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「教育改革」にみるハシズムのグロテスク (2012.3.16記)
今回は、いわゆるハシズム(大阪市長橋下徹の政治)にみる「教育改革」について、教育論では素人ながらあえて論じてみる。このほど大阪府が提案した教育行政基本条例案、府立学校条例案、職員基本条例案を参照するかぎり、その思想と統制手法があまりにおぞましく感じられるからである。
一言でいえば、それは政治権力からの自立を原則とする戦後民主主義教育の包囲・殲滅の試みにほかならないけれど、単純な弾圧でないところが厄介だ。ハシズムは、選挙結果で立証された?とする「民意」を府民≒生徒の保護者の願いとみなし、それを楯として、強圧的な【首長⇒教育委員会⇒校長⇒教員】と縦貫する統制管理を正当化しようとしている。諸条例案の具体的な内容はここにくわしく紹介する必要はないだろう──首長は、教委との協議はあれ、結局は「教育目標」を決定し、それに従わない教育委員を罷免することができる。教委は「指導不適切」な教員を免職できる。校長は一般教員への査定を強化し、懲戒処分・分限処分の対象者を明らかにする。
「学校協議会」は、学校経営計画・学校評価・教員の働き度などに関する保護者の意見を汲み、教委・首長に上申する役割を与えられている。教師の査定は一般職員なみの相対評価ではなく絶対評価とされたけれど、そのかわり保護者は学校協議会に「問題教員」を訴えることができる。保護者に教員査定の一環を担わせるといわれるのはこのためだ。これは「包囲」の一助となる。例えば地域の保守派ボスは、組合運動や社会運動に「うつつをぬかす」教員を容易に指弾できよう。
教育に対するこのような上からの統制管理を手法とするならば、ハシズムの教育思想はまさに新自由主義的な競争と選別である。入学志願者が3年連続で定員に満たない公立高校は統廃合となる。2年後には府内単一学区となるという学区の撤廃が、統廃合を加速させるだろう。主要科目の成績の引き上げは具体的な「教育目標」になりかねないが、偏差値と定員充足率の間に正の相関、偏差値と家庭の貧困の間に逆の相関が認められることはいくつかの調査の示すとおりなのだ。橋下は結局、大阪では少なくない貧困地域の子どもたちを高校教育の機会から遠ざけるのである。
そればかりではない。ハシズム的教育改革には、教育労働に関心を寄せる私にとってもっとも許しがたい際立った特徴もある。それは、この教育改革が幅広い関係者の教育への関与を謳いながら、教室で生徒に日々接する一般教員の教育内容形成への参加を徹底的に排除していることにほかならない。ハシズムには、例えば、学習環境に恵まれず低学力の生徒が多い貧困地域の若者たちに、それでも生きてゆける知恵と力をつけようと苦闘する教師の自治的・平等主義的な教育実践を評価する余地はない。
上から決められた「教育目標」や「組織マネジメント」に従順であるか否かが基準になる査定が、教員たちの自主的な営みを萎縮させる。それとともに、ある教室で不可避的に生じるトラブルについて、なかまの教師に相談し協力を得て解決しようとする気風がこれまで以上に衰退するだろう。担当の教室で問題が発生していること自体を同僚に知られたくないという気持ちになるからだ。明らかに恫喝的に公言される懲戒処分、分限処分への怯えがまた、教師たちを悴(かじか)ませもする。
君が代・日の丸規制、起立斉唱の義務化がここ大阪においてとりわけ強烈なのも当然であろう。すでに府立和泉高校の3月2日の卒業式では、管理者が列席教員を目視し、口が動いていなかった3人を摘発して府教委に報告している。うちひとりは職務命令違反で処分を検討中。橋下は「これが服務規律を徹底するマネジメント」と賛辞を送った(朝日新聞12年3月13日)。処分の限界を諭す最高裁判決に関わらず、彼は依然として「三回違反で懲戒解雇」と言い募る。このような異様な統制・懲罰志向は、「異常性癖」に近いと思われる。ちなみにこの「岡っ引き根性」の校長は、公募制の就任で橋下の旧友という。橋下に投票した市民はこのような教育行政までも支持するのだろうか? 教師たちを萎縮させ、その自由な発想や創造的な営みを奪うような「教育改革」に未来があろうはずはない。
橋下施政の公務員労働運動への圧迫についてはまた別の機会に語りたいが、例の職員アンケートに代表されるような、教員をふくむ地方公務員の組合運動への弾圧が、常軌を逸した統制・管理志向の延長上にあることはいうまでもない。公然たる反組合主義に踏み出すことによって、ハシズムは本当にファッシズムに近づいている。
橋下教育改革は、とはいえ、ある電話アンケート調査によれば58%の府民の賛成を得ているという(朝日新聞12年2月21日)。それはなぜだろうか。
ひとつには、すでに中流市民の間では、競争と選別を志向する教育に対する一定の肯定が定着している。そうした府民≒保護者は、今が格差社会なればこそ我が子の競争力となる学力向上を切望し、「個性尊重」を掲げる現在の公教育のありかたを頼りなく感じているかにみえる。すでに本欄「その7」に紹介した事例をくりかえしたい。東京都品川区で実施されている「目標管理・PDCAサイクル」。ここでは、学校が「学力テスト○○点達成」などの「目標」を掲げる。各教員はその線に沿ってプラン・実践・評価・改善行動の計画書や結果報告書の提出を求められ、校長との面談で年間の「自主的な」達成目標を決めて努力を誓う。校長は年度末にその「成果」を評価して定昇額の格差をつける・・・。私からみれば不思議なことに、総じて保護者もこのノルマ経営的な教育に肯定的だという。ここに現時点の市民の競争主義的な世智がある。総じて学力が低い?と評価されもする大阪の府民の一定層は、おそらく品川の保護者たちと同じように考え、橋下は同じことをやってくれると期待しているのだ。その手法が競争刺激であれ管理統制の強化であれ、それはもう、問うところではない。
もうひとつには、これも本欄「その13」でおおよそ述べたように、全体としてのハシズムの性格が、格差社会の底辺近くに追い込まれている「しがない」若者を中心とした人びとのかなり広くから喝采を受けるという状況があるかにみえる。この場合、橋下へ託すことは、「我が子の学力向上を願って」という中流市民の声などではない。大阪の庶民の多くは今、低賃金、雇用不安定、粗いセーフティネット、家庭の包容力の衰退、状況改善の発言機構と方途の不可視性・・・などのもたらす重い閉塞感と鬱屈にさいなまれている。そんな彼ら、彼女らは、わかりにくい政策論や「決められない民主主義」にいらだち、橋下が「既得権」をもつ公務員やその労組を小気味よくバッシングしながら、「なんでも引っ張ってゆく指導性」を発揮して、一挙に「ガラガラポン」するかにみえる橋下政治に一時の快感を覚えているのだ。みずからの生活を改善する自治的な社会運動の展望をまったくもたないアトム化した庶民が、このような政治を願うとき、そこにはやはり、世論の多数に依拠するという意味での「民主主義的な」少数者の抑圧、すなわちファッシズムの雰囲気が醸し出される。いずれにせよもうひとつの、戦後伝統の民主主義の勢力はもう、労働運動・労働者・「国民」を即時的に中グロでつないで「政財界」と対置することのできない時代を迎えている。
しかしながら、橋下支持といえどもなお6〜7割である。抗いに至らずとも支持しない人びとは決して少数とはいえない。反撃はまだ間に合う。
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