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311から一年経過して思うこと
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2012年3月11日 神州の泉
2011年3月11日、午後2時46分、東日本一帯を巨大な地震が襲った。その結果、直接的な地震被害もひどかったが、特に太平洋沿岸部の巨大津波による被害は想像を超えるものであった。しかし、これは映像技術が発達している今日にあって記録されているから特にそのように感じるのであり、歴史的に言えばこの高さの津波は過去に起こっているが、これだけ広範囲に被害が及んだ事例はあったのだろうか。NHKニュースによれば、巨大な津波や激しい揺れで37万棟を超える建物が全半壊、10日までに死亡が確認された人は1万5854人に上り、3155人の行方が今も分かっていない。避難先や仮設住宅などで不自由な生活を強いられている人は岩手、宮城、福島の3県を中心におよそ34万4000人に上っているという。
震災から一年たっても復興や生活再建が思うように進まないどころか、被災者たちの当面の生活さえ心配な状況に置かれている。仕事を生み出す社会インフラや地域コミュニティーの再建さえ、まだ目途が立っていない状況にある。これらを二の次にして、事業利権を生む全国的な瓦礫拡散処理や除染作業などには妙に積極的な政府の動きが見える。国政が国民生活を顧慮せずに大企業や外国資本を富ませることに向かう中で起きた311災害も、その復興姿勢には、国民よりも大企業や利権屋(ステークホルダーたち)優先の姿勢がはっきりと見えている。菅政権以降、国政が完全に私物化に向かい、国の状況は惨憺たる有様が続いている。この構造の基本を構築したのは小泉政権であり、小沢―鳩山ラインがこのベクトルを国民側へ向けようとしたが、これを忌み嫌った対米隷属のアンシャンレジーム勢力によって、その刷新的な動きは頭打ちで潰された。
東日本大地震と連動して、福島第一原発のメルトダウン事故や水素爆発事故が複数の原子力建屋で起こったが、この事故は歴史的な大地震とは全く次元の異なる深刻さを有しており、人類全体の問題としてこの日本に出現してしまった。これについては政府も、統轄企業である東電も、重要な情報を徹底的に隠蔽し、その犯罪的な不手際対応により、時々刻々と進展していた重大な原子力危機を致命的に拡大させてしまった疑いが濃厚である。神州の泉はこの当時、NHKや民放各テレビ放送を見ていたが、テレビはこの原発事故報道に対して、約一週間後にぴったりと自主規制を行い、ほとんど原発報道をしなくなった。これが、各民放とも意を通じ合わせたように、同時期から原発事故報道を異常に自粛してしまったのである。
これについては、日本マスメディアの報道機関としての存在理由は完全に消失していると感じた。思い起こせば、かつて、赤軍派によるよど号ハイジャック事件やあさま山荘事件、オウム真理教のサリン事件、上九一色村のサティアン大捜査などでは、テレビやラジオは四六時中これを中継していたが、それらをはるかに上回る人類史的な規模の福島原発事故については、何と報道を自主規制したのである。彼らにはもはや報道機関としての存在理由はいっさいないと感じているのは神州の泉だけではあるまい。というか、国民を眠らせるためにだけ存在しているマスメディアは有害である。
最も重大な事故を国民に知らせるどころか、東京電力という大企業の存続と、政府の救済支出を絞るために、その深刻な状況を故意に矮小化して国民に伝えるという、忌むべき裏切り行為を行っている。事故から7か月経ってからでも、メルトダウンした燃料体がどこに存在しているか把握できないままに、「冷温停止状態」という非工学的な虚説を発表した野田政権は、日本人のみならず人類全体を裏切る悪質さを有している。
NHKは別として、民放には東電から莫大な宣伝費が流れているから派手に報道自主規制を行った。NHKも政府筋に気を遣って報道を自主規制した。また政府は原子力発電が開始されてから今日まで、国策として原子力プラントを全国的に敷設し、再生可能エネルギーが社会インフラに組み込むことを継続して忌避し妨害し続けてきた。このような人類的な事故が起きたにもかかわらず、政府や東電は再稼働を念頭に置いて、原子力発電が人類の制御範囲を超えているという事実を無視しようとしている。よく子孫にツケを残すなという言い方がされるが、原子力発電プラントの存在自体も、使用済み燃料自体の後処理も、極めて甚大な危険という厄介な問題を半永久的に内包し、それへの対応を事実上、子々孫々まで負わせようとしている。
地震で配管系統(エルボ、ジョイント、スリーブ、ティー配管(チーズ)、バルブ類や計器類の接続部分、フランジ類等)が損傷を受け、気密性を要するガス体や液体が外部に漏れることが明らかとなった今、原子力発電プラントの安全性は従来言われてきたようなインターロックやセーフティロックは全く安心できないことが証明されてしまった。二重三重のセーフティサーキットを設けても、配管、電気系統、信号系統(計装)に重大なブレーク現象が起きる以上、絶対的な安全神話が完全に崩壊していることは疑う余地はない。しかも自然災害だけではなく、これと同様な原発事故はテロ行為やミサイル攻撃でも起きる可能性がある以上、今ある原発プラントを全炉廃炉にして、核燃料や使用済み燃料を完全に閉じ込めてしまう処置が望まれる。
国民は、生物環境を汚染し、国土に住めないエリアを恒久的に発生させる原子力発電をどうしても続けて欲しいとは考えていないはずである。原発プラントは存在そのものが人類的・地球環境的な悪だという認識が必須である。従って人類は安全なエネルギー体系を模索するべきである。人類も生物も、生存本能を満たし、子孫を次代に存続させ続けることが基本なのであるが、そのためには最低限度のバイオスフィア(生物圏)が生存に適する環境であるという絶対条件がある。原発事故はこの基本条件を破壊させる性格を持つわけであるから、文明の社会装置としては完全に不適当である。
神州の泉は静岡県に住むが、浜岡原発に重大事故が起きたら、東名高速は使用できなくなるし、国道1号線も塞がって列島の大動脈は絶たれてしまう。牧の原の静岡茶も蜜柑も全滅である。東西の交通動脈が絶たれたら、日本列島は物理的に二つのエリアに分断され、一気に国力が弱まる。西村寿行の小説『蒼茫の大地滅ぶ』のような舞台設定が現実化する可能性もあるし、これを狙って侵略的な国家が日本に侵攻してくる可能性も否定できない。
菅政権と野田政権というバカな政府が続いているせいで、東北地方の震災復興は遅れに遅れるだろうが、やがては正常に復帰する時期が来る。だが、福島原発の周辺環境が、われわれが生存しているうちに正常化する可能性はないのではないだろうか。死の街は続くのである。いつの時代に正常化するのか、あるいはしないのか。それさえも分からない状態なのである。このような深刻な代償を踏まえてでも、人は原子力エネルギーを頼る必要がいったいどこにあるのだろうか。
日本人は大勢が気持ちを合わせた時、何をやらせても他国の人々よりはパワフルに動ける潜在的な資質を持つ。これを引き出して統率していくまともな政治家が求められる。問題は政治のグランドデザインが、大企業や富裕階級という邪悪な少数者のためではなく、国民の生活原理、幸福原理に沿ったものをぶち上げてくれる政治思想が強く求められている。今の日本人は大変な宿命にある。それは67年間続いている対米隷属からの脱却とともに、国民を不幸にしている既得権益複合体も撃破しなければならないからだ。この二つを放置しておけば、日本人は一層の奴隷化に進み、貧窮し、将来の希望は得られなくなる。
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