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これまで日本共産党の「古典・綱領教室」について表題の投稿をしてきましたが、今回はその最終回になります。激動の政局にあって、本政治板での投稿に反論もありましたが、★阿修羅♪の優れたシステムと運営方針に守られ、続行してきました。感謝です。
読者の方には、投稿者Kakasiが期待した内容豊かな意見・反論・批判をいただきました。このようにオープンに反論していただけたことが、一番の収穫でした。特に「母系社会」さん、「一隅より」さんの具体的な反論は有意義でした。しかし、マルクス主義のもつ問題の本来的な深さ・複雑さ・難解さのため、理解されることの困難さを知りました。
当初は、日本共産党のマルクス理解や綱領が、創造的であってもマルクス主義から逸脱しているという批判的意見がありましたが、マルクス理論に対しては護教的な意見が多いようでした。とくに、科学的社会主義の根幹である「等価交換による剰余価値説」と「意識従属(反映)論による唯物史観」の批判は、「阿修羅掲示板」の愛読者であれば容易に理解されると思っていましたが、Kakasiの力不足からか説得するには至らなかったようです。しかし、マルクスの真理性や正当性を証明できる説得力ある反論もなかったので、今後も機会を見つけてマルクス批判を続けようと思います。
最終回は、今までの反省を込めて、難しい議論は止めて、軽いタッチで自説を述べてみます。まず「利潤(剰余価値)の源泉」について、マルクス経済学者林直道氏の『経済学入門』(青木書店 1997)から引用します。彼は、「現代資本主義社会における大資本家の大きなもうけは、どこから出てくるのだろうか?」という設問を投げかけ、次のように答えます。
「不等価交換では真の説明にならない。
@ふつうの常識でいえば、資本のもうけは、商品を価値どおりの価格で仕入れてそれを価値以上の高い価格で売るか、あるいは商品を価値以下の安い価格で仕入れてそれな価値どおりに売るか、あるいはその両方の手をつかうことによって、得られるものだと思えるであろう。
Aところが、じつは、これでは本当の説明にはなっていない。というのは、ある資本家が安く仕入れて、あるいは高く売って、もうけたときには、取引相手の資本家が安く売って、あるいは高く買わされてそんをしているはすで、社会全体、資本家全体では差引ゼロ、何ももうけはなかったことになるからである。だから、安く買うとか、高く売るというような、不等価交換はひとまず脇へおかねばならない。
B理論としては、まず商品は等価で交換されると前提したうえで、しかももうけが生まれるというしくみを明らかにすることが必要なのである。」(第3章p28 引用で3段落に分けた)
まず@段落では、普通の常識として商業利潤の源泉を述べています。これは普通の常識が正しいのです。そして、商業利潤の原則が、労働力商品にも当てはまり、労働者搾取の源泉となっている。つまり労働力商品を安く買って、労働者を長時間劣悪な労働条件の下で酷使しているのです。搾取は秘密でも見えにくいものでもありません。
ところがAでは、個々の資本家間の商品売買にかかわる損得の話をしながら、とつぜん「社会全体、資本家全体では差し引きゼロ、何ももうけはなかった」という話になり、不等価交換が考慮の外に置かれることになるのです。個々の資本家のもうけは、商品価値を生産する労働者所有の労働力商品を、本来の労働力(人間)の価値より安く買ったものであり、ここで「社会全体、資本家全体」のもうけを持ち出す必要は全くないのです。
だからBのように、等価交換を前提とする必要も全くないでしょう。マルクスにとっては、人間の交換関係が問題なのではなく、その交換関係を支配する「賃労働と資本」の運動法則の弁証法的解明が目標だったのです。だから、マルクスが「社会全体、資本家全体」を持ち出す意図は、欺瞞に満ちた等価交換の商品社会で、社会的労働を搾取することによって自己運動をする総「資本」の、生成・発展・消滅の運動法則を明らかにすることにあったのです。
しかし、このマルクスの考え方こそ交換関係の非対称性(不等価性)を過小評価し、人間抑圧をもたらす理論なのです。なぜ人間抑圧の理論なのか。それは、労働力(人間)の価値を、階級的に抑圧された再生産価値と規定したこと、またそれによって労働者(人間)の生活向上や欲望や願望、すなわち人間の意識的・意欲的・道徳的判断、自由や平等、正義や公正、人間としての要求や権利を求める心を過小評価したことにあります。
マルクスのように、労働者の解放のために「等価交換による搾取」というトリックなど使わなくても、もっと人間と人間の関係を具体的に見れば、交換契約(商品売買・取引)における欺瞞や搾取の不当性はよくわかることなのです。日々の職場で労働現場の実態を見れば、搾取が労働力の売買の欺瞞的等価交換によって行われていることは明らかなのです。
経済学は、商業や産業活動から得られる、利潤、利殖、致富を悪いものとは考えず、奨励する立場にあります。現状に安住する研究者には、人間本性の快苦や善悪等の肯定と否定の二面性をバランスよく追求する必要性や問題意識が不十分です。合意的契約によって成立する商品交換(売買)を、等価交換と不等価交換の二面性で捉え、表面的には等価に見える交換行為を、両当事者の立場の非対称性において捉えるのは、J. E.スティグリッツやA. セン等の新しい経済学に見られる傾向でもあるのです。
アリストテレスは商品交換を、「非難せられて然るべきもの」(『政治学』1-10山本訳)と述べているのに対して、モンテスキューは商業を肯定的にとらえ「野蛮な習俗を匡正し、温和にする」(『法の精神』20-1根岸訳)と述べています。発展する社会の経済活動は、スミスを代表としてほとんど肯定的で、不等価交換の場合であっても否定的側面への言及はほとんどありません。マルクスが『資本論』で批判したコンディヤックの「交換の不等価性」も、社会的総価値の増殖(剰余価値の形成)として説明しているのではなく、価値(利潤)が交換を通じて誰の元に移動・集積するかという意味で、積極的に捉えているのです。
近代の経済活動(生産、流通、消費)による資本主義の発展は、人類に豊かで便利な生活を可能にすると共に、植民地支配や戦争、周期的恐慌や私的富の集積と偏在、労働者の貧困や失業を生じさせ、社会全体の政治的制御・経営の必要性が増大しました。こうなると、人間本性や倫理的観点から資本主義の運動法則を考察する余裕はなくなり、もっぱら功利主義の観点から体制維持的な市場均衡を追求する経済学に移行し、需要供給や景気循環を数学理論で説明して満足することになりました。そしてその前提として、ありもしない完全競争の市場や交換結果の等価性という絵空事を法則化して、経済活動を合理的に解明したと称しているのです。
しかし、20世紀になると帝国主義的対立の中から、社会主義ソ連が成立し、ブルジョア経済学の限界が明らかになりました。第一次世界大戦と世界恐慌に混乱に危機を覚えたイギリスのJ.M.ケインズは、自由放任による周期的恐慌は、社会不安をもたらすとの懸念から、国家が積極的に経済に介入し有効需要を創出すべきであるとしました。彼の場合、人間の本性を快苦・善悪の二元論で楽観的に捉えるのではなく、経済活動を政治的プラグマティズムで調整しようとしたのです。個々人が市場で利己的利益の追求だけを考え、自由競争を進めれば社会的調和と繁栄が導かれるという考えや、階級闘争が矛盾を解決するというような単純な発想では現代の課題を解決することはできません。
ではどうすればいいのか?それには生命が、自ら創造した進化の最高形態である言語によって、自らを抑制し制御する哲学や思想・道徳を必要とするのです。そしてそのために、言語を持つ生命である人間が、自らと自ら創り発展させてきた文化と社会の在り方を、正しく認識し合理化し制御する必要があるのです。市場依存主義(新自由主義)のように、利己心に任せて経済成長を図るというのは、単に強者の市場支配を奨励するのに過ぎません。貨幣が(によって)市場と人間生活を、適正・円滑に、豊かで便利なものにするにですが、同時に、不等価で不正な貨幣(数的言語)による欺瞞的交換と富の偏在(格差)をもたらします。
しかし、マルクス(共産党)批判が真に理解されるならば、これから我々は、何の躊躇もなく、商品市場の「等価交換」や「完全競争」という原則を、経済学的神話であると批判することができるし、また、平均的法則や純粋理論を経済学的前提とすることはできなくなるでしょう。逆に、言語意味論において、言語の意味が歴史的・社会的に平均的制約を受けつつ主観的相対的なものであると同様に、商品の価値は社会的平均的な共通価値(適正価格!?)を認めつつも、個々人の欲望や交換条件にもとづく主観的相対的なものであることを前提とする必要があるでしょう。「不等価交換」や「不完全競争」そしてそこから生じている利潤(剰余価値)や不平等・格差・貧富さらに政治的・経済的支配や抑圧、不公正や不正義、欺瞞や宣伝(情報の非対称性)を是正する発想(公正と正義・社会的責任・道徳的社会主義)が生じてくるでしょう。
以上がKakasiたちの「科学的社会主義・日本共産党批判」の結論です。この結論は、人間存在研究所の沢谷や大江のアイデアによる「生命言語説Life-words(L-W)theory」を理論的根拠にしています。おそらくこの理論は、マルクス主義のみならず、今日までの自然と人文科学にかかわるあらゆる知識や信仰の根底を変革することになるでしょう。神の言葉に依拠するユダヤ・キリスト教、菩薩信仰を基調とする大乗仏教(各宗派、創価学会)、自然・人物崇拝にもとづく神社神道などは、伝統や既得権維持の頑迷固陋な指導者(詐偽師!)によって言葉の真実を見えないようにするでしょうが、やがて闇は開けるでしょう。「生命言語説」の詳細は、ネットで検索するか大江著『人間存在論』をご覧ください。
長文を最後までお読みいただきありがとうございました。
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