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科学的社会主義・日本共産党批判――マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その20)「最終まとめ」
http://www.asyura2.com/12/senkyo128/msg/694.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2012 年 4 月 10 日 01:04:51: BW32mpuE76J86
 

 これまで日本共産党の「古典・綱領教室」について表題の投稿をしてきましたが、今回はその最終回になります。激動の政局にあって、本政治板での投稿に反論もありましたが、★阿修羅♪の優れたシステムと運営方針に守られ、続行してきました。感謝です。

 読者の方には、投稿者Kakasiが期待した内容豊かな意見・反論・批判をいただきました。このようにオープンに反論していただけたことが、一番の収穫でした。特に「母系社会」さん、「一隅より」さんの具体的な反論は有意義でした。しかし、マルクス主義のもつ問題の本来的な深さ・複雑さ・難解さのため、理解されることの困難さを知りました。

 当初は、日本共産党のマルクス理解や綱領が、創造的であってもマルクス主義から逸脱しているという批判的意見がありましたが、マルクス理論に対しては護教的な意見が多いようでした。とくに、科学的社会主義の根幹である「等価交換による剰余価値説」と「意識従属(反映)論による唯物史観」の批判は、「阿修羅掲示板」の愛読者であれば容易に理解されると思っていましたが、Kakasiの力不足からか説得するには至らなかったようです。しかし、マルクスの真理性や正当性を証明できる説得力ある反論もなかったので、今後も機会を見つけてマルクス批判を続けようと思います。

 最終回は、今までの反省を込めて、難しい議論は止めて、軽いタッチで自説を述べてみます。まず「利潤(剰余価値)の源泉」について、マルクス経済学者林直道氏の『経済学入門』(青木書店 1997)から引用します。彼は、「現代資本主義社会における大資本家の大きなもうけは、どこから出てくるのだろうか?」という設問を投げかけ、次のように答えます。

「不等価交換では真の説明にならない。
 @ふつうの常識でいえば、資本のもうけは、商品を価値どおりの価格で仕入れてそれを価値以上の高い価格で売るか、あるいは商品を価値以下の安い価格で仕入れてそれな価値どおりに売るか、あるいはその両方の手をつかうことによって、得られるものだと思えるであろう。
 Aところが、じつは、これでは本当の説明にはなっていない。というのは、ある資本家が安く仕入れて、あるいは高く売って、もうけたときには、取引相手の資本家が安く売って、あるいは高く買わされてそんをしているはすで、社会全体、資本家全体では差引ゼロ、何ももうけはなかったことになるからである。だから、安く買うとか、高く売るというような、不等価交換はひとまず脇へおかねばならない。
 B理論としては、まず商品は等価で交換されると前提したうえで、しかももうけが生まれるというしくみを明らかにすることが必要なのである。」(第3章p28 引用で3段落に分けた)
 
まず@段落では、普通の常識として商業利潤の源泉を述べています。これは普通の常識が正しいのです。そして、商業利潤の原則が、労働力商品にも当てはまり、労働者搾取の源泉となっている。つまり労働力商品を安く買って、労働者を長時間劣悪な労働条件の下で酷使しているのです。搾取は秘密でも見えにくいものでもありません。

 ところがAでは、個々の資本家間の商品売買にかかわる損得の話をしながら、とつぜん「社会全体、資本家全体では差し引きゼロ、何ももうけはなかった」という話になり、不等価交換が考慮の外に置かれることになるのです。個々の資本家のもうけは、商品価値を生産する労働者所有の労働力商品を、本来の労働力(人間)の価値より安く買ったものであり、ここで「社会全体、資本家全体」のもうけを持ち出す必要は全くないのです。

 だからBのように、等価交換を前提とする必要も全くないでしょう。マルクスにとっては、人間の交換関係が問題なのではなく、その交換関係を支配する「賃労働と資本」の運動法則の弁証法的解明が目標だったのです。だから、マルクスが「社会全体、資本家全体」を持ち出す意図は、欺瞞に満ちた等価交換の商品社会で、社会的労働を搾取することによって自己運動をする総「資本」の、生成・発展・消滅の運動法則を明らかにすることにあったのです。

 しかし、このマルクスの考え方こそ交換関係の非対称性(不等価性)を過小評価し、人間抑圧をもたらす理論なのです。なぜ人間抑圧の理論なのか。それは、労働力(人間)の価値を、階級的に抑圧された再生産価値と規定したこと、またそれによって労働者(人間)の生活向上や欲望や願望、すなわち人間の意識的・意欲的・道徳的判断、自由や平等、正義や公正、人間としての要求や権利を求める心を過小評価したことにあります。

 マルクスのように、労働者の解放のために「等価交換による搾取」というトリックなど使わなくても、もっと人間と人間の関係を具体的に見れば、交換契約(商品売買・取引)における欺瞞や搾取の不当性はよくわかることなのです。日々の職場で労働現場の実態を見れば、搾取が労働力の売買の欺瞞的等価交換によって行われていることは明らかなのです。

 経済学は、商業や産業活動から得られる、利潤、利殖、致富を悪いものとは考えず、奨励する立場にあります。現状に安住する研究者には、人間本性の快苦や善悪等の肯定と否定の二面性をバランスよく追求する必要性や問題意識が不十分です。合意的契約によって成立する商品交換(売買)を、等価交換と不等価交換の二面性で捉え、表面的には等価に見える交換行為を、両当事者の立場の非対称性において捉えるのは、J. E.スティグリッツやA. セン等の新しい経済学に見られる傾向でもあるのです。

 アリストテレスは商品交換を、「非難せられて然るべきもの」(『政治学』1-10山本訳)と述べているのに対して、モンテスキューは商業を肯定的にとらえ「野蛮な習俗を匡正し、温和にする」(『法の精神』20-1根岸訳)と述べています。発展する社会の経済活動は、スミスを代表としてほとんど肯定的で、不等価交換の場合であっても否定的側面への言及はほとんどありません。マルクスが『資本論』で批判したコンディヤックの「交換の不等価性」も、社会的総価値の増殖(剰余価値の形成)として説明しているのではなく、価値(利潤)が交換を通じて誰の元に移動・集積するかという意味で、積極的に捉えているのです。

 近代の経済活動(生産、流通、消費)による資本主義の発展は、人類に豊かで便利な生活を可能にすると共に、植民地支配や戦争、周期的恐慌や私的富の集積と偏在、労働者の貧困や失業を生じさせ、社会全体の政治的制御・経営の必要性が増大しました。こうなると、人間本性や倫理的観点から資本主義の運動法則を考察する余裕はなくなり、もっぱら功利主義の観点から体制維持的な市場均衡を追求する経済学に移行し、需要供給や景気循環を数学理論で説明して満足することになりました。そしてその前提として、ありもしない完全競争の市場や交換結果の等価性という絵空事を法則化して、経済活動を合理的に解明したと称しているのです。

 しかし、20世紀になると帝国主義的対立の中から、社会主義ソ連が成立し、ブルジョア経済学の限界が明らかになりました。第一次世界大戦と世界恐慌に混乱に危機を覚えたイギリスのJ.M.ケインズは、自由放任による周期的恐慌は、社会不安をもたらすとの懸念から、国家が積極的に経済に介入し有効需要を創出すべきであるとしました。彼の場合、人間の本性を快苦・善悪の二元論で楽観的に捉えるのではなく、経済活動を政治的プラグマティズムで調整しようとしたのです。個々人が市場で利己的利益の追求だけを考え、自由競争を進めれば社会的調和と繁栄が導かれるという考えや、階級闘争が矛盾を解決するというような単純な発想では現代の課題を解決することはできません。

 ではどうすればいいのか?それには生命が、自ら創造した進化の最高形態である言語によって、自らを抑制し制御する哲学や思想・道徳を必要とするのです。そしてそのために、言語を持つ生命である人間が、自らと自ら創り発展させてきた文化と社会の在り方を、正しく認識し合理化し制御する必要があるのです。市場依存主義(新自由主義)のように、利己心に任せて経済成長を図るというのは、単に強者の市場支配を奨励するのに過ぎません。貨幣が(によって)市場と人間生活を、適正・円滑に、豊かで便利なものにするにですが、同時に、不等価で不正な貨幣(数的言語)による欺瞞的交換と富の偏在(格差)をもたらします。

 しかし、マルクス(共産党)批判が真に理解されるならば、これから我々は、何の躊躇もなく、商品市場の「等価交換」や「完全競争」という原則を、経済学的神話であると批判することができるし、また、平均的法則や純粋理論を経済学的前提とすることはできなくなるでしょう。逆に、言語意味論において、言語の意味が歴史的・社会的に平均的制約を受けつつ主観的相対的なものであると同様に、商品の価値は社会的平均的な共通価値(適正価格!?)を認めつつも、個々人の欲望や交換条件にもとづく主観的相対的なものであることを前提とする必要があるでしょう。「不等価交換」や「不完全競争」そしてそこから生じている利潤(剰余価値)や不平等・格差・貧富さらに政治的・経済的支配や抑圧、不公正や不正義、欺瞞や宣伝(情報の非対称性)を是正する発想(公正と正義・社会的責任・道徳的社会主義)が生じてくるでしょう。

 以上がKakasiたちの「科学的社会主義・日本共産党批判」の結論です。この結論は、人間存在研究所の沢谷や大江のアイデアによる「生命言語説Life-words(L-W)theory」を理論的根拠にしています。おそらくこの理論は、マルクス主義のみならず、今日までの自然と人文科学にかかわるあらゆる知識や信仰の根底を変革することになるでしょう。神の言葉に依拠するユダヤ・キリスト教、菩薩信仰を基調とする大乗仏教(各宗派、創価学会)、自然・人物崇拝にもとづく神社神道などは、伝統や既得権維持の頑迷固陋な指導者(詐偽師!)によって言葉の真実を見えないようにするでしょうが、やがて闇は開けるでしょう。「生命言語説」の詳細は、ネットで検索するか大江著『人間存在論』をご覧ください。

 長文を最後までお読みいただきありがとうございました。  

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コメント
 
01. Y. Kakasi 2012年4月10日 01:06:38 : BW32mpuE76J86 : htdQncqo9Y
 この投稿は、小沢一郎氏に対する既得権維持勢力の悪質不正な権力犯罪(冤罪事件)を、日本共産党が見抜けない、または法曹権力と結託して隠蔽しようとしたことに疑問を感じてはじめたものです。日本共産党の党員たちは善良な人が多いのですが、知識に偏りがあります。これは宗教信者にも共通する点ですが、自分たちが問題の根源を解明し尽くしているという自己欺瞞(をもつ指導者の信仰)に依存しているために、安心しているのであって、そのこと自体を批判するものではありません。

 小沢氏を独裁者呼ばわりする人がありますが、ハシズムや共産党のように敵を作って自己を正当化する人ではありません。政治家や官僚の人間性をよく見抜き、既得権益にメスを入れ、自立した人間の民主主義を確立するために、積極果敢に行動しているだけです。この点、衆愚政治を利用するハシズムや偽善と日本的集団主義を売り物にする共産党とは違います。国民との約束である「マニフェスト」を実現しようとする正義の味方・悪党小沢一郎を支持・応援します。一応後何年か頑張ってください。マンデラは75歳で大統領になったし、ケ小平が復活したのは73歳だった。まだ若いネ。


02. 2012年4月10日 06:36:12 : BRP8XuFlZc
Y. Kakasiさま

>国民との約束である「マニフェスト」を実現しようとする正義の味方・悪党小沢>一郎を支持・応援します。一応後何年か頑張ってください。マンデラは75歳で大>統領になったし、ケ小平が復活したのは73歳だった。まだ若いネ。

初めて支持します。
争点は「国民との約束」です。
政治の手法は、これを、国会議員が、私たちに投げ掛けるのです。
そして、私たちは「国民との約束」勢力と一緒に、受け皿をつくるのです。
受け皿とは、全国の有権者とのつながりです。
この装置がないと、票の受け皿になりません。
私たちは国会議員でないので、直接に内政と外交の決定に関与できません。
ですから、国会議員を通して関与する仕組みをつくることです。
小沢支援の動きは、その萌芽の可能性があります。
実体主義者と関係主義者が手をつなげるのは、現実の具体的政治に関与することからです。
スターリニストより


03. 2012年4月10日 22:16:11 : c867B5lDzc

ご苦労様でした。結局のところ、マルクス批判が主で、
誰もが試行錯誤するところである価値の本質については
商品価値の流通過程、つまり、市場で決まるというお決まりの
近代経済学的視点でした。

共産党に同じく、Kakasiさんの党派性的執念には頭が下がりますが、
読者が求めているのは新しい答えです。

流通過程で決まる価格=価値としてしまっては、
従来の愚論を復唱しているだけで、
価値の本質を一向に暴くことができず貨幣数量詐欺の餌食になるだけです。


04. Y. Kakasi 2012年4月10日 23:04:41 : BW32mpuE76J86 : PyzJtdIDaM
02)さん
 長文の投稿を読んでいただいたかどうか判明ではありませんが、コメントへの支持ありがとうございます。
 戦後高度経済成長によって確立した既得権維持・体制安住の守旧権力とアメリカ依存の新自由主義勢力は、今日の日本の民主主義の成長を歪め衆愚政治と社会の混迷を助長しています。これを打開するのはハシズムのような自立闘争の民主主義ではなく、小沢氏の自立福祉の民主主義出なければなりません。支離滅裂の競争と権力の哲学による「維新八策」よりも、小沢氏の「公正な国」をめざす「改革八策」の方が優れているのは一目瞭然です。

小沢の「政策とオピニオン」改革八策→http://www.ozawa-ichiro.jp/policy/06_0417_01.htm

 さてスタイリストさん、「実体主義者と関係主義者」というのはどうも理解しかねます。Kakasiは「縁起主義者」なので、現在だけでなく、過去も未来にも配慮しながら行動するのを旨としております。小沢氏を支持しますが、彼には依存せずにもっと先のことに関心があるのです。

 阿修羅での投稿は、急速に流されていきます。しかし今までの投稿と「生命言語説」しっかりと次のHPに錨を降ろしています。「マルクス批判」でも検索してください。
http://www.eonet.ne.jp/~human-being/asyura1.html 


05. 2012年4月11日 10:59:38 : eiaL4p9cTY

>>03 誰もが試行錯誤するところである価値の本質
 いったい誰が試行錯誤するのか。Kakasiさんは「価値の本質」を「生命言語説」で説明しているよ。この問題を経済学だけで解決するには無理がある。もう少し西洋思想(哲学)の本質や限界をを勉強した方がいい。

 それよりも「貨幣数量詐欺の餌食」の説明をした方がいいよ。それと、反論をするにはそれなりの覚悟をして、相手の主張の本質(すべてとは言わないから)を理解してからにすべきだろう。「従来の愚論」についても、もっと具体的にね。


06. 2012年4月11日 16:17:58 : zYLNDAeHs2
Kakasiさん、ご苦労さんでした。でも相変わらず難しいね。

経済学や資本論を勉強しないと、本当の共産党の姿がわからないのは、ハードルが高い。マルクスや共産党に、階級的憎しみがあっても公正や正義(道徳)がないのは確かだ。労働者階級の連帯には、単なる利害や憎しみだけでなく公正や正義(交換的正義!)も必要なのがよくわかる。マルクスを勉強すると共産党の未来社会の希望には、実は希望がなくて空想的であり、科学的なのではなく弁証法的欺瞞なのだ。

是非もっと易しい内容で投稿されることを希望します。

07. Y. Kakasi 2012年4月12日 01:01:50 : BW32mpuE76J86 : PyzJtdIDaM
03) 05) 06) の皆さんコメントありがとうございます。
03>>誰もが試行錯誤するところである価値の本質については、商品価値の流通過程、つまり、市場で決まるというお決まりの近代経済学的視点でした。
→について、「試行錯誤」「価値の本質」「商品価値の流通過程」「近代経済学的視点」どれも内容豊かな概念なので、つっこみどころ満載ですが、具体的に何を指摘しようとされているかわかりません。一体「近代経済学的視点」の何が問題なのか明言すべきだと思います。議論を望んでおられるようでもないようです。

 以下「読者が求めているのは新しい答え」とは何でしょうか。Kakasiの「等価交換」と「唯物史観」に対する単純な批判が「新しい答え」なのです。「読者が求めている」こととは関係ありません。あとは05)さんのおっしゃるとおりです。理解されないのはKakasiの能力不足でしょう。管理人さんに許される限り、同じ表題で投稿を続ける必要を感じます。

 06)さん、読んでいただいているのに難しくてすみません。共産党のように「党派的執念」で、わかりやすい表現に努めます。今後ともよろしく。


08. 2012年4月12日 07:33:22 : xO5YYLHgp2
価値と価格を明確に使い分けた考察を期待します。

Kakasi氏のいうところの価値はあくまで哲学の範囲であり
経済学でいう価値ではないことはわかりました。

Kakasi氏のいうように流通過程、つまり、市場できまる価格を価値とする
視点では商品間の価値の関連性は見えてこないです。
また、この視点の普及は市場が失敗したときに、
貨幣の価値尺度を変えて辻褄を合わせようとする思惑に大いに役に立ちます。

流通過程、つまり、市場できまる価格が 絶対に価値を体現できているでしょうか。
阿修羅の皆さんにはそこのところを考えていただきたいです。


09. Y. Kakasi 2012年4月13日 01:05:28 : BW32mpuE76J86 : PyzJtdIDaM
08)さん 察するところ03)さんと同じ疑念だと思います。
08>>Kakasi氏のいうところの価値はあくまで哲学の範囲であり、経済学でいう価値ではないことはわかりました。
→について「経済学でいう価値」は、経済学の立場により異なることはご案内だと思います。まずご自分の立場や見解を明らかにされると理解しやすいのではないでしょうか。

 「市場できまる価格を価値とする視点では商品間の価値の関連性は見えてこない」ということであれば、マル経に近いとも思えますし、「市場できまる価格が 絶対に価値を体現できているでしょうか。」というお考えであれば、価値相対主義となり、Kakasiの立場と近くなります。

 いずれにせよ、「価値」という概念は哲学的考察を必要とし、言語論的にしか解明できないのです。商品の価値でいえば、まず主観的相対的価値(マルクス的には使用価値に近い)があって、市場の駆け引きを通じて社会的平均的な価値の基準が価格(相場)として表現され、最終的に交換の成立によって客観的な価値=価格(交換価値)が決定・確立するのです。しかし、その価値=価格も市場の不断の変動によって変動します。価値も価格も「縁起」の世界で動いているのです。
 
 Kakasiの考えでは、商品の価値が一定の基準にもとづいて数量化されたものが価格です。言語で言えば、記号(能記・シニフィアン)は価格であり、意味内容(概念・所記・シニフィエ)は価値ということになります。


10. 2012年9月10日 09:17:58 : F8FukKaAk4
「科学的社会主義」の用語を検索するとヒットしました。まとめとして追加しておきます。Kakasi。

●マルクス剰余価値説の誤り
 マルクスの経済学説の核心は剰余価値説にある。人間の労働力が商品として市場に登場しているという古典派経済学の分析を受けて、マルクスは労働力が買値(等価交換)以上の価値を生み出すことのできる特別な商品であることを強調する。資本家はこの特別な商品を普通の商品と同様に使用することによって、労働力が生み出す余分な価値(剰余価値)を労働者からこっそり奪いとっている(搾取の隠蔽性)と主張したのである。
 古典派経済学が、労働者の低賃金は等価で正当に交換されたものだと主張したのに対し、マルクスは、正当な交換ではあるが搾取は交換過程でなく生産過程で行われていることを「暴露した」と言うのである。
 それに対し、我々は、労働者の搾取は隠蔽されているのではなく、等価交換自体に欺瞞があると考える。つまり、労働者の低賃金は労働者自身の再生産費用によって決まるのではなく、労働者の労働の人間的価値以下に抑圧的に決められると考える。
 マルクスによる労働力の再生産費用は、労働者の意志によっては決まらず、歴史的階級的に規定され、労働者自身の欲望や意志、生活向上の意欲などは無視され、階級敵を倒して権力を握り生産手段を社会化しない限り不可能であるとされる。
 しかし我々は、労働者の再生産費用すなわち生活費用は、抑圧的な平均賃金以上であると考える。そのため労働者は正当な生活費用を求めて賃上げ闘争を行う。つまり、等価交換の欺瞞性を打破することによって、はじめて人間的な生活と社会を作ることができると考える。
 等価交換の欺瞞性は、労働者の低賃金、資本家・役員の高報酬、独占商品の高価格、金融商品、国際貿易等の市場に典型的に現れている。これらは、売り手と買い手の間の、情報の非対称性や力関係の違いによる隠しようのない不等価交換である。



11. 2012年10月13日 15:07:19 : gE5kw7mlqk
確かに、古典経済学の前提はおかしい。

等価交換など自己調整的市場経済を正当化するための、

プロパガンダイデオロギーに過ぎない。そう思う。

マルクスも西洋的欺瞞の前提を乗り越えられなかったわけだ。

でもなぜ学者たちがこのことに気づかなかったのだろう。

政治経済学がこれほど行き詰っているというのに・・・・

kakasiさん今後の展開に期待しています。


12. 2012年10月23日 18:37:00 : 6Lkz56iWeI
 改めて読んでみてよくわかった。つまりマルクスの評価する労働力の価値は、労働者を抑圧するような低い価値にしか見ていないということだ。剰余価値とは、不払・無償労働ではなく、抑圧的詐欺的低評価による不等価交換というわけだな。今まで労働者の賃金はこの程度で十分と誤魔化されてきたわけだ。この理論でいくと労働組合の人間らしい賃金を求める運動は正当化される。マルクスだと、悪くすると社会主義になっても等価交換だと低賃金で誤魔化されるかもしれない。格差を創って等価と誤魔化すこともできる。等価や平均賃金下誤魔化されてはいけないわけだ。ナットクしたぞ!

13. 2012年11月28日 13:44:23 : wXPShKYgaw
 まとめのまとめです。
「マルクス主義はわれわれの時代の哲学としてとどまっている。それを生んだ状況がいまだのりこえらていないため、マルクス主義はのりこえられることはできない。われわれの思惟は、どんなものにもせよ、この腐植土[資本主義社会]の上にしか形成されることはできない。思惟はマルクス主義があたえる枠内に包含されるべきであり、さもなければ虚ろなものとなって消えてしまうか後退するより他はない。」(サルトル『方法の問題1960』平井訳 [ ]は引用者)

 サルトルの指摘するマルクス主義の枠組は、新自由主義と同じく人間についての無知で無責任な、自由放任市場[腐植土]における原理、すなわち「等価交換」という西洋的妄信にもとづいています。たしかに市場原理は、取引者の多くが従っているようにみえますが、取引には常に損失のリスクが伴い、利益を得る少数者が出現し、既得権益を維持拡大しようとします。経済成長の果実の一部(滴りtrickle)が、この現実を埋め合わせてくれるのですが、成長の限界が地球的規模で明らかになっている今日では、「等価交換」や「市場均衡」という経済学の欺瞞(ごまかし)は許されません。

 市場における取引倫理の確立は、資本主義社会全体の問題です。われわれは新社会契約または道徳的社会主義という理念(交換的&分配的正義)で、この問題を解決しようとしています。これは東西思想の融合という日本が世界に自信を持って提案できる原則です。
                            by kakasi & HBI
はじめの(その1)に戻ります。
 ⇒ http://www.asyura2.com/11/senkyo122/msg/281.html
 一覧があります。
 ⇒ http://www.eonet.ne.jp/~human-being/asyura1.html

 このような表現の機会を与えていただいた「★阿修羅♪」に感謝します。


14. y.kakasi 2013年2月04日 12:04:19 : hWt4MHUbwLqMk : TXWSdG29UM
 われわれのマルクス批判に対し、疑問を持つか、理解困難な方が多くおられます。それは『資本論』自体が難解なためですが、それ以上に『資本論』を読み、かつ疑問を持ちながらも、世界中の誰一人の学者も、われわれのように西洋思想批判の中にマルクス主義を位置づけることができないからです。その根底には、人間の本質であり、哲学的認識論上の壁になっている「言語」の解明がなされていないからです。コメントの中にも、それが原因のピント外れの批判があります。
 そこでこの疑問を払拭するために、以下の見解を追加しておきます。

https://sites.google.com/site/sawatani1/sinnsyakai/keizainingen
◇ 言語と商品価値の共通性とは何か
―言語の意味と商品の価値(価格)は社会的共通性をもっている―
商品・貨幣価値の謎の解明は、言語の謎の解明によってはじめて可能となる

○ 言葉と商品の共通性は、ともに「観念的信号」であること
 今日の言語学(意味論)と経済学(価値論)は、ともに西洋思想(特に西洋的認識論・思考様式)の「限界」を共有しています。両者はともに人間と人間との意思疎通(言語による意味伝達と商品による価値交換)によって生じる「観念的信号」ですが、その観念性(知識性)が主観的(個人的・相対的)なのか、客観的(社会的・絶対的)なのか、また主観と客観の相互の関係性はどうなっているのかについて結論が見いだされていません。この認識論上の難問(観念・知識とは何か?)は、生命言語説によってはじめて解明することができます。


○ 「観念的信号」は社会的に創られ個人的に実現する
 「観念的」というのは、言語にとってはその意味の主観性(例えば「愛」という言葉であれば、個人的経験による主観的な自分だけの意味)と平均的客観性(辞書的に誰もが理解できる社会的客観的意味)であり、商品にとっては商品価値の主観性(個人にとっての価値・使用価値)と平均的客観性(誰もが認める相場的価値・交換価値)です。言語においては意味を持ち、商品においては価値を持ちますが、両者はともに個人と社会が創造し共有する観念的な表象(「愛」という言葉や「100円」の商品というイメージ・意味内容・観念)によって意味づけられ価値づけられています。また、「信号」というのは、言語では音声(文字)信号として広く表現され、商品では音声信号に含まれる数量信号(円・ドル等)として表現されます。


○ 西洋思想では「観念」の主観性と客観性を確定できなかった
 言語の意味も商品の価値も、社会的平均的な客観性をもちますが、その客観性は相対的なものであって、時間的空間的に変化します。またその意味や価値の内容を決定するのは最終的には主観的なものです。ところが西洋思想にあっては、プラトンやデカルト・カント・ヘーゲルを代表とする観念論哲学者のように、言語の意味は、何らかの絶対的な観念(神や概念・理念・ロゴス)や人間(個人)の判断を越えた基準や目的をもっていると考えていました(決定論)。(唯物論や経験論は、観念の絶対化を避けようとしたが、言語の相対化までは確定できなかった。)


○ 人間が主体とならない西洋的観念は人間を疎外する
 近代に起こった言語学や経済学も、意味と価値の「観念の相対化」を確定することができませんでした。例えば近代言語学の父と呼ばれたソシュールは、言語の個別性相対性を理解できませんでした。、現代の言語哲学(現象学や分析哲学の系統)も行き詰まりを見せています(『人間存在論 後編』)。経済学においては、スミス、リカード、マルクス等の「労働価値説にもとづく等価交換説」は、市場における人間(個人)の欲望や判断(交換契約)を「労働」が規定するという決定論であり、マルクスにあっては人類社会の発展を、人間個人の選択を越えた階級闘争に一元化するという人間疎外の理論体系を築いて、現代世界を歪めてしまいました(言語・理論による人間疎外)。


○ 市場原理は交換的正義を放棄し強者支配を正当化します
 現代の経済学である新古典派や新自由主義の市場原理主義的経済学は、価値論は「主観(効用)価値説」をとりますが、完全競争市場が決める均衡価格(価値)による、需要と供給の「客観的な」調整的機能を認めています。しかし、完全競争市場はそもそも存在しないし、均衡状態は不均衡価格での取引を前提としており、均衡価格自体が一時的平均的なものに過ぎません。需要・供給と価格には相関関係はあるものの、価格(価値)が取引量を一義的に決めるのではなく、商品所有者の利潤設定や情報の非対称性から来る力関係などの条件のもとで市場の取引が行われ価格を決めているのです。対等平等な取引などは偶発的にしか存在せず、強者優位が市場の常態なのです。


○ 言語の意味や商品価格の理想状態は、不断の検証が必要です
 言語についても意思(観念)の疎通がきわめて不完全であることは日常にも経験することです。言葉の意味は、社会的平均的な共通理解はあるものの、正確な理解は、問題が複雑であるほど、また相互の言語理解に経験的な開きがあるほど困難になります。その意味で主観的に理解している内容を、相互理解や客観的理解に高めるのはとても難しいのです。数学の理解を文学や哲学の理解と比べてみると、表現者(作家や思想家)の意図を正確に理解することがいかに困難かわかります。均衡価格という理想状態は、商品価格が取引上の妥協の産物であり、対話における完全理解と同じく、相互の情報の非対称性や力関係の違いからもたらされる相対的なもの なのです。


○ 言語は、社会的に意味づけ合理化する力によって商品価値を決定する
 しかし、言語による判断・行動に対する意味付けや合理化は、財やサービスの対象(商品)を、欲望や感情によって価値付けするよりも強い力を持っています。商品取引で多大の損失があった場合でも、自己責任を巧みに回避し、他の事象や他人の責任にして言い逃れることはよく見られます。究極の言い逃れ・欺瞞は「想定外・不可抗力」という「言葉」です。言語による意味づけは、市場取引における商品の価値付けを支配します。言語は情報・知識に裏付けられた力(交渉力・営業力・取引力)の源泉であり、欲望や感情の力は、人間社会では言語(知恵・理知)力あっての欲望・感情なのです。これで「三方良し(売り手良し、買い手良し、世間良し)」の取引が、商品価値を決めれば最善なのですが、競争市場ではそうなるとは限りません。強者支配の独占・寡占市場では、弱者・消費者はマスメディアによる宣伝の言葉の力で操作されているのです。


○ 市場の商品価値を正当化してきた経済学の欺瞞性は、言語の正しい理解によってはじめて克服することができます。
 言語の意味と商品の価値(価格)の「社会的共通性」の意味を理解していただけたでしょうか。意味も価値も、社会的客観性と個人的主観性の「縁起的関係性」によって成立しています。言語の意味は、知識や情報を構成し、世界や対象(商品)の価値付けをします。
 取引成立後の商品の交換価値(市場価格)は、強者優位による社会的な妥協の産物です。これを均衡価格とか社会的平均価値として法則化(マルクスの価値法則)して、個々の取引を支配するとみなす経済学は、経済現象に言語的意味づけ(合理化)をして交換の欺瞞的実態を隠すものです。
 言葉(の意味)が人を欺くと同じように、市場が決めた商品価格も人を欺きます。交換の合理性(契約の成立)を「等価」として理論化してきた経済学の欺瞞性は、資源の効率的配分と交換的正義を両立させるためにも克服しなければならないのです。そのためには、様々の価値を合理化してきた言語そのものの本質を、まず理解する必要があるのです。

※ 要約:貨幣を含む商品価値は、市場(交換)を通じた言語(数字を含む)情報によってコントロールすることができる。商品の価値は市場で決まるが、市場で示される商品の言語情報が価値評価の最大の基準になる。いったん決まった評価(価格)は、次の交換の基準になるが絶対的なものではない。これは言語の意味が社会的平均的なもので、絶対的なものでないのと同じである。


15. 2014年2月19日 15:48:39 : AiysAEp0ug
>※ 要約:貨幣を含む商品価値は、市場(交換)を通じた言語(数字を含む)情報によってコントロールすることができる。商品の価値は市場で決まるが、市場で示される商品の言語情報が価値評価の最大の基準になる。いったん決まった評価(価格)は、次の交換の基準になるが絶対的なものではない。これは言語の意味が社会的平均的なもので、絶対的なものでないのと同じである。

 
投稿者の論述は最終的には宗教のような帰結になってしまいました。
この様に、市場における貨幣-商品の交換比だけに着目してしまいますと、貨幣の発行主体の動きは見えてきません。市場で決まる価格が価値であるとする単細胞な見方はバリュー投資家にとっては絶好のカモにされることでありましょう。彼らは、価値と価格の差、「value」「cost」「price」をしっかりと理解しています。

そもそも、本質的に意味が異なる「価値」と「価格」を同義に用いてる時点で投稿者の論述には非常にまやかしがあります。ある時は「価値」という語を使用し、ある時は「価格」という語を同義に使用しています。

経済学でいう「価値」とは、
哲学でいう存在価値のように「ある」「ない(ゼロ)」のみで表現されるものではなく、また市場における貨幣-商品の交換比を表したものではないという捉え方が比非常に大事です。支配層は貨幣や商品の交換比、つまり価格コントロールをある程度できますが価値までは掌握できません。仮に無理矢理なインフレ政策がなされたとしても、この点に我々が生き延びるヒントがあります。
 


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