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どれ程高い山でも、登頂後は下山するのみ 頂上はまだ先と思うは蜃気楼
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2012年03月08日 世相を斬る あいば達也
筆者の思考には、立ち止って考えようと云う癖がある。時にその発想から、“鎖国準拠論”まで生まれるのだが、オマエのユートピア論など聞きたくない、とエラク評判が悪い。(笑)しかし、少しは真面目に胸に手を当てて、世界の困窮する人々に思いを馳せる必要もあるのではないだろうか。人間はたしかに、“パンのみに生きるにあらず“だが、生物として生命を維持すべき状況すら与えられていない人々がゴマンと地球上に存在している現実を認めるべきだろう。
「そんなものを見ていたら、競争に負けるじゃないか!グローバル経済では、そんな流暢な事を言っていると負け犬になるんだよ!韓国にだって抜かれてしまうじゃないか!」こう云う人々が日本の大勢を占めているのも知っている。しかし、衣食住を充分に満足するだけの生活を謳歌している人ほど、この傾向が強い。それでは、それ以上の何を求めているのですか?と聞くと、健康だ、医療だ、介護だと言い募る。筆者から言わせて貰うと、ただの贅沢慾かきである。そんな幸せは、自分で買えよ!である。何も、憲法で保障する文化的最低限度の生活の保障に、そこまでは含まれていない。
宇治拾遺物語に“こぶとりじいさん”と云う昔話がある。
Wikipediaによると ≪ あるところに、頬に大きな瘤(こぶ)のある隣どうしの二人の翁がいた。二人とも大きな瘤には困っていたが、片方は無欲で、もう片方は欲張りであっ た。ある日の晩、無欲な翁が夜更けに鬼の宴会に出くわし、踊りを披露すると鬼は大変に感心して酒とご馳走をすすめ、翌晩も来て踊るように命じ、明日来れば返してやると翁の大きな瘤を「すぽん」と傷も残さず取ってしまった。 それを聞いた隣の欲張りな翁が、それなら自分の瘤も取ってもらおうと夜更けにその場所に出かけると、同じように鬼が宴会している。隣の翁も踊りを披露するが鬼が怖くて及び腰、どうにも鬼は気に入らない。とうとう鬼は怒って隣の翁から取り上げた瘤を欲張り翁のあいた頬に押し付けくっつけると去ってし まった。それから無欲な翁は邪魔な瘤がなくなって清々したが、欲張り翁は重い瘤を二つもぶら下げて難儀した。≫と云う話だ。
筆者には何処か、今の日本の国民、政治家、経済人の多くが、この隣の慾かき爺さんに思えてくる。何も“世捨て人”になれと言っているわけではない。しかし、グローバル経済も、資本主義も、明らかに頂上に達しているのだ。にも関わらず、金融資本等と云う蜃気楼の頂上を設えて、まだ頂上は先だと囃したてているのだ。蜃気楼の頂上に足をかけたと思った瞬間に、下山の恐怖もなく、またたく間に奈落の底に落ちるのである。人類の進化、或いは文明の行き過ぎには、それなりの咎めがあるものだ。何事もやり過ぎは不健康である。
筆者が日本の政治シーンにおいて、小沢一郎を支持する一番の理由も、実はここにある。一見、筆者のユートピア論と小沢の政治理念は異なっているようだが、筆者のユートピア論を、下界の具体的政治にブレイク・ダウンすると、小沢の政治理念に接近する。少なくとも、他の政治家以上に接近性を感じる。それが小沢一郎へのシンパシーになると云うことだ。
政治家なのだから、まさか“経済成長などするわけない”とかは言えないのは当然だ。あくまで、緩やかな成長くらいは言わざるを得ない。しかし、現実には、欧米日先進国の成長の糊代など、地球規模で見たら些細な糊代に過ぎない。故に、小沢の政治理念の中に、国家の枠組みの大改革が含まれているのだ。つまり、基本的経済規模が定型化(GDP)している国家の財政を健全化するには、中央集権から地方主権に分配の法則を変えなければならないと云うことだ。いまでも、官僚による中抜き、独法の積立金・貸付金等々を排除すれば、パイが大きくならなくても、一定の予算が生まれると云うことだ。
また、同一の経済規模内においても、中央集権から地方主権に分配の法則を変え、地域特性を生かした“自給自足” “地産地消”の精神は国民に自治意識を芽生えさせる。日本国民の最高の特性は“KAIZEN”の精神であり、工夫の魔術師なのである。出来もしない、発想力を生みだす教育とか社員教育など笑止千万、欧米狩猟民族のヤルことだ。島国に生まれ育つ民族には、それ相応の生き方があるわけで、大陸的発想や、罠を掛けて獲物を捕獲する発想は、常に貧困なものである。
しかし、だからと云って、何もかも成長が見込めないものでもない。上記のようなパラダイムシフトを通じて、世界で初めての産業が生まれないとも限らない。アイディアが製品化し、世界を席巻するかもしれない。時には、国家の統治システムそのものが、世界初になるかもしれない。いずれにせよ、霞が関の垂直統治システムからは、何も新しいものは生まれない。どうせ地獄を見るのであれば、座して地獄を見るよりも、試みて地獄を見る方が良いだろう。(笑)
おそらく、財務省も我が国の経済成長の限界を知っているのだろう。このゼロ成長認知と政治家の権力構造が手を結ぶと、社会保障は削れないので、この際増税しかない。バカな国民から金を召し上げるが、何も役人がポッポに入れるわけではない。最終的には社会保障として国民に還元するのだから同じだ、と云うことになる。多分、野田はこのレトリックに騙されたのだろう。子供が貰った小遣いを、親が召し上げ、子供名義の郵便貯金をするだけです、なんちゃって話に乗ったわけである。処世訓・相田が好きと恥ずかしくもなく公言する無教養な男、この程度で騙すのはチョロイものだ。まさか、おっかさんが、その召し上げたお金に2割を懐に入れるとは、露にも思わないのだろう。
兎に角、人間の行う行為と云うもの、登りよりも下りが難しい。成長を否定される苦悩はある、しかし現実から目を背けても真実は必ずやってくる。徐々に下り、ある地点で平地を見つけ、緩やかに生きると云うのが難しい。故に、老境に達してからの人の“生き様”が最も難しい。五木寛之と云う作家、壮年までの作品は娯楽の類だったが親鸞を書きだしてから変わった。今「下山の思想」をパラパラと読んでいるが、筆者の考えと共通点が多いので、サクサクと読めてしまう。鎖国準拠論は書いてないようだ。(笑) 思いだすと、故黒岩重吾の晩年も重厚なものを書いていた。
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