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江藤淳と小沢一郎の「独立革命論」・・・。
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2012-04-20 文芸評論家・山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記
ケビン・メアというアメリカ人(前米国「国務省」日本部長)は、幼稚で、単純素朴な「日本通」であるらしい。「在日米軍は第七艦隊だけで十分だ」と言った小沢一郎を、「安全保障知らずのアホ」だと言っているが、同時に、民主党の長嶋昭久や前原誠司、そして自民党の石破茂を、「安全保障がよくわかっている政治家」として持ち上げている。この発言の真意は何処にあるか。むろん、言わなくても分かるような発言である。これは、アメリカ支配層から見たら、日本民族独立派の小沢一郎は危険人物であるが、親米従属派の植民地主義者たち、長嶋昭久や前原誠司、そして石破茂は、アメリカの言いなりになる可愛い奴隷政治家だということであろう。各国に、アメリカの国際戦略の一環としての不当な政治支配に、必死で抵抗し、独立を目指す政治家がいる。最近では、パナマのノリエガ、ベネズエラのチャベス、そしてもう少し時代を遡ればインドネシアのスカルノ、フィリピンのマルコス・・・などである。これらの政治家たちは、国内的には圧倒的な国民的英雄であり民族派政治家でありながら、アメリカの政治的な陰謀謀略によって、ことごとく政治的に抹殺され、アメリカの植民地支配の手先となるべき奴隷政治家たちに取り換えられている。小沢一郎が、執拗に日本の司法権力に睨まれ、ついに強制起訴、裁判闘争に至ったことは、アメリカの陰謀謀略が背後にあることは言うまでもないが、それのみならず、日本国内にも、小沢一郎は危険人物だと考えている人たちがいるということだ。とりわけ問題なのは、小沢一郎を目の仇にし、ことあるごとに小沢一郎を敵視する自称「保守派」の政治家、言論人、学者たちの存在である。日本の独立・自立を目指すべき「保守派」ならば、まさしく独立派政治家・小沢一郎を擁護するべきだと思われるが、そうはならない。日本の「保守」は、反中、反露ではあっても反米ではなく、言い換えれば、厳密に言えば、日本の独立や自立を目指していないからである。つまり自民党や保守派言論人に象徴される日本の保守は、日頃の発言がどうであろうとも、日本がアメリカの支配下にあることを許容し、望んでいる。
さて、日本の保守派が結集していると思われている産経新聞で不可解な事件があった。江藤淳が、産経新聞に連載し、それをまとめて産経新聞社から刊行した『月に一度』という政治評論集を、『小沢君、水沢へ帰りたまえ』と解題して復刊した事件である。むろん、この事件はささやかな事件である。しかし、それが象徴する意味は広く、深い。江藤淳という稀代の政治評論家の遺作を、思想的捏造を施した上で、「小沢一郎批判」「小沢一郎つぶし」に利用、つまり悪用しようとした事件だったからである。出版意図が、江藤淳の真意に反していることは言うまでもない。江藤淳は、誰憚るところなく、小沢一郎という政治家を絶賛し、称賛し続けた人である。たとえば、ここに江藤淳と親しかった石原慎太郎と福田和也の対談がある。
石原慎太郎 ・・・それで後になって、小沢一郎をしきりに評価し期待するんだからいささかトンチンカンだよね。
福田和也 あんなにアメリカを警戒してCIAの動きにまで神経質だった方が、小沢さんとアメリカの関係についてはすごくイノセントにOKなんですね。「福田君の言うこととは全然違う」とおっしゃる。
石原慎太郎 ある時「お前、いったいいつまで小沢一郎を支持しているんだ」と江藤に言ったら、憮然としていたね。
福田和也 「彼は皇帝について真剣に考えている」とおっしゃっていましたよ。その点は本当に信頼されていました。小沢さんが皇太子を人相見に見てもらったら「後醍醐帝以来の素晴らしい相をしておられる」と言われたそううだ、と江藤さんがおっしゃるから・・・(中略)、皇太子が英邁でいらっしゃることを喜んでおられたようですけど。
石原慎太郎 英邁ねえ。後醍醐帝は歴史が分からないが故にああしてアンビシャスな天皇だったけどねえ。
石原慎太郎も福田和也も、江藤淳の「小沢一郎擁護論」の真意が理解できていないことが、この対談から分かる。石原慎太郎や福田和也が、今、現在、思想的に色褪せて、テレビコメンテーターレベルの文化人に堕落していることと無縁ではない。同時に江藤淳の「小沢一郎擁護論」が、単なる思い付きや一時的な政治状況に由来するものではないことも分かる。小沢一郎が幹事長だった頃はしきりにゴマスリに徹し、小沢一郎が裁判の被告席に座る身になると、途端に「ゴロツキ」だのなんだのと罵倒し始める西部邁のような変節漢とも異なる。江藤淳は、早くから、小沢一郎の資質や才能を見通していたのだ。何故、江藤淳は、小沢一郎を絶賛し、そして小沢一郎の政治家としての才能に期待し続けたのか。言うまでもなく、日本の独立と自立の夢を、小沢一郎に期待したからである。しかしながら、産経新聞社(の中の反小沢派の面々・・・)は、自社出版物であることをいいことに、しかも著者の江藤淳が物故者であり、生存していないということをいいことに、その著書の内容を曲解し、誤読し、捏造した上に、タイトルを、『小沢君、水沢へ帰りたまえ』という悪意あるタイトルに変更した上で、復刊した。しかも、巻頭に、屋山太郎という江藤淳とは縁もゆかりもないような俗論家による、ご丁寧で、お粗末な「江藤淳批判」と「小沢一郎批判」の解説を加えている。まことに出版史上、あまり類を見ない歴史的な捏造事件であった。
しかし、本文を読むならば、江藤淳の真意を誤読する人はいない。ところが、日本の「保守派」は本を読まない。タイトルだけで判断する。むろん、産経新聞社も、それを見込んでいる。多くの保守派は、「ああ、あの江藤淳が、小沢一郎に『引退勧告』していたのか、なるほどなるほど・・・」というわけである。しかしながら、「小沢一郎裁判」は、裁判が繰り返されるたびに、「小沢一郎裁判」が、政治資金規正法違反裁判でも汚職裁判でも贈収賄裁判でもなく、実は民族独立派政治家である小沢一郎を標的とした「小沢一郎抹殺政治裁判」であることが暴露されていった。それと同時に、法廷に引きずり出された政治家の裁判としては、異例ともいえる形での、「政治裁判批判」の大衆運動が湧き起り、小沢一郎という政治家の存在が、日本独立を目指す国民的政治家、民族独立の英雄として、逆に大きくクローズアップされていく。おそらく、今回の「小沢一郎裁判」がなければ、「剛腕」「金権政治家」「壊し屋」というマスコミ共同政策のイメージ操作に幻惑されて、小沢一郎という政治家の実像を知る人は、そんなに多くはなかったはずである。(続く)
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