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(パロディスト、マッド・アマノ氏ご提供)
最近よく考える。小泉政権から特に顕著化した政治形態は、国民生活や幸福原理を完全に無視した、あるいは国民主体の方向性から完全に乖離した流れになっているが、この傾向は菅政権や野田政権が強く踏襲した。特に野田佳彦政権は、政権交代時のマニフェストを完全に無視して突き進んでいるばかりか、シロアリ退治なき消費税増税やTPP参加という亡国国政に特化した先鋭さで突き進んでいる。
最近よく考えると言ったのは、野田首相が暴走する現在の政治体制をどう捉えるかと考えた時、そもそもこの状況は政治体制なのか、国政の履行なのかと強い疑問符が湧くのである。神州の泉の稚拙な基本理解では、政治とは、欧米概念では自然状態の人間は争いが際限なく拡大し、世は無秩序化に向かうため、その制御として統治という権力施行手段を、一種の共同幻想として人民が認めたということである。
一方、日本で言う政治とは、農耕社会に特有な「まつりごと」の概念から発祥しているが、それは呪術や託宣などのシャーマニズムが強い影響を有していて、その基本原理は稲作や農産物、海産物の獲れ具合を占う儀式的な要素が強かった。この状況に明治以来の西洋政治思想が混じりあって日本独特の政治風土が出来上がった。
しかし、自然状態の人間を制御しようとする欧米の政治観も、農耕社会の共同体原則を維持しようとする日本型政治でも、共通するところは、人民統治が大基盤となっている。だから、政治とは何かという問いかけに、必ず登場するのは、統治主体である政治家と被統治者である人民の二者が厳然と出てくるというのは常識である。
ところが、野田政権のやっていることを眺めると、統治出力を受ける側の人民が見当たらないのだ。もっとはっきり言えば、野田政権が行っている「政治」とは、国民が不在であり、彼らが政治出力として視界に置いているのは、アメリカや既得権益複合体(米官業複合体)なのである。
アメリカ、大企業(財界)、官僚ばかりの利益を目論んで行う政治をはたして政治と呼べるのだろうか。国民が国政から置き去りにされている政治を政治と呼べるだろうか。もし、国民が政治と関わっている部分があるとするなら、それは搾取される対象としてのみの存在価値である。それが野田首相の進める大義なき消費税増税に表れている。
これにTPP参加という国家主権を崩壊させる亡国対外政策と郵政民営化見直し法案の危ない方向性が出ている。野田政権がやっていることは、すべてが国民を搾取すること、郵政資金を外資に明け渡すこと、TPPという自由貿易標榜で日本の関税主権を撤廃し、国際金融資本の収奪に任せる状況に日本を追いやることである。
しかも、最大の国内・国外問題としてフクイチ事故の未収束問題があるが、それを収束したと言って他原発の再稼働を目論んでいる。国民を防衛しない、国家も防衛しない、このようなことを行っている政治を政治と呼べるのだろうか。野田佳彦氏は、2009年8月6日に、自身が主宰するサイトでこんなことを言っている。
「マニフェストに載せたことは命懸けで実現する、載せなかったことには基本的には手をつけない。この意義がわかっていない自民党には、そもそもマニフェストを語る資格がありません。」 だが、野田佳彦氏が首相になってからやっていることは、マニフェストを命懸けで反故にし、載せなかったことを命懸けで実行しているのである。
政治の最高指導者自らが、こういうペテンで国政を運営している事実をどう受け止めたらいいのだろうか。つまり、野田政権には国民がいないのである。これのどこが政治なのだろうか。日本の歴史では、皇位簒奪の意志を持ったと言われている人物に、弓削道鏡と足利義満の二名がいるが、野田佳彦氏のやっていることは「国政簒奪」である。
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2012/04/post-77dc.html
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