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http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20120216/227249/?P=1
意思決定漂流の1930年代
経済財政諮問会議を事実上の廃止に追い込んだのは、民主党の手痛い失敗だった。権力中枢に入らねば見えない風景がある。全体の意思決定システムのなかで、首相ブレーン機関はどんな「カラクリ」で動いてきたのか。見極めてから、廃止するなり代替機関を設置するなりすれば良い。構造改革派どうこうは、制度でなく人事の話だ。
権限を持つ国家戦略局を設置すれば何とかなるという民主党の「制度幻想」はいただけない。だが、法令遵守が原則の官僚機構への威力はある。従って、当面は権限を持つ経済財政諮問会議を活用すれば良かった。「ねじれ国会」で国家戦略局が認められる見通しはない。
その首相ブレーン機関は、明治国家における意思決定システムの漂流に起源を持つ。明治憲法によって分立的となっていた国家の諸機関を統合する元老は、西園寺公望1人となった。次なる統合主体の政党は、意思決定システムに大衆を組み込むことに失敗して自滅した。かくて1930年代は、矛盾が噴出し漂流の時代となった。
元老も政党も、憲法に規定がない「非制度」的な存在だ。だからこそ、人的ネットワークを諸機関に張り巡らせることで矛盾を覆い隠して来た。その両者が衰退すると当然、「制度」的な首相権限の強化の声が強まる。橋本龍太郎による内閣機能の強化や小泉純一郎による官邸主導の動きは、1990年代からの自民党の漂流が要因だ。
当時の推進力は、「国家革新運動」を掲げた陸軍中堅層だった。第1次大戦の「国家総力戦」に衝撃を受け、山県閥の世代を時代遅れとし、政党政治を激しく批判した。東條英機もその系譜に入るが、これに軍需生産を担う岸信介ら経済官僚が接近して台頭した。この「国家革新運動」から生み出されたものこそ、首相ブレーン機関だった。
ただし、首相ブレーン機関の設置だけで矛盾は覆い隠せない。そんな「制度幻想」は通じない。藩閥元老の「超然主義」も政党勢力の「政党内閣主義」も潰えたいま、「天皇大権主義」が復活した。分立した諸機関を統合する唯一の憲法的存在は天皇大権だからだ。
しかし、天皇・宮中の周囲は西園寺が固めて容易に手が出ない。そこで登場したのが、最も「近」くで天皇家を「衛」る五摂家筆頭の家柄の政治家だった。そして、時代の寵児は過剰な期待とともに明治憲法の矛盾に巻き込まれていく。近衛文麿、悲劇の運命の始まりである。
国家革新運動と西園寺公望の孤独
第1次大戦は、かつてない長期的かつ大規模な「国家総力戦」だった。国民徴兵制が進み、大量殺戮兵器が開発され、急速に発達したメディアは大衆扇動や諜報戦の役割を担った。危機感を覚えた陸軍中堅層は、日露戦争の栄光にすがる世代へ下剋上を果たしていく。
しかし、これら革新勢力の本来の敵は、リベラルな政党政治、英米協調外交、恐慌に脆かった自由経済を掲げる「現状維持勢力」だ。西園寺は、その象徴的存在だ。代わりに、天皇大権主義、英米打破の強硬外交、国家社会主義的な統制経済が掲げられた。
これに呼応したのが、打ち続く恐慌と政党の腐敗に不満を鬱積させた大衆社会と、これを煽ったメディアだ。新聞や雑誌は政治スキャンダルを繰り返し報道し、ラジオ放送は扇動的なワンフレーズ政治の手段となった。偏狭な大衆ナショナリズムが醸成されていく。
そして、「国家総力戦」は強力な意思決定システムを要求した。軍需生産など戦争目的に物資・資金・労働力を総動員すべく、強力な市場介入を行う統制経済を遂行したい。また、大衆社会は膨大な行政需要を生み、組織と事業を肥大化させる「行政国家化」をもたらした。これでセクショナリズムが加速した各省庁を強力に制御したい。
既に元老・政党は衰退した。統帥大権は頑強だったが、陸軍が直接に政権担当できる訳ではない。とすれば、「国家総力戦」を担う経済参謀本部として、各省庁を制御する拠点として、時の政権に政治介入する「傀儡」として、首相ブレーン機関こそ申し分ない。
1935年、内閣審議会が設置された。会長の岡田啓介首相、副会長の高橋是清蔵相、元日銀総裁、斎藤実前首相、財界、貴族院、政党から15名が委員となった。一方、首相ブレーン機関と革新勢力が期待した内閣調査局は、内閣審議会の事務的な下部組織に過ぎなかった。
ブレーキをかけたのは、明らかに西園寺だ。確かに政党政治は、自滅行為と5・15事件で1932年に崩壊した。だが、西園寺は諦めていない。事件後に奏薦した後継首相は、海軍リベラル派の斎藤だった。陸軍の批判を避けるため「挙国一致内閣」と銘打ったが、政友会・民政党から5人が入閣して「政党政治」復活の布石が打たれた。
1934年に奏薦した岡田首相も、民政党に近い海軍リベラル派だ。その狙いは変わらず、内閣審議会にはむしろ革新勢力や内閣調査局を封じ込める意図を込めていた。最後の元老・西園寺は、「国家革新運動」の時代に、孤独な抵抗を続けていたのである。
政界のホープ・近衛文麿
「『お父さまが大臣ンになったらオコッチャウ』と反対論が猛烈だ。大臣になるのが無上にうれしい平民にはちと趣を異にしたところさすがに『名門』である」。1934年、長男の留学先アメリカから帰国の報が伝わると、政界のホープ・近衛は大臣候補として期待を集めた。
大臣は辞退したが、近衛ファミリーは連日メディアを賑わせた。今も昔も、海外生活のご披露と名門セレブの動向はメディアの貴重なメシの種だ。近衛は、この政治資源をフル活用して時代の寵児となる。「主婦の友」など雑誌に写真入りで登場し、ラジオ演説を初めて本格的に駆使し、ワンフレーズを多用した。「近衛劇場」だ。
近衛は、父・篤麿の急逝などで人間不信を抱える一方、それが故に他者と適度な距離を保って無類の聞き上手となった。この性格が後に政治資源となり、悲劇の要因ともなる。また、近衛は単なるセレブでない。京大法科に入り新渡戸稲造、河上肇、西田幾太郎の幅広い思想に触れ、シェイクスピアを原文でそらんじるインテリだった。
大学時代から世襲の貴族院議員となった近衛は、西園寺から後継者として期待をかけられた。だが、第1次大戦後に発表した「英米本位の平和主義を排す」との論考では、戦勝国は植民地権益を固めて一方的な平和主義を押し付けていると批判した。憂慮した西園寺はパリ講和会議に随員させ見聞を広めさせようとしたが、実際に目にした会議はまさに「英米本位」の舞台だった。
1933年に貴族院議長となった頃には、「国家革新運動」に共感を覚え政党批判を展開した。「今の政党はなっていませんよ…不勉強と無感覚だといって若い軍人が起こるのも無理はない」。天皇に近い家柄と大衆人気という政治資源、現状維持批判の政治姿勢の両面で、陸軍など革新勢力にとって「傀儡」の利用価値は高まった。
1936年1月、岡田内閣は総選挙に臨んだ。勝利することで、実質上の民政党内閣を目指したのだ。2月20日の投票では、政権獲得のためなりふり構わず陸海軍に接近した政友会は301から175議席と激減し、民政党は146から205議席と第1党に躍り出た。西園寺の目論見は成功した。だが、6日後に歴史的なテロ事件が発生した。
岡田は九死に一生を得たが総辞職した。大物蔵相となっていた高橋の死は、軍事費の膨張を抑える存在の消滅を意味した。内大臣となっていた斎藤などの貴重な人材は、軒並み失われた。「政党政治」復活への一縷の望みは、遮断されてしまった。現状維持勢力の弱体化に直面した西園寺は、近衛に最後の望みをかけるより他なくなった。
第1次近衛内閣と日中戦争の勃発
2・26事件の翌月に発足した広田弘毅内閣は、革新勢力の政治介入に晒された。外務大臣候補の吉田茂は現状維持派として入閣を拒否され、政権の基本政策に国家革新が入り、軍事費を中心に国家財政は膨張した。内閣審議会は廃止され、下部組織の調査局が企画庁に生まれ変わると、政治介入の橋頭堡が築かれた。
そして、憲政擁護運動で廃止されていた「軍部大臣現役武官制」が復活した。もはや斎藤や岡田の時のように、リベラルな退役軍人は陸相・海相になれない。西園寺の選択肢はさらに狭まった。2・26事件後の難局に奏薦した近衛には、体調を理由に逃げられた。既に80代後半だった西園寺は、急速に気力を喪失していく。
ようやく西園寺の奏薦を受け、熱狂的な大衆の支持で第1次近衛内閣が発足したのは1937年6月だった。だが翌月、日中戦争が勃発する。局地戦に過ぎなかった戦線は拡大し、日本は泥沼の長期戦へと突入していく。10月には、企画庁に総動員機能を併せ持たせた本格的な首相ブレーン機関、企画院が内閣に設置された(図7)。
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しかし、近衛は短所を露呈する。政党・陸海軍・官僚機構に権力基盤を持たない近衛は、大衆人気が頼りのため時代に流されやすかった。無類の聞き上手は全ての政治勢力に味方と思わせるが、過剰な期待と曖昧な政治判断につながった。インテリ気質は特定の思想に偏らせなかったが、信念なく目新しさに飛びつく悪癖を招いた。
いずれも西園寺が懸念してきたことだ。そこで近衛が唱えたのが、「先手論」だった。中国への強硬な「一撃論」を唱える陸軍の先手を打ち、あえて強硬な路線を見せてからギリギリのところで抑える目論見だ。だが強硬な発言は、「“一致の決意だ”全日本の心臓!」と、メディアと大衆の煽動を招いた。南京陥落では提灯行列が絶えなかった。
1938年1月の「国民政府を対手とせず」声明も、「先手論」の産物だ。結果は、和平機会の喪失と中国権益をめぐる英米との対立激化だった。国内の「先手論」は国家総動員法案だ。戦争目的に政府へ広範な権限を与える委任立法は、議会・政党の形骸化を意味する。陸軍に先んじた目配りで、3月に法案は成立してしまう。
「傀儡」であることに嫌気が差した近衛は、やがて辞意を漏らし始めた。昭和天皇や西園寺は何度も翻意したが、政権運営は投げやりとなる。そして1939年1月、日独伊防共協定の強化問題が紛糾したことを機に、近衛は総辞職した。統帥大権という明治憲法の矛盾を前にしての挫折だった。企画院は、首相の政治力強化につながらなかった。
近衛新体制と明治憲法への挑戦
首相ブレーン機関は、なかなか統合機能を発揮できない。強力な権限を持つのなら、どの政治勢力もあやかりたい。当時の大蔵省も、国家財政の膨張を抑えるため設置に積極的だった。かつての財務省と経済財政諮問会議の関係と同じだ。人事などで主導権が握れるなら積極的となり、握れないなら潰しにかかる。他の政治勢力も変わらない。
企画院は、主導権争いと牽制合戦で雁字がらめのまま誕生した。特に陸軍の主導権を恐れる海軍は、その骨抜きに執念を燃やし続けた。明治憲法の矛盾が背景だ。結局、企画院は、強力な権限の可能性が故に全ての政治勢力を引き寄せ、「幕府的存在」批判を受けてしまった。これと同じ構図だったのが、幅広い政治勢力の結集を目指した新体制運動である。
1939年9月、第2次大戦が勃発した。ドイツ軍の快進撃に、宗主国を失った東南アジアに権力の空白が生じる。陸軍は、「バスに乗り遅れるな」とばかりに「南進論」を唱える。この「内外未曾有の変局」に、悔恨の念と危機感を覚えたのは、枢密院議長となった近衛だ。
「強力なる挙国政治体制」を確立すべく、議長辞任が声明された。「新党を作って国民的背景を持ちたい…第一次内閣の弱体は、超然内閣で、基盤を持っていなかった」。英米との決定的な対立まで考えなかった近衛は、強力な政治力を発揮して日中戦争の解決に全力を挙げることを決意した。やはり、大衆に権力基盤を持つ政党以外にないのだ。
大衆人気が再燃しての、新体制運動の始まりだ。だが、衰退する諸政党は「バスに乗り遅れるな」と、こぞって解党して参加表明した。自滅行為だ。陸軍も乗っ取りを企てた。気づけば、全ての政治勢力があやかろうとして、新体制は「一国一党」の運動となった。これが天皇を蔑にするとの「幕府的存在」批判を招いてしまったことは、五摂家筆頭の近衛には何より痛い。
1940年7月、過剰な期待と大衆人気が高まり、準備不足のまま第2次内閣が発足した。ラジオ演説を聞いた西園寺は呟く。「声はいいし、言うことは大体判るが、内容は実にparadoxに満ちていた」。近衛は相変わらずの「先手論」を打ち、日独伊三国同盟や「南進論」たる北部仏印進駐が挙行された。英米との対立は決定的となる。
10月、新体制運動の具体化たる「大政翼賛会」の発会式が訪れた。全ての政治勢力が、自らの政策路線を打ち出してくれるはずと過剰な期待を抱く。あれだけ、頷きながら話を聞いてくれたではないか。だが、「大政翼賛の実践…綱領はこれ以外にない」。曖昧で腰砕けの発会声明に、誰もが勝手に失望した。
「今頃人気で政治をやらうなんて、そんな時代遅れな考ぢやあ駄目だね」。翌月、近衛と明治国家の行く末を案じつつ西園寺は他界した。享年91。太平洋戦争開戦の1年前、ついに元老は消滅した。
日米交渉の挫折と悲劇の運命
新体制運動は単なる精神運動に終わり、何の権力基盤も生み出さなかった。「幕府的存在」批判を受け、大政翼賛会は政治活動を禁止され、内務省などの行政補助機関と化した。1941年4月、陸軍を制御する国民的背景がないままに日米交渉が始まった。
近衛は事態の打開を試みる。新体制運動は失敗したが、その途上では明治憲法の改正まで検討していた。松岡洋右外相が交渉妥結に強硬に反対すると、7月にいったん内閣を総辞職し、改めて第3次内閣を発足させて松岡を外した。だが、肝心なところで陸軍に「先手論」を打ち、南部仏印進駐を容認した。その結果、鉄鋼・石油の輸出制限や在米資産凍結などアメリカの態度硬化を招いてしまう。
それでも近衛は挑み続けた。アメリカは、イギリスや中国の要求で初めから参戦ありきだったかもしれない。だが、暗殺の危険すらあったルーズベルトとのハワイ頂上会談を本気で提唱した。9月6日の御前会議では開戦準備の決定を許した。だが、強硬な主張を繰り返す東條英機陸相への説得では、珍しく激論を繰り広げて正面から一騎打ちを演じた。
だが10月18日、東條の説得に失敗した近衛は総辞職した。戦時中は、憲兵の執拗な監視にも反東條運動と終戦工作を続けた。そして、悔恨の念を呟く。「やはり西園寺公は偉かったと思いますね…僕は大政翼賛会なんて、わけの分らぬものを作ったけれど、やはり政党がよかったんだ。欠点はあるにしても、これを存置して是正するより他なかったのですね」。
終戦後の悲劇は周知の通りだ。占領軍の進駐では副総理格の大臣として奔走し、GHQの内意を受け憲法改正の作業にも着手した。それでも1945年12月、逮捕令が出た。青酸カリによる自殺の直前、近衛は呟く。「戦争前には軟弱と侮られ、戦争中は和平運動者だとののしられ、戦争が終れば戦争犯罪者だと指弾される。僕は運命の子だ」。
「わずかに自殺者を出している有様」。メディアと大衆は冷淡だった。確かに近衛は、「先手論」で事態を悪化させ、肝心なところで腰砕けした。「曖昧」「決断力の無さ」「無責任」。そうだろう。
だが、第2次内閣から終戦までの近衛は命がけだった。いったい他の誰が、陸軍の統帥大権と明治憲法の矛盾に正面から対峙したのか。新体制運動は、憲法改正まで視野に入れた壮大な意思決定システムへの挑戦だった。
悲劇の運命は、政治家・大衆・メディアも罪深き当事者だ。「バスに乗り遅れるな」とばかりに人気に便乗し、熱狂的に支持してあやかろうとする。過剰な期待を勝手に失望に変えると、一転して支持率を急降下させて断罪する。いまを生きるわれわれ自身を映し出しているようだ。
結局、近衛の運命を引き換えにしても、明治憲法の矛盾は解消されなかった。すなわち、意思決定システムは漂流したまま、日本は未曾有の国家総力戦に突入したのである。そして、さらに深刻な矛盾の渦に巻き込まれていったのは、統帥大権を振りかざして近衛の前に立ちはだかった他ならぬ東條英機だった。
(敬称略、次回に続く)
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小沢一郎と橋下徹、おそらく両者は手を組むでしょう。だが・・・。
私はこの両者の関係が西園寺公望と近衛文麿の関係にダブって仕方が無い。
歴史は繰り返す。これほど重い言葉があったのかと今更ながら思う。
今起きている事は1930年代の焼き直しであり、1843年頃の天保の改革の失敗後の
繰り返しだ。前者は失敗し敗戦、後者は維新で成し遂げたが
維新成功の基盤となった幕府の治世は多くの人材や産業を生み出したが
現在の人材不足といい状況は前者により酷似している。寒気がする。
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