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東京の桜は五分咲きといったところだろうか。水曜日(4月4日)に自転車で千鳥ヶ淵周辺を走った感触では、花見のピークは今週末になりそうだ。北の丸公園には、はやくもカメラを持った人々が溢れている。めでたい景色だ。
ところが、私は、桜の花が咲くこの季節を、心から祝福する気持ちになれない。わがことながら奇妙だと思うのだが、毎年、一斉に花開く桜の木を見ると、むしろ、内心に緊張感がよみがえってくる。
理由は、たぶん、入学や入社といった事柄に対して、私が苦手意識を持っているからだ。保守的な人間は、新しい環境に適応するのに時間を要する。というよりも、そもそも新しい環境を好まない。だから、4月のこの時期の、新しい出会いを象徴する花である桜に、圧迫を感じるのだ。
振り返ってみれば、私は、若い頃から一貫して、かなり劣悪な環境であっても、なじみのある場所にとどまることを選ぶテの人間だった。新しい出会いや、新しい枠組みについては、それが将来的に素晴らしい経験になるのだとしても、少なくとも慣れるまでの期間は、いつも重荷に感じていた。桜は、そういう不適応の経験を思い出させる。新しい学校、新しい会社、新しいクラスメート――出会いは、圧力だった。なさけないヤツだと思う向きもあるだろうが、これは生まれつきの性分だ。自分ではどうにもならない。
入社式関連のニュースを見せられると、だから、私は、少し、落ち着かない気持ちになる。
ニュースを作っているのは、どちらかといえば、新しい環境に対して、不安よりは期待を感じるタイプの人間だ。逆に言えば、そういう凸型の性格だからこそ、彼らは、常に目新しい現場に出向いて行く報道の仕事に就いている。
取材者は、入社式や入学式のような取材対象については、はじめからポジティブに演出する発想しか持っていない。かくして、ニュース映像は、若い人たちの「門出」や「出発」を、「晴れがましい」「前向きな」「希望に満ちた」節目として描写するべく制作され、演出され、配信されてくる。そして、私のようなタイプの視聴者は、それらのニュースの決め付け方に、どうしても、抵抗を感じるのである。
入社式に当たって、実際に晴れがましさを感じている人々がいることは否定しない。二つのグループに分けて数を勘定すれば、おそらく、新しい機会を歓迎する組の若者の方が、数としては多数派になるのだろう。
が、新しい環境にひるんでいる子供は必ずいる。圧迫を感じている若者も一定数存在する。で、そういう子供たちの一人であった私は、祝福一辺倒の報道を見せられると違和感を抱くわけなのだ。
今年の例では、4月2日付の朝日新聞が、神戸にある食品メーカーの入社式を紹介していた。
なんでも、その食品メーカーでは、新入社員代表の女子社員が、採用担当の部長を腕を組んでバージンロード(レッド・カーペット)の上を歩く儀式が採用されたのだという。ちなみにバージンロードの先には、社長が待っていて、新入社員は社長と固い握手を交わしたのだそうだ。
写真も載っている。
赤い絨毯。腕を組んで歩く中年男性と若い女性。満面の笑み。握手をする社長と新人。笑顔で拍手する新しい同僚たち。
めまいがしてくるような景色だ。
筋立ては理解できる。入社を結婚に見立てたということなのだろう。意図もわかる。
が、個人的な感想を述べるなら、この「式」は、「結婚」と「入社」というふたつの事象を、ふたつながら、同時並行的に冒涜している。
入社を結婚に見立てることは、社員の自由意思を否定しかねない束縛と圧力をもたらしている。会社生活は結婚生活とは違う。企業と従業員の関係も、夫と妻の関係とイコールではない。就職は、もっとドライで、ビジネスライクなものだ。でないと、それは、会社にとっても社員にとっても、不幸な行き違いを生む。
逆に、結婚を入社になぞらえることは、愛情という貴重なフィクションを踏みにじっている。結婚に打算が不要だとは言わないが、男女の出会いは取り引きではない。最終的に、打算であるのだとしても、結婚においては、当事者が事前に利害を明らかにしないことが取り引きの前提になっている。別の言い方をするなら、結婚は、与えた者と受け取った者が共に利益を得る愛情という架空の通貨を想定しないと成立しない交渉で、その意味で経済学の枠組を超えた出来事なのである。
この「バージンロード入社式」が、総務か人事の発案であったのなら、苦笑いひとつで処理することも可能だった。
「新入社員にバージンロードってどういう同調圧力だよ」
「ははは。違いのわかる男は違いを許さないわけだな」
「まったくあきれたオッサンたちだよ(笑)」
しかしながら、記事によれば、
《式の内容は、会社が「企画とイノベーション」をテーマに与えた最初の課題。新入社員51人が話し合って決めた。》
ことになっている。
つまり、この「式」は、会社側が上から与えたプランではなくて、新入社員自らが、自分たちに課したミッションだったということだ。
つらい話だ。
新入りが通過儀礼を課されることは、昔からあった話だし、私自身、無意味に見える試練に一定の意義がある可能性を否定しようとは思わない。
でも、51人の新入社員が、踊らされていたのではなくて、命令もないのに自ら踊っていたのだと思うと、これはつらい。
ついでに言えば、私は、「バージンロード」に代表として送り出されたのが女子社員であったことにも、少なからぬショックを受けている。
「女性蔑視」だとか「セクハラ」だとか、そういう言葉を持ち出して、話を大げさにしたいのではない。
ただ、若い女性社員と中年の採用担当の男性社員が腕を組んでバージンロードを歩いている写真の絵ヅラに気持ちの悪さを感じることだけは、いかんともしがたい。
むろん、これは、若い人たちがなんとなく企画してなんとなく同意したプランに過ぎない。
無邪気に受けとめれば、とりたてて騒ぐようなお話でもない。
どちらかといえば、どうかしているのは、若い連中のごっこ遊びを深読みしている私の方なのかもしれない。
「考えすぎですよ。オダジマさん(笑)」
と、51人の新入社員のうちの、おそらく45人ぐらいは、そう言って笑うはずだ。
でも、企画の決定に当たって、5人ぐらいは、居心地悪そうに黙っていたメンバーがいるはずなのだ。
で、私は、子供の頃から一貫して、そっちの黙って違和感を感じている側の人間だったわけで、その私の立場からすると、やっぱりこの「式」は、どうにもこうにも薄気味が悪いのである。
仮に、私が51人の中の一人であったのだとしたら、どこかの段階で、
「ちょっと待ってくれ」
と、異議を表明していたと思う。
労働観、結婚観、ジェンダー観すべての面で、やはり、こんな入社式は承服できないからだ。
で、決定に水を差す意見を吐いた私は、新入社員の間で浮くことになるはずだ。
想像はつく。目に浮かぶようだ。
私は、ずっとそうやって浮いてきた人間だからだ。
大切なのは、合意の内容ではない。合意に至る過程だ、と、そういう形式でものを考える人たちがいる。もう少し踏み込んだ言い方をするなら、新入社員は、入社前研修のような機会を通じて、「合意形成に抵抗なく参加し得る人間であるのか」を、常に判定されているものなのだ。
30年前に私が新入社員として受けた研修でも、似たような課題が与えられた。
6人から8人ぐらいの小グループに分けられたわたくしども新入社員は、グループごとに、新しい架空のビジネス企画と、その細部にわたるプランを案出する義務を負っていた。
この課題が、すなわち、「合意」ないしは「同調」という、社会人としてのはじめてのステップであったことに私が思い至ったのは、会社をやめた後のことだったわけだが、それはまた別の話だ。
事前に、人事部の若手社員が課題についてこんな説明をした。
「大切なのは企画の出来不出来ではない。どうせ新入社員の企画だ。そんなものが使いものになるとは思っていない」
「われわれが重視しているのは徹底的に議論することと、全員一致の結論を出すこと。これが最低限の条件だ」
「一人でも反対者がいる間は、絶対に寝てはいけない。徹夜になっても、必ず全員が合意するまで議論してもらう」
「議論の中では、遠慮せずに他人の意見を論破して、思ったことはどんなことでも言うように」
「人格攻撃があってもかまわない。初対面だからみたいな配慮は捨てて、どんどん意見をぶつけ合ってほしい」
さらに彼は、会社が新入社員同士に徹底的な議論を求める理由について、以下のような話をした。
「キミたちが学生時代に経験してきた人間関係というのは、要するに気に入った人間やウマの合う友だちとだけ付き合っていれば良い、いわば子供の関係だったはずだ」
「しかし、企業に入ったら、気に入らない人間や利害の対立する相手と交渉を持たなければならない。それが大人になるということだ」
「そんな中で、同期の新入社員同士は、一生涯の同志になる。この研修はそれを作る機会でもある」
「ふつう、友だちをつくるのには何年もかかる。しかし、企業社会ではそんな悠長なことは言っていられない」
「だから、諸君には、この二週間の研修期間の間に、学生時代なら10年かかる濃密な付き合いをしてもらうことになる」
「そのためには、遠慮や、気おくれや、ためらいといった、人間の『殻』は、捨てなければならない」
「すべての『殻』を取っ払って、生身の人間として思い切りぶつかり合ってほしい。誰が『殻』を残しているか、われわれは、研修を通じて、ずっとキミたちを見ている」
いま思えば、私たちが受けていた研修は、1980年代当時に流行していた「地獄の◯◯日間」タイプの強制合宿の流れを汲んだカリキュラムだった。
自衛隊への体験入隊や、自己啓発型の圧迫研修に比べれば、苛酷というほどのことはなかった。
が、私は、見事に馬脚をあらわした。つまり、自分が「合意形成に寄与できないタイプの社員」であることを自ら暴露してしまったのだ。
研修後、色々と紆余曲折はあったものの、私の会社員としての運命は、基本的には、この二週間の入社前研修の間におおむね決まっていた。すなわち、私は、「こいつはちょっと厄介なヤツだぞ」というタグのついた社員として任地に就くことになり、結局、三年後のフォローアップ研修すら迎えることができないまま、会社を去ることになったのである。
誤解してもらっては困るのだが、私のいた会社は、今の言葉で言う「ブラック企業」ではない。
私がここで書いた研修の様子を読んだだけの読者は、そんなふうに思ったかもしれない。
が、あれは、研修の一側面であったに過ぎない。
ある程度度量のある企業は、必ずしも一枚岩の組織であるわけではない。
人事部の若手社員が、恫喝的な演説(←この人の話は常に恫喝的だった)をしてから3日ほどたったある日、夕食前の食堂で、別の年かさの人事部員が、こんな話をした。
「◯岡君が言っていた『殻』の話について、私の立場からちょっと補足をしておきます」
「私たちが、諸君に、研修期を通じたすみやかな成長を期待していることはご存知のことと思います」
「そのためには、課題に真剣に取り組む必要があります」
「ただ、殻を捨てろ、他人のプライドなんか気にするなという言葉を真に受けて、真正直に実行すると、それはそれで弊害が出るということは知っておく必要があります」
「私の個人的な意見を言えば、殻を完全に捨てた人間は人間ではありません」
「自分の殻と、自分の考えと、他人の立場と、周囲の意見と、色々なことを考えながら、課題について考えてください。私の話は以上です」
なかなか素敵な演説だった。
手遅れ(私は既に浮いていた)ではあったが、私は、企業社会への信頼感を少しだけ取り戻した。会社は社員に一様な人間であることを求めているように見える。が、その実、一定量の含みを残している。実際にどうやったところで人間は色々なわけで、変わり種にだって住む場所が無いわけではない。そういうことを、私は会社を辞めてから知った。
いま、神戸の会社にいる、会社との結婚を誓った51人の新人の中には、どうしても自分を納得させることができずにいる社員が、二人か三人は、どうしてもいるはずだ。
仕方がないことだ。それが、正常な分布というものだ。
彼らは、二三年以内に、会社をやめることになると思う。が、それは必ずしもネガティブなことではない。彼らの将来に明るい日がさすことを祈っている。
私が新人研修を受けていた頃、さだまさしという歌手が「関白宣言」という歌を歌って(正確には「関白宣言」の発売はオダジマが就職した年の前年の7月)賛否両論を巻き起こしていた。
歌詞を引用したいところだが、シャイロック……じゃなかったジャスラックの追及が面倒なので、簡単に内容を紹介するにとどめる。詳しくは「関白宣言 さだまさし 歌詞」ぐらいでググってみてください。親切な人のページにたどりつくかもしれません。
「関白宣言」への反発は、戦後数十年が経た民主主義社会の世の中にいまさら「亭主関白」などという封建道徳を持ち出して来た歌手の暴挙に対するものだった。
が、大方の反発は、「オレより先に死んではいけない」とする関白の最終的な命令によって、無効化した。つまり、この歌が逆説的なラブソングであることが判明した瞬間に、すべての抗議は「犬も食わない」言葉に帰するという回路が、「関白宣言」にはあらかじめ埋めこまれていたのである。見事な作風と評価せねばならない。
夫婦間のやりとりは、傍目からどんなに理不尽に見えていても、しょせんはプライバシーに過ぎない。
反対に、企業の入社式は、本人たちがいかに私的な儀式である旨を主張しても、必ず一定量の公的な意味を放射している。
そういう意味で、企業の入社式を伝えるニュースは、就職を控えた学生の気持ちをくじかないように配慮してほしい。
神戸の食品会社が入社式を行なっていた同じ頃、大阪市の中央公会堂では、新規採用の職員の発令式が開催されていた。
報道によれば、新人の職員を前に、橋下市長は、以下のような演説をしている。
「みなさんは国民に対して命令をする立場。だからしっかりルールを守らないと命令なんか誰も聞いてくれない」
驚くべき発言だ。
が、この言葉は、おそらく、橋下さんの本意ではない。
単なる言い間違いの類だと思う。いくらなんでも、市の職員が国民に命令をする立場だなんてことを、市長が本気で考えているはずがない。きっと、命令系統についての話を強調する文脈の中で、言葉が過ぎたということなのだと思う。
だから、ここでは、これ以上「命令」について、突っ込むことはしない。
とはいえ、市が軍隊でなく、市職員が兵隊ではないということは、とりあえず言っておかねばならない。
もちろん、嫁でもない。
市職員が嫁だったら、市長は無事では済まない。
でなくても、関白の天下は長くは続かない。
(文・イラスト/小田嶋 隆)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120405/230644/?rank_n
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「が、この言葉は、おそらく、橋下さんの本意ではない。」
が、この言葉は、おそらく、小田嶋さんの本意ではない。
小田嶋さんは、橋本市長が、本気で「公務員は国民に対して命令をする立場」だと思っていると思っている。
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