http://www.asyura2.com/12/senkyo130/msg/170.html
Tweet |
「『無罪は無罪』の重み」 小町谷育子弁護士 2012/05/13(東京新聞)
http://ameblo.jp/heiwabokenosanbutsu/entry-11249506977.html
2012-05-13 15:23:47 平和ボケの産物の大友涼介です。
社会的に着目された刑事事件は、刑事手続きの在り方や報道に根本的な疑問を投げかける。小沢一郎民主党元代表の無罪判決に対する控訴の記事(5月10日)を読んで、そのことを強く意識した。
無罪判決の控訴に対して、刑事被告人の立場が続くことへの問題性をクローズアップした報道は、これまであまり見かけなかった。強制起訴の事件を特別扱いする必要はないという識者の意見は理解できるし、別に扱うならば、指定弁護士は控訴できないという制度設計にしておかなければならなかったはずだ。そうでない以上、控訴の判断は他の事件と同じように判断されなければならない。
ところが、今回は、刑事被告人の人生、生活に与える重い影響が取り沙汰される。それっておかしくないだろうか。他の事件の刑事被告人が置かれている境遇もまったく同じである以上、想像力をめぐらせて、その痛みを感じるべきであろう。厳しい攻防が続く刑事裁判の法廷に毎回出席し、無罪で喜ぶ間もなく控訴され、延々と刑事手続きに拘束される。最高裁で無罪が確定する頃には、ゆうに十数年が経過していることも珍しくない。
裁判員裁判が始まり、第一審の事実認定が重視される傾向になったのは、大きな変化だ。同じように市民が手続きに関わる強制起訴の事件を機に、この際、無罪判決に対する検察官控訴を認めない制度を採用することの当否を検討してもいいのではないか。三審制を維持するのであれば、強制起訴の事件とその他の事件との間で、控訴の当否を左右するような違いがあるのかどうかの議論を深めていくべきだ。そのための材料を提供するのにふさわしいメディアは、詳しい解説を掲載することができる新聞だ。
被告人の負担は刑事裁判だけではない。無罪判決を手放しで喜べないのは、判決報道の内容にもある。「無罪あろうと倫理的な責任があるのではないか。限りなく有罪に近いグレーだ」というトーンが目につく。イタチの最後っ屁のような印象を受ける。無罪は無罪。そのことの重みを感じ取り、冷静に判決の分析を行い、どこが決め手となったのかを分かりやすく市民に伝えることが報道の第一の役割ではないか。
無罪判決に対する評価は簡単ではない。別な裁判官になれば、証拠の評価が簡単に変わるかのような意見が出てくるのは、裁判官の事実認定を軽視しているとしか思えない。私たちはそんな不安定な裁判制度を抱えているはずはない。刑事控訴審の構造が事後審であることも理解されていないに違いない。刑事手続きを正確に知り、的確な批判や理解をすることで、感情的な意見の表出が減ることを願う。
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK130掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。