15. 天橋立の愚痴人間 2012年3月24日 22:20:25
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「閑話休題」 縄文中期の繁栄も、4,000年前ごろから起きた地球の寒冷化で突然崩壊した。特に中国では3000年前の寒冷化、乾燥化は厳しく北方の民は大挙して長江流域に押し寄せた。 このために長江流域を追われた民族は中国の奥地ばかりではなく、東南アジアにも向かったし、台湾島にも向かった。
これらの人々によって我が国に稲作が伝えられたのは紀元前800年(弥生前ないし縄文後期)とされている。 稲作の伝来、定着と共に社会的大きな変化は環濠集落誕生と社会構成である。 最初は小さな集団から始まったのであろうが、これが段々と大規模なものとなり直径が数百メートルもある大規模なものとなり、村の概念から国の概念へと発達して行く。 また収穫物と言う財産を保持することになり、狩猟生活における獲物の取り合いとは別の、集団同士(村)の熾烈で大規模な争奪戦を生む原因ともなった。 「 クニ」の形成 弥生時代、当時の最先進地域であった北部九州では、当初、それぞれ個別の集落として存在していた「ムラ」が、農耕が基本に持つ高い人口再生産力を発揮してムラの拡大・分化を生み、近辺の生産適地を埋め尽くすように未開地を耕作地へ変えていった。 その結果増加した「ムラムラ」が、弥生前期後半ごろから小共同体(おそらく血族集団、本家と分家などから構成されたような共同体)に成長し、更にその小共同体が、指導力を持った中心的な小共同体と、そういう小共同体との共存を図ろうとする従属的な小共同体とに階層化し、それらが一つのグループとなって「クニ」を形成し始めた。 クニ形成の基本的要因は、水資源の共有化や管理の一元化の必要性が生じたことにあったと思われる。 それほどにムラの数や人口が急増し、北部九州の中小河川の水量では、その効率的な利用が強く求められたからであろう。 当然、クニの内外で調整や裁定というような社会的作業や、それがうまく図れなかった場合には、争いが−すなわちこの列島において初めての戦争が−起こったであろう。 それは次第に、大リーダー(大首長)と小リーダー(小首長)、さらにその構成員というように、人々の間に階層的な関係を発生させた。 縄文時代には考えられなかった、社会構造が形成され始めたのである。 そうした日本列島の新しい鼓動は、半島や大陸の方にも聞こえ始めていた。 「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為し、歳時を以て来たり献見す、と云ふ」 これは『漢書』に記された一文の読み下し文であるが、中国の正史に「倭」が登場した最初の記述である。時代は紀元前1世紀の頃。 現代文に直せば 「楽浪郡から海路を行った先に倭人と言う処がある。(倭の人々がいる、という読み方が一般的であるが、そういう漢文の用法は見出せない、という意見もある) 100以上の国々に分かれており、毎年、四季毎に(楽浪郡政庁を)訪れて貢物を献上する、と言う話である」 これはすなわち、当時の漢(前漢)を中心とする東アジアの国際社会の中に、倭(or倭人)と呼ばれる北部九州を中心とした西日本のクニグニが、一つの勢力として登場してきたことを意味する。 そして、100余国すなわち100余クニとは北部九州だけで収まりきれるものではなく、おそらく「倭」とは西日本全体を指していたのであろう、としている。 中国は後漢の時代、倭の「奴国」が自称太夫(=大臣、長官)を遣わして朝貢をした。時の皇帝・光武帝は返礼として印綬を下賜したという。 この一文は有名な「漢委奴国王」 により証明された。 この頃、「倭」のいかほどの国が後漢と外交関係を持っていたか明らかではないが、「奴」という国が倭の代表として、ないしは倭の中でも特別な国として認められていたということであろう。 しかしながら「奴」が国々の代表であったのに対して近隣の伊都国(福岡西方)は漢皇室との関係において特別の権威を持っていて「奴」と連携して後漢と外交関係を保っていたものと考えられる。 これらの「国」が成立するまでには、クニとクニとの間でサバイバルの戦いがあったであろうことは想像に難くないが、「国」と「国」同士が激しく対立して戦った形跡はない。 これはおそらく、当時、新興国であった倭を構成する国々が、東アジアの国際社会に於ける倭の位置を十分認識し、対立するどころか相互補完して、諸外国に伍して行こうとしたからだと推測される。 その中で紀元200年、伊都国が、その後ろ盾と頼っていた後漢の勢力が弱体化するに従って、自らの権威も衰え、倭国連合を掌握する力を削がれることになっていくのである。 従って、倭国ではもはやいずれの国も、倭国連合を掌握する力はなく伊都国の代わりに新たな連合の盟主になろうと意欲を示す国、鉄や諸々の舶来の文物、技術を求め独自の交易を展開して利益を得ようとする国、あらたな倭国のフレーム作りを画策する国などが次々と台頭し、相争ったに違いない。 魏志倭人伝にいう「倭国乱れる(倭国大乱)」とはこういう状況を語ったと思われる。 さらに倭人伝は続ける。 「 倭国乱れ、相攻伐すること歴年、すなわち共に一女子を立てて王となす。名づけて卑弥呼という。」 それこそ「邪馬台政権」の樹立であり、これまでの「王」に変わる王の中の王「大王」卑弥呼の擁立であった。 この新邪馬台王権の誕生は、その後の7世紀後半の律令国家の成立という、大和朝廷の完成に向けての画期となったというのである。 しかしいずれにせよ、倭ないし邪馬台国は、中国王朝に対し朝貢を続け、冊封をうけて、東アジアにおける交易と安全の保障を求めるという卑弥呼以来の外交方針を続けたのである。 (上記の時代を遡ること、15000年) 33,000年前ごろを境に汎世界的に気候の激変があり、気候が寒冷化、乾燥化したという。その結果、海面の低下が起こり、日本列島は大陸と陸続きに近い状況になった。(当然、樺太や北海道は大陸と陸続きになった。) 日本海では30,000年前から27,000年前を境に暖かい対馬暖流(黒潮の支流)が流入しなくなった。そうすると水蒸気が大幅に減少し、雪雲が出来なくなり、ますます日本海側は少雨化・乾燥化したと考えられる。 森林は後退し、草原とツガなどの樹林が散在する、今の北海道のような風景が出現していたのだろう。 ちょうどそのとき動物相にも大きな変化が現れた。北方ユーラシアの草原に生息していた大型哺乳動物(オーロックス、バイソン、あるいはヘラジカ、馬など)が乾燥化・草原化した日本列島に南下してきた。マンモスも北海道まで南下して来ていたことが確認されている。 また33,000年前頃は、ヨーロッパも激変の時代であった。おそらく1万年間ぐらいは現生人類と共存したと思われる、ネアンデルタール人が遂に絶滅に至るのである。その原因は明らかではないが、寒冷化が関係したという見方がある。アジアでも、アジアの旧人達が同じ運命を辿ったのであろうか。 一方、ホモ・サピエンス即ち現生人類は、この時期に画期的な石刃技法を獲得し、すなわち生存能力を高め、クロマニヨン人が西ユーラシアに急速に拡散する。東ユーラシアでもアジアの新人が、中国北部からシベリアや日本列島にも拡散している。 丁度このころ、バイカル湖を中心としたところから荒屋型彫器という特徴的な細石器を持った文化が2〜3万年前に出現し1万年後には日本列島に流入していた(バイカル湖方面からの人口流入)。 発見された縄文時代の遺跡数の分析から、縄文以降、各期の推定人口から、8,000年前の縄文早期の人口は、東日本地区で17,300人、西日本地区で2,800人の計、20000人と推定している。 このうち当時バイカル湖付近からの渡来規模を、約7,000人ほどであったと考えられている。 この様に、東日本は縄文文化時代、北方アジアを中心とする渡来人の影響を多く受けていた。 大和朝廷とその流の中で、紀元800年ころ、坂上田村麻呂と決戦をしたアテルイのアイヌ族は、この元祖縄文人(日本人)として北方系なのか、はたまた、南方より船で来る渡来人であったか定かではないが、少なくともヤマトンチュウよりも随分と先輩であった事には間違いない。 このころに思いを馳せる日高見連邦共和国氏の郷愁の深いこと、深いこと。 目先の事象にさえ惑わかされる有象無象、引き下がれ。 |