http://www.asyura2.com/12/senkyo129/msg/492.html
Tweet |
言うまでもなく、この無罪判決の意味は小さくない。しかし、むろん、判決の中身が問題なのではない。つまり無罪判決の理由を説明した判決文、たとえば「政治資金規正法に違反しているかどうか」「小沢一郎と秘書の間に共謀関係が成り立つかどうか」というような判決文の内容が問題なのではない。
裁判官が、苦し紛れに、無罪判決を出さざるを得なかったという事実だけが重要なのである。そもそもこの小沢一郎裁判は、裁判自体が「無効」であった。何者かがデッチアゲた、政治的謀略としての政治裁判であり、いうなればインチキ裁判であった。では、 誰が、何のために、小沢裁判を仕掛けたのか。
政権交代を実現し、政治改革を実現しそうな剛腕政治家・小沢一郎・・。戦後日本を奴隷国家たらしめてきたアメリカという帝国主義国家からの独立を志向する政治家・小沢一郎・・。米軍のプレゼンスは、第七艦隊で充分だと言い放った小沢一郎・・。「官僚主導から政治主導へ」と、官僚主導の政治構造を批判する小沢一郎・・・。
その小沢一郎を、政治的に抹殺し、政権交代と政治改革を妨害し、日本という国家を「奴隷国家」のままにしようとして、巨大マスコミを総動員した情報操作を通じて、巧妙に仕組まれた「政治裁判」、それが小沢一郎裁判であった。有罪か無罪かを議論すること自体が無意味なのである。
つまりこの裁判は「有罪ありき」が前提の裁判であった。その意味で、この裁判が無罪判決で終わったという事実は重要である。いわば、この政治裁判が行き詰まったということであり、この政治裁判が挫折したということだからである。この「無罪判決」で、裁判自体が存在しないことになったからである。
小沢裁判では、裁判が進むに従って、「裁かれるべきは小沢一郎ではなく、検察と最高裁である」「裁かれるべきは巨大マスコミである」という意見が強くなってきたが、ここにこそ小沢裁判の問題の本質がある。まさしく、裁かれるべきは、「検察」「裁判所」「マスコミ」「親米属国派文化人」「・・・」であることが暴露されていったという意味で、この裁判の歴史的意義は大きい。
そこで、あらためて、ここで、小沢一郎裁判とは何であったのか、を総括してみたい。
その前にまず、小沢一郎という政治家の本質について考えてみたい。小沢一郎とはどんな政治家なのか。ある程度、客観性を担保するために、文芸評論家・江藤淳とカレル・ヴァン・ウオルフレンの「小沢一郎論」から見てみよう。
まず、江藤淳の小沢一郎論から・・・。
『小沢氏というのは不思議な政治家で、要するに政策を実現することが第一義、そのために自分がいつ総理になるかは二の次の課題であって、現在、輿望を吸収出来る人物が羽田孜氏であれば羽田さんを担ぐ。誰が総理になるかならないかは二の次の問題、政策の実現こそが緊急の課題だということをハッキリと打ち出している人間が出てきたということは、戦後日本の政治史上まことに驚くべきことだと言わざるを得ない。』
(文芸評論家、元東工大教授・江藤淳)
次にカレル・ヴァン・ウォルフレンの小沢一郎ロングから。
『小沢は今日の国際社会において、もっとも卓越した手腕を持つ政治家のひとりである。ヨーロッパには彼に比肩し得るリーダーは存在しない。政治的手腕において、そして権力というダイナミクスをよく理解しているという点で、アメリカのオバマ大統領は小沢には及ばない』
(アムステルダム大学教授、カレル・ヴァン・ウォルフレン)
この二つの小沢一郎論を読んで、「なるほど」と納得する人は少ないかもしれない。余りにも、マスコミを中心に出来上がっている「小沢一郎イメージ」とかけ離れているから当然であろう。しかし、江藤淳やカレル・ヴァン・ウォルフレンが、どういう人かを考えてみると、この二人の小沢一郎論が、信用できない、荒唐無稽なものと思う人も、そんなに多くはないだろう。
http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20120428/1335567343
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK129掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。