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記録 2 渋谷 小沢一郎は無実! デモ 3月3日
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阿修羅政治版に動画をアップするためには文章を書かなくてはならない。
3・3とは藤島さんにとって、一周年である。
わたしにとっても、2・27鎌倉デモの1周年だ。
3・3高知デモは忘れられない。
「何故、おまえが高知まできたのだ!」と、わたしは高知の現場で、東京から来た
ある青年に糾弾された。その青年はその場でわたしの敵となった。
わたしは蛇人間である。蛇の自尊心を踏み潰した人間を蛇は生涯、忘れない。
昨年の12月25日、ガス代未払いによってガスが止められた。
電気が止められた。
1月1日、兄がアパートに訪ねてきてくれた。
わたしは飢餓と飢えから脱皮した。
正月、読書のみをしていた。
蛇は脱皮する。脱皮すれば天から生存を約束される。
しかし脱皮の方向感覚は見えなかった。
ちくしょうと思った畜生とはわたしである。
「さわがに」を思った。
「さわがに」1970年の夏休みが終わった矢板高校の教室。
高校生たちが集った。「雑誌を発行しよう」。題名は「さわがに」だった。
まんが批評を書いて社会政治問題を矢板高校生に訴えよう、ということになった。
それは三田誠彦の「高校生」のごとく華々しくはない、栃木県北部の田舎の事象だ。
わたしは「さわがに」を出版するためガリ版印刷の孔版部に入部した。
「あのう、あなた高三ですよね、新人として何故に入部など?」
商業科3年の商業孔版女子部長は困り果てた顔をしていた。わたしの隣クラスだった。
それまで、わたしは商業美術部だった。商業美術部とはポスター制作である。
商業美術部も商業孔版部も活動場所は、同じ、商業実践室だった。
商業美術部の女子後輩たちが「あの裏切り者」という視線で、わたしを見ていた。
それでも彼女たちは、わたしに誕生祝いのプレゼントを持ってきた。
「さわがに」創刊は9月に発行した。
わたしが鉄筆で原紙にガリきり、印刷は孔版部でやった。
わら半紙代金は新聞配達のアルバイトでまかなった。
「さわがに」創刊号を発行し、早朝、各クラスに配布した。
すぐさま、わたしたちは生徒指導部に呼ばれた。
「さわがに」というミニコミ雑誌は朝日ジャーナルで記事紹介された。
1971(昭和46)年である。
朝日ジャーナルに送った「さわがに」の同人、美(よし)子を訪ねたのは
1989(平成1)年5月だった。浦和駅待ち合わせ、会った。酒をおごってもらった。
わたしは美子に平家落ち武者の里栗山村でもらってきた「キノコ」を渡した。
美子は1970(平成45)年のころから詩人だった。旦那も子供いる。
生活の闘争者だった。
「おれは<さわがに>を復活させる」と美子にいったとき
美子は微笑しながら「復活なんて、できるかしら?」といった。
美子は思想家であり、1970(昭和45)年、あこがれの女闘志だった。
美子は1970安保闘争デモで足のつめをはがした。美子は文芸部だった。
その詩と小説にわたしは魅了されていた。
美子に結婚を迫ったことがある。
「あなたには蛇の怨念と執念がある、あなたと結婚をするとわたしは破壊されてしまう」
それ以来、美子に会うことは遠慮していた。
1989(平成1)年5月が最後の美子との出会いだった。
美子よ、「さわがに」は脱皮し、復活する。
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