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底の抜けたバケツをやり替えない限り、消費税20%でも足らないだろう。(日々雑感) 
http://www.asyura2.com/12/senkyo127/msg/721.html
投稿者 赤かぶ 日時 2012 年 3 月 18 日 07:54:31: igsppGRN/E9PQ
 

底の抜けたバケツをやり替えない限り、消費税20%でも足らないだろう。
http://km2295.iza.ne.jp/blog/entry/2628964/
2012/03/18 06:54 日々雑感


 やめるはずだった高速道路の延長や新幹線の延長、さらには140ヶ所にのぼる工事中の全国のダムをゼロベースからの見直し、全国の田圃のほとんどの整備を終えた「圃場整備事業」の終息など、これまでの公共事業のありようや高コスト事業の見直しなど、民主党は2009マニフェストで国民と約束したはずではなかったか。

 現在1ℓ150円を超えて国民生活に多大な影響を与えているガソリンも、ガソリン高騰時には「暫定増税の停止」を国民と約束していたはずではなかっただろうか。そうした約束をすべて反故にして、消費増税へと邁進する民主党政府はまさしく官僚内閣制の政府そのものだ。

 何度もこのブログに書いてきたことだが、消費税の増税による財源確保はこの時期に於いて最悪の増税策であり、財務当局の経済音痴ぶりには驚きを禁じ得ない。

 かつて都の高殿にのぼって庶民の竈から煙が昇っていない景色を眺めて、課税をやめた仁徳天皇の話は有名だが、その後日談まで知る人は少ない。

 課税をやめて数年後、高殿に登られた仁徳天皇は庶民の竈から煙の昇る様を見て悦ばれたが、天皇のお召しものは大変みすぼらしかったという。庶民は豊かになり着る物も格段に良くなったのに、天皇はなぜみすぼらしいままなのかと問うと、これこそが治世者たるものの心得であると返答されたという。

 国民に増税をお願いする官僚たちが庶民感覚では想像すらできない「一等地の高級マンション」を低廉な価格で賃貸していたり、自らに甘い「お手盛りの手当て」で懐を肥やし、退職後もハローワークに並ぶこともなく高給な指定席に堂々と天下るのは行政を司る者の態度として余りに浅ましくはないだろうか。

 国や地方自治体の歳出要素別割合を見ると「人件費」が約3割を占める最大の「経費」だと分かるだろう。人件費の削減は歳出削減に大きな効果をもたらす。

 しかし官僚や公務員に暮らせないほどの貧乏をさせようというのではない。勤労者の平均給与に是正せよと提言するに過ぎない。そもそも「人事院勧告」は勤労者所得の平均給与に公務員給与を持って行くのが眼目だったはずだ。それを見事に破って勤労者平均給与の2倍近い高給へと「勧告」し、この時代にどの企業でも45から50歳で社内退職させて年俸制へ移行しているが、公務員に関してはどこまでも年功序列給与体系を継続している人事院は既に時代遅れの官僚お手盛り人件費勧告制度に過ぎない。

 役目を終えたのみならず、害毒でしかない「人事院」は制度を廃して、公務員のすべてに労働三権を与えて、すべての特権を剥ぎ取るべきだ。

 かつて国税収入は70兆円を超えていた。景気さえ良くすれば税収は自然増となる。米国とどんな約束をしたのか知らないが、日本も米国やユーロ圏を見習ってエンを増刷してマネーサプライを政府支出によって倍程度に増やし、為替レートも世界各国と同様に「秘かな固定相場制度」とすべきだ。1ドルが100円から120円になれば輸出産業は劇的に回復するし、各種企業も国内生産を活性化するだろう。国内に職が増えて就職難民も解消されるだろう。

 底の抜けたバケツは財務官僚の頭の構造そのものだ。自分たちが範を垂れて歳出削減努力を一切しないで、現行の経済・景気状況を固定的に捉えて小学生並みの掛け算だけやって「消費税10%でも、まだ足りない」とバカな政治家の口をして言わしむる。それを愚かな官僚広報紙に堕した大手マスコミ各紙が広報する。そうしたデフレ政策を広報して現行の景気にどんな影響を及ぼすか、底の抜けた財務官僚たちの頭では想像できないのだろう。

 つい先日完成した武蔵野国の高殿がある。634(ムサシ)mもあるそうだ。財務官僚はその展望台に登って庶民の暮らしをとくと眺め、弊衣に身を包むことだ。


 

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コメント
 
01. 2012年3月18日 11:09:22 : 41D6vjyxl6
縄文後期に九州北部から侵入して来た朝鮮人は鉄製武器により、石器しか持たない日本人を次々に虐殺し、服従させ、大和朝廷を作りました。
その頃まだ日本にはアイヌ人が沢山住んでおり、朝廷に中々屈服しませんでした。
西暦797年頃、坂上田村麻呂の東北アイヌ征伐により、アイヌ東北人は朝廷の軍門に下ることとなります。
その時、逆らう者は皆殺しにされ、歯を食いしばりながら、大人しく忍耐強く従う者だけが生き残こされました。
そうして今の東北人気質が出来上がったのです。
丁度、犬の新種を作るように作られた訳です。
日本人の東西、南北の気質の違いはそう言う歴史によって裏打ちされているのです。

その後日本人は朝廷による長い支配と重い徴税に苦しめられることとなりました。
税と言っても年貢です。農産物や地域の特産物を自ら都まで納めに行かなければなりませんでした。
当時は道も整備されておらず、ホテルが在る訳ではありません。雨の日も風の日もあり、獣も出ます。
病院などありません。
必死に働いて得た産物の中から多くを税に取られ、栄養が悪い状態で歩いて運んで行かなければなりませんでした。
納税の帰り道に力尽き、野垂れ死にする人もいました。
その場所には、何時しか供養の為、お地蔵さんが置かれる様になりました。
全国各地にお地蔵さんがありますが、どれだけ多くの人たちが朝廷の重い徴税の為に亡くなられたか分かります。
 


02. 2012年3月18日 12:06:36 : WZjjwHHxks
 仁徳天皇と野田総理を比べながらの御説に概ね賛同します。ただ、野田如きと仁徳天皇を比べることは、仁徳天皇に申し訳ない気がしないでもない。

 これも申し訳ないことだが、被災地を見舞われた今上天皇・皇后はじめ皇族の方々の被災者に接する姿と、菅前総理の接し方との間に、雲泥の差があることに驚愕したことも思い出してしまった。

 ところで、千葉県といえば、色々な印象に残ることはあるが、人物では下総の名主、義民佐倉惣五郎のことを思い出す。

 周知のように、惣五郎は江戸時代前期、飢饉と苛斂誅求に苦しむ農民達のことを思い、他の名主達と藩主堀田氏の苛政を藩や江戸役人、幕府老中にも訴えたが聞き入れられなかったことから、承応2年(1653)上野寛永寺に参詣する将軍徳川家綱に直訴した。その結果、藩主の苛政は収められたが、惣五郎夫妻は磔となる一方、男子も死罪となってしまった。という逸話である(例えば、事を決行する前に妻に離縁状を渡したことからか妻子は死罪を免れたといった説などあるが、大筋の違いはないようだ)。

 野田総理は船橋市(上総)を選挙区とするので、比べられるのは迷惑千万と言われるかも知れないが、他県に居住する私には、上総も下総も同じ千葉県。時代も背景も違うが、人間の情には大きな違いはない。だけど、直訴による罪科が他の名主や農民達に及ばないように、一人直訴した佐倉惣五郎と、支持者・国民を欺き、都合の良い屁理屈を並べ立て、かつ目に余る画策をこらして、弱い者いじめの消費税増税を何が何でも押し通そうとする野田佳彦とは、雲泥の差があることは言わずもがなか。

 ついでに言えば、例の手塚や蓮舫を引き連れて高級料亭で一升酒を飲んだとき、震度5の地震があっても気にもされなかった。(みのもんたとの密会のための一席であったとも言われている。)この程度の輩だ。

 「百術不如一誠」を規範とし、「国民の生活が第一、国民との約束が第一義」と愚直なまでに貫く小沢一郎氏とは合わないはずだし、元々雲泥の差ほど格が違う。 
 野田佳彦は、数々の画策・謀略を弄し一欠片の誠も感じられない、変節・裏切り番長というしかない。


03. 2012年3月18日 15:32:32 : G3DdREoruw
全国七道駅路図(*)
すくなくとも律令時代の古代の道路に対して、山辺の道のような狭い道や曲がりくねった道、あるいは獣道のような踏み分け道といったイメージを抱くのは誤りである。律令制では「七道駅路」と総称される七つの「駅路」、すなわち東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道が設置されていた。これらの駅路は官道であり、現代の高速道路のように2車線〜4車線幅のまっすぐな道だった。

七道駅路は、7世紀後半から8世紀にかけて建設され、10世紀ころまで機能していたようだ。それは都から本州と四国・九州の66国2島すべてに達する壮大なネットワークだった。

駅路設置のことは、大化2年(646)に出された改新の詔でうたわれているのが最初とされている。『日本書紀』によれば、大化2年春1月1日、賀正の礼が終わって、改新の詔が発せられた。その第二は次のような内容になっている。

京師(都城)を創設し、畿内の国司・郡司・関塞(せきそこ、重要なところの守塁)・斥候(うかみ)・防人(さきもり)・駅馬(はいま)・伝馬(つたわりうま)を置き、鈴契(すずしるし、駅馬・伝馬を利用する際に使用)を造り地方の土地の区画を定める。・・・

さらに、『日本書紀』は672年の壬申の乱のとき、倭(やまと)古京の近江朝廷の留守役に駅鈴の交付を求めて拒否されたことを記している。また大海人皇子(おおあまのみこ)が吉野から東国入りの際に、名張や伊賀の駅家を焼いている。こうしたことから、すくなくとも大和の周辺では壬申の乱以前に駅制が実際に機能していたと考えられている。

駅路の総延長はおよそ6300キロ。道の両脇に側溝を持つ駅路の路面幅は、奈良時代には12m、平安時代には6mを基本としていた。しかも30里(=16キロ)ごとに駅家(えきや)が置かれ、全国でおよそ400の駅家があったという。

注:古代の30里は約16キロと言われる。その根拠は『養老令』の中に、「凡そ地を度(はか)らんに5尺を歩となす。300歩を里となす」とあり、当時は1尺がおよそ35.3cmの令大尺が用いられていた。したがって、1歩=5尺=35.3cm x 5=176.5cm、1里=300歩=176.5cm x 300=529m、故に、30里=529m x 30=15.885km=ほぼ16kmとなる。


04. 2012年3月18日 17:52:39 : kxFz4YzIc2
 
都の付近には道幅が10m近くあるものがあったことが知られているが、

少し離れると馬一頭がやっと通れるような山坂道を街道と称していた。
 

普通に考えれば、今でも何年も掛かるであろう工事を重機もない時代に
6000kmもさささのさとできた訳がないことは容易に理解できる。

天皇がうわ言吹いただけであっと言う間に出来るものではない。
 


05. 2012年3月19日 10:16:48 : LtUTOIQiHA
千葉県の愚民どもはどうでもいい。
埋め立て、安普請の土地は液状化地獄から抜けらえずいずれ地図から消える
それだけの話。
(大金でものを買うには他人任せにするな)

06. 2012年3月19日 14:36:00 : i93ub11HLE
縄文時代には生きていなかったから当時を知らない。凄い碩学です。学者の方か?
私見では、とりあえず年内に50%、で3年後に100%、5年後に200%位上げれば財務本庁、永田町分室も納得する。そして、日銀はジャブジャブと万札をする。労働者はあふらているから、彼らを日給10万で雇う、超インフレで借金も帳消し・・僕は助かる・・家も取り戻せる!

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