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相変わらず政治家どもは「維新ごっこ」が大好きだ。
船中八策などという本当に存在したのかも怪しいネタを持ち出してはしゃぎ、国会議員が自らを幕末の志士に扮して素人劇に興じるといった有様は、日本の政治家の水準そのものと言えよう。
しかし、視点を変えてみると、昨今の政治と明治維新のデタラメぶりには、被る点があることに気づかされる。
前首相もまた、自らを志士に扮して「第三の開国」などと訴えて自慰にふけっていたが、まさしく勘違いも甚だしかった。
そもそも、倒幕・明治維新の原動力は、開国の必要性からでは無く、「攘夷」を訴えた在野のインテリ層が大衆的支持を受けたことにあった。
前首相が尊敬する高杉晋作もまた、攘夷派の若頭だったのだから。
詳細は「幕末のインフレーション」を読んでいただきたいが、江戸時代の日本は「鎖国していた」というのが通説になっているが、実際には長崎を通じて、清やオランダと通商を続けており、その貿易は常に輸入超過で、銀や銅の流出が止まらず、米価の低下も相まって、幕府は貨幣の悪鋳をするしかなかった。
そこにやってきたのが「黒船」で、幕府はピンチをチャンスに変えるべく、直轄地のみを開港して、新規貿易による利益を幕府が独占しようと画策した。
少し長くなるが、再掲したい。
開国すると同時に、日本の輸出は爆発的に増加する。
特に生糸は、その品質の高さから外国商人が買いあさった。
さらに米国で南北戦争が勃発して、綿花の国際価格が急上昇し、日本の綿花も買い占められた。陶磁器や漆器も輸出されていった。
当時の日本は、一国内完全需給体制下にあり、当時の手工業の生産力では、対外的な需要を急に賄うことはできなかった。
国内の流通物資は急激に減少し、諸物価の高騰を招いた。
そして、欧米の工業製品が大量に輸入される。特に、廉価な綿製品が出回るに至って、国内の木綿加工産業は壊滅的打撃を受けた。
開国前には、綿製品は絹製品に次ぐ高級品であったのだが、その価値は一気に暴落した。
輸入されたのは、商品ばかりでなく、病気もだった。コレラや梅毒に代表される疫病が、恒常的に猛威を振るった。
さらに、金銀銅の国際レート差が、混乱とインフレに拍車をかけた。
開国前の日本国内の金銀レートは、約1対5だったのに対して、国際相場は1対13だった。
つまり「銀高金安」である。
その結果、「同種同量」の原則に基づき、外国人たちは、大量の洋銀(メキシコドル)で日本の金貨を買いあさり、海外で売り払って利ザヤを稼いだ。
銀と銅でも同様の問題があり、日本の銅価格が国際標準よりもはるかに安かったために、日本の生産物はいとも簡単に外国商人に買い占められてしまった。
ちなみに、1837年の天保小判は重量11グラムであったのに対し、同60年の万延小判はわずか3グラムしかなかった。
幕府の目論見は的中し、幕府の財政は一挙に黒字に転じ、その利益で横須賀に製鉄所をつくり、近代船舶を購入し、武装の近代化を図った。
また、開港地付近は、生糸、陶磁器、食料などの流通が一挙に増えたことで、大特需となった。
だが、幕府と開港地近辺以外は、開国の恩恵にあずかること薄く、物価は高騰、地場産業は低迷、伝染病が蔓延するなど、悪いことだらけだった。
こうした形而下の不満に支えられる形で、形而上的な「攘夷」が幕政批判の大義名分となり、日本全土で下級武士から商人や農民に至るまでの支持を受けるところとなった。
なんとなくTPP参加後の姿が想像される。
江戸幕府というのは、今風に言えば「一党優位制」による単独政権であったが、公武合体(皇女降嫁)を経て、京の朝廷と連立を組むような形になっていた。
当時の江戸幕府は開国を政策化して、すでに実施していたが、それに対して疑義=攘夷を唱えたのが、朝廷だった。もちろん、朝廷の裏では、攘夷へと誘導しようとする諸藩や在野浪士によるロビー活動や買収工作が活発に行われていた。
開港地が、横浜、長崎、函館、新潟といった具合に、京・大坂から離れていたことも、大坂圏の経済を大きく疲弊させる一因となり、ますます攘夷に支持が集まった。
当初、朝廷は幕府との連立を維持する以外の選択肢など考えていなかったのだが、最終的には連立を放棄して、倒幕に動いた結果起こったのが、戊辰戦争であり、明治維新だった。
長州がなぜ明治維新の主体となったかと言えば、最大の理由は「攘夷」をマニフェストに掲げ、しかも実行したことによる。
朝廷が連立維持の条件として、「攘夷の実行」を要求し、幕府も嫌々受け入れたものの、幕府にはハナから実施する意図など無く、ウヤムヤにしていた。
だが、長州藩(毛利家)だけは、政権合意に従って、1863年6月25日、下関で米国商船を砲撃することで、攘夷の実行を果たした。
にもかかわらず、長州は、朝廷に対する過剰なロビー活動を咎められて「出入り禁止」とされ京から追放された上に、欧米4国連合艦隊によって攻められた。
長州としては、自藩存続の一大危機だったわけだが、大衆的な人気は圧倒的に長州に集まり、「反幕府」の最大野党としての正統性が認められた。
他方、政権合意を反故にして攘夷を実行しないどころか、攘夷を実行した長州に攻撃を仕掛けた(長州征討)幕府は、「政権合意違反」として急速に権力の正統性を失っていった。
長州が、倒幕=政権交代の正統性を得たのは、攘夷をマニフェストに掲げ、「国民との約束=攘夷」を実行しなかった政権党=幕府を徹底的に批判したためだった。
だが、その長州もまた、あっさりマニフェストを覆してしまう。
1868年1月3日、王政復古の大号令が発され、薩長軍と旧幕軍の間で鳥羽伏見の戦いが起こった。
1月6日には、徳川慶喜は大坂城に軍を置いたまま、単身江戸に戻ってしまう。大坂の兵もちりぢりになって離散してしまうが、新政府も戦争の行方もまったく不明だった。
そんな中で起こったのが神戸事件だった。
1868年1月11日、備前藩兵の進軍中、その隊列先をフランス水兵が横切ろうとした。それを制止しようとした備前藩士の槍を見たフランス兵が銃を取り出したところ、他の藩兵が発砲、銃撃戦に発展してしまったのである。
死者こそ出なかったものの、現場近くにいた英国公使パークスらは激怒して、居留民保護を名目に出兵、英仏米によって神戸が一時的に占領されてしまった。
この時点では、朝廷は列強諸国に対して江戸幕府から明治政府への政権移譲を宣言しておらず、交渉すら認められなかった。
そこで実務に当たった伊藤俊輔(博文)は一計を案じ、同15日、政権移譲を宣言すると同時に、「開国和親」をも列強に表明してしまった。
そして、この事件は、列強の要求を丸呑みする形で、最初に仏兵を制止した備前藩士を切腹させるという屈辱をもって和解するに至った。米欧の「言いなり」になる歴史もこの時に始まった。
国内世論に配慮する形で「開国」の最終決定(公表)は、翌69年に持ち越されたものの、維新マニフェストの最重要項目は、政権交代からわずか10日で撤回されてしまったのである。
何のことは無い、マニフェスト違反は維新志士たちの十八番だった。
民主党議員たちが、あれほど安直にマニフェストを撤回してしまうのは、やはり明治維新の志士たちを模してのことなのだろう(爆)
【追記】
長州に白井小助という男がいて、吉田松陰よりも5歳も年上だったにもかかわらず、松下村塾の門下生になった。戊辰戦争では第二奇兵隊を率いて戦場を駆け巡ったものの、軍人としても官吏としても才能がなかったために、維新後は故郷に戻って塾を開いていた。しかし、後輩たちの栄達がどうにも気に入らず、東京に上ってきては、伊藤や山県の屋敷を訪ね、大酒を食らって「攘夷はどうなったノダ!」「こんな大屋敷に住んで、寅次郎(松陰)に恥ずかしくないノカ!」と罵るのが常だった。伊藤も山県も裃を付けて出迎え、「すみません、すみません」と平身低頭して酒を注ぎまくって、酔いつぶす他なかったという。
私も前総理のお宅にお邪魔してやってみたいものである。息子を訪ねるフリしてやってみようかのう(笑)
【追記2】
なお、戊辰戦争で官軍が旗印にしたのは「年貢半減」で、これを信じた多くの農民が官軍に協力し、会津を始めとする東北諸藩も対応に苦慮するところとなった。だが、いざ明治政府が確立すると、この公約もアッサリ反故にされ、地租改正という形で金納を余儀なくされ、むしろ重税になってしまった。菅・野田政権の消費増税を思い起こさせるエピソードではないか。
http://kenuchka.paslog.jp/article/2407194.html
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