーム」の欺瞞性および浅薄さを皮肉った[33]。この「『地球にやさしく』- 」は、同年6月18日付けの朝日新聞に「ビートたけしと地球環境」と題した、環境問題への無関心を戒める社説が掲載されるなど反響を呼んだ。なお、この文章は1996年(平成8年)の山形大学教育学部の入学試験の小論文試験の出題にも使用された。
ただし、たけし本人はこういった発言があまり大きく取り上げられることに対し、「芸人の言っていることを一々真面目に取り上げるな」などの反応を示すことが多い。また、後述の佐高信には「床屋政談」と評されたこともあった。
スポーツ [編集]
野球をこよなく好む。幼少の頃からプロ野球・読売ジャイアンツのファンで、特に長嶋茂雄を敬愛している。草野球チーム(「たけし軍団」)では、投手を務めることもある。野球をする時のたけしは真剣であり、川崎球場での番組収録中、グラウンドに男性アイドルが登場したため女性ファンの歓声により、試合どころではなくなってしまった。その際に誰よりも早く「ここはグラウンドで野球をやってるんだぞ! コンサートじゃねえんだ!」とスタッフを一喝した。
神宮外苑の軟式球場が一種のホームグラウンドで、最盛期は年間70試合近くも行い、1991年(平成3年)の阪神タイガース・ファン感謝デーならびに1992年(平成4年)の千葉ロッテマリーンズ・ファン感謝デーで、軟式ルールながら阪神・ロッテに勝利した。作家・伊集院静が連載していたエッセイ『二日酔い主義』の中には、たけしと一緒にプレーをした記憶に触れる回が幾つかあり、『たけしのグローブ』(伊集院静『あの子のカーネーション』文藝春秋、1989年)では、たけしの使い込まれたグローブに強かな野球少年の面影を重ねて描かれていた。
格闘技では、自身もジムに通った経験を持つボクシングを好み、映画『キッズ・リターン』を作った。映画の中で人を殴るシーンや『座頭市』における逆手斬りのフォームには影響が垣間見える。浅草時代を知る石倉三郎は、「タケちゃんのケンカはボクシングスタイルで結構パンチも早かった」と述べている。なお、たけし自身は1963年(昭和38年)の高山一夫 vs 勝又行雄戦、1971年(昭和46年)の金沢和良 vs ルーベン・オリバレス戦をベストマッチに挙げている。その一方で、1987年(昭和62年)のたけしプロレス軍団にまつわる騒動において苦い経験もした。また、空手で骨折し、拳の一部が変形している。
他にもサッカーに詳しく、Jリーグ開始以前の国内・海外選手に特に詳しい。また、相撲にも造詣が深く、自身がメインキャスターを務める『情報7days ニュースキャスター』の番組内で、その博識ぶりを発揮している。
一方で、鉄棒の逆上がりや跳び箱といった器械体操の類は不得意であり、後にたけしの出演番組内でもネタにされ、『たけしの跳び箱オリンピック』と題した苦手克服企画が、1988年(昭和63年)の年末に放送された。
タップダンス・ピアノ [編集]
漫才ブームが過ぎ、次代に生き残るための材料を思索していた時期、たけしはテレビの更なるバラエティショー化が進むと予想し、「タップとピアノ位はやれないとみっともねえだろ」と考え[34]、たけし軍団でもタップ・楽器・太神楽(ジャグリング)が必修科目となった。その中で、太神楽は海老一染之助・染太郎を師匠として学んだが、染之助の技は花柳流名取であったことに由来すると知り、日本舞踊も習うようになった。
タップダンスに対する思い入れは深く、毎日練習を欠かさず行なう。映画『座頭市』の撮影では踊るシーンが無いのにも関わらず練習をしていた。海外に渡航する際ですらタップシューズを持参するという。
ピアノを弾くのはバイエル、ツェルニー、そしてソナチネ(教本のレベルとしては、いずれも一般的な小学生程度のものであり、決して高くはない)までで、それ以上の域に到達する必要はないと言う。これは、さらに上を目指すのは本末転倒で、タップもピアノも「真剣にやろうと思えばやれる」ところまで到達し、それ以降はいかにアレンジして見せるかを考えるのが芸人の仕事だとする、彼の考えに由来する。
たけしの挑戦状 [編集]
1986年12月に発売され、たけしが監修したファミコン用ソフト『たけしの挑戦状』(タイトー)は「今までにない独創的な発想を入れたい」という意図が反映され、言葉通りその斬新さと理不尽きわまりない内容で多くのユーザーに衝撃を与え、伝説のクソゲーとして名を残すこととなった。たけし自ら、「今までのゲームと同じレベルで考えるとクリアー出来ない」とコメントしている。2009年にもwiiのバーチャルコンソールで配信されており、たけしの全盛期を知らない世代でも楽しむことができる。
元々このゲームの開発にはたけしは乗り気では無く、メーカースタッフとの打ち合わせの際に普通ゲームでは考えられないような内容のアイディアを次々と語り出し、「ここまで無茶苦茶な内容ならばゲームは作らないだろう」と思っていたのだが、実際は予想を裏切ってたけしのアイディアをほぼ取り入れるような形でゲームが製作されてしまった。
世界観は極めて退廃的であり、主人公は薄汚れた町並みの中に住む世帯持ちのしがないサラリーマンである。台詞は、罵言暴言など汚い言葉遣いが多い。店の看板は極道的な内容で、路上にはヤクザが蔓延り、否応なしに主人公に殴りかかってくる(また、これを逆に攻撃して倒すこともできる。これに限らず、敵味方なくすべての登場人物を殴ることもできる)。
「離婚届を出す」「退職届を出す」「恩人を倒す」「カルチャークラブで技能を修得する」他にも「パチンコの最中にIIコントローラーのマイクで叫ぶ」「宝の地図を出す際に『5分経過後から10分経過する前にIIコントローラのマイクに向かって叫ぶ』か『1時間待つ』」など、通常では思い付き難い操作が要求される上に、ハンググライダーを使う場面では、上に自由に移動できないなどの独特の操作性のため、難易度の高いシューティングゲームとなる。
多くの書籍などでクソゲーの代表格とされることが多い一方で、過去の名作ランキングでは必ず上位にランクされるほど非常に印象深い作品となり、現在では、「北野映画に通じるところがある」「早すぎたグランド・セフト・オート」など、ゲーム内容を再評価する声もある。[35]
たけしはその後同じくタイトーより『たけしの戦国風雲児』もプロデュースしている。
暴力団に対して [編集]
2011年8月に島田紳助が暴力団との親密な交際を理由に芸能界を引退したことに関連し、たけしは『週刊文春』にて暴力団との関わりについて語っている[36]。インタビューによると、フライデー襲撃事件からの復帰直後に時期尚早であると右翼団体から街宣を掛けられたものの当時の事務所である太田プロダクションには対処してもらえず自ら幹部の元に出向き謝罪し事を収めたこと、2002年当時の稲川会総裁からの度重なる面会要請があり、『新潮45』2002年5月号で対談することになったことや、たけしと親交のある関西の芸人に無理矢理組長に会わされたことなどを明かし、芸能界が暴力団とのつながりを断つことの難しさについて語っている。その上でたけしは暴力団に仲介の依頼や金銭の供与を行ったことはなく、「タレントとしてそういうのを上手くやって逃げるのも本人の“芸”だって言ってるんだけど、紳助は“芸”がなかった」と紳助との違いを強調しており、2011年10月からの東京都での暴力団排除条例施行もむしろ歓迎すると述べている。一方で同記事では暴力団幹部の葬儀の際に供花した例などがあることを指摘している。
こうした暴力団との関わりに対してはたけしの事務所は記事が関係の全てであり、正当化はしていないがそうせざるを得なかった、供花についてはあくまで仕事でお世話になったからだとしている[37]。
また自らの映画作品に暴力団が登場することについては「暴力団を賛美した表現をしたことはなく、拳銃を使った人間は幸せになれないようなシナリオにしている」と述べている。
家族・縁戚 [編集]

父の叔母で実質の祖母である北野うし(1877年生)は、明治時代に娘義太夫の花形であった。
兄弟は2人の兄と1人の姉がおり、長兄は技術者で宇野製作所の取締役である北野重一、次兄はタレントで明治大学教授、淑徳大学客員教授、工学博士の北野大である。なお、たけしが生まれる前に夭折した兄(重一と大の間の兄)は、勝という名前である。
妻は、元漫才師の北野幹子(旧姓・松田)。また、レーシングドライバーの松田秀士は、義弟(幹子の実弟)である。
子供は妻との間に2人、長男、長女の井子。愛犬はシェパード犬の「ミケ(メス)」。
1990年(平成2年)には愛人との間に二女が誕生(翌年、認知しており養育費の支払いもしている)。その母親が1986年のフライデー襲撃事件の原因となった女性である。
また孫も1人(井子の娘)授かっているが、井子の離婚後に養子縁組を行ったため戸籍上はたけしの子(三女)となっている。
前述のように、たけしが芸人を志した時、北野家の誰もが反対したが、重一の妻(たけしにとっては義姉)だけは「武さんは必ず出世する」と断言したという。
人物 [編集]

自称は「俺」「僕」「オイラ」。それぞれ場の雰囲気に合わせ使い分けている。「オイラ」は下町・職人言葉の位置づけで、自身が育った島根町が職人街だったことと関連するとしている。かつて足立区の広報誌から受けたインタビューでは、「足立は東京の下町だね。その足立の下町が島根だというの。島根は下町の中の下町。足立の中の足立だって思うんだよね」とコメントした。
たけしのものまねをする際の動作として定番化している頻繁に首をひねる動作(しかし、たけし本人は1990年代以降はあまり見せなくなっている)は癖ではなく、ツービート時代に「トランポリンで飛び跳ねながら漫才をやってくれ」と頼まれ、稽古中に頭から落下してしまい頚椎を負傷、以後しばらくの年月に渡り首に違和感があったためと『週刊ポスト』の連載コラムで述べている。
たけしが司会のバラエティ番組などにおいて、他の出演者(主に女優や子供タレント、たけしより先輩のタレント等)がくだらないことを言ったり、話が噛み合わなかったりなどちょっとしたミスをするとたけしの近くにいるタレント(例:「世界まる見え!テレビ特捜部」の所ジョージ)やたけし軍団などの後輩芸人をたけしがピコピコハンマーやハリセン、メガホンで叩いて笑いに変えることがある(例:たけし「あいつを何とかしろ!ピコッ!)。これは、たけしが過去に出演した映画「戦場のメリークリスマス」において監督の大島渚が、たけしがNGを出した場合、本業が俳優でないたけしへの配慮として助監督が代わりに叱られるというものから来ている(詳しくは戦場のメリークリスマスの『エピソード』欄を参照)。このたけしのやり方によって、普段はなかなかツッコめない女優や先輩タレント相手または、ロケなどでちょっと離れた場所にいるタレントにも(間接的ではあるが)結果的にツッコむことができるので、このツッコミをマネする芸人もいる。
また番組冒頭で「というわけで…。」というセリフと共に司会を始めるたけしのスタイルは、元々は他の出演者に「どういうわけだよ!」とツッコミを貰うためのボケにすぎなかったが、現在ではバラエティ番組などで当たり前のように常用されている。
1999年(平成11年)8月に母が死去した際には通夜の後に記者会見で、「オレを産んで良かったと思って欲しい…」と絶句し、泣き崩れる場面を見せた。
ディスカバリーチャンネルやヒストリーチャンネルなど、広くドキュメンタリー番組が好きでよく見ている。これに関連するエピソードとして、2003年(平成15年)、偶然に見ていた浅草喜劇について扱ったヒストリーチャンネル制作のドキュメンタリー「20世紀のファイルから-証言・あの時、あの人-(第40話)お笑い人生ここにあり」で、たけしが若い頃によく通っていた浅草の居酒屋が番組に登場し、この店では多数の芸人がサインを壁に直接書いているが、たけしのサインが無かったため、店の主人が他の芸人が壁をサインで埋め尽くしてしまわないように店の壁の真ん中の箇所に額を掛けて、長い間、たけしのサインのためのスペースを空けて待っているということを番組を見て初めて知り、この番組の初回放送の終了直後に、弟子を連れてこの居酒屋を訪ねて店の壁にサインをしている。後日、このエピソードを知った番組制作スタッフが浅草に出向いて居酒屋を改めて取材し、同番組のアンコール放送の際に、後日談として本編終了後に付け加える形で放送された。
トーク番組の最終回に、スペシャルゲストとして招かれることも多い(2001年9月29日放送の『すてきな出逢い いい朝8時』、2009年7月29日放送の『クメピポ! 絶対あいたい1001人』など)。
ニッポン放送『オールナイトニッポン』にて、日本テレビから同局が「チャリティー番組」として放送し、募金活動も行っている『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』への出演オファーを受けたが、拒否したことを明かしている。さらに、「ヨダレ垂らした芸能人どもがめちゃくちゃ高いギャラ稼ぐくせに、これ以上貧乏人から金巻きあげんな。チャリティーっていうくらいならお前ら全員ノーギャラで出ろよ!」と発言し、偽善番組とも述べている。
2009年(平成21年)10月3日放送分のTBS系『オールスター感謝祭』で総合司会の島田紳助が「番組開始前に自身の楽屋に挨拶に来なかった」として解答者の東京03に激怒したとされる件に関し、同年10月27日付けの東京スポーツに「紳助が『あいさつがない』とかって若手の東京03ってのを怒ったものだから、出番前にタレントがいちいちオレんとこにあいさつに来て、うるさくってしょうがないよ」とのコメントを発した。
IMALUがアシスタントしていた時のTBS系『A-Studio』の2010年(平成22年)6月11日放送分にゲスト出演した際、「TBSで、自分(たけし)、鶴瓶、さんまで『32時間テレビ』をやろう」と鶴瓶に持ちかけた。
友人関係 [編集]
「世界まる見え!テレビ特捜部」や「奇跡体験!アンビリバボー」で共演している所ジョージと非常に仲が良く、毎週日曜日に(多い時は週4、5回)所の遊び場兼事務所である「世田谷ベース」へ遊びに行く。料理が得意な夫人の手料理を肴に、趣味の話などを酒とともに酌み交わすことが楽しみの一つとなっている。 元々、たけし自身も車好きではあったが、近年では所の見立てでフェラーリ・599やランボルギーニ・ガヤルドといったスーパーカーを購入したり、ポルシェ・911を、かつて所持していたポルシェ・959に見立てて改造したポルシェ979K、軽自動車のスバル・R1やR2をベースにフェラーリ風モディファイを加えたフェラーリADACHIKUとフェラーリMINAMIURAWAをプロデュースするなどしている。また、たけしが番組などで使った衣装や小道具を世田谷ベースに持ち込み、所と一緒にお遊びでとった写真をベースにして、雑誌『FAMOSO』が発刊された、その模様を年2回位「たけし・所の二人テレビ」で放映している。 2011年(平成23年)からは「所さんの世田谷ベース」と似たコンセプトの姉妹番組「たけしの等々力ベース」がスタート。
平成教育委員会などで共演した逸見政孝とも親交が深かった。お笑いBIG3シリーズにおける活躍はもちろん、数学を得意としたたけしと国語・社会は得意であったが数学を苦手としていた逸見、巨人ファンのたけしと阪神ファンの逸見といったように対照的であるが故に、お互いに無いものを補い合えると認めあう仲だった。逸見からガンの再発で再入院する事実を告げられたたけしは、その日から告別式の日まで酒を断ったという。「いい人ばかり先に死んじゃうんだ。俺がもっと悪いことを教えてあげればよかった」と涙ながらに語り、告別式の間は終始、参列者席で号泣し続けていたことは語り草になっている。
逸見の長男・太郎は、1998年の映画HANA-BIで俳優デビューをしている。父の死後、留学を取りやめてデビューすることを強く望み、周囲に力添えを貰えるよう相談していた。だが、たけしは反対を示し、逸見の希望通り留学を全うし卒業することを勧めた。太郎はその意見に従いエマーソン大学を卒業してから帰国。改めて芸能界に臨んだ。 また、芸名を“TARO”にしようと考え、たけしに告げた際に「犬じゃねぇんだから」と一蹴。現在まで本名の逸見太郎で活動している。その後もたけしやたけし軍団との交流が続いている。
B&Bの島田洋七とは、漫才ブームで出会って以来の親友。洋七が芸能界を引退しようとした話を聞いたたけしは、「芸人をやめるなら友達づきあいをやめるぞ!」と洋七に一喝した。洋七は一度は解雇された吉本に頭を下げて復帰を許され、生涯一漫才師を誓い、洋八と再びB&Bを復活させ、こつこつと仕事をこなすようになり、その後、「佐賀のがばいばあちゃん」シリーズなどで、再び人気が出るようになった。一方で洋七の友人でもある島田紳助との交友は少なく、「漫才ブームの時ぐらいしか知らない」と述べている[38]。
横山やすしを大変尊敬し、葬儀の時には駆けつけた時には、「雲の上にいるような人だった。やすしさんには芸も色気も敵わない。もう少し漫才を続けてほしかった」とコメントし、やすしの全盛期を懐かしむなど、親交があった。この縁から、やすしの最後の弟子である横山ひとしが、一時期オフィス北野に所属したことがあった。
漫才師の中田カウス・ボタンの中田カウス、歌手のやしきたかじん、和田アキ子などとも親交がある。ただし前出の『週刊文春』のインタビューにてたけしはある芸能人に仕組まれ山口組5代目組長に会わされたことがあることを明かしている。たけし自身は名前を伏せたものの、文春は中田カウスであるとしている[36]。詳しくは当該項目を参照のこと。
評価 [編集]

1981年(昭和56年)、文芸評論家の鶴見俊輔は『広告批評』誌上における座談の中で、「ツービートはがきデカの位置に似ている」と評し、文芸評論家・高澤秀次はこの評を絶賛した。
1983年(昭和58年)、吉本隆明は栗本慎一郎との対談集の中で、たけしの話芸を「自分を異化することによって自然の流れとしてしまう芸風」と評した[39]。この本は、著名な知識人がお笑い芸人を真正面から評論したという点で各方面の反響を呼んだが、一方で的外れだという批判も大きかった[要出典](後にたけしは、栗本と対談。後日、作家の小林信彦に「ああいうインテリはお笑いがわかってないのが、よくわかりましたよ」と洩らしたという[要出典])。のちに吉本が「海燕」誌上で埴谷雄高と論争(1985年)になった際、たけしは『もっと阿呆になれ、吉本!』という文章を発表し「吉本さんは言い回しが難解」と指摘した。
加藤茶は、インタビューで「…たけし君が映画監督で評価されている。でも、(お笑いに)帰ってくると、必ずバカなことするじゃないですか。(バカをやる、という素晴らしさの)原点を知っているんです。だから大好き」と、評価している[40]。
色川武大は「才能は切れるが、それだけにいいところを一人占めしようとしすぎる」とし、榎本健一・藤山寛美・萩本欽一と並べて「自分の手足を切ってゆく」タイプの芸人に分類した(対極として、古川ロッパ・森繁久彌・タモリの名を挙げた)[41]。
一方で否定的な論評の一例としては1981年(昭和56年)、ルポライター・鎌田慧が「ツービートの残酷ギャグはファシズムの兆し」と批判した[42]。また、ルポライター・吉岡忍は、ツービート(ビートたけし)をジョン・レノン射殺事件の犯人マーク・チャップマンに重ねて論じるほど忌諱していた(が、後に吉岡はその認識を変え、北野映画のルポルタージュを執筆するほど関心を寄せるようになった)。
それ以外にも、辛淑玉や佐高信、諸井薫が、たけしの軍団に対する態度を「権威主義的で弱い者いじめをしている」と、それぞれコラムなどで述べている。これら批判的な論評について、たけしは「冗談と本気の区別が付かない奴らがいる」と評している。
田中康夫は、たけしを自らと同じく「価値紊乱者」(既存の権威への挑戦者)として評価しつつも、1980年代中盤には『感覚の倫理学』および『ファディッシュ考現学』にて立川流への入門や軍団創設を「肩書きや権威など精神的ブランドに頼るようになり(当時、たけしがなりたいと語っていた)日本のレニー・ブルースになりそこねた」と評した。一方で、たけしの過激な言動に隠された内面の繊細さもまた指摘し、フライデー襲撃事件の際にはフライデーの取材姿勢を批判、たけしを擁護する立場を取った[43]。その後、田中はたけしとテレビ番組で度々共演するなど交流も持ったが、その後も「ドナルドダックのように嫌われることも厭わず本音で周囲に毒を吐く存在であったはずが、嫌われることを恐れ人気者であり続けようとミッキーマウスのように無難な優等生的発言しか行わなくなりつつある」といった意味の論評も『神なき国のガリバー』や『ニッポンご託宣』にて並行して行っている。また、バイク事故直後に、あえて顔面麻痺状態で会見に臨んだことに関しては評価したが、その後の本格復帰については「芸能界の一線からは退いた方が良かったのではないか、取り巻きや軍団を養うためだとすれば自活を促すべきだった」と評した。
『たけしの誰でもピカソ』で島田洋七がゲスト出演した際に、たけしは「漫才では洋七に勝てない、しゃべりではさんまに勝てない、司会では紳助に勝てない。でも芸能人としてのトータルでは良い所には行くと思う」と、漫才ブームを共にした芸人達と比較した上で、自己評価をしている。
フランス芸術文化勲章の「シュヴァリエ」を1999年(平成11年)に授与され、2010年(平成22年)に「コマンドゥール」を授与された際に、フランス文化省から「映画監督としての活動は言うまでもなく、1つの才能を持った人ではない。人々を笑わせること、感動させることができ、怖がらせることもできる。あらゆる面で支持者を持つ。類を見ない自由さをもってモノづくりを進める直感的才能に対し、賞を贈る」と評された。なお、この「コマンドゥール」受賞をレジオンドヌール勲章の「オフィシエ」を受賞した黒澤明を超えたとする報道もあったが、レジオンドヌール勲章はフランスでは最高位の勲章であり、芸術文化勲章との勲位の比較は意味がない。
映画出演作品 [編集]

この項目は、他監督の作品として出演した映画の一覧である。「戦場のメリークリスマス」で注目され、「JM」でハリウッド映画出演も果たした。自らが映画監督の立場としては俳優に撮影方針を意見されることを好まないため、俳優として他監督の作品に出演する際にも同様にしているという。
ゆけゆけ二度目の処女(1969年、エキストラ出演)[要出典]
まことちゃん(1980年、アニメ映画に声優で本人役カメオ出演)
すっかり…その気で!(1981年、初主演作品)
マノン(1981年)
夏の秘密(1982年、川上裕通監督)
戦場のメリークリスマス(1983年、大島渚監督)
十階のモスキート(1983年、崔洋一監督)
哀しい気分でジョーク(1985年、瀬川昌治監督)
夜叉(1985年、降旗康男監督、高倉健主演)
コミック雑誌なんかいらない!(1986年、滝田洋二郎監督、内田裕也主演)
ほしをつぐもの(1990年)
教祖誕生(1993年、天間敏広監督、たけし原作)
Johnny Mnemonic(1995年、ロバート・ロンゴ監督)
GONIN(1995年、石井隆監督)
Tokyo Eyes(1998年、ジャン・ピエール・リモザン監督)
御法度(1999年、大島渚監督)
バトル・ロワイアル(2000年、深作欣二監督)
バトル・ロワイアル 【特別篇】(2001年、深作欣二監督)
バトル・ロワイアルII 【鎮魂歌】(2003年、深作欣二・深作健太監督)
血と骨(2004年、崔洋一監督)
IZO(2004年、三池崇史監督)
ギララの逆襲/洞爺湖サミット危機一発(2008年、河崎実監督)
あなたへ(2012年8月25日公開予定、降旗康男監督)
受賞歴 [編集]

1990年 トリノ国際映画祭・特別賞
1990年 日本映画監督協会新人奨励賞
1993年 タオルミナ国際映画祭・カリッディ金賞
1993年 コニャック国際映画祭・批評家賞
1997年 ヴェネツィア国際映画祭・金獅子賞
1998年 ニューヨーク国際映画祭・国際映画賞
1998年 サンパウロ国際映画祭・批評家賞
1999年 芸術文化勲章・シュヴァリエ章[44]
2002年 ダマスカス国際映画祭・最優秀作品賞
2003年 ヴェネツィア国際映画祭・銀獅子賞
2003年 シッチェス・カタロニア国際映画祭・グランプリ
2003年 トロント国際映画祭・グランプリ
2004年 明治大学特別功労賞
2006年 ガリレオ2000賞・文化特別賞
2007年 ヴェネツィア国際映画祭・監督ばんざい!賞
2008年 モスクワ国際映画祭・特別功労賞
2008年 テッサロニキ国際映画祭・ゴールデン・アレクサンダー名誉賞
2009年 ソフィア国際映画祭・観客賞
2010年 芸術文化勲章・コマンドゥール章
現在の出演番組(2012年現在) [編集]

レギュラー番組 [編集]
世界まる見え!テレビ特捜部(日本テレビ系列 / 毎週月曜 19:56 - 20:54)
ビートたけしのTVタックル(テレビ朝日系列 / 毎週月曜 21:00 - 21:54)
たけしのコマネチ大学数学科(フジテレビ系列 / 毎週月曜 25:10 - 25:40)
たけしの健康エンターテインメント!みんなの家庭の医学(朝日放送制作・テレビ朝日系列 / 毎週火曜 20:00 - 20:54)
ビートたけしPresents 奇跡体験!アンビリバボー(フジテレビ系列 / 毎週木曜 19:57 - 20:54)
たけしの等々力ベース(BSフジ / 毎週木曜 23:00 - 23:55)
たけしのニッポンのミカタ!(テレビ東京系列 / 毎週金曜 22:00 - 22:54)
情報7days ニュースキャスター(TBS系列 / 毎週土曜 22:00 - 23:24)
単発・不定期番組 [編集]
平成教育委員会スペシャル(フジテレビ系列 / 1月・5月・8月・11月に放送)
たけしの日本教育白書 → たけしのニッポン人白書(フジテレビ系列 / 年1回放送)
名球会VSビートたけし&芸能界ドリームチーム(テレビ朝日系列 / 正月特番)
ビートたけしの禁断の大暴露!!超常現象(秘)Xファイル(テレビ朝日系列 / 年1回放送)
ビートたけしの教科書に載らない日本人の謎(日本テレビ系列 / 年1回放送)
緊急!ビートたけしの独裁国家で何が悪い!(日本テレビ系列 / 年1回放送)
ビートたけしの絶対見ちゃいけないTV(TBS系列 / 年2回位放送)
緊急!世界サミット“たけしJAPAN”(朝日放送制作・テレビ朝日系列 / 不定期特番)
ビートたけしの今まで見たことないテレビ(日本テレビ系列 / 不定期特番)
さんま&所の大河バラエティ!超近現代史!人間は相変わらずアホか!?(日本テレビ系列 / 不定期特番、特別ゲスト出演)
朝までたけし軍団 → 朝までたけし的ショー → たけスポ(テレビ朝日系列 / 原則年1回放送)
たけし・所の二人テレビ(テレビ朝日、日本テレビ、TBS系列 / 年2回春・秋位放送)
所さんの世田谷ベース(BSフジ / 不定期出演ゲスト)
古代文明ミステリー・ビートたけしの新・世界七不思議(テレビ東京系列 / 正月特番)
乱!衆議院・参院選(TBS系列 / 衆議院選挙もしくは参議院選挙実施時にスペシャルコメンテーターとして出演)
ビートたけし特別主催 おバカンヌNo.1映像祭(日本テレビ系列 / 不定期特番)
FNSの日『さんま・中居の今夜も眠れない』(フジテレビ系列 / 2008年 - 2009年、2011年度の中継特別ゲスト)
たけしが鶴瓶に今年中に話しておきたい5〜6個のこと(TBS系列 / 不定期特番)
THE MANZAI 2011(フジテレビ系列 / 年1回放送、大会最高顧問)
KAMIWAZA〜神芸〜(朝日放送制作・テレビ朝日系列 / 年1回放送、番組ゼネラルマネージャー)
ビートたけしの勝手にスポーツ国民栄誉SHOW2011 豪華アスリート総登場 5時間半生放送SP(TBS系列 / 2011年12月31日)
ビートたけしのガチバトル(TBS系列 / 年末年始特番)
たけしの人体科学SP 人はなぜ老いるのか(TBS系列 / 2012年1月5日)
北野演芸館〜たけしが本気で選んだ芸人大集結SP〜(毎日放送製作・TBS系列 / 不定期特番、2011年9月28日・2012年2月8日「水曜エンタ!」枠)
たけしの超新説研究所 最新科学が歴史を暴く(日本テレビ系列 / 2012年3月20日)
過去の出演番組(レギュラー番組のみ) [編集]

NHK総合 [編集]
北野武の宵越しスーパートーク(1998年元旦、井上ひさし・諏訪内晶子・市川猿之助との対談)[45]
第51回NHK紅白歌合戦(氷川きよしの応援)
第52回NHK紅白歌合戦(同上)
日本テレビ系列 [編集]
テレビに出たいやつみんな来い!!
わっ!!ツービートだ
OH!たけし
蝶々・たけしの21世紀まで待てない!!(読売テレビ制作)
スーパージョッキー
天才・たけしの元気が出るテレビ!!
ビートたけしの全日本お笑い研究所→番組の途中ですが…再びたけしです
ビートたけしのお笑いウルトラクイズ
新橋ミュージックホール(読売テレビ制作)
世界超偉人伝説
たけしとひとし(「金曜スーパープライム内」 / 不定期特番、2010年12月10日)
TBS系列 [編集]
たけしのお笑いサドンデス
たけしのホッカホッカタイム
笑ってポン!
世界まるごとHOWマッチ!!(毎日放送制作)
ギミア・ぶれいく
たけし・所のドラキュラが狙ってる(毎日放送制作)
痛快なりゆき番組 風雲!たけし城
たけしの頭の良くなるテレビ
ここがヘンだよ日本人
総天然色バラエティー 北野テレビ
フジテレビ系列 [編集]
オレたちひょうきん族
たけし・逸見の平成教育委員会
FNSの日
FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島(1987年、1990年)→FNSスーパースペシャル1億2000万人のテレビ夢列島'91→平成教育テレビ→FNSの日[46]
FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!
ビートたけしのつくり方
たけしのここだけの話(関西テレビ制作)
北野ファンクラブ
北野富士
足立区のたけし、世界の北野
たけしの斉藤寝具店
タモリ・たけし・さんまBIG3 世紀のゴルフマッチ
たけし・さんまの有名人の集まる店
たけしの日本教育白書
北野タレント名鑑
チャンネル北野eX(フジテレビ721)
チャンネル北野NEO(フジテレビ721)
熱血!平成教育学院
スター千一夜(1980年〜1981年)
テレビ朝日系列 [編集]
アイドルパンチ
'83サマースペシャル
ビートたけしのスポーツ大将
スポーツシャワー〜ヒーローに花束を〜(朝日放送制作)
有名人の皆様ゴメンなさい…ビートたけしの超国民的バラエティ噂のあの人この事件 そこまでバラすか! ウワサの真相 年内決着スペシャル
神出鬼没!タケシムケン
ビートたけしのD-1グランプリ
たけしの万物創世紀(朝日放送制作)
たけし・所のWA風が来た!(朝日放送制作)
ビートたけしの!こんなはずでは!!
たけしのポリスアカデミー(朝日放送制作)
最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学(朝日放送制作)
テレビ東京系列 [編集]
世界おもしろネットワーク
気分はパラダイス
たけしの誰でもピカソ
BS・CS放送 [編集]
ビートたけしの21世紀毒談(フジテレビONE / CS放送)
たけしアート☆ビート(NHKBSプレミアム / BS放送)
ラジオ [編集]

ビートたけしのオールナイトニッポン(ニッポン放送)
ビートたけしのラジオ黄金時代 街でいちばんの男 ビートニクラジオ(TOKYO FM)
ビートたけしの文学夜話(NRN)
CM出演 [編集]

多数のテレビCMに出演している。大橋巨泉と共演のCM「アサヒ生ビール」は撮影終了後、フライデー襲撃事件の影響で放映されなかった(なお、CMのスナップショットは大橋の自伝『ゲバゲバ70年!』の中で見る事が可能)。1984年(昭和59年)、「スーしませう」のキャッチコピーで発売された「白仁丹」や、ペプシの比較CMをパロディ化した『デミュートサンスター』では企画・演出に関わった。
2007年(平成19年)からロシアCIS地域でPanasonicブランドの薄型テレビのCMに出演。同CM広告担当者によると、「日本の有名人が単独で海外の国々でCMモデルになるのは初めてではないか」との事。
ポカリスエット
ECC
ACジャパン(2009年、公共広告機構時代は実兄の北野大が出演していた)
トヨタ自動車(2011年、豊臣秀吉役。以前はカローラのCMにも出演していた) 他多数
ドラマ出演 [編集]

【主演】は主演ドラマ。★印は連続ドラマ。
刑事ヨロシク(1982年、TBS)【主演】★
昭和四十六年 大久保清の犯罪(1983年、TBS) - 大久保清役【主演】
学問ノススメ(1984年、TBS)【主演】★
イエスの方舟(1985年、TBS)【主演】
雨の降る駅(1986年、TBS)【主演】
立体ドラマ5時間 1987年の大晦日「昭和大つごもり」(1987年、フジテレビ) - 脚本:倉本聰【主演】
御存知!鞍馬天狗(1989年、フジテレビ)
美空ひばり物語(1989年、TBS) - 田岡一雄役
高円寺純情商店街(1990年、テレビ朝日)★
浮浪雲(1990年、TBS)★ - 視聴率的には振るわず、自身でもしばらくの間「はずれ雲」とネタにしていた。
忠臣蔵(1990年、TBS) - 大石内蔵助役【主演】
実録犯罪史シリーズ 金(キム)の戦争 ライフル魔殺人事件(1991年、フジテレビ)- 金嬉老役【主演】
説得 エホバの証人と輸血拒否事件(1993年、TBS)【主演】
兄弟(1999年、テレビ朝日) - 原作:なかにし礼【主演】
百年の物語 第2夜「戦後編・愛は哀しみをこえて」(2000年、TBS) - 戸倉耕作役
三億円事件〜20世紀最後の謎〜(2000年、フジテレビ)【主演】
明智小五郎対怪人二十面相(2002年、TBS)【主演】
火曜サスペンス劇場・松本清張スペシャル 鬼畜(2002年、日本テレビ)【主演】
松本清張没後10年記念 張込み(2002年、テレビ朝日)【主演】
大河ドラマ 武蔵 MUSASHI(2003年、NHK) - 新免無二斎役
松本清張 点と線(2007年、テレビ朝日) - 鳥飼重太郎役【主演】
あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機 第2部ドラマ(2008年、TBS) - 東条英機役【主演】
こちら葛飾区亀有公園前派出所(2009年、TBS) - 第1回ゲスト
歸國(2010年、TBS)【主演】
検事・鬼島平八郎(2010年、ABC・テレビ朝日)★
著作物 [編集]

連載コラムや著書の文章のほとんどは、本人が多忙であるため、北野武が口述し、それをライターに文章として起こしてもらっている(『コマネチ!2』にて、本人のコメントによる)。
北野武名義 [編集]
余生(2001年2月25日、ロッキング・オン)
孤独(2002年7月26日、ロッキング・オン)
時効(2003年9月、ロッキング・オン)
異形(2004年12月、ロッキング・オン)
光(2005年11月、ロッキング・オン)
生きる(2007年5月、ロッキング・オン)
女たち(2008年9月、ロッキング・オン)
武がたけしを殺す理由 全映画インタヴュー集(2003年9月、ロッキング・オン)
イチロー北野武キャッチボール(2003年7月、ぴあ)
全思考(2007年3月、幻冬舎)
超思考(2011年2月、幻冬舎)
ビートたけし名義 [編集]
たけし! オレの毒ガス半生記(1981年11月20日、講談社)
ビートたけしのごっくん日本史(1982年10月25日、リヨン社)(ゴーストライター作と言われている[47])
ビートたけしの変態志願(1982年12月5日、KKベストセラーズ)
恐怖びっくり毒本(1983年8月5日、KKベストセラーズ)
ビートたけしの幸せ独り占め(1981年12月5日、オールナイト・ニッポン サンケイ出版)
ビートたけしの幸せになってしまいました(1982年10月20日、オールナイト・ニッポン サンケイ出版)
ビートたけしの三国一の幸せ者(1982年12月5日、オールナイト・ニッポン サンケイ出版)
ビートたけしの無条件幸福(1983年12月20日、オールナイト・ニッポン リビングマガジン)
ビートたけしのニッチもさっちも(1984年12月15日、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
ビートたけしの幸か不幸か(1985年12月16日、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
ビートたけしの不幸中の幸い(1986年12月16日、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
ビートたけしの全面幸福(1988年5月9日、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
ビートたけしのその男幸せにつき(1990年1月5日、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
ビートたけしの幸せ丸十年(1990年11月22日、オールナイト・ニッポン&高田文夫編 扶桑社)
ビートたけしのウソップ物語(1983年9月1日、話の特集)
ビートたけしのしまいにゃ笑うぞ(1983年4月10日、スコラ/講談社)高田文夫との共著
ビートたけしのみんなゴミだった(1983年11月27日、飛鳥新社)
午前3時25分(1983年12月10日、太田出版)
ギャグ狂殺人事件(1984年2月25日、作品社)(ゴーストライター作と言われている[48])高田文夫との共著
たけしくん、ハイ!(1984年5月1日、太田出版)
たけし吼える!(1984年9月23日、飛鳥新社)
あのひと(1985年8月20日、飛鳥新社)
午前3時25分増補改訂版(1986年6月13日、太田出版)
新・坊ちゃん(1986年6月19日、太田出版)
KID RETURN(1986年12月8日、太田出版)
少年(1987年11月12日、太田出版)
浅草キッド(1988年1月24日、太田出版)
教祖誕生 第一部(1990年12月10日、太田出版)
仁義なき映画論(1991年11月25日、太田出版)
場外乱闘(1992年9月12日 太田出版)
こんな時代に誰がした! 場外乱闘2(1993年10月17日、太田出版)
漫才病棟(1993年5月30日、文藝春秋)
落選確実選挙演説(1994年6月15日、新潮社)
顔面麻痺(1994年12月9日、太田出版)
女につける薬(1993年2月10日、祥伝社)
女は死ななきゃ治らない(1994年、祥伝社)
それでも女が好き(1995年8月5日、祥伝社)
愛でもくらえ(1999年2月10日、祥伝社)
毒針巷談 (北野武名義)(1984年8月10日、太田出版)
続毒針巷談(1985年9月30日、太田出版)
続々毒針巷談(1986年10月1日、太田出版)
新毒針巷談(1988年7月31日、太田出版)
ビートたけしの世紀末毒談(1991年11月10日、小学館)
ビートたけしの世紀末毒談 目には目を毒には毒を(1992年5月20日、小学館)
ビートたけしの世紀末毒談3 (1996年5月1日、小学館)
だから私は嫌われる(1991年6月10日、新潮社)
やっぱり私は嫌われる(1991年12月20日、新潮社)
浅草キッド (1992年1月、新潮文庫)
みんな自分がわからない(1993年5月25日、新潮社)
たけしの死ぬための生き方(1995年3月25日、新潮社)
みんな〜やってるか!(1995年1月、扶桑社)
たけしの20世紀日本史(1996年2月29日、新潮社)
草野球の神様(1996年10月20日、新潮社)
ザ・知的漫才 ビートたけしの結局わかりませんでした(1996年9月25日、集英社)
私は世界で嫌われる(1998年2月20日、新潮社)
たけしの「号外」!!(1998年5月11日、洋泉社)
コマネチ!ビートたけし全記録 (1999年6月、新潮文庫)
菊次郎とさき(1999年12月5日、新潮社)
偽善の爆発 時事問題講義(2000年10月30日、新潮社)
頂上対談(2001年10月20日、新潮文庫)
コマネチ!2 −BROTHER大特集(2001年12月8日、新潮社)
ビートたけしの黙示録(2001年11月30日、徳間書店)
日本の差法 ※身障者芸人:ホーキング青山との対談(2002年、新風舎)
悪口の技術 (2005年1月、新潮文庫)
巨頭会談(2005年11月、新潮文庫)
コマ大数学科特別集中講座 ビートたけし・竹内薫(2006年12月27日、扶桑社)
ビートたけしの21世紀毒談(週刊ポスト:連載コラム)
貧格ニッポン新記録 (2008年10月1日、小学館101新書)
下世話の作法 (2009年3月30日、祥伝社)
漫才(2009年5月25日、新潮社)
達人に訊け! (2009年5月28日、新潮文庫)
1084(to-san-ya-yo) MANZAI2 two beat(2010年9月15日、ネコ・パブリッシング)
写真集 [編集]
武風 たとえば風のように(写真集)(1986年頃、O.P.F.C)
たけし軍団(写真集)(1987年11月18日、太田出版)
音楽制作 [編集]

歌唱作品 [編集]
俺は絶対テクニシャン(来生えつこ作詞・遠藤賢司作曲)
BIGな気分で歌わせろ(柳川英巳作詞・大沢誉志幸作曲)
いたいけな夏(教重清隆作詞・加瀬邦彦作曲・伊藤銀次編曲)
OK!マリアンヌ(大津あきら作詞・鈴木キサブロー作曲)
抱いた腰がチャッチャッチャッ(大津あきら作詞・大沢誉志幸作曲)
TAKESHIの、たかをくくろうか(谷川俊太郎作詞・坂本龍一作曲)
I'll be back again...いつかは(TAKESHI&HIROKI名義、関口敏行・伊藤輝夫(テリー伊藤)作詞・BABA作曲)
浅草キッド(ビートたけし作詞・作曲)
GOD BLESS YOU〜神の御加護を〜(ビートたけし&ザ・常夏's名義、ダンカン作詞・奥野敦士作曲)
嘲笑(ビートたけし作詞・玉置浩二作曲)
友だちじゃないか(ぢ・大黒堂名義、トータス松本作詞・作曲)
作詞提供 [編集]
チポップ(宮沢りえ)
参加作品 [編集]
モンゴル子守唄 所ジョージ(間奏のラジオアナウンス)
ニワトリは飛んでいかない 所ジョージ(曲中のニワトリの鳴き声)
二曲共アルバム「コケコッコゥ~七色の声色~」収録、また上記の二曲だけではなく、ジャケット写真でもギターを持って所と写っている。
参加したコンピュータゲーム [編集]

たけしの挑戦状(タイトー)
たけしの戦国風雲児 (タイトー)
ファミリートレーナー 突撃!風雲たけし城(バンダイ)
オールナイトニッポンスーパーマリオブラザーズ(任天堂)
写真家 [編集]

「無題」(1994年、竹書房発行、月刊ザ・テンメイ1994年秋臨時増刊号「Super Tenmei」掲載)
バイク事故直前に撮った(雑誌は事故後発売)、写真家としての処女作品。
「ORA-ATAI」(1998年、新潮社発行、新潮45別冊2月号「北野武責任編集『コマネチ!』ビートたけし全記録」掲載)
学ラン姿のガダルカナル・タカとセーラー服姿の井手らっきょ(スキンヘッドそのまま)がカップルに扮し東京見物するコンセプト。
「海から来た、おんな」(2002年、小学館発行、2002年2月1日号「週刊ポスト」掲載)
その他 [編集]

東京スポーツ新聞社客員編集長、東京スポーツ映画大賞審査委員長
フランス芸術文化勲章(シュヴァリエ章,Chevalier)授与(1999年)
明治大学特別功労賞授与(2004年)
イタリアの第10回ガリレオ2000賞・文化特別賞を受賞(2006年)
日本数学会出版賞を受賞 (2008年)[49]
『タイム』誌アジア版2001年2月12日号の表紙を飾った。2002年には同誌の「アジアのヒーロー」の一人として選出された[50]。
フランス芸術文化勲章(コマンドール章,Commandeur)授与(2010年)[51]
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用終了ーーーーーーーーーーーーーーー


10. 2012年5月15日 10:44:30 : WRcvzABPLo
福岡だ!!屋山だ!!

バカにするな!!!

こんなバカ共の事、書くな!!

それと経産省をクビになった男(名前忘れた)が「もう終わった人」
と小沢先生を言っていた。

こいつ何様だ、偉そうに役人時代は何もしなかった男が!

それに比べ、須田・大竹は正しい意見を言っていた。

人間、情報を正しく理解すると、言う事が変わる。

正しい情報を、拡散しよう。

因みに、昨日のTVタックルで、正しい意見を言っていたのは3名、
須田・大竹・会計学者(名前失念)、政治屋でダメは、小池(自民)
下地(国新)山井(民主)のバカ共。

選挙区の皆さん、こういう議員は恥ですよ、恥!!!


11. 2012年5月15日 11:53:45 : dHyRNpLVEM

エセ同和がナベツネ東電に敗れたということですね、わかります。
エセ同和は 「もう終わった」 ということですか、良いことです。



12. 2012年5月15日 19:19:54 : Jny2RmHXSQ
福岡さん検察はねつ造が見つかり早く幕引きをしたいから小沢さんを無罪にした
とか この方に教えてもらっている人は気の毒ですね
あと経産省に戦力外宣告された人は やっぱり官僚の考え方が身についていることがはっきりしてきたね 自分が国を動かしているかのような 自分がすべて正しいような 勘違いをし 弱者切り捨て 現職の小沢さんにまで 終わった人とは
橋下さんにも聞きたいね こんな人を使っていたら今に裏切られるよ
お金稼いでちやほやされたが発言を聞いている限り
官僚と何も変わらない むしろひどいものだ

13. 2012年5月15日 19:45:01 : KbjUzFqPyw
たけしさんは明治大・工学士を有名になり、大学の名誉を高めて学士号を中退でも貰ったらしい。貰うのは好きにして良いが、名誉学士ではないか?学歴ロンダリングがやり放題で、小泉もたけし方式かと疑ってしまった。

こんなに学士はいい加減なら庶民にもどんどんばら撒いて呉れ!!

学士号も通し番号で不正防止が弁護士並みに必要か???


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