20. 2015年1月18日 17:04:39
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バカじゃ済まされない。 「罪業深重の凡夫」ならぬ極重悪人の思想家。 若者へ与えた多大な影響力を考えれば、この死者は鞭打って当然。 遺 言
頑固爺の独り言 2014-11-11
吉本隆明の罪(26) http://eegge.hatenablog.com/entry/2014/11/11/035415 吉本が『悪人正機説』を誤解したことによって、親鸞や直弟子である唯円が危惧した『造悪説』が蘇り、今の日本に倫理の危機が静かに進行していると言っても過言ではない状況です。吉本は多くの出版物をはじめ、ビデオ、インターネットサイト等で、死して今尚その影響を与え続けています。吉本の『造悪説』容認は『悪人正機説』の曲解によることは確かです。
「善人なほもて往生をとぐ,いはんや悪人をや」 この一文をいかに解釈するか、これがすべての始まりです。文字通り解釈すれば、「善人ですら往生を遂げるのだから、悪人が遂げられない筈がない」ということになりますが、私の解釈は、 善人は善行を積んでいるという自負があり、そのことで自らを肯定し、返って我に執着する。一方、悪人は自らが犯した罪に苛まれ、それでも生きる為には我を否定する以外に残された道はない。従って、悪人の方が「無我」になり、穢土から抜け出し(解脱)、浄土へ渡る契機が得られる。 仏教の存在理由・目的は『自覚・覚他』です、つまり、「自らが悟り・悟りを他に伝える」ことです。浄土真宗は覚他に重心を置き、禅宗は自覚に重心を置いています。仏教の源流をたどれば、仏教の本来は自力でした。 「この世で自らを島とし、自らを頼りとして、他人を頼りとせず、法を島とし法を拠り所として、他を拠り所とせずにあれ、斯くして、わたしは自己に帰依することをなしとげた。」 『大パリニッバーナ経』 これは釈尊が今際の際に直弟子アーナンダに残した遺言ですが、「自己に帰依する」という徹底的な自己探求によって、遂には、我を超越して無我を得るというのが仏教の王道だと思います。仏教教説の一切は「無我を見る」(無我こそ私たちの本性)、すなわち「見性」を示唆しています、勿論『悪人正機説』も例外ではありません。宗教は科学ではありません、しかし、知は尽くさなければなりません。『百尺竿頭に一歩を進む』ということでなければなりません。アインシュタインも次のようにいっています。 「宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目である。」 次に、吉本はもう一つ重要な点で誤解をしています、それは仏教の仏とプロテスタント(カルヴァン派)の神の混同であり、浄土と天国の混同です。仏教(親鸞・道元)の仏は別名仏陀(悟りを得た人)ですが、プロテスタントの神はまさに全知全能の存在であり世界の創造主です。仏教の『浄土』とはこの世の極楽であり、文字通り人間が生きて達し得る楽の極みです。プロテスタントの『天国』とは、この世に対するあの世であり、死後の世界の楽園を意味しています。親鸞は主著『教行信証』の『証巻』において、浄土がこの世にあることを明確に述べています。 「謹んで真実の証を現せば、則ちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。即ちこれ必至滅度の願より出たり、また証大涅槃の願と名づけるなり。しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の郡萠、往相回向の心行を獲れば、即時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するが故に、必ず滅度に至る。」(原漢文省略 筆者訳) 上の後半部分において「凡夫が往相回向の信行(信じて念仏を称える)を行えば、即時に大乗仏教の正定聚(極楽往生の状態)に入る。」といています、これを道元は次のように述べています。 「正定是法明門得無散乱三昧故」(正法眼蔵用語辞典P.192) 「正定は是れ法明門なり,無散乱三昧を得るが故に」ということで、要は、二人とも全く同じことを言っていて、正定聚=正定=三昧=浄土ということになり、私たちが『三昧に入っている状態』が仏であり、その世界が浄土ということになります。仏教(親鸞・道元)は決して天国などという知り得ない世界を語ることはありません。仏教の最大の特徴の一つは厳密な意味での現実主義、すなわち『超現実主義』です。 一方、プロテスタント(カルヴァン派)の『天国』は死後の世界であり、この世とは隔絶した世界で、人間には全く知る由もない、手の付けようもない世界です。プロテスタントの『予定説』によれば、人間の天国入りは、全知全能の神の意志よって予め決められていて(予定されていて)、人間の思惑などは一切通用しない、「天国入りは、人間が善行を積もうが悪行を積もうが全く関係ない」というものです。 吉本はこの『予定説』と『造悪説』(悪人が浄土に行けるのならば、悪行もかまわない筈だ)を同一視したに相違ないと思います。吉本は『私の戦争論』P.54に於いて、 「マックス・ウエーバーはその著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で、資本主義的な、あるいは市民社会的な理念がキリスト教的な倫理とどう対応しているかを、一応きちっと分析してみせました。(以下省略)」 それにしても、吉本は、親鸞が息子である善鸞を『造悪説』を吹聴した罪で破門した史実や、唯円が著した『歎異抄』は読んで字のごとく、異端(造悪説)を歎く書であること知っていたにもかかわらず、なぜ『造悪説』を吹聴することになったのか、全く理解できません。 吉本: 「僕は親鸞が好きで、親鸞にたくさんの影響を受けていますが、オウム真理 教、つまり麻原彰晃のやったことは親鸞的な思想から言うと、造悪(ぞうあく)論なんです。親鸞は『善人より悪人のほうが浄土に行ける』と言っていました。そうすると、弟子の中に『それじゃあ、悪いことをしたほうが浄土に往き易い』と言って、悪いことをする集団、分派ができました。困ってしまうんだけれど、本来的に親鸞の教義の中には『それなら、わざと悪いことをしたほうが、浄土へ行けることになるんじゃないか』という造悪論を否定できない要素があると思います。それでも、親鸞は『良い薬があるからと言ったって、わざと病気になるやつはいないだろう』という答弁の仕方をして、造悪論をなだめますけれど、それは弁解にすぎず、親鸞の教義の中には『やっぱりいいんだ。悪いことをしてもいいんだ。極悪なヤツのほうが往生しやすいんだ』という教義が確実にあるんです」(吉本隆明氏に聞く『オウムに“親鸞的”造悪論 』1995年09月07日 東京夕刊 一体、吉本にとって倫理とは何だったのでしょうか。上記に続けて吉本は次のように述べています。 「(中略)僕はオウム真理教のやったこと、やらせたことは、親鸞流に言えば、造悪論の中に入ると思います。それで、僕の願望では『麻原、あいつは極悪深重できっと往生しやすいよ』と言いたいわけです。言えるようになりたいわけです。けれども、僕の器量が小さくて言えないわけですよ。ただ自分の中に二重性の矛盾としてその問題があります。それは自分のダメさかげんでもあり、どうしても二重性になってしまうのです。(中略)どうすれば、この二重性を解けるか。方向性だけは自分にあるつもりです。『市民社会あるいは庶民の善悪の倫理よりも、浄土の善悪の倫理のほうが規模が大きいのだから、庶民の善悪なんていうのは、あまり問題にならないんだ』というのが親鸞の言い方だと思います。僕らは信仰者ではないから、『浄土の善悪の規模のほうが大きいんだ』とは言えないんだけれども、市民社会の倫理というものが、もう少し普遍的な倫理に置き直せるんじゃないかなと思っています。それがたぶん未来社会、消費社会の次の倫理になり得ると考えます。浄土の善悪ではないけれど、市民社会の善悪よりも、もうすこし普遍化した善悪の規模、倫理の規模というものがつくれるのではないかな、と僕は思っているわけです(以下省略)」 このような言説を支える吉本の思想は、マルクス主義、実存主義、主知主義を三位一体として巧妙に組み立てられています。上記に述べられている「市民社会」という概念はマルクス主義と実存主義に、「普遍的な倫理」という概念は主知主義に由来するものと思われます。上記に透けて見える吉本のコンテクストは次のようなものだと思います。 戦後日本は未だに「全体主義」に陥りかねない「国民国家」に留まり、「市民社会」は実現していない、その原因は「生き神様信仰」にあり、「天皇制」に由来する。この問題を抜本的に解決する為には、個人が「生き神様信仰」から解き放たれて「市民社会の個」=「実存的な個」を確立しなければならない。「市民社会の個」の倫理の実現は「国民国家の倫理」を否定する『倫理革命』によって果たされる。『造悪説』はまさに『倫理革命』である。 吉本は「オウム事件」に『倫理革命』を見たに相異ありません。吉本は、一見、倫理を語っているようですが、その実、「政治」を語っているのです。それにしても倫理を政治利用するとは、倫理の冒涜以外の何物でもなく、悪の極みです。 (つづく)
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