08. 2012年4月06日 10:26:21
: gFpOokIWao
http://ww6.tiki.ne.jp/~funabashi/kobayashitakiji.html 小林多喜二、築地警察署内で虐殺さる
〈小林多喜二〉 明治36年(1903)10月13日、秋田県北秋田郡下川沿村(現・大館市)生まれ。40年北海道小樽に移住、 小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)卒業後、北海道拓殖銀行小樽支店に勤務。志賀直哉に傾倒して リアリズムの手法を学ぶ傍ら、貧しく虐げられた人々への共感から労働運動に関わる。昭和3年(1928)、 「一九二八年三月十五日」を発表し、プロレタリア文学の有力新人として注目を集める。4年に発表した 「蟹工船」は、日本プロレタリア文学の最高傑作として海外でも高い評価を受けたが、銀行を解雇され上京。 6年、日本共産党(当時は非合法)に入党。昭和8年(1933)2月20日、特高に逮捕され、築地警察署内で 拷問を受け同日虐殺死。魯迅をはじめ国内外から弔問と抗議が寄せられ、志賀直哉は日記に「警官に殺さ れたるらし、実に不愉快」と記した。戦後まで、多くの作品が発売禁止や伏せ字での発表を余儀なくされる など、弾圧に遭った。(角川文庫「蟹工船」カバーから引用) 警察署内での警官による犯行であり、虐殺の状況は一切明らかにされていない。警察署内に一人でも 正義の士がいれば虐殺の状況が少しは明らかになったであろうが、我が国の警察にはそのような士は 一人もいなかったようである。 また警察は、虐殺が明らかになることを防ぐため、遺体が解剖されないよう遺体解剖の出来る病院に 手を回した。そのため解剖が出来ず死因を特定することが出来なかった。医者も情けない、医師としての 誇りがないのであろうか。当時の国民は、当方のサイトを見たら何と言うであろうか。もっとも当方が このサイトを始めた時点でも、警官の犯罪や不祥事を羅列しているようなサイトは一つもなかったのだが・・・。 遺体の状況から虐殺が明々白々であったにもかかわらず、警察はずうずうしくも心臓麻痺などと虚偽の 発表をし、毎日私服が張り込んで母の小林セキさんが杉並区阿佐ヶ谷に居住していることを知りすぎる ほど知っていながら連絡もしなかった。そして葬儀までも妨害した。 当方は遺体の写真を見ていないのだが、日本共産党で出した写真集に載っているようである。古い 写真集ゆえ入手が難しい。入手できれば遺体の写真を載せたい。虐殺の状況を、否定できない写真で広く 国民に知らせることは正義の実現を望む国民の義務である。 2011年、新日本出版社から小林廣編 「母の語る小林多喜二」 が出版された。これに日本プロレタ リア文化連盟の『大衆の友』小林多喜二記念号外「目撃者の談に聞け! その日監房の小林多喜二」からの 引用として拷問後監房に返された後の状況が少し載っているので転載したい。当時在房した方から聞き 取られたものであろう。 「拷問は留置場の上でやられたらしい。どんな方法かわからない。しかし久しい間やられていたことが わかった。 連れてこられた時、我々はみんな覗き込んだ。顔色のまっ蒼になった中肉中背の男がよろよろになって いた(それが小林であった)、第三房に入れるため三房の戸を開けたが、拷問の余ふんが残っていて、 小林はそのよろよろになった身体で、房の中へ入るまいとするように上体をねじって反抗した。その胸 を特高(原文ではスパイとなっている)が靴で蹴った。小林が倒れ、あおむけになった。 それをまた特高(同)が、胸と腹を蹴った。小林が意識不明になり、ぐったりとしているのを三房の中へ 引きずり込んで入れた。 三房の中には四五日前からやられている若い男がいて、その男は小林を見て、知っていて非常におど ろいた。この男も連日拷問されていて立たなくなった膝を無理に起して小林を介ほうした。小林は意識 不明ながらも身体が苦しいと見え、しきりに身体をモヂモヂと動かした。便所へ行きたいかというと、 顔をイヤイヤとふったが、放っとけという看守に無理に戸を開けさせて、三四人で便所へかついでいった。 すると小便は出ず、肛門からたくさん出血した。小林はぐったりとなっていた。微かにものが言え、 知っている若い男に 『とてももう長くない。死因を外の同志に伝えてくれ』と言った。」 更に、「大衆の友」に載った窪川いね子さんの文が引用されているので転載したい。 屍の上に 窪川いね子 「午後十一時、阿佐ヶ谷馬橋の小林の家に急ぐ。前田病院へ電話をかけると、死体は自宅へ帰ったと いうのだ。我々六人はものを言うと慄(ふる)えるような気持ちで、言葉少なく歩いた。 昨年三月以前、まだ文化連盟の犠牲者たちが外にいる頃、同志小林を訪ねて来た道である。家近くなる と、私は思わず駆け出した。 玄関を上がると左手の八畳の部屋、もとの小林の部屋である。江口渙が唐紙を開けてうなづいた。 床の間の前に、蒲団の上に横たえられた姿! ああやっぱり小林であった。 蒼ざめ、冷たくこわばっているその顔! それはやはり同志小林の顔である。 彼は十ケ月ぶりで自分の部屋に帰って来ている。それを彼はもう知らない。 我々はそばへよった。安田博士が丁度小林の衣類を脱がせているところであった。我々の目は一斉に 、その無残に皮下出血をした大腿部へそそがれた。みんな一様にああ! と声を上げた。蒼白くこわば った両脚の太ももは、すっかり暗紫色に変じている。我々は岩田義道を思い出した。 お母さんが、ああッ、おおッとうなるように声を上げ、涙を流したまま小林のシャツを脱がせていた。 中条はそれを手伝いながら 「お母さん、気を丈夫に持っていらっしゃいね」 「ええ、大丈夫です」 お母さんは握りしめているハンカチで、涙を両方へこするように拭いて、ははっ、おおっと声を上げた。 「心臓が悪いって、どこ心臓が悪い。うちの兄ちゃは、どこも心臓がわるくねえです。心臓がわるければ 泳げねえのに、うちの兄ちゃは子供の時からよう泳いどったんです」 ・・・中略・・・ 押しあぐる息で、お母さんは苦しそうに胸を弱って、はつッ、おつッと声を上げつづけた。涙を腹立た しそうにこすっては、また顔の上にかがみ、小林のこめかみの傷を撫で 「ここを打つと云うことがあるか。ここは命どころだに。はア、ここ打てば誰でも死にますよ」 それから咽喉の縄の跡を撫で、両頬にあるさるぐつわの跡を撫で廻した。しわを延ばすように力を 入れてこすり、血を通わそうとするように。 お母さんは、小林の顔に、胸に、足に、見るところ毎に、敵の凶暴な手段の跡をはっきりと認めた。 おっ母さんが見たように、我々もまた同志小林の顔に、胸に、足に敵の凶暴な手段の跡をはっきりと 認めた。」 同志江口渙氏は2月21日、報道陣に「何しろ顔面の打撲裂傷、首の縄の跡、腰下の出血等が ひどく、単なる心臓麻痺とは思えませんから、22日当家から死因に関する声明書を発表します」と語った。 岩田義道氏は1932年10月30日、警視庁特高に逮捕され、11月3日拷問により虐殺された。 「母の語る小林多喜二」は小林廣氏が小林セキさんから聞き取った内容をまとめたものである。小林 廣氏は小林多喜二との関係について次のように書いている。 「私は多喜二君と姓を同うしているが、何らの縁故もなく、勿論生前一度の対面をしたこともない者 である。 ・・・中略・・・ (しかし)多喜二君の姉の佐藤君夫妻と私達夫婦とは同町内で特別別懇な間柄であるし、特に佐藤君と 私とは幼少からの友達でもある。佐藤家は私の家と殆ど十軒ほどより離れていない近い所なので、老後 を佐藤家に託すお婆さんも、お互いに往ったり来たりの親しさなのである。お婆さんが私に執筆方を頼 んだのも、また偶然ではないのである。」 「母の語る小林多喜二」は敗戦翌年の1946年札幌の白都書房から出版が計画されたが、何らかの事情 により出版されなかった。近年になって荻野富士夫氏が市立小樽文学館に寄贈されていた原稿を見つけ、 小林廣氏の子息から、小林廣氏が再度出版を計画して書き直した原稿を入手し出版されることになった。 小林多喜二の母について書かれたものには他に三浦綾子氏の「母」があるが、こちらは小林セキさん から聞き取ったものでなく、作品や日記、随筆等をもとに小林多喜二の姉弟や知人に取材して書かれた ものである。 当方は、罪のない国民を虐殺・暴行した特高及び指示を出した悪の政治家を決して許しません。 必ずやこれらのものを突き止め、その子孫を一人残らず地獄に送るでしょう。悪事を働いてもバチなど 当たらないという国民に、悪事を働けばその報いを受けることを理解させねばなりません。 これらの者の犯罪はあまりにも悪質すぎる。しかしこれらの者は今まで誰一人としてその罪を問われて いないのです。殺人等の凶悪犯罪を犯しても政治家や警官等は罪に問われないなどというバカなことが あってはなりません。国が出来ないなら正義の実現のためには誰かがやらねばならないのです。 殺人等の凶悪犯罪を犯しても罪に問われずのうのうと生きた者の遺伝子を受け継ぐ者もこの世に存在 していてはならないのです。現在までただ一人として、祖父や父が虐殺に関与して申し訳なかったと謝罪 した遺族がいないことを見ても、犯罪者の悪い不浄な血は強く受け継がれるのでしょう。 隠したところで霊的な世界からは容易に判明するのです。車社会では、一日数人の子孫を地獄に送る のも難しいことではないでしょう。車社会で悪人をどのように地獄に送るかはトップページの「中川昭一 死去 良し! 次は・・・」をご覧いただきたい。 当方は数年の内に活動を開始したいと考えて います。すぐさま東京・神奈川近辺に飛んで探し回ります。犯罪者の子孫は覚悟されたい。
何度でも書くが、当方の書くものを神は見ています。神は当方のすることを止めはしないでしょう。当方 が嘘やデタラメでなく真実しか書いていないことを理解しているからです。 「蟹工船」ばかりがよく読まれているようだが、当方は「不在地主」をお勧めしたい。「蟹工船」は狭い船内 で未組織労働者が自らの権利に目覚めていく様を描いたものだが、「不在地主」は無知な小作農民が覚醒 し、労働者の支援を受けて悪辣な地主(資本家)に勝つ様を描いたものである。後半の盛り上がりには 圧倒される。いわば悪辣な地主(資本家)に勝つための指南書であり、悪人どもにとっては最も国民に知ら れたくない内容だったろう。“戦後まで、多くの作品が発売禁止や伏せ字での発表を余儀なくされ” たのも 無理はない。前年の昭和3年には「防雪林」が書かれているが内容は「不在地主」と殆ど同じである。ただ 「防雪林」は悪辣な地主の屋敷が主人公源吉により放火されて地主一家が焼け死に、町の人々が「たたられ たんだ、きっと」等と噂しているところで終わる。
マッカーサーが厚木に降り立ったのは8月30日である。9月11日には早々と東条英機ら39人の逮捕 指令が出され、10月4日には治安維持法の廃止、政治犯釈放等の指令が出された。日本人が同じことを したらどれ程の年月がかかったことだろう。11月2日には財閥解体の指令が出され、12月9日には農地 改革指令、15日には国家と神道の分離指令、31日には修身・日本史・地理の授業停止指令が出された。 12月1日には19年ぶりに共産党大会が開催された。敗戦直後のGHQの働きにはいくら感謝してもしきれ ない。朝鮮戦争がなければ、東西冷戦がなければ日本もまともな国になっていたことでしょう。 小林家は優秀な家系で、多喜二は人間的にも極めて優れていた。人間的に優れていなければ悪辣な 資本家を批判する文章は書けない。下等な人間は悪辣な資本家、それを擁護する権力を批判・非難する のでなく、自分もそれらの仲間になりたいと考える。これは昔も今も変わりない。現在、権力側を批判 する国民がほとんどいないのは下等な国民が大多数となってしまったためであろう。 金儲けに高邁な人間性は必要なく、高邁な人間性はかえって金儲けの邪魔になる。金儲けは足し算 引き算が出来(現在は百円で電卓が買える時代であり、小学生の算数の能力も必要ないか)、高邁な 人間性を持たない輩であれば馬鹿でもできる。 悪辣な財閥や資本家が国を牛耳っていたため、多喜二のような金儲けの邪魔になる国民は虐殺せねば ならなかった。“戦後まで、多くの作品が発売禁止や伏せ字での発表を余儀なくされ” たのは、戦後まで それらの輩が国を牛耳ってきたことを意味する。 多喜二のようななくてはならない国民を虐殺し、居ないほうがよい(居てはならない)金儲けしか頭に ないような国民だけの国を作ってきた。現在、金が絡んだ犯罪が多発するのは必然であろう。金儲けしか 頭にないような国民だけの国を作ってきながら、“振り込め詐欺に注意しましょう” は笑える。犯罪を奨励 しながら一方で取締りを行う愚。
|