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嘘吐き塩谷系:誠実寅さん系=イケ?メン:ブサメン=ヘブライ系:原日本人系=石原・小泉:小沢・亀井?!
http://www.asyura2.com/12/senkyo129/msg/779.html
投稿者 アサマタロー 日時 2012 年 5 月 07 日 10:14:53: UiY46YlCu.Moc
 

石原・小泉:小沢・亀井=ヘブライ系:原日本人系=イケ?メン:ブサメン=嘘吐き塩谷系:誠実寅さん系だ!

小沢無罪判決が4.26だったが、今度はフランスでも正義が勝った様だ。

私は小沢冤罪事件発生以降、IMFストロンカーン専務理事の黒人叔母さん強姦冤罪事件のアメリカ司法・検察の理性に【日本司法対比で】感服していた。被害者の経歴の嘘一つで起訴取り下げ、フランス大統領選へのアメリカ司法の影響回避判断は民主主義の極致=大統領選挙民意尊重だった。民主主義の本場が世界に正義を示した!!

しかし、ストロンカーンは釈放されたが、帰国後、フランスで第二弾のセクハラ訴訟をやられ、社会党候補を辞退、第2候補オラントが決選投票で勝った。冤罪事件が無かったら、第1候補のストロンカーンが1回目で勝って居ただろう。

冤罪事件を疑われたくない世界の真っ当な司法・検察は民意が問われる選挙前は重要人物関連逮捕起訴は行わないルールだった。自民時代はそうだった。戦前の平沼司法ファッショの復活だ。 国民は日本と欧米の司法の品格の落差に驚いた。

フランス新大統領がストロンカーンを財務大臣に起用し、アメリカ・IMF?世銀政策の矯正・良導して頂きたい。司法ではストロンカーン冤罪の真犯人を追及して欲しい。

それが、日本国民に小沢冤罪の真犯人捜しを決断させるだろう!!フランスの自由革命と、日本の貰いもの民主主義の薄っぺらさの違いを痛感されるだろう。

そしてオラント政策が今の世界の潮流・時代の要請だと偏差値50%前後の知識人・マスコミ人にも嫌でも分からせるだろう。消費増税が大蔵財務省サティアンのオウム真理教の日本破壊の財政テロだという事を!!!!!!消費増税は国家テロだ!!!!!

嘘吐き塩谷系は誰だ〜? 石原は親父でなく長男か?小泉はイケメンか?蛇顔・蛇目が第一印象だったが、角栄ドラ娘が蛇顔をドラゴンに変えてしまい国が潰れた。福田赳夫が塩川爺に言った通り大変な事をしでかした。【小泉純一郎ウイキペディアご参照】

誠実寅さん系は誰だ〜? もう分かったでしょ! 国民=女性・子供への深情け派は! 

ヘブライ系は日本とアメリカの二股だよ!日本が潰れても渡海して来たのだから、又渡海してアメリカに行けば良い!くらいだから、東日本が放射能汚染されても目先の金儲けをしている様に見える。
    

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コメント
 
01. 2012年5月07日 10:33:12 : FUviF2HWlS
>小沢無罪判決が4.26だったが、今度はフランスでも正義が勝った様だ。

小沢一郎の政策は、社会党のオランド氏よりも、新自由主義のサルコジ氏の方が近いのではないか?


02. 2012年5月07日 11:06:25 : KbjUzFqPyw
サルコジは非ヘブライのハンガリー系ユダヤ教改宗民族のフランス移民の子供。アメリカのオバマと云い、移民の子か外国生まれの移民?が大統領になる時代だから、誰が朝鮮?いつ来たは既に愚問になった。
サルコジの内相当時の職権乱用も気になったが、野党大統領候補潰しの5年は酷かった。東洋系は権力を握ると専制君主的になるのだろうか!!!

小沢とサルコジの政策が似ている?サルコジは小泉に似てる。スケベ!?が。
175cm と163cm
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ニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ=ボクサ(Nicolas Paul Stéphane Sarközy de Nagy-Bocsa, 1955年1月28日 - )は、フランスの政治家。フランス第五共和政第6代大統領(2007年5月16日 - )及びアンドラ公国の共同大公。前国民運動連合党首。フランスの大統領としては異色の新保守主義者、新自由主義者とされる。ユダヤ人を母に持つハンガリー移民2世で、ともにアメリカですら例のない移民2世、ユダヤ系の大統領の誕生はフランスの多民族国家化を強く印象づけた。本人はカトリック信者である[1]。
尊敬する政治家としてイギリスのトニー・ブレアを挙げたほか、イタリアのシルヴィオ・ベルルスコーニを「政治家としての手本」としており、大統領当選時に真っ先に電話するなど親密な関係で知られる。
生い立ち [編集]
パリ出身。子供時代をパリ17区、次いでヌイイ=シュル=セーヌで過ごす。父方はハンガリー・アラッチャーン(Alattyán)の下級貴族の家系。父ナジボーチャイ・シャールケジ・パール(ハンガリー語: nagybócsai Sárközy Pál、1928年5月5日 - )は、ソ連軍に占領された祖国を逃れ、仏軍占領下のドイツに渡り、そこでフランス外人部隊の兵士となる。新兵教育を受けるも不適格とされ、1948年にマルセイユで除隊。名前をフランス風に、ポール・サルコジ・ド・ナジ=ボクサと改名した。広告業者となった父ポールは1949年、パリ17区の医師の娘で、法学部の学生だったアンドレ・マラー(1925年10月12日 - )と出会い結婚した。母方は、テッサロニキ出身のギリシア系ユダヤ人で、祖父の代にカトリックへ改宗している。
ニコラ・サルコジが5歳のとき、父ポールが妻とニコラら3人の息子を見捨て離婚。後に他の女性と2回再婚している。ニコラは、母と母方の祖父に育てられ、貧しい少年時代を送る。母アンドレは、苦しい家計を支えるため、勉学を再開して弁護士となった。ニコラ・サルコジは、「この頃の屈辱が自分の人格形成に最も大きく影響した」と述べている。ニコラの兄ギヨーム・サルコジ(1951年6月18日 - )は繊維会社の社長で、フランス経団連 (MEDEF) の副会長も務めた。弟フランソワ・サルコジ(1958年6月3日 - )は、小児科医を経て生物学者となっている。いずれも優等生だった兄弟とは対照的に、 ニコラの中学、高校の成績は芳しくなく、日本の中1にあたる6年生の時に英語の成績が悪く留年している。
政治家へ [編集]
1973年、バカロレア(大学入学資格)を取得し、パリ第10大学に入学。当時はジャーナリストを志していた。1976年、大学在学中に、ジャック・シラクの結成した保守政党・共和国連合 (RPR) へ入党する。1977年パリ西郊の高級住宅地オー=ド=セーヌ県ヌイイ=シュル=セーヌの市議会議員に最下位で当選する。同年共和国連合中央委員に選出される。1978年から1979年まで共和国連合青年部全国代理、1979年から1981年まで共和国連合全国青年委員会委員長。大学卒業後は一時パリ政治学院に在学していたが、ここでも英語がネックとなり修了できなかった。1981年に弁護士資格を取得し、不動産を専門とする法律事務所をパリに共同で開設する。1983年、28歳でイル=ド=フランス地域圏議会議員、ヌイイ=シュル=セーヌの市長に当選する( - 2002年)。犯罪の減少など一定の成果を上げる。
1988年、国民議会(下院)議員に初当選。ヌイイ市長と兼職する。1993年、バラデュール内閣の予算相として初入閣。同年、ヌイイ市内で発生した幼稚園立てこもり事件が起こる。この事件では、市長として犯人と直接交渉に臨み、人質の解放に貢献して全国的に有名となる。1995年フランス大統領選挙ではジャック・シラクから離反し、シャルル・パスクワに付いて対立候補のエドゥアール・バラデュールを支持する。しかし決選投票の結果、シラクが大統領に当選したため、第1次シラク政権では冷遇された。1997年に与党共和国連合(RPR)ナンバー2に返り咲き、1999年欧州議会選で事実上の党首として陣頭指揮を取るが惨敗を喫し、一時は政治生命の危機も囁かれ、党の役職を全て辞して弁護士としての活動に戻った。
閣僚 [編集]
2002年5月、ラファラン内閣の内務・治安・地方自治相として入閣、久々の表舞台となったが、サルコジ自身は首相職を望んでいたため、ますますシラクとの関係が微妙なものとなった。2003年3月19日に治安回復を目指し、軽犯罪の厳罰化と街娼の取り締まりなどを目的としたサルコジ法を施行させる。サルコジ内務相の強硬な治安政策によって、国内の犯罪発生件数は激減し、実績を買われたサルコジは一躍、優秀な政治家になる。2004年、財務相に異動。同年11月29日、RPRの流れを組む国民運動連合 (UMP) の党首選挙において、85%の得票率で党首に選出される。シラクはサルコジの権力増大を恐れ、サルコジは財務相を辞任する。
2005年5月31日よりド・ビルパン内閣の内相に就任する。同年発生したパリ郊外暴動事件の鎮圧にあたる。この際、暴動に加わった若者に対して、「社会のくず (Racaille)」「ゴロツキ (Voyou)」などと発言したことが物議を醸すが、こうした強硬な態度がかえって世論の支持を集めた。暴動の最中の11月12日にイフォップ社が有権者958人を対象に行った電話による世論調査では、国民運動連合の支持者の90%が、極右政党支持者の97%がサルコジ内務相の強硬姿勢を支持すると応えた。
大統領 [編集]


2007年、大統領選挙における演説をするサルコジ
2007年フランス大統領選挙に立候補。保守層や勤労世帯を中心に支持を集め、同年5月6日の決選投票で社会党のロワイヤル候補を下し、大統領に当選する。同月16日、フランス第5共和政下の第6代大統領に就任。
大統領に当選直後、地中海に自家用ジェット機とマルタの豪華ヨット(全長60メートル、推定賃料週20万ユーロ=約3240万円)でクルージングし、野党からはあまりに豪華すぎると批判された。これに対し彼は「何が問題か。私は逃げも隠れも謝りもしない」と反論した。
上記の豪遊では批判されるも、旧植民地マグレブ出身の法務職員であったラシダ・ダティの法相への抜擢や、セネガル出身の黒人女性の副官房長への抜擢、野党である社会党出身の政治家の大臣への登用(エリック・ベッソン、ベルナール・クシュネル)など、これまでのフランスでは考えられなかった画期的な人事を行った。法務省では次官級の幹部が総辞職してこれの妨害に動くという事態となったが、閉鎖的なフランス国内に風穴を開ける革命的なことであると北米のメディアに評されている。国民からの支持率も高く、70パーセント台を記録した。2007年6月に行われたフランスの国民議会選挙では彼の率いる与党・国民運動連合(UMP)が地滑り的勝利を収め、日本の週刊誌エコノミストはフランス版小泉純一郎と彼を評した。
同年10月、フランス大統領府はサルコジの給与を現状の2倍以上に引き上げる意向を示した。与党・国民運動連合は「大統領であるのに他の閣僚よりも給与の額が低いから」と説明したが、折りしもサルコジの改革に対して野党・国民から批判が高まりつつある時期の給与増額は波紋を呼んだ。野党社会党のビアンコ議員は「多くの国民が月末に出費をやりくりしているご時世にいかがなものか」と批判した。
2012年フランス大統領選挙に出馬したが、決選投票にて社会党のフランソワ・オランドに敗北。
主張・政策 [編集]

基本政策 [編集]
シラク政権のイラク戦争反対により冷え込んだ対米関係の改善と、フランス伝統の平等主義を捨て自由競争を重視する英米型の新自由主義経済政策路線を提唱している。モットーは「もっと働き、もっと稼ごう」。サルコジの政策は、米国と距離を置きフランス独自の外交政策を目指し国内経済に積極的に介入する保守派主流思想のド・ゴール主義とは一線を画している。
外交 [編集]


2007年、ドイツメクレンブルク=フォアポンメルン州ハイリゲンダムでの第33回主要国首脳会議(ハイリゲンダムサミット)にて主要国首脳会議に初参加(左から四番目)


2007年11月、公式訪米でブッシュ大統領と会談し親米ぶりを強調
アメリカ合衆国 [編集]
外交姿勢は親米派とみなされることが多く、対米追従を拒否していたシラク大統領は後任として首相ド・ビルパンを推したため、内務大臣であり大統領を目指していたサルコジとシラク、ド・ビルパン間には不協和音が目立っていた。2007年8月にはアメリカ大統領ブッシュから別荘に招かれ、イラク戦争当時の対立を克服する事で合意。親米ぶりを強調した。
しかし2008年に南オセチア紛争が勃発するとアメリカの対外政策に苦言を呈したり、金融危機が悪化するとその責任はアメリカにあると発言するなど、アメリカに対する批判を積極的に行うようになった[2]。
日本 [編集]
親日家として知られていたシラクとは異なり、サルコジの日本文化に対しての嫌悪感が窺える発言は多い。2004年1月に中華人民共和国香港特別行政区を訪問した際、「香港は魅惑的な都市だが、東京は息が詰まる。京都御所はうらぶれている。有名な庭園も陰気だった」「ポニーテールの太った男同士が戦うことがなぜそんなに魅力的なのか。(相撲は)インテリのスポーツではない」との蔑視発言を行った[3][4]。
もっともサルコジ自身は大統領就任以前ほとんど日本との縁がなく、こうした発言は多分にシラクの親日派ぶりに対抗したもののようである。一方で外交政策の面では、日本の国際連合の常任理事国入りを幾度となく支持するなど、多くの面で伝統的な日仏関係を踏襲したものとなっている[5][6][7]。
リビア [編集]
大統領当選直後は「人権外交」を掲げて、圧政国家には物申す姿勢を明らかにしていたが、その後、独裁者として知られるリビアのカダフィ大佐のフランス訪問を認めて国民や野党から非難を浴びた。サルコジ自身は、会談で人権問題に触れたと弁明した。
中国 [編集]
リビア同様に人権問題を抱える中国を訪問した際には、人権担当相を訪問団に加えず人権問題・民主化問題にも触れなかったため、野党から批判された。これら一連の会談や訪問には「人権派」として知られるクシュネル外相は同行しなかった。
2008年12月、ポーランド北部グダニスクでチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世と会談し、「ダライ・ラマはチベット独立を求めていないと説明した。私は中国当局との対話を勧めた」と語った。これに対し、中国国営新華社通信は6日配信の論評で「思慮のない行動だ。中国人民の感情を傷つけるだけでなく、中仏関係にも害を与える」と批判した。サルコジは中国の反発ぶりに関し「私はフランス大統領として自由であり信念もある。事態を緊張させるつもりはない」と強調。「(中国は)静かに対応すべきだ。世界は中国のより一層の開放を求め、中国は欧州の投資を必要としている」とも話した[8]。
中東 [編集]
親イスラエル姿勢でも知られ、2007年春の大統領選期間中から「地中海連合」構想を提唱しているが、北アフリカやトルコ、ドイツなど周辺国から様々な理由で警戒も強い[9]。2008年12月からのイスラエルによるガザ侵攻では、イスラエルとハマースに停戦を働きかけ、自らイスラエルに来訪し停戦交渉を行った。しかし、より親イスラエル色の強い米国が攻撃続行を支持している為もあり、イスラエルは拒否を続けている。また、ハマースはイスラエルによるガザ地区封鎖解除を停戦の条件にしており、サルコジはこれに対して批判している(パレスチナ問題#イスラエル「鋳られた鉛("Operation Cast Lead")作戦」も参照)。
内政 [編集]
憲法改正の発議 [編集]
2008年7月21日、サルコジの2007年大統領選挙時の公約であった憲法改正案が議会により1票差で可決された。その内容は、大統領再選を2期に限定することや、大統領による人事を拒否する権利を議会に付与することなど、議会の権限を強化する案が織り込まれている[10]。
経済政策 [編集]


2008年10月、アメリカ合衆国のブッシュ大統領(左)、欧州委員会のバローゾ委員長(右)と
国民議会選挙後の2007年8月、サルコジが2007年の大統領選挙で公約にしていた減税法案が議会で可決された。この減税法案は財政赤字削減よりも経済成長を優先するもので、所得税率の引き下げなどが含まれる。欧州連合(EU)では加盟国に2010年までの財政均衡化を求めているが、サルコジはこれに対し減税によって歳入減となり財政赤字削減が遅れるとして2012年に先送りにするよう求めた。
サブプライムローン問題に端を発する金融危機が本格化し、世界経済に深刻な損害を与えるようになると、サルコジはEU議長国の大統領として積極的に金融危機への対応のイニシアティヴを取った。2008年10月18日には、アメリカ合衆国大統領のジョージ・W・ブッシュ、欧州委員会委員長のジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾと会談を行い、主要国に新興国(中華人民共和国やインドなど)を含めた国による首脳会談(金融サミット)の開催を漕ぎつけた。金融サミット直前の11月13日には「ドルはもはや基軸通貨ではない」と発言し、ブレトンウッズ体制を構築する必要性をも説いた。そして第1回金融サミットがワシントンD.C.で開催された際、当時首相の麻生太郎の発言に対しに「ドルは基本通貨に成り得ない。20世紀確立された金融システムを21世紀にも踏襲することは不可能だ」と反論するも、麻生より「その場合、さらなるドル暴落が避けられなくなるが、新興諸国の損害を担保する覚悟があるのか?」と聞かれ、「我々にそんな計画はない。」と持論を論破された。11月14日から11月15日(現地時間)まで行われ、サルコジが求めた金融機関への規制強化も共同宣言に盛り込まれたものの、日本が提示した15項目のうち、実に12項目もが宣言文の中に明記され、麻生案をベースに世界が一致して行動することが決まった。一方、フランス国内への対応としては、高速鉄道の建設などの公共投資や自動車産業への支援策を盛り込んだ260億ユーロ規模の景気対策を行うと12月4日に発表した。
移民政策 [編集]
強気な姿勢は国民からも一定の人気がある。特に70歳以上の老年層における支持率が高い。移民が数多く暮らしている治安が安定しない地域を視察し、彼等を「社会のくず」「ごろつき」呼ばわりした事は大きな波紋を呼んだ。こうした発言はフランス各地で起こった若者達による暴動激化の一因だとされている。しかし彼はそれでもその姿勢を崩さず、批判を浴びてもそれを物ともしないばかりか、ますます過激な強硬発言を増やしている。自身も移民2世であるためか、逆に移民に対し強硬な発言も躊躇しない傾向にあり、暴動を起こしている若者達、彼らを心情的に支持する層からは憎悪の対象となっている。もっとも、「私は移民反対のジャン=マリー・ルペン党首(国民戦線)とは違う。この国には優秀な移民が必要だ」とも主張しており、人種間の機会を平等にするために大学の入学者枠を人種ごとに設定するアファーマティブ・アクションの導入を訴えている。
フランスのアイデンティティの確立 [編集]
2009年、サルコジは、フランス国民の定義とフランスの価値観を移民に共有させる方法について問題提起し、この2点を議論するよう国民に呼びかけた[11]。そのうえで、移民省に命じてフランス全土450ヶ所で討論会を開催するなど、議論への積極的な参加を国民に要請している[11]。この議論について、サルコジは「フランスとは何かを知る崇高な運動」[11]と位置づけているが、ドミニク・ガルゾー・ド・ビルパンが「こんな重大なテーマを経済危機で団結すべき時に持ち出すべきではない」[11]と指摘するなど、サルコジを支える与党勢力からも懐疑的な意見が出された。同じく与党のアラン・ジュペは、この論議は「国内の対立、特にイスラム教徒への反感をあおった」[11]と指摘している。
エネルギー政策 [編集]
エネルギー政策の柱を原子力発電に据えており、福島第一原子力発電所事故後に各国で起きた見直しの議論に対しても、政策の見直しなどではなく、安全基準の強化にするべきとの見解を発表した[12]。また近年広がりを見せている再生可能エネルギーについても「原子力を代替はできない」と判断している[12]。
福島原発の事故に対しても、アレヴァ社による技術支援以外に、原発についての国際基準の作成や安全対策をG8の議題とすることなどを含めた姿勢を明確にした[12]。
2011年3月31日には来日して菅直人首相と会談を行い、国際的な安全基準を導入することを主張したが、一方では事故による政策への影響を認め、安全基準に適合しない発電所については廃止を検討しているとした[13]。
人物 [編集]

人物像 [編集]


大統領就任式当日のサルコジ
「ナポレオンより背が低い」と言われるほど、平均的なフランス人(男性の平均身長175.6cm)に比べて身長が低い(163cm程度といわれ、いつも上げ底の靴を履いている[14])。そのため、フランスの有料チャンネルテレビ局Canal+の政治風刺人形劇『Les Guignols de l'info』の中では、シラク大統領(当時)人形がサルコジ人形を「スマーフ (Schtroumpf)」と呼んでいたこともあった[15]。大のタバコ嫌いでワインを含め酒も飲まない。好物はチョコレート。
親英米と言われるが英語があまり堪能でなく、上述のように学校時代は英語のために2度落第した。この点でシラク前大統領が英語に堪能でありながら人前で話すのを避けていたのと対照的といわれる。なお、2008年10月にサルコジになりすましてサラ・ペイリンと「会談」したカナダのコメディアンは「フランス語訛り」の英語を話していたという。
パリ大学卒で弁護士で移民2世という出自でもあり、高級官僚を養成するENA出身(エナルク)の官僚的な政治家が支配的なフランス政界の中で、庶民派というイメージを強く打ち出している。演説や語りも、庶民にもわかりやすい単純で率直な言い回しを好み、国民に直接訴えかけるスタイルである。
私生活 [編集]
3度結婚しており、元妻マリーとの間に息子2人、前妻セシリア(1957年 - )との間に息子1人、現妻カーラ(1967年12月23日 - )との間に娘1人、合わせて4人の子供がいる。元妻マリーは、コルシカ島の寒村の薬局の娘で、1982年に結婚し、ピエールとジャンの2男をもうけた。前妻セシリアは、作曲家イサーク・アルベニスのひ孫にあたり、モデルや元老院議員秘書を経て、テレビ司会者と結婚し、2女をもうけていた[16])。セシリアとは、双方ともに配偶者のいる中、不倫愛をつらぬき、1996年に結婚。1998年には息子ルイが生まれる。サルコジは、内務省に席を設けるなどしてセシリアを厚遇した。しかし、セシリアは2005年、支持者の実業家とニューヨークへ駆け落ち。ド・ビルパン首相(当時)からは、「妻を魅了できないで有権者を魅了できるのか」と皮肉られた。夫妻は2006年に復縁したが、セシリアはファーストレディとなることを拒絶。結局、夫妻は2007年10月に離婚した。その後、2008年1月に元トップモデルで歌手のカーラ・ブルーニと3度目の結婚を果たした。2011年10月19日に女児が誕生。
舌禍 [編集]

「人間のクズ」 - 大統領就任前の2005年10月にパリ市内などで暴動が発生した際、参加者に対して。
「それなら、お前が失せろ。この野郎」 - 2008年2月23日、パリの国際農業見本市会場で来場者と握手中、握手を拒否し「私に触るな」と言った一般男性に向かって。
「髷を結った太った男達による、美しいとはいえないスポーツ」- 2007年5月、日本の大相撲に対して。日本相撲協会はこの発言を受け、「フランス大統領杯」を廃止した。
批判 [編集]

哲学者のアラン・バディウは「サルコジ」なるものを新たな恐怖政治の症候としてとらえ、「このチビ・ナポレオンによる恐怖のために、完全に現実的なものになった内からの脅威に直面して、国家は、ジュネが演劇『バルコニー』のなかですでに与えていた国家の一方向的な形態、つまり警視総監──ちなみにかれの夢のコスチュームは、ゴム製の巨大なペニスだ──という形態をとってしまった」と批判している[17]。
脚注 [編集]

^ BBC News Profile: Nicolas Sarkozy
^ 「サルコジ仏大統領、去り行くブッシュ米大統領をチクリ」 フランス通信社、2008年11月16日。2008年12月17日閲覧。
^ 「日本を引き合いに大統領批判―フランス」 世界日報、2007年1月16日。2008年7月11日閲覧。
^ 「<07仏大統領選挙>サルコジ氏勝利による日仏関係の行方は - 東京」 フランス通信社、2007年5月8日。2008年7月11日閲覧。
^ 「仏大統領、日本など5か国の安保理常任理事国入りへの「支持」を表明」 フランス通信社、2007年1月9日。2008年7月11日閲覧。
^ ニューヨーク時事 (2009年9月24日). “日本の常任理入り支持=仏大統領”. 時事ドットコム (時事通信社) 2010年2月20日閲覧。
^ “日仏首脳、EPA締結へ共同研究開始で一致”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2010年4月14日) 2010年4月14日閲覧。
^ 「ダライ・ラマ:仏大統領と会談、対話を強調 中国は猛反発」 毎日jp、2008年12月7日。
^ 「仏の「地中海連合」に暗雲 モロッコ訪問中止」 asahi.com、2008年7月12日。
^ フランスで憲法改正案、1票差で可決 フランス通信社、2008年7月22日。
^ a b c d e 福原直樹「『フランス人とは何か』――サルコジ政権が問い――ゆがむ論議広がる反発――『崇高な運動』か『移民・イスラム排斥』か」『毎日新聞』48147号、13版、2010年1月11日、4面。
^ a b c サルコジ仏大統領原子力推進の強い意志表明 サイエンスポータル 2011/04/02閲覧
^ 仏サルコジ大統領が訪日 国際安全基準の策定を主張
^ 国末憲人『サルコジ』77頁、新潮選書
^ ちなみに、ロシアのつるふさの法則のように、第五共和国の歴代大統領は、長身とそうではないものが交互で就任するというトリビアが存在する。
^ 吉田徹「大統領サルコジの誕生」月刊現代、2007年07月号
^ アラン・バディウ『サルコジとは誰か』榊原達也訳、水声社,2009年、16頁
関連項目 [編集]

サルコジ主義(fr:Sarkozysme)
セゴレーヌ・ロワイヤル
フランソワ・フィヨン
サルコジ法
ジャン・アレジ (顔が似ているといわれる)


03. 2012年5月08日 07:25:17 : KbjUzFqPyw
庶民出身でENA7番で頭も良さそう。庶民派政治を期待。ストロンカーンを財務大臣にして欲しい。

フランソワ・オランド(François Hollande、1954年8月12日 - ) は、フランスの政治家。第9代フランス社会党第一書記であり、フランス共和国大統領当選者である。
目次 [非表示]
1 略歴
1.1 政界入り
1.2 社会党第一書記へ
1.3 2012年大統領選
2 公職歴
2.1 国政
2.2 地方
2.3 欧州議会
3 暴露本「運命の女」
4 脚注
5 外部リンク
略歴 [編集]

セーヌ=マリティーム県ルーアン出身。耳鼻咽喉科の医者ジョルジュ・オランドを父に、ソーシャルワーカーのニコール・トリベールを母に生まれる。パートナーであった政治家、セゴレーヌ・ロワイヤルとの間に4人の子供がいる。
パリ政治学院(通称:シアンス・ポ)で法学士の学位を取得、同校でフランス全学連の委員長を務める。1974年、パリのHEC経営大学院(HEC)に入学、フランソワ・ミッテラン支援委員会の委員長を務める。1979年にオランドは社会党に入党している。1980年、フランス国立行政学院(ENA)を7番目の成績で卒業、フランス会計監査院の検査官となる。ジャック・アタリ、ジャック・ドロールの後押しにより、フランソワ・ミッテランの参事官となる。
政界入り [編集]
1981年、ジャック・シラクの対立候補として国民議会選挙に立候補するが、第1回選挙で敗退する。シラクが50%以上の得票率であったのに対し、オランドの得票率は26%でしかなかった。しかし、ミッテランの大統領選勝利によって、側近であるオランドは大統領官邸での任務(経済問題)を担当することになる。1983年、ピエール・モロワ内閣で次々に現れた2人のスポークスマン、マックス・ガロとロラン・デュマの官房長となる。同年、市町村議会選挙に立候補するが敗れ、ジャック・シラクの選挙区である(コレーズ県)ユセルの市町村参事会員となる。
1984年、派閥争いに嫌気がさし、数人の友人、特にジャン・イヴ=ル・ドリアン、ジャン・ピエール=ミニャール、ジャン・ミシェル=ガイヤールなどと共に社会党の超派閥集団を結成した。
1988年、ミッテランの大統領再選の後、コレーズ県第1選挙区で53%の得票数を得て国民議会議員に当選。同年から1991年まで政治学院で第3学年の学生に経済学を教える。1990年、レンヌの党大会でモロワ=メルマッズ=ジョスパンの動議を支持。
1993年、国民議会議員の任期を終了すると、1997年までジャック・ドロールの政治集団「クラブ・テモワン」を主宰する。現在、彼は名誉会長を務める。会計監査院行政官としてのオランドは、弁護士職と同等の資格を持っており、暫くの間、友人のジャン・ピエール=ミニャールの事務所で働く。
社会党第一書記へ [編集]
1994年、彼は社会党全国書記、経済問題担当となる。ジャック・ドロールが大統領選への立候補を断念した後、リオネル・ジョスパンに接近する。ジョスパンは自らの大統領選キャンペーンの、また1995年10月には社会党のスポークスマンにオランドを起用した。多元的左翼勝利の後、1997年、フランソワ・オランドは再び代議士(得票率54%以上をもって)となり、ジョスパンも首相に指名された。ジョスパンは自らの後継者として社会党第一書記の地位をオランドに託した。
オランドは10年間にわたって社会党第一書記を務めた。調整型といわれる半面、リーダーとしての決断力に欠けるとの声もある。
1999年、オランドは欧州議会議員に選出され、社会主義インターナショナルの副議長に選出されている。
2007年にはセゴレーヌ・ロワイヤルとの事実婚関係を解消した。
2012年大統領選 [編集]
2012年に行われる大統領選挙への出馬を目指し、社会党の予備選に立候補を表明した。2010年10月に行われた予備選の決選投票で、現第一書記であるマルティーヌ・オブリーを破り、大統領選の公認候補に選出された。
2012年4月22日に施行された2012年フランス大統領選挙第一次投票で得票率28%を獲得し、現職のニコラ・サルコジを抑えて第1位となったが[1]、過半数を獲得できなかったため、規定により5月6日の決選投票に持ち込まれた。決選投票で過半数を獲得し、サルコジを下して初当選を果たした[2]。
公職歴 [編集]

国民議会webページ[3]による。
国政 [編集]
1988年6月12日 - 1993年4月1日 : 国民議会議員
1997年6月1日 - 現職 : 国民議会議員
地方 [編集]
1983年3月17日 - 1989年3月12日 : ユセル市会議員
1989年3月17日 - 1995年6月18日 : チュール市副市長
1992年3月23日 - 1992年3月30日 : リムーザン地域圏議会議員
1995年6月25日 - 2001年3月18日 : チュール市会議員
1998年3月16日 - 2001年4月2日 : リムーザン地域圏議会議員
2001年3月19日 - 2008年3月9日 : チュール市長
2008年3月20日 - 2011年3月27日 : コレーズ県会議長
欧州議会 [編集]
1999年7月20日 - 1999年12月17日 : 欧州議会議員
暴露本「運命の女」 [編集]

2007年に事実上の妻であるセゴレーヌ・ロワイヤルが大統領選に敗北してまもなくフランス高級紙「ル・モンド」の記者2人による著作「運命の女」が出版された。これは、それまでオシドリ夫婦と見られたオランドとロワイヤルが10年以上前から「仮面夫婦」の状態であることを暴露したものである。同書の中には1995年にロワイヤルが大統領選出馬を考えてたが、オランドが反対したことや、オランドの浮気などの様々な面で対立や軋轢が両者の間にあったことを綿密な調査のもと書いている。オランドとロワイヤルはこの本の内容を否定したが、フランス国内では15万部が売れるベストセラーになった。
なお2007年6月に両者は別居、関係を解消している。


04. 2012年5月08日 07:36:46 : KbjUzFqPyw
オランドが仮面内縁妻ロワイヤルに前回大統領選に出るなと言った様だが、それが正しかった。ストロンカーンはオランドの先輩で優秀さを知っていたので、内縁妻より大統領に相応しいと客観的に思った様だ。サルコジが居なければもう少し欧州もまともだった。

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ドミニク・ストロス=カーン(ストロス・カーン、ストロスカーン、Dominique Strauss-Kahn、1949年4月25日 - )は、フランスの経済学者、法律家、政治家。フランス社会党所属。しばしば頭文字をとって、DSKと呼ばれる。IMF専務理事を務めた(2007年11月1日〜2011年5月18日)。
1997年から1999年まで経済・財政・産業大臣(大蔵大臣、財務大臣に相当)。パリ政治学院及びHEC経営大学院教授。2007年フランス大統領選挙では、社会党の大統領選挙候補者に立候補したが、最終的に2006年11月党大会でセゴレーヌ・ロワイヤルが公認候補者となった。2012年の大統領選挙でも有力候補とみなされてきたが、強姦未遂疑惑が持ち上がり[1]IMF専務理事を辞任。結局起訴は取り下げられたが、なお選挙出馬は困難との見方が強い(後述)。
目次 [非表示]
1 生い立ちと初期の経歴
2 政界入り
3 産業界
4 蔵相
5 IMF専務理事
6 著書
7 脚注・参照
8 外部リンク
生い立ちと初期の経歴 [編集]

1949年4月25日パリ、ヌイイ・シュル・セーヌに生まれる。父ジルベールは、アルザス・ロレーヌをルーツに持つユダヤ系フランス人の家系出身。母ジャクリーヌはセファルディムを先祖に持つジャーナリスト[2][3]。幼年時、モロッコとモナコで過ごした。
長じて経済学と政治学をパリ政治学院で、経営学をHEC経営大学院でそれぞれ学んだ。さらに公法で博士号Ph.D.を、経済学でアグレガシオンの学位を取得した。
1977年ナンシー第二大学経済学部教授、1981年ナンテール大学及びフランス国立行政学院(ENA)教授に就任。2007年現在パリ政治学院でミクロ経済学とマクロ経済学を教えている。
1971年貯蓄調査センター Centre de recherche sur l'épargneに勤務する。ここで後にフランス大手のIT企業、キャップジェミニ Capgemini社社長となるポール・エルメラン Paul Hermelinや、革命的共産主義者同盟の党員で後に保険大手スコールの社長となったデニス・ケスラー(ドニ・ケスラー)とともに働く。1982年にケスラーはナンテール大学助手となり、『貯蓄と退職』 L’épargne et la retraite のタイトルで論文を共同執筆した。
政界入り [編集]

ストロス・カーンは、社会主義教育研究センター Centre d'Etudes, de Recherches et d'Education Socialiste に所属し、ここで後に国防相、内相を歴任する社会党の大物ジャン・ピエール・シュヴェーヌマンに師事するとともに、後に首相、社会党第一書記となるリオネル・ジョスパンとの親交を得た。
1981年フランス大統領選挙で社会党のフランソワ・ミッテランが当選する。ストロス・カーンは、ジョスパンが設立した社会党機関「社会主義とユダヤ主義」で勤務するため、公職を離れ、社会党企画担当委員となる。1986年オート=サヴォワ県から下院国民議会選挙に立候補し初当選する。1988年ヴァル=ドワーズ県から選出される。財務委員長になり、同じく社会党出身のピエール・ベレゴボワ蔵相(後、首相)とともに経済・財政専門家として知られるようになっていった。1995年から1997年までサルセル市長を務めた。
産業界 [編集]

1991年エディット・クレッソン内閣の産業担当次官に就任する。クレッソン内閣の後継となったベレゴボワ内閣でもいくつかのポストに就く。しかし1993年社会党は総選挙で敗北し、ストロス・カーンも落選の憂き目を見る。選挙後、クロード・アレグール Claude Allègreらと社会党専門家グループ groupe des experts du PSを結成した。このグループは、ミシェル・ロカール派と近い関係にあり、ロカールを支援した。1994年ルノー社取締役のレイモン・レヴィ Raymond Lévyによって欧州連合に対するフランス産業界ロビー団体である産業サークル Cercle de l’Industrieに誘われる。産業サークルでヴァンサン・ボロレ、ルイ・シュヴァイツァーなどの有力実業家と知己となった。ストロス・カーンは産業サークルで事務総長、副会長を務めた。1993年法律事務所「DSK顧問」を設立して、企業弁護士としても活動した。1995年TF1の記者であったアンヌ・サンクレールと結婚。
蔵相 [編集]

1997年国民議会総選挙で社会党が勝利し、ストロス・カーンも当選し、リオネル・ジョスパン内閣が成立すると、経済・財政・産業大臣として入閣する。蔵相としては、大規模な民営化を実施し、その中にはフランス・テレコムの株式公開も含まれる。そのほか、種々の規制緩和や研究、開発分野への投資を促した。ストロス・カーンの努力もあり、フランス経済はストロス・カーンの在任中、GDPの増加と、失業率、公的債務の減少が見られた。このことは、ストロス・カーンの政治家としての信頼度を増すこととなり、同時に党内実力者であるジョスパンやロカールの一層の支持を得ることにも繋がった。ストロス・カーンはこの時期、党内改革派のグループ「社会主義と民主主義」Socialisme et Démocratieを結成している。しかし、ジョスパン首相とマルティーヌ・オブリー社会相が打ち出した週35時間労働時間制(4時間の削減)に対しては、産業界の意向もあり反対していたが、ジョスパン首相の意向もあり実現した。
1999年エルフアキテーヌ社とMNEF(学生健康保険)に関係した2つの金融スキャンダルで渦中の人となり、蔵相を辞任した。後に裁判で無罪となり、2001年国民議会議員に返り咲きを果たした。2002年国民議会総選挙でも当選。2004年末、2007年フランス大統領選挙に向けて、ジャック・ラング、マルティーヌ・オブリとともに社会党政策プログラム作成の責任者となる。2005年夏、大統領選挙候補者を選出する党内予備選挙に立候補を表明した。党大会ではセゴレーヌ・ロワイヤル、ローラン・ファビウス元首相が立候補し、ストロス・カーンは2位となり、ロワイヤルに敗れた。
ストロス・カーンはロカール、ピエール・モスコヴィッチ Pierre Moscoviciと「ヨーロッパを左に」 À gauche en Europe というシンクタンクを設立した。また、前述の「社会主義と民主主義」グループ会長でもある。
IMF専務理事 [編集]


この節は現在進行中の事象を扱っています。内容は最新の情報を反映していない可能性があります。このタグは2011年5月に貼り付けられました。
国際通貨基金 (IMF) は2007年9月28日午前に開いた理事会で、次期専務理事に元財務相のストロス・カーンが就くことを決定、同年11月1日に就任した。任期は5年。ストロス・カーンはこの期間、仏政界から離れることになる。就任後の2008年には部下の女性エコノミストとの立場を利用したとされる不適切な交際が問題となり、IMFによる調査が行われた。
2012年フランス大統領選挙において40%以上の支持で断トツの有力候補になり、社会党内でも有力な候補としてみなされてきたが[4]2011年5月14日に訪問先のニューヨーク市において性的暴行容疑で逮捕・訴追された[5]。保釈を要請するも認められず[6]、同市の島全体が刑務所となっているライカーズ島(英語版)の独房に収容された[7]。5月18日にはIMF専務理事を辞任する旨が発表された[8]。5月20日に600万ドル相当の保釈金を払うなどの条件で保釈が認められ、自宅軟禁が続いていた[9]が、性的暴行の被害者とされるホテル従業員の女性の供述について検察当局が疑念を抱き、7月1日、ニューヨーク州の裁判所はストロス・カーンの自宅軟禁を解除[10]。8月22日は検察側が起訴を取り下げた[11]。しかしそれに先立つ8月8日には原告の女性に民事でも訴えられた[12]ほか、他にも訴えを起こされており、大統領選挙への出馬は難しいとの見方が多い[13]。


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