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弁護士 猪野亨のブログ
2012/05/07(月) 08:47:12
「起訴≠有罪」?? 四宮啓氏の主張の問題点
小沢元代表の無罪判決を受け、「強制起訴」を伴う検察審査会制度の問題性が浮き彫りになりました。
朝日新聞2012年4月27日付朝刊が
「争論 これでいいのか強制起訴」の記事を掲載しています。
× 弘中惇一郎氏 「被告にされる不利益大きい」
○ 四宮啓氏 「「起訴=有罪」の意識捨てて」
を掲載しています(聞き手、朝日新聞山口栄二氏)
四宮啓氏の主張を並べてみると(抜粋)、
「強制起訴決議は検察官が不起訴にした事件を起訴するのですから、無罪判決が従来より多く出ることは予想されていました。重要なのは裁判が開かれたこと」
「検察官は、自ら有罪と考える事件だけを起訴してきました。(略)「起訴=有罪」という社会通念が定着しました。」
「(検察審査会が密室でよい理由として)一定の有罪を示す証拠があれば公開の裁判所で討論すべきだと議決するのです。」
「強制起訴され、裁判になったことで(略)検察官が虚偽の内容の捜査報告書を提出していたことも表面化しました。」
「強制起訴された被告が無罪になったら誰が責任を取るのか、という批判もありますが、これも「起訴=有罪」という従来の固定観念が前提にあります。起訴は有罪無罪を決めるものではなく、裁判所での討論を求める申し立てです。(略)無罪判決が出た時の責任は国民全体が負うべき」
「刑事被告人となることは大きな負担です。(略)その負担は、取り調べの録画や全証拠の事前開示など、フェアな裁判が実現できる権利を被告に保障することで解決すべき」
四宮啓氏は、自分の頭の中で描いた「理想」をもとに暴論を展開しています。
先日も、四宮啓氏については、
「小沢元代表無罪判決と検察審査会「強制起訴」制度の危険性」
でも触れましたが、同じような主張です。
「起訴=有罪」という前提が間違っているといってみたところで、少なからず、そのような前提があるという現実を無視して、自らの都合の良い「理想」を前提に制度を語ってみても全く意味がないどころか、悪質な議論のすり替えなのです。
四宮啓氏は、以前も裁判員制度について、国民(裁判員)が死刑判決を下すことについて、どのように考えるのかという問いに対し、
NHK「日本のこれから、裁判員制度 あなたは死刑判決を下せますか。」(2008年12月6日放送)で、
裁判員制度と死刑制度を分けて考えるべきだなどと、非常に勝手な論理を展開していました。(北海道裁判員制度を考える会ホームページ)
現実に死刑制度があるという大前提の元で裁判員制度が導入されたのに、それを分けて考えるべきだとは、自分の頭の中では、死刑制度が廃止された「理想」状態での裁判員制度なのでしょうが、あまりにもお粗末な発言です。
このように四宮啓氏は、自分勝手な妄想を前提に発言をするので、欺されないようにしなければなりません。
次に四宮啓氏の主張は、刑事裁判を「討論」だと主張していますが、これも自分勝手に刑事裁判の役割をすり替えているものです。
刑事裁判は、あくまで国家が犯罪を犯したと疑われる人に対し、国家刑罰権の発動を求め、検察官(行政)が、裁判所(司法)にその判断を求める手続きです。
それ故に検察官は、有罪であることの立証責任が課せられているわけです。
これを「起訴は有罪無罪を決めるものではなく、裁判所での討論を求める申し立て」とは、四宮啓氏は、人権感覚すら持ち合わせていないとしかいいようがありません。
ましてや、証拠全面開示などで当事者を公平にすればいんだ、というような手続きの問題ではなく、嫌疑だけで被告人として刑事裁判にかけることの是非、そのものの問題なのです。
四宮啓氏は、刑事裁判の場を単なる学級会での討論レベルで発想しているとしか思えず、とても学者の発想ではありません。
そして、ここでも四宮啓氏は、強制起訴があったからこそ、検察の虚偽の捜査報告書が露見したんだと主張していますが、これもすり替えも甚だしい議論です。
捜査の検証は、被告人の負担において行うべきものではなく、別途の手続きで行われるべきものであるし、これを根拠に今回の強制起訴を正当化するがごときは、全くもってナンセンスです。
捜査に問題があれば、その証拠にも問題がある以上、起訴できないことは当然のことです。これで起訴を正当化するのは、人権感覚の欠如甚だしいと言わざるを得ません。
それから、無罪の責任は国民全体が負えというのも、すごい発想です。
その「責任」の中身がありませんが、被告人が身柄拘束をされていなかったとしても、有形、無形の経済的損失を補償せよ、という意味でしょうか。
それとも、国民総懺悔的な発想でしょうか。
いずれにしても、責任の所在をあいまいにしようという意図のものであることは明らかであり(四宮啓氏の主張は、検察審査会委員の審議はブラックボックスでよいという主張です。)、無責任な主張そのものです。
なお、四宮啓氏は、検察審査会の強制起訴について、
「学者や弁護士会などからは、起訴相当決議に強制力を認めるべきだとの声が叫ばれていました。」
とあります。
これは、いつ叫ばれていたのでしょうか。裁判員制度検討会(2002年2月〜2004年7月)が開催されているときでしょうか。
私は、このような主張は、知りません。御用学者は別にしても、この時期に弁護士会がこのような主張をしていたとすれば、恥ずかしい限りでしょう。
むしろ、検察の不起訴処分が問題になったのは、1986年11月に発覚した、現職警察官による日本共産党幹部宅盗聴事件です。
検察庁は、実行犯を特定し、警察による組織的犯行としましたが、不起訴処分としました。当時の伊藤栄樹検事総長は、警察を敵にまわせないということをおとぎ話に例えて、これを弁明していました。
「巨悪は眠らせない」とか「検察は庶民とともに泣く」と言っていた、あの伊藤栄樹検事総長は、政治的判断で不起訴処分にしたのです。
検察審査会も起訴相当決議をしていましたが、当然に、検察庁は、再度、不起訴処分としています。
このような権力犯罪を不起訴とすることが許されないと批判されるのは当然のことであり、いくら日本共産党が少数野党とはいえ(要は、少なくない国民が日本共産党嫌いであったとしても)、大きな批判が起きるのは当然のことであり、強制起訴できなのかという声が上がったとしても不思議ではありません。
しかし、このときの声と、今の強制起訴制度は、根本的に性質が異なります。
今回の強制起訴制度は、権力犯罪への抑止という視点ではなく、「市民目線」で起訴せよという次元のものであり(要は、「被害者」側の視点、あるいは怪しいから起訴せよ、という視点。)、立案関与者である四宮啓氏の言葉でいえば、「自由でフェアで責任ある社会にするために司法が強くなければならず、司法に国民的基盤を与える必要」があるから、導入したというものです。
新自由主義思考に基づくものであり、権力犯罪に対抗する手段を与えるという次元のものではないのです。
四宮啓氏の主張は、あまりに滑稽な主張ですが、いろいろなところで批判されていますので、せっかくですから、この場でも紹介しておきます。
裁判員制度は 国民利用制度??四宮啓氏の発想は・・・。(素直に見る世の中)
四宮啓氏の幼稚な裁判員制度肯定論(池内昭夫のヤフーブログ)
算数のできない人が作った裁判員制度(読んで ムカつく噛みつき評論)
http://inotoru.dtiblog.com/blog-entry-516.html
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