http://www.asyura2.com/12/senkyo127/msg/577.html
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日本共産党志位委員長の「綱領教室」が、最終12回(3/6)になりました。今回は綱領の「第5章 社会主義・共産主義の社会をめざして」という「未来社会論」になります。内容については、わかりやすい要約がHPに出ているので、動画を視聴しながらチェックすると簡単に理解できます。
動画・要約→http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/#fragment-2
今回は、最終回ということもあって感動的な講義になりました。内容はすでに不破さんの講義も含めると繰り返しが多かったですが、まとめとして今まで以上に志位さんたちの主張がよくわかりました。最後の言葉「日本共産党の名前は、人類社会の本来の姿が花開く理想とロマンに結びついた名前です」というのは、空想的共産主義の面目躍如という感じでした。
しかし、前回までに述べたように、志位さんたちは、マルクスが解明した資本主義の運動法則の分析と見通しの誤り(「等価交換による剰余価値説」と「意識従属論による唯物史観」)を見逃したままで、どのような「未来社会=社会主義・共産主義社会」を実現しようとするのでしょうか。『共産党宣言』にみられるような、階級闘争主義による決定論的未来社会は、共産党の支配が花咲く、共産党だけの理想とロマンと自由の実現ということにならざるを得ないでしょう。Kakasiなどのような批判的労働者は、とても自由にさせてもらえない社会のようです。
さて不破さんや志位さんの資本主義批判の眼目は、「利潤第一主義」にあります。この点ではKakasiの問題意識と同じであり、多くの人々の共感を得られると思います。問題は、その「利潤の源泉がどこにあるか」ということです。この問題は、社会主義実現の前提になる「生産手段の社会化」は、@所有・管理・運営が、どのように行われるのか、A市場経済・商品交換との関係はどうなるのか、またB「生産手段の社会化」の前提となる「労働者の連帯・団結(国民の合意)」は、どのように保証されるのか、ということと深く関連してきます。
志位さんは、資本主義がもたらす社会悪の根源が、「生産手段の私的所有」にあり、そこから「利潤第一主義」が生じる、だから、「生産手段の社会化」をすれば、生産の目的・動機が「社会と人間の利益」に大きく変化する、と考えます。しかしこの捉え方は根本のところで間違っています。私的所有(私有財産)と私的利潤(私利)の追求は、人間の言語的(創造的)本性に由来する相互に一体のものなのです。そして、資本主義はその本性が、利己心・向上心・致富欲・権力欲・商品交換・国民国家・科学発達・技術革新等と結合して発展したものだからです。
志位さんは、マルクスが「生産者は生産手段を所有する場合にはじめて自由でありうる」という命題から、「すべての生産手段の集団への返還」という目標を、きわめて簡潔かつ論理的に明らかにしたとしています。しかし、「生産者の集団」が、生産手段を所有したところで、誰がどのように指導・運営するのでしょうか。また綱領(一七)-(2)に「市場経済を通じて社会主義に進む」とあるように、社会主義・共産主義においては市場経済・商品交換は前提とされていません。一体、生活必需品や生活向上・享楽品はどのように分配されるのでしょうか。
本当の自由は、マルクスや志位さんの考えるような「労働時間(労働日)の抜本的な短縮」による時間的自由だけによって得られるものでしょうか。党官僚主導の生産者集団が生産手段を所有して、恣意的な分配があっても、「市場における選択の自由」がなければ、本当の自由とは言えないでしょう。そもそも宇宙船地球号の成長の限界の中で、また限られた資源や生産・生活条件の多様性のなかで、市場経済・商品交換を前提としないで、個別的利害の調整や資源・財・価値の適切な配分が可能でしょうか。多くの学者が指摘するように、ソ連や東欧の失敗を検証するまでもなく、また、いかにコンピュータが発達した未来社会においても、それが不可能なことは、今日では常識的に明らかでしょう。
そもそも資本主義の下では、生産手段を自由にできる資本=貨幣さえあれば自由な発達が保証されます(少数者のみ)。だから、社会主義においても、実体としての生産手段を所有して労働時間を短縮すると同時に、生産手段の別形態である貨幣=資本(株式)を所有する方が、自由の拡大には貢献できるでしょう。私的所有と商品交換を円滑にする貨幣は、人類の偉大な発明品です。貨幣は、経済社会(欲望と労働、交換と消費の人間活動)を調整する有効な手段でもあります。そして、貨幣は、市場経済・商品交換を前提としてのみ自由で効果的に機能します。
資本主義がもたらす矛盾は、マルクスのように、貨幣(資本)が人間の交換関係を支配する(価値法則・等価交換)と考え、資本(家・企業=生産手段)の労働(者階級)支配を、労働(者階級)による資本の社会的所有によって終わらせ、解決できるというものではありません。人間の本性(利己心等)が商品交換を促進し、貨幣を創造し、資本の集積・労働者の搾取・欲望の肥大化を奨励しているのだから、交換そのものを公正と正義、社会的責任という道徳的原理で規制する必要があるのです。
つまり、資本主義的運動法則(恐慌等)による階級闘争や団結の必然性ではなく、資本主義的生産と交換の矛盾や欺瞞に対する社会的自覚と責任が意識的に必要となるのです。人間は言語的創造的な動物だから、科学的知識や意欲によって、意識的に構想し、議論し、契約し、自らの未来社会を築くことができます。人間の意識は、社会的に規定されるだけでなく、自らを社会的存在として積極的に位置づけ、それによって社会を変革できるのが言語をもつ人間存在なのです。
「古典・綱領教室」は今回で終わりましたが、Kakasiの批判投稿はまだ中途半端です。もう一回すればちょうど20回になります。それで終われるように努力します。
なお今までの投稿を、わかりやすく読んでいただけるように、以下にまとめてみました。→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/asyura1.html
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