67. 2012年5月17日 17:33:36
: esmsVHFkrM
>>65さま、>>64のesmsVHFkrMですが、 私の言いたいことは、>>22、>>23、>>47、>>56、>>60、>>64で尽きておりもう何か重ねて言うつもりはまったくありませんでしたが、あなたの>>65の中に私についての誤った言及があり読む人に私について誤解を与えかねないので、やむなくこれを書きます。 「私は少年時代に酷い貧乏生活を強いられました。両親とも日雇いの労務者でした。でも両親とも国や社会に不平を言わずモクモクと働いて子供を育てました。私も中学を出てからすぐ働きました。つらいことも悔しいこともあり、逃げ出したい事も数多くありました。でも逃げずに頑張って憲法に定める国民の義務を全部果たしたと自負しています」 とありますが、私はご両親ならびにあなたご自身の境遇とその人生における苦闘と努力に同情と尊敬を覚えこそすれ「愚民」だなどと思うことなどありません。何を根拠に 「あなたにとって私の両親もその子供の私も恥知らずの愚民にに見えるでしょうね」 などと断定されるのでしょうか。それはまったくの誤りですのでここに明記しておきたいと思います。私はそんなあなたのご両親とその子供であるあなたを愚民であると思いもしなければそんなふうに見えもしません。 また、私は「国旗を揚げて国歌を歌うのに全く抵抗」がない人たちを「愚民」と呼んだ覚えもありません。それはそれで幸せなことです。私はこのような人たちに反対しているわけではまったくありません。私が反対しているのは、そのような平和な状態を超えて、自分に「抵抗」がないから、他人にも「抵抗」がないはずだ、だから「君が代」を他人に強制しても構わないと主張する戦闘的な人たちです。 私が「愚民」という言葉を使ったのは戦後民主主義教育を覆すべく進められた文部省の復古教育についてで、私はそれを「文部省の愚民化教育」と呼びました。わたしは、「君が代」強制が私を含めた多くの日本人の思想信条の自由を犯すものだとする理由として「君が代」の近代天皇制イデオロギーが戦前戦中に行った専制政治の歴史的事実を述べました。それに対してそのような歴史的事実はないと強弁する右翼保守デマゴークの言説の受け売りをその「文部省愚民化教育」を結果であると指摘しただけです。 私は、そのような歴史的事実を平気で否定する無責任な言説を受け売りする人に対しては、その人たちが「両親とも日雇いの労務者」の家に生まれて「酷い貧乏生活を強いられ」、「中学を出てからすぐ働」いた人であろうが、両親がともに医者か弁護士のように裕福でそんな恵まれた生活の中で育ち大学を卒業しただけでなく外国留学までした人であろうが、一切家庭環境とか辿った人生の難易にかかわりなくなんであれ「文部省の愚民化教育」を受けたせいで気の毒だと述べただけです。 ついでに書きますが、また、「日雇いの労務者」やそのような「日雇いの労務者」の家に生まれて「酷い貧乏生活を強いられ」「中学を出てからすぐ働」いてきたような人はみなひとしく「君が代」に「抵抗」がないかのようにお書きになっていますが、そんなことはないでしょう。歴史的事実は事実です。知っている人は知っているわけですから、「君が代」を強制されることが自分の思想信条の自由の侵害だと感じる人は社会階層とか貧富とか高等教育を受けたかどうかに関係なく存在します。「君が代」強制を思想信条の自由の侵害だと抵抗することは金持ちの高等教育を受けた人間の贅沢か道楽ででもあるかのようにお書きですが、それは間違いです。 「言いたい放題言えて頑張れば何とか生きて行ける今の日本に不満はありません」とお書きですが、それは何よりです。日本が未だにそうであるのは民主主義であるからで現行憲法のおかげです。今の日本の民主主義は戦前戦中の日本の失敗に学んでそれを否定する中で確立されたものです。その精華が現行憲法で憲法の条文のすべてはそのような日本人の反省の上に成り立っています。現在も日本で権力を占めている官僚利権政府は、戦後のそのように「言いたい放題言えて頑張れば何とか生きて行ける今の日本」ではなく「言いたいことも言えなくて、したがって公正さや正義がなくがんばってもちっとも幸せになれない」戦前のような社会を復活させようとしています。それを妨げて民主主義を守っているのは憲法です。だから官僚利権政府の試みは、すべて憲法問題、違憲問題として立ち現れてくるわけです。「君が代」強制問題も思想信条の自由という憲法問題となりました。 あなたが「言いたい放題言えて頑張れば何とか生きて行ける」そんな日本が尊いとお思いであるならばそれは私の願いと同じです。いまこの「君が代」問題に現れているようにそんな「言いたい放題言え」る日本の民主主義が危うくなっています。私の主張はそんな日本の思想信条の自由と民主主義を守ろうというものです。 私が>>56で提起した北朝鮮だったらどうかに関しては「その場になってみなければわかりません」とのお言葉ですが、これは意外です。私たちは「君が代」強制が許されるかどうかという基本的人権の問題、憲法の問題、政治思想の問題、社会の考え方の問題を論じていたのですから、それは実際どうなるかではなくあなたならどうするつもりかというあなたの意思についての質問です。分からないわけがないでしょう。 「今はそんな体制はゴメンだとは思っています」というところを見ると、あなたも北朝鮮国歌強制には従わない意志(繰り返しますが、実際どうなるかではなくどうしたいかというあなたのつもり)をお持ちのことのようにも読めますが、そうだとすればその理由は何なのでしょうか。個人の思想信条の自由を犯し基本的人権に反するからどこの国どの時代においても間違いだという考えでないのなら「君が代」強制は拒否できなくて「北朝鮮国歌」強制は拒否できるとの違いは何なのでしょうか。どちらも決まりです。ルールです。国歌(正確に言えば北朝鮮国歌は演奏だけのようでそれに代わり盛んに歌わされる「金正日を称える歌」か、今度作られるべき「金正恩を称える歌」)です。裁判所も認めています。儀式で格好が付かないのは同じです。みんなが歌っているのも同じです。 まさか、自分の好きな歌の強制は正しいが嫌いな歌の強制は正しくないという主張じゃないんでしょうね。他人が強制されるかどうかはあなたの好き嫌いですか。さらに言えば少数派が強制されるかどうかは多数派の好き嫌い次第ですか。それではそれ自体が国家主義で専制政治です。そのような恣意的な権力行使に反対しそれを許さないのが基本的人権の尊重でありその原理に基づく民主主義であるのは、アメリカ独立宣言やフランス革命人権宣言に明らかです。 また、意志の問題はそうだとしても、それが実際に貫けるかどうかは別の問題で、それは人間の勇気の問題であることはあなたの指摘の通りです。これについては「過去の例を見れば安全なところで勇ましい事を発言する方々が、肝心な時にリスク追わないで転向する事が多いです。かえって普段モノ言わぬ方々がいざという時に意地を示す事の方が多いですよ」とずいぶん無礼なことを平気で述べておられますが、少なくとも私は今ここで「君が代」強制問題において声を上げています。今は異議の声を上げるほうが少数派のようですから、決まりだ、国歌だ、最高裁も認めている、儀礼に反する、他の人間はみんな歌っている、思想信条の問題だというのは「戦闘的」だし「自分の意見は絶対的だという余裕の無さ」だという多くの批判に抗して声を上げているのです。私は儀式等において「君が代」を実際歌っておりません(公平のために言えば私だけでなく歌っていない人は大勢います)。ですが、それでも、実際に大阪で「君が代」強制に反対してひどい目に遭われている人たちの勇気に比べればたいしたことではないと言われればその通りです。 それでも、北朝鮮に生まれていたらどうするつもりかという意志の問題をここで訊かれただけで、それをもって北朝鮮の強制収容所に送られるわけでもなく、北朝鮮政府のブラックリストに乗るわけでもなく、「反日だ」「非国民だ」「アカだ(いやクロだということになるのでしょうか)」と誹謗される恐れもないのに「その場になってみなければわかりません」と逃げる人から、お前はいざとなったらそんな勇気はないのだろうと勘ぐられるのはまことに情けなく思います。 「最後に人には生まれた環境や育った環境教育環境で考えも行動も異なります。ご自分の考えと違うからと言って人様や歴史を断定的に扱わない事です」とのお言葉ですが、これは自分と違う考えのものに寛容であれとのお叱りと理解します。なるほどその通りですね。私の今までのコメのどこかに問題があって特に私がそのようなお叱りを受けることになったようですから、せっかくのお言葉なので自戒としたいと思います。 私もご親切には親切をもって報いるとしてあなたにご忠告申し上げるとすれば、同じ「人には生まれた環境や育った環境教育環境で考えも行動も異なります。ご自分の考えと違うからと言って人様や歴史を断定的に扱わない事です」との言葉を贈りたいと思います。私の歴史的事実の指摘がそのような「歴史を断定的に扱」うことだとすればあなたの>>63も同じく「歴史を断定的に扱」うことだと思いますが、いかがでしょうか。また、あなたの文体は表面は非常に丁寧ですが、先ほどの勇気についての侮辱に加えて、「私は狂信者では無いので」とか「反日の皆さんが」とか「底が浅いただの騒ぎ屋」とか「独善的な性格」とか巧妙に相手を決め付けるようなこともやっておられますよ。お互い自戒したいものですね。 さらに私へのお叱りのあなたの真意が「自分と違う考えのものに寛容であれ」ということであれば、それこそ少数派の基本的人権を尊重せよということになるのではありませんか。「人には生まれた環境や育った環境教育環境で考えも行動も異なります」。だからあなたはなんら問題がない「君が代」でもそれを強制されることが思想信条の侵犯となるという人がいることは当然のことです。それに対してあなたのように「私にはなんの問題もない、私の両親にもなにも問題がなかった」だから受け入れろと言い続けるのはあなたが言う「ご自分の考えと違うからと言って人様」を「断定的に扱わない事」に反するのではないのですか。自分の考えを嫌がる他人に強制することは「人様」を「断定的に扱」うことにはならないのですか。思想信条の自由こそが「自分と違う考えのものに寛容であれ」のはずです。 なにか私の文章に「戦闘的な姿勢」をお感じになっておられるようですが、あなたの文章はともかくその主張の中身を見れば、嫌がる他人に自分の考えなり趣味なりを押し付けようと、とても「戦闘的な姿勢」であるように思われます。外見が「戦闘的」なのはわたし(?)で、主張そのものが「戦闘的」なのはあなたであるとは皮肉ですね。「それでは平和も実現できませんし民主主義も実現できません」とのあなたのお言葉どおりですので、その「戦闘的」なご主張を改められたらいかがでしょうか。 もう一度確認したいと思います。私たちは、国歌斉唱のときにその国歌が「君が代」であるならば静かに沈黙することを妨げないでほしいと主張しているのです。それが憲法に言う思想信条の自由であり、それをあなたが認めることがあなたご自身が「自分と違う考えのものに寛容であれ」を実践することになるものと信じます。 これが民主主義です。つくづく民主主義とはありがたいものだと思います。 追伸、
3wfkjcJKJ6さんはとても頭の良い方ですね。その文章力に感心します。ご両親とも日雇いの労務者でいらして少年時代は酷い貧乏生活を強いられ中学を出てからすぐ働いてこられたとのこと。ご立派ですね。そうそう、剣道が好きでクリスチャンでもあられるのでしたよね。この板の>>58からコメを始められたようで他の板にもコメを寄せ始めておられますが、今後も末永くご意見を表明されることと期待します。ご縁ですからそのご発言に注目してまいります。よろしくお願いします。 |