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独裁かどうかなんて「小さいこと」っていうのが、社会の大勢の感覚なのかもしれない
(Afternoon Cafe)
観測霊さんにいただいたこのコメントは、
「ファシズムは笑顔で訪れる」という格言を思い出させてくれます。
(引用開始)
今朝はちょっと時間があったので、テレビ朝日の「モーニング・バード!」という番組を見ていたんですが、そこで橋下市長の特集をやっていました。
まぁ、内容は「既得権益と戦う橋下市長」的な内容でしたとだけ。
気になったのは特集後の出演者のコメント。
舘野晴彦氏
(幻冬舎取締役専務、月刊『ゲーテ』編集長)は
「独裁かどうかなんて小さいことを言ってないで…」
…すみません、聞いた瞬間耳を疑ったので、その後なんて言ったのかさっぱり覚えていないんですが、これで月刊誌の編集長って…何の冗談かと思いました。
あぁ、そうなんだ、独裁かどうかなんて「小さいこと」っていうのが、社会の大勢の感覚なのかもしれない、と思い知らされたといいますか…なかなかショッキングな出来事でした。
(引用ここまで・太字は私)
「独裁でも何かを変えてくれるならそれは‘良い独裁’なんだから別にいいじゃん、」と感じている人にとっては「独裁かどうかなんて小さいこと」です。
結構こう感じてる人は多いのではないでしょうか。
一度独裁的な体制が力を持ってしまえば容易に元の民主主義体制に戻すことはできない、失ってから初めて民主主義の価値に気づいても遅い。
こちらでも書きましたが、このスタンダードな定理を歴史から学んでいない理由のひとつとして一般的によく言われるのは、
「日本の民主主義は上から与えられたもの、そして現在に至るまで日本では民主主義教育、人権教育は不十分であり民主主義が自分たちの血肉になってない」
ということです。
もうひとつの理由は「今は民主主義の世の中って言うけれど、民主主義でよかったことって、なんかあった?」ってのがあるんじゃないでしょうか。
民主主義というシステムでよかった、という実感がなければ、何があろうと独裁を許さず民主主義を堅持せねば、という気持ちにはならないでしょう。
私たちが民主主義を感じれる場面は、せいぜい投票所くらいのもんではないでしょうか。
ですが、選挙なら戦前もあったわけだし北朝鮮にもあります(選挙制度があるからと言って戦前の日本や北朝鮮は民主主義社会とは言えないのはご存じの通りです)
民主主義の恩恵が選挙ができることだけなら、別に民主主義にこだわる必要もありません。
選挙だけして後は参加する機会がないような「おまかせ民主主義」は、戦前と同じで民主主義の良さを実感できません。
民主主義とは平たく言えば、
1.治者と被治者の同一性=自治=
自分たちのことは話し合いにより自分たちで決めること
2.しかしながら「多数派がいつでも正しいとは限らない(かつては天動説が多数だったが、それが正しくなかったように)」という懐疑と謙虚さも備えること
だと思います。
1のためには投票できるということだけでなく、あらゆる場面で意見を発信し参加できる機会があり、それが真摯に受けとめられることも重要な要素です。
いくつか思いつくものを書き留めてみましょう。
日本では高い供託金を払わねばならないので、現実的には気軽に誰でも議員に立候補できるわけではありません
しかし例えばスウェーデンでは地方議会では高校生議員がいたりします。
誰でも議員になれる可能性が高いのと低いのとでは、社会の意思決定に自分が参加しているという実感をえられるかどうか、随分違いがあると思います。
また、日本では市民が地方議会を傍聴することなどほとんどありません。傍聴できないわけではないのですが、奇異な顔をされるらしいですね、もちろん発言などできません。
スウェーデンでは中学校の授業で議会の傍聴があります。議会の傍聴席は学校の入れ替わり立ち替わり学校の生徒達が座りにきます。そして発言することもできます(もちろん議決権はありませんが)。
こうして社会の意思決定に参加する実感と議会運営をチェックする習慣が子供の頃から身についてきます。日本では味わえないですね。
デモは民主主義社会では市民の意思表示の一般的かつ大切なツールです。民主主義国ではデモなんて実に気軽で当たり前なので、どうして日本ではデモが行われないのかとよく不思議がられます。
しかし日本ではデモに参加すればこんな風に不当に逮捕されるし、デモする人は政治団体に属してるような特殊な人という謂われ無き偏見の目で見られたりすることもあります。
あるいはデモが憲法で保障された大事な表現の自由だと言うことすらしらず、デモって許されないものだと思っていたり・・・
そしてせっかく大規模なデモをしてもマスコミが報道しないので、市民の意思表示がよそに伝わらず、効果も半減だったりします。
2も民主主義の実現には不可欠です。
不当な人権侵害や弾圧は、民主主義を踏みにじる行為です。それは多数派によって少数派に対し行われる場合が多いです。そういう場合まずはデモ等で抗議の意思を発信することが多いですが、それが無視された場合、多数派にNOをつきつけて最終的に「民主主義」を担保するのが司法です。
ところが日本では司法は権力側の味方をし、不当な人権侵害や弾圧を訴えた市民の側が負けることが多いのです。
こういう経験が積み重なれば、民主主義が踏みにじられるような事があっても、だんだん暴挙と闘おうとしなくなります。学習政無力感に陥ってしまうのです。
このように、私たちの多くは「民主主義って良いものだ、面倒でまどろっこしくても、産みの苦しみがあっても、やはりこのシステムに乗っ取った行くのが一番良い方法なのだ」という実感が得られていないのだと思います。
民主主義でよかった、という実感が得られるような社会でないと、民主主義にしがみつく理由など無くなってきますから、「多少の独裁だって良い独裁なら良い」「独裁かどうかなんて小さいことを言ってないで…」 と言い出す人が出てきてもおかしくありません。
逆に、自分たちの声がきちんと届いて政策に希望が反映される、そして多数派や権力の誤りも最終的には是正されるという信頼もある社会(つまり民主主義が実質的に実現されてる社会)であればあるほど、民主主義の大切さを実感でき、民主主義を尊重し、たとえまどろっこしく面倒であっても、産みの苦しみがあっても、安易に「良い独裁」などに希望を見いだしたりしないようになります。
そういう意味でも、民主党が速攻で第二自民党化して国民の期待を裏切りまくった罪は計り知れぬほど大きいです。
選挙という民主主義システムで初めて政権交代させたのにだめだったという無力感、絶望感は、ただでさえ長期間政治的ニヒリズムに陥っている日本人の民主主義そのものへの不信を強め、民主主義を尊重する精神を更に後退させたのではないでしょうか。
独裁を望む土壌を国民の中に今までになく育んだこと
これは
民主党の行った大罪の一つだと私は思います。
http://akiharahaduki.blog31.fc2.com/blog-entry-803.html
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