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この記事をご訪問された方は、まずYouTubeにアップされた記者会見をご覧ください。国歌の斉唱について、橋下・大阪市長にMBS・女性記者が質問しています。
・5月8日登庁時市長囲み取材(YouTube)
「普通」の意味で正常な記者会見ではありませんが、正常・異常はさて置き、橋下氏がカッコいいとか、MBSの記者が不勉強だとか、橋下氏は逃亡を図っているとか、記者は論破されたとか、いろんな視聴の仕方が想像できます。
よく聴いていますと、後半部で橋下氏はご自分の意見を述べます。
ちょっとゴチャついた筋を要約――。
卒業式など学校の式典にのぞみ、起立と国歌斉唱を拒む教員は府教委の命令に違反している。処分は当然だ。一般の国家公務員も起立と国歌の斉唱が命令なので、違反すれば職を辞めるべきだ。 |
これが意見の中心ではないかと思われますが、どうでしょうか。そこを引き出した点は、女性記者の手腕といえますが、橋下氏の意見をどう評価するかとなると人それぞれ。しかし、こうした感情的で極端な意見は、2ch以外で聞いた経験がない方も多いのでは、評価の基準すら定めにくいのではと危惧します。
以下の引用は、例の「togetter」にまとめられた堀茂樹氏のTwitterです。はじめ堀氏は橋下氏の考えに親和性をお持ちの印象がありました(誤解かな?)が、いまでは、いろいろとお考えを深められているようです。きっと参考になります。みなさんなりの「評価基準」、視座を確保するために役立つかもしれません(役立たないかも)。
==引用はじめ=========
※以下、機種依存文字を汎用文字に置き換えました。
1)「校長の任務は職務命令の忠実な実行。ゆえに校長には責任はないのである」( @t_ishin)という橋下氏の「組織」論には呆れます。責任は上司にあると言う点で尤もらしく聞こえますが、実は、部下から一切の責任能力(←ふつう大人なら誰でも持っている)を奪うトンデモ組織論です。
2)つまり、部下に対し、「上司に命令されたら、〈それがどんな命令であっても〉自分で考えるな。黙って従え。その代わり、お前に責任はない」と言う訳です。かくして、『君が代』をめぐる口元チェック行為の責任は、校長→教育委員会→知事と遡り、結局、知事を選出した府民にあるという理窟です。
3)この手の理窟は、日本の旧いタテ社会的集団主義の感覚にフィットし、しかも同時に、現代日本で橋下市長程度の人々が分かったつもりでいる民主主義の原則の一面にも合致しているように見えるのですね。困ったものです。これが彼の65万人ものフォロワーを通して拡散するという現実の悪夢…。
※フォロワー=twitterで、ある人物の意見に関心をもつ人。
4)本当は、コモンセンスからいえば当然ですが、民主主義の原則に照らしても、法律・条例や職務命令が人権尊重というリミットを踏み越えたら、それはもはや正当ではないのです。例えば、全員一致の民意でも、「橋下市長は公人だから、市長の24時間を可視化する!」などと決めてはならない訳です。
5)ですから、公務員であれ、民間会社員であれ、上司の命令が自分の良心を傷つけ、人として受け容れられない気がしたら、自分で考え、自分で判断し、自分で正しいと信じる行動をしてよいのです。それが責任能力のある個人であり、大人です。民主主義は本来、すべての人を大人として遇する文化です。
「大人」とは、カントが喝破したように「自分で考える」人間です。自分の良心が納得しない職務命令には従わぬ個人です。そんな自律的個人たちの組織は機能しないでしょうか?そう主張する橋下氏は歴史にも無知なのでしょう。真に強いのは、メンバーが「自分で考え」て納得して動く大人の組織です。
7)最後に付け加えます。ゲシュタポの「ユダヤ課」課長だったA・アイヒマンも、「リヨンの虐殺者」と呼ばれたクラウス・バルビーも、ナチスに協力したフランスの高級官僚M・パポンも、上層部の職務命令を黙って忠実に実行する「無責任な」公務員でした。その点で、橋下徹氏の絶賛に値するでしょう。
・・・(略)・・・
11年5月の最高裁判決が違憲でないとしたのは起立斉唱の職務命令自体ですね。以下にお答えします。RT @Clancyy10国歌斉唱の職務命令は違法ではないとする最高裁判決を理由に「人権尊重というリミットは超えていない」という反論が予想されますが、この点はどのようにお考え…?
※RT @Clancyy以下への返答。
1)起立と斉唱を、つまり、国法の遵守とその具体的内容への同意を区別しない点で、考えの浅い判決と思い候。Aそれでも国民として、最高裁の法的権威には服さざるを得ません。これが欧州なら、個人でも国家を欧州人権裁判所へ提訴できるのですが、アジアにはそんな裁判所はないので。
2)平教員の口もと監視による歌唱強制や、その強制に服さなかった場合の処分の合憲性は、別立てで問えるでしょう。
3)いずれにせよ、憲法もまた実定法ですから、最高裁判決はあくまで合法性の判断です。合法性(legality)と正当性(legitimacy)は峻別すべきです。
4)そして、本物の自由民主主義国家の市民は、合法性の次元では国法を遵守し、裁判所の判断に服さなければならない一方、正当性の判断においては、法律・条例がどうあろうと、裁判所が何と言おうと、あくまで自分自身の良心の声に従う権利を有するのです。それが、思想信条の自由です。
5)しかし、勿論、自分が〈正当〉と信じる行為を実行に移した場合、それが司法によって〈非合法〉と判断されれば、法律の名において処罰されます。法治国家の原則を信奉する以上、それは受け入れなければなりません。E最後に、問題は、日本国が本物の自由民主主義国家であるかどうかです。了。
1)「橋下徹流『組織論』は民主主義の文化に反する」の連続ツイート中、「上層部の職務命令を黙って忠実に実行する『無責任な』公務員」という表現が分かりにくかったようです。以下2)〜9)で、「責任/無責任」とはどういう事かをもう少し明確に説明しつつ、少し別の観点を導入してみます。
2)「責任」という名詞は英語でresponsabilityですが、仏語でresponsabilitéです。仏語で「答(応)える」にあたる動詞はrépondreなんです。つまり、responsabilité(責任)とは、文字どおり、répondre(答える)義務なんです。
3)ふつう、責任があるのに、それを放ったらかしにする態度を「無責任(な)」irresponsible(英)、irresponsable(仏)といいますね。ここにも仏語のrépondreが見え隠れしています。「無責任」とは、まさに「答えない」ことなんだなあ、と分かります。
4)では、そもそも答える(répondre)義務がない場合はどうでしょう?全く端的に、「無責任」irresponsible/irresponsableです。幼い子供はまだ自分で考え、自分で行動する自由を持っていません。そして、これが大事なのですが、自由なきところに責任なしです。
5)ですから子供は、一人前の人間であるという、その事に答える義務を負っていません。その意味で、子供は、犬やネコと同様、「倫理的無責任」の天国に、いわば「子供の国」にいます。さて、思うに、橋下徹氏のいう「組織」は、大人をもその種の「子供の国」に入れてくれるのではないでしょうか。
6)大阪市長の「組織」論は、組織に属する者と、組織外の者を区別しますね。そして、「組織」内の者は、個人の内心の自由を侵害する(or本人がそう感じる)ような職務命令にも服従しなければならない、服従しない自由が欲しければ組織の外に出よと言います。この理解で、間違っていませんよね?
7)結局、人格ごと組織に属する100%組織人か、組織から離脱して基本的人権の自由権を取り戻す人間か、という二者択一を迫るわけです。社会的身分にまるごと完全に残りなく包摂されよ、それが嫌ならば、組織人(例:公務員)という社会的身分から離脱せよ、「組織=不自由」なのだ、という次第。
8)100%組織人は「子供の国」に入れます。一見職務命令に「答えて」責任を果たすかに見えますが、人間としての自由に背を向けて職務上の役割に一致するのですから、まさしく昔サルトルが暴いた「自己欺瞞」です。社会的身分に立て籠もって、人間である事に「答えない」倫理的な「無責任」です。
9)これに対し、基本的な自由権を有する人間として、組織に属する社会的身分を生きる、というのが民主主義の文化です。自由なきところに責任なし。組織から、個人の自由を完全排除すれば、その組織は倫理的な意味で「無責任」の体系と化します。すると、内部批判の契機が失われてしまいます。危険です!
(追伸)義務なきところに権利なし、とよく云われますが、あれは嘘です。赤ちゃんは何の義務も負っていませんが、食べ物を与えられる権利を有します。つまり、大人が赤ちゃんに対して義務を負っているのです。これに対し、自由なきところに責任なし、これは確かです。(尤も、自由とは何か、が難問。)
==引用おわり=========
民主主義を考えるうえで、ご参考になりましたでしょうか。
投稿者としては、
・「大人」とは、カントが喝破したように「自分で考える」人間
・上層部の職務命令を黙って忠実に実行する「無責任な」公務員
・人格ごと組織に属する100%組織人か、組織から離脱して基本的人権の自由権を取り戻す人間か、という二者択一
などが参考になりました。ニュースになった「口元チェック」に大人げない印象を強く受けましたが、その理由まで深くは考えませんでした。いまでは理由がわかります。上層部の命令を忠実に実行するあまり、自分で根源的に考える自立心を失い、責任は自分になく命令を発した上層部にあるとする「無責任」で自己放棄した人間、大人ではない恥ずかしい自分になってしまうからでしょう。
また、二者択一を迫るところには、知性が欠如しているのが常態。日本の国民であるかぎり、だれもが何らかのシステムに属する「組織人」といえますから、組織人/非組織人の色分けは、国民/非国民の二者択一と同形になります。これは一種の「帝王学」であり、帝王/奴隷の二者択一とも同形であることが理解できました。
みなさんは、どうお考えになりましたか?
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