http://www.asyura2.com/12/senkyo127/msg/510.html
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Satoshi Nakajima さんのブログ記事とそのコメント欄を紹介する。
http://satoshi.blogs.com/life/2011/08/city.html
なぜ日本では「市民運動」が格好ワルイいのか?
原発事故以来、色々なことを考えているのだが、その一つが「なぜ日本では民意がなかなか反映されないのだろう」ということ。泊原発の再稼働容認が典型的な例。これだけ多くの人が反対しているのにも関らず(参照、参照)、必要だったはずのストレステストもなく、原子力安全委員会の形だけの二重チェック(参照)で北海道知事の再稼働容認となった。
「政治家が票集めで忙しくて実際に国を運営しているのは官僚」「官僚の業界への天下りが官民の癒着を生み出している」「マスコミはスポンサーに不利になることは報じない」などの政府やマスコミにも大きな問題があるが、国民側にも若干問題があると思う。うまく表現するのは難しいのだが、
•政府は「お上」であり、市民運動とは「お上にたてつくこと」に相当する
という江戸時代から続いているメンタリティが根っこのどこかにあるのではないかと思う。それが「市民運動=左翼活動」というイメージを固定化させてしまい、「酒の場で政治を熱く語るのは空気の読めないヤツ」という空気を作ってしまっているのではないかと思う。
私は20年ほど(右翼の国)米国で暮らしているが、この国の国民ほど政治を語るのが好きな国民はいないんじゃないかと思うぐらい皆それぞれの意見を持っているし、市民運動はとても盛んである。
今日も近所の市役所で開かれた会議を傍聴してきたのだが、その理由は知り合いから「市が州の環境オタクの言いなりになって、不必要に建築基準法を厳しくしようとしているから、それを阻止するためにも傍聴席から発言して彼らの暴挙を阻止しよう」という連絡が来たからだ。
こんな会議での米国市民の発言はものすごい。「州の環境オタクの言いなりになんかなってんじゃないよ。君たち役人は僕らに雇われているんだってことを忘れてはいけないよ。市民の権利を守るために州の役人と精一杯交渉するのが君たちの役目。それができないなら君をクビにして別の人を雇ってもいいんだよ」という剣幕。
結果としては、市側が住民の声を聞いて折れ、より市民側の権利を尊重した法案を作り、それを州に提出することになった。一件落着である。
ちなみに米国の場合、選挙で選ばれる市長や市会議員は基本的に薄給のボランティア(ただしロスみたいな大きな市は別格)。市民の代表として、市の職員に適切な人を雇い、彼らが市民のために働くように監督・指導するのが彼らの役割。
そんな関係だからこそ「市民のための仕事が出来ないなら君をクビにして別の人を雇ってもいいんだよ」という「上から目線」のセリフが一般市民から役人に向けて発せられるのだ。
日本で市民と役人がこんな関係を持つのは簡単ではないとは思うが、少なくとも「市民運動」「政策論議」を左翼だとか格好ワルイとか決めつけず、より多くの国民が政治(それも政局ではなく、政策に)に興味を持ち、市民運動に参加するようになれば日本を少しづつだが良い方向に持って行くことは十分に可能だと思うがいかがだろうか。
2011.08.17 | Permalink
Comments
>より多くの国民が政治(それも政局ではなく、政策に)に興味を持ち、市民運動に参加する
市町村と中央省庁出身の県知事の原発に対するスタンスの違いが明らかな今、が「その時」なのかも。
Posted by: となりのプルト君 | 2011.08.17 at 23:17
日本って、株式会社日本国なのかも。 その過保護・閉塞感が肌に合わない人は、
主のように海外に出る。 そしてSNSのようなツールを持って帰る。
SNSのお蔭で、原発のような問題にも自由にアクセス出来た!
政治、宗教と同じように、原発問題もあまり大っぴらに意見を云えない空気があり、
ネットの中だから開放的に言えたのは確かです。(話している人が「ソーカ」と同じように
「ト―デン」等の関係者かもしれないし、また意見を異にしている場合への配慮もある)
日本には、SNSは、一層不可欠のアイテムになるでしょう。その後、市民運動が普通になればいいけれど・・・
(案外、USAとは違うままかも)
Posted by: Mary-Jane | 2011.08.17 at 23:49
市民運動が格好悪いんじゃなくて、80年代以降に生き残っていた活動家が格好悪いのが原因だと思います。
それと学生運動をしていた人達が、就職したら搾取する側に回ると生き様の格好悪さも要因の1つかもしれませんね。
Posted by: カリガリ博士 | 2011.08.18 at 00:03
というよりも、日本人の気質が「協調的なものを好む」志向があるからでしょう。感情的になってヒステリックに誰かを攻撃する―というのは、あまり好まないのだと思います。ネットの中ではそういうことができても、実際に相手の顔を見て、その人に向かって「お前やめろ!」というのは、多くの人が不快に感じるのではないでしょうか…。
(だからこそ、学生運動も支持を得なかったのだと思います)
同じ反対にしても、「もっと話し合って、お互い恨みっこなしでいきましょう―」
これが日本人の(少なくとも実社会での)気質だと思います。それがアメリカと比べて一方的に悪いとは、私は思いません。それぞれの文化にあったやり方で解決する方法を見つけるのではないでしょうか。日本人にとって「誰かに恨みを持たせたまま、退かせる」というのは、最もやりたくないと思っていることだと思うのです。
Posted by: 和を以て貴しと為す | 2011.08.18 at 00:33
上の人も書いてるけどやっぱ旧来の活動家のカッコ悪さと胡散臭さはどうしようもないと思うな。
「市民運動」て言葉はどうしてもそういうヤツらを連想させちゃう。
あとこれ思い出した。
http://www.mmjp.or.jp/gyoukaku/toron/199807_2.htm
日本は民主主義を「清き一票」なんて言葉で投票すればオシマイの只の紙切れに変えてしまった。
Posted by: mtgood | 2011.08.18 at 00:34
日本では市民運動をつぶしてきた部分はあるでしょうね。
福島県の前知事を有罪にして刑務所に入れようとしたり、お上に逆らう人は刑務所行きという恐ろしいことがあったりしますし。
原子力村では逆らうことは許されません。自分の意見を持ってはいけないそうです
Posted by: 笑い猫 | 2011.08.18 at 00:47
2つ意見があります。
一つは、「耐え忍ぶこと」自体が、われわれ日本人のDNAに、ひとつの美徳として刻まれているので、そもそも反体制活動に向いていないということ。体制を覆そうというよりは、みんなで耐えて乗り切ろうという意思が働いてしまう。これは一律に恥ずべきことではないが、見方・局面によっては、
>政府は「お上」であり、市民運動とは「お上にたてつくこと」(すなわちカッコ悪い)
につながります。上の米国の国民性もそうだし、韓国人や中国人は、自分の意思を主張するのにわざと道行く人に聞いてもらえるように、感情を爆発させながら泣き喚いて口論したりすると言います。そんなのはまあ特殊なのかもしれませんが、明確な意思表示を苦手とする、日本人の方が世界的にはまれなのかもしれません
二つ目は、戦後左翼・サヨク、いわゆるノイジィー・マイノリティが、言うことなすことあまりに現実離れしてきたため、一般国民を、なおさらそうした活動から遠ざけたということ。
故高木仁三郎氏の慧眼は、まったく褪せることはありませんが、ただあの「やり方」が、やはり一般人を遠ざけてしまったと思うと残念です。(もちろんこの事故まで何の勉強もしなかった自分自身が一番残念ですが。。)
Posted by: あたご | 2011.08.18 at 01:37
> 政府は「お上」であり、市民運動とは「お上にたてつくこと」に相当する
> という江戸時代から続いているメンタリティが根っこのどこかにあるのではないかと思う。
本エントリーの意図とは逸れますが、江戸時代には、百姓が役人に、制度等の不平を訴えて、是正されたり、役人を首にしたりするケースが記録上はあったようです。(参照 : http://amzn.to/nDS39F ) 歴史の教科書では、全く別の視点で教育されていますが。
おそらく、中央集権のメンタリティは、明治時代以後のこと、もしかしたら、高度経済成長以後かもしれません。過去の栄光に、私たちもすがっているから、お上メンタリティが根付いてしまうのではないでしょうか?
Posted by: SCENEE | 2011.08.18 at 01:39
>感情的になってヒステリックに誰かを攻撃する―というのは、あまり好まないのだと思います。
昨今、いちばん感情的、ヒステリックに攻撃されてるのは元・市民運動家だったりします(笑)。
Posted by: となりのプルト君 | 2011.08.18 at 01:47
> 少なくとも「市民運動」「政策論議」を左翼だとか
最も積極的に活動していたのが左翼だからじゃないからかな。
だから、「市民運動」がかっこ悪いんじゃなく、「市民運動をしている左翼」がかっこ悪くて、結果的に「市民運動」がかっこ悪く見られてるんじゃないかな。
あと、「市民運動」にしてもボランティアにしても「目立とうとしてる」ってやっかまれる感情が少なからずあって、そのせいで市民運動やボランティアに参加することが「かっこ悪い」にもなってる気がする。
Posted by: yutangc | 2011.08.18 at 02:25
そもそも市民と言う言葉が気持悪いです。
過疎地の国民を市民とは言いません。
個人的には人生の中で「市民」だったことが少ないので。
あと、市民運動をやっている特定層の意向=民意とするのももっと気持悪いかも。
原発反対にしても、国民の相違になってませんよね。
市民運動を行って登りつめた人間が、あれですから、推して知るべしになっているのでは?
Posted by: hdkmama | 2011.08.18 at 05:52
地域性もあるかもしれませんね。
自分のルーツが関西なのですが、はっきり自己主張する人が多いし、お上に無条件に従う方がかっこ悪いと思う気がする。
ひとくくりにできないと思います。
Posted by: ぷくり | 2011.08.18 at 06:08
日本では市民運動家さんが、競合他社が出てきて食い扶持、スポンサーを取られないように
そういうイメージを流布したってのは?
教職系は、その筋の方がたっくさんいます。その人らを使って子供のうちから。。
Posted by: たなか | 2011.08.18 at 06:15
日本では市民運動家さんが、競合他社が出てきて食い扶持、スポンサーを取られないように
そういうイメージを流布したってのは?
教職系は、その筋の方がたっくさんいます。その人らを使って子供のうちから。。
Posted by: たなか | 2011.08.18 at 06:15
日本人は、世間という共同体の中でしか生活できない、ということを強く意識するdnaがあると思います。
・自分の今の立ち位置(役割とか立場とか地位とか上下関係とか男女でもいいが)を強く意識する。
・その立ち位置とは、世間が想定しているものとして認識する。世間の意見とは、大多数の意見がそうであろうと時代や世代や地域の空気を自分のフィルターで感じて想定する。
・世間がその立ち位置に対して想定している範囲を超えて自分の意見を述べたり、何かを要求したりするのは、世間から見て恥ずかしい、または「ちょっと人と違うことを言っている」と思われれるだろう、という意識をもつ。
・世間から、「ちょっと人と違う人だね」「あの人ちょっと恥ずかしいね」と思われると、その共同体/世間の中で生きにくくなる。そのためにそれをことさら避ける。世間様からそう思われるくらいなら、主張をしないで我慢する。
Posted by: AMNESIAN | 2011.08.18 at 07:49
市民運動がカッコ悪いのでは無く、「日本のことを肯定的にとらえて前向きに考える」ことがカッコ悪い、日本のために熱くなることがカッコ悪いのだと思います。逆の言い方をすれば、米国の良いところを知っている=日本の悪いところを客観的に言える自分がカッコいい、という風潮で根っこは同種かな、と。
これは敗戦後に、反省からの自己批判・米国キャッチアップ(≒米国のやることは全て正しい≒米国Likeでは無い自分達はダメ)・近隣国の工作等で醸成されたものでは無いかと想像しています。
メンタル的にはですけど。
機能的には官僚支配であっても80年代まではうまくいっていて、親方にお任せ状態でもそれなりのリターンがありましたので、その成功体験は40代以上の人には絶対的とも言えると思います。
なので、リターンを求める人は市民活動して政治を変えるよりも政治家を動かして利益誘導するほうがよっぽど早いですね。
まー市民活動自体も利益や政策誘導の道具ととして使われますよね・・(活動家自身は自覚ないでしょうけど)。
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余談ですが人権擁護法案とか。その後の経過は見てませんが、最近あちこちにある放送局関係の炎上は、そこに興味を持ちそうな層を別の火事場に誘導しているようにすら思えます。
Posted by: shigezo | 2011.08.18 at 08:02
(1)20世紀のい公害訴訟を思い出してください。「実際に被害を被った人達」は、さまざまな嫌がらせや国の妨害に耐え、長期間に渡る苦しい闘いを続け、一定の成果を得ました。今回の原発事故はまさにそれです。故郷に住めなくなったり、体内被曝に脅える人々は黙っていないでしょう。いまだ「経済復興のため」と称して原発の温存をたくらむ集団はありますが、もう失うもののなくなった人々の力、それを支える市民の支援を期待したいところです。
(2)多くの国は「人種・貧富の差・出身地域」で支持政党がほぼ決まってしまいます。米国は確かに多くの市民が支持政党を明言するほど開けっぴろげな国ですが、こんな国は世界でも少数派ではないでしょうか。それを手本にするのは少々無理があると感じました。
Posted by: holenailthaw | 2011.08.18 at 08:35
多くの人がイメージする”市民運動家”とは「ゲバ棒をもって暴れ回ったり、労働組合や教職員組合の中で”戦争反対、打倒帝国主義”と叫ぶ人だったり、一見普通の紳士風情であっても過去極左団体に所属したことがある人」、というようなものだったからでしょう。多くの人にとって市民運動家は昔のイデオロギーにとらわれ現実対応能力を失った人たちと同義だったからでしょう。
Posted by: heurige | 2011.08.18 at 10:06
民主主義の対義語は君主主義では。君主主義時代のヨーロッパでは王様の個人的都合で政治(戦争が起きたりとか)が決まったので、王権を制限するために(国民の自由を一定程度制限しつつ)団結して民主主義を確立したという歴史があると思います。
Posted by: か | 2011.08.18 at 10:08
今の時代に相応しい思想の言葉がないんですよね。
どんな言葉も既存の「かっこわるい」思想に還元されてしまう。
あと、日本人て悪い意味で頭がいいですから、なかなか扇動されたりしないんですよね。
もっと馬鹿にならないとダメかも。
Posted by: 煎茶 | 2011.08.18 at 10:48
最近もあったけど、
嫌なら批判などせず〜しなければいい、って思想は
国からするとやりたい放題やりやすいだろうなあ。
Posted by: 山田 | 2011.08.18 at 13:06
左翼っぽくてかっこわるいってのは当然あると思いますが、それよりも市民運動レベルで動いても変わらないというあきらめの方が大きいでしょう。
今までデモとか市民運動の成果があった、って経験もほぼ無いから。
米国のように州ごとに州法を持って地方でも結構な部分を変えられるのとちがって、地方で何言っても「国の意向ありき」といわれて終わりの、自治とはかけ離れた国の出先機関だから。
あと、地方に行くほど政治的なしがらみが強く、表に出しづらいってのも大きい。都会でないと、デモに参加した途端「あそこのウチは」ってことになる。
Posted by: fatpapa | 2011.08.18 at 13:47
日本の歴史を見ると、過去の方が政府との団体交渉を積極的にやっていたと思いますよ。
今では暴動と一緒くたにされている可能性がありますが、「一揆」という形で団体が結成され、
弾圧される可能性を覚悟しつつも、団体でお上に意見、主張をアピールする行動は江戸時代になっても行われていたはずです。
ヨーロッパの様な、お上を覆す「革命」はめったに発生しなかっただけで、天皇や将軍や地方領主といった「お上」と特定の主張を持って
結成された団体との交渉の場、方法論は日本でも中世から存在していたのが事実なのではないでしょうか。
政府に団体で意見を主張する行動が格好悪い、忌避すべき扱いになったのって戦後の学生運動の衰退以後なのではないでしょうか。
特に、あさま山荘、山岳ベース事件に代表される、学生運動の暴力化、内ゲバ抗争などによるイメージ悪化が、
衰退に大きく影響しているのではないかと思います。
Posted by: aaa | 2011.08.18 at 15:07
要は日本で「市民運動」を名乗るのはテロリストどもの化けの皮でしかないわけだから。
普通の大衆の運動はネット上での呼びかけに移行してしまってるし。
ただまぁ、テロリストの成れの果てでしかない現首相の思い付きを持ち出して北海道知事の熟慮の末の決断を腐すとは…このブログ主も同じ穴の狢かね。
あんたがパソコンやスマホ使うの辞めたら原発の必要のない社会に一歩近づけるよ?
Posted by: a8 | 2011.08.18 at 19:36
「国民」ではなく「市民」という言葉で偽装している通り、一つの思想・利権を掲げた勢力でしかなく。
単純にマイノリティーなだけ、共感を覚えられないだけ。
日本人が共感を示す「食」「スポーツ」に関しては、政治の力が及ばない声が広がって過剰なまでに世論に反応するでしょ?
他国と違って政治的な話をしないのは、ひとつの民族が大多数を閉めており、民族的な衝突が産み出す利益が少ないから。
「海外では〜」ってのはなんの参考にもならないよ。
Posted by: n.m | 2011.08.18 at 20:22
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投稿主の意見。
子供の頃、誰でも一度は、大人は卑怯だとか汚いとか思ったと思う。しかし学生時代にすでに、大なり小なり自分は良心を曲げてまでも周囲に同調しないと生きていけない情けない人間だ、と気づく。つまり自分はクリーンでなく、多かれ少なかれダーティだと分かっている。
そんな人間が権力の腐敗に気づいたときどうするか?
権力側は汚い。しかし自分があちら側にいたなら、自分も空気に逆らえず、多分同じ事をしてただろうな、と思う。だから自分をダーティな権力に対するクリーンな市民の立場に置いて敵を糾弾することは、何となく後ろめたく、そこまで積極的にはなれない。よって何もしない。せいぜい改革派の政治家に黙って投票するのが精一杯。
以上が大多数の国民だと思う。
よって市民運動を広げていくには、こうした普通の人たちでも参加できるように、ある意味マイルドな、包容力のあるものにしていかなくてはいけない。
外国のマネでは永久に成功しない。日本人の気質に合った市民運動のあり方を考えないといけない。
と言いつつも、私には名案がない。何か思いつく人はどんどんコメントしてほしい。
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