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なぜ橋下批判は空振りに終わるのか
文藝批評家 山崎行太郎
http://gekkan-nippon.com/?p=3384
『月刊日本』4月号
知識人による橋下批判の愚かしさ
―― 橋下徹大阪市長に対し、複数の知識人たちがその政治手法を、ファシズムを連想させる「ハシズム」として批判した。しかし、1月28日放送『朝まで生テレビ』(テレビ朝日、以下『朝生』)で見られたように、橋下市長と知識人との対決は、橋下市長の圧勝と見られている。
今回は、橋下市長の政治手法ではなく、橋本市長への熱狂の意味するもの、そして、それに対する知識人の批判がなぜ無力なのか、いわゆる橋下現象とは何なのかをお尋ねしたい。
【山崎】橋下市長を批判した知識人、たとえば山口二郎氏(政治学者)や香山リカ氏(精神科医)、内田樹氏(思想家)等 の批判それ自体は、それなりの正当性があるものではある。しかし、そうした知識人の批判は橋下市長によって「学者さんは現場を知らないからそういうことを言える」という一言で退けられ、橋下市長への拍手喝采が高まるというのが基本構図だ。
橋下市長への熱狂、拍手が多いということは、橋下市長が大衆の心を、あるいは大衆の集合的無意識の欲望を グッとつかんでいるということだ。政治家が大衆の心をつかむとは、大衆の欲望を代弁=代行=表象しているということだ。
それに対して、知識人たちの言説はどうだろう。橋下批判をする知識人は基本的には古いタイプのインテリ、左翼陣営に属する人々だ。なるほど、知識人が大きな熱狂を背景に現れた政治指導者によって政治が壟断されることに、ファシズムやナチズム、あるいはポピュリズムに対するように、 危機感を覚えるのは当然と言えば当然だ。しかし現実には、彼ら知識人の言葉は橋下市長の言葉よりも強く大衆の心をつかむことはない。つまり大衆の無意識の最深部にまで届いていない。
それは、彼らの言葉自体の空虚さに由来する。さきほど「古いタイプのインテリ」と言ったが、それは、「大衆とは別に知識人がいて、知識人が高みから大衆を見下ろす」、あるいは「知識人が大衆を指導する」 という態度で発言する人々のことだ。フランスの啓蒙主義やレーニンの「外部注入論」がその典型だ。
それが意識的であるか無意識的であるかは関係ない。いかに正しいことを言っていても、「愚かな大衆にわれわれ知識人が教えを垂れる」という構図では、大衆が耳をかたむけるわけがない。少なくとも現代日本の「大衆」は、知識人が勝手に妄想しているほど愚かではない。宮台真司と大塚英司が『愚民社会』という対談本を出して、日本国民を「愚民」とか「土人」とか言って罵倒しているが、まったく現状認識が間違っている。「愚かな土人」は宮台真司のような、大衆の無意識の構造が解読できない疑似インテリの方である。
ここまで、便宜的に「大衆」という言葉を用いてきたが、この言葉はあまりにも手垢にまみれているので、ここからは「生活者」という言葉を用いたい。「大衆」という言葉は、オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』が翻訳されて以来、ほとんど「愚民、非知識人」と同じような意味を持つようになってしまったからだ。
―― 「大衆」と「生活者」の違いとは何か。
【山崎】オルテガが『大衆の反逆』で描いたのは、社会のエリート層は国家・社会に対する責任を負う(ノブレス・オブリージュ)が、その責任を有しない「大衆」が登場して歴史をねじ曲げていく経緯だ。この「無責任な大衆」をもっとわかりやすく言えば、「自分のことは棚にあげて、思いつきと思いこみで発言する」人々のことだ。
だが、今の日本で、この「大衆」に分類される人間は限られている。さきほど、「橋下市長は大衆の欲望をグッとつかんでいる」と言った。では実際にどのようなことが人々の喝采を得たのかといえば、過剰な生活保護、莫大な既得権益集団である市役所・労組への切り込みだ。それらは、経済が上り調子の時には大きな問題にならなかったかも知れない。
だが、経済が収縮し続け、明日の生活さえも不安を感じなければならない、まさに自らの生活を自らの力で切り開かなければならない「生活者」にとっては、自分たちの税金で厚遇を受けている無産階層が社会悪として立ち現れてくる。
しかし、こうした「生活者」の多くは高等教育も受けているから思考力もあるし、現代ではネットで膨大な知識のアーカイブに簡単にアクセスすることができる。その点で、知識人と何ら変わることはない。たとえば、今、「検察審査会」や「最高裁事務総局」の闇と組織犯罪を、先頭に立って追求し、暴いているのは「無名の一般市民」を名乗っているが、元都立高校校長だ。
ポイントは、自ら(と、その家族)の生活に責任を負い、財・サービスを含めた生産活動に従事する人々、これが「生活者」であり、その生活の視座から眺めた時に、橋下市長こそが社会問題を一気に解決してくれるように見えるのだ。
逆に言えば、生産活動に従事せず、教育課程にもない者こそが「大衆」と呼ばれるだろう。たとえば、ネット右翼(ネトウヨ)がそうだし、もっと言えば、既存の知識人こそが「大衆」だとさえ言える。つまり、生活基盤の脆弱な既存の知識人こそ、簡単に流行の新思想にかぶれたり、簡単に外国勢力に洗脳されたりする。たとえば構造改革や新自由主義に最初にかぶれるのは知識人だ。
―― すると、知識人は「生活者」ではない。
【山崎】日々、平凡な生活を送っているという意味では、生活者ではあろう。だが、彼らは自らが何も生産せず、大した思考力もないという事実を忘れているくせに、知識人という古臭い特等席に座ったつもりになっている。そこには、その日一日を生きる「生活者」の視座がない。
ロシア革命前夜、カネと暇を持て余した貴族の子弟や未亡人などが農奴の貧困問題に興味を示し、「ヴ・ナロード(民衆の中へ)」と叫んで、農民たちの啓蒙運動に取り組んだ。だが、決して農民たちの「生活の視座」を共有することがなかった。だから彼らは失敗し、挫折したのだが、実はこのナロードニキこそが「大衆」だったのだ。
今起きているのは同じ事で、現実に大阪市政に不満を持ち、苦しんでいる「生活者」と、ぬくぬくとどこかの教授や政府委員などを努めて生活の心配も不満もない知識人とは、あまりにもかけ離れている。この隔たりを、橋下市長は簡明に「学者さんたちは現場を知らないで好き勝手ばかり言う」と切り捨てる。そしてそれを、橋下市長を支持する大阪市民たちも拍手するというわけだ。特に内田樹氏は、前平山市長のブレーンを務めていた分、「お前は現場にいながら何もできなかったではないか」という批判に対して答えることができない。知識人の批判は、結局、本人は何も責任をとらない「大衆」の騒音にしかなりえていないのだ。
例えて言えば、橋下徹市長と大阪市役所が将棋盤を挟んで命がけの真剣勝負をしているようなものだ。観客は両者の一挙手一投足を固唾を飲んで見守っている。そんな時に岡目八目で、したり顔で「その手はいけません」などと外野が声を発すれば、観客はその声に同調するよりも、むしろ外野に退場を命じるだろう。(以下略)
*本稿は編集部の許可を得て投稿しています。
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