http://www.asyura2.com/12/senkyo127/msg/201.html
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日本共産党の志位委員長が、共産党のHPで動画の「綱領教室」を公開しています。今回は第11回「民主主義革命と民主連合政府(3)」ということで、民主主義から社会主義に移行する戦術である「統一戦線」について解明しています。今回面白いのは、実現しそうもない「民主連合政府」のあり方と、上部構造である巨大メディアの解明です。
HP→ http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/#fragment-2
動画→↓http://www.youtube.com/watch?v=tRM6053kvTA&feature=player_embedded#!
志位さんの講義については、以前(その5)で紹介しました。
→http://www.asyura2.com/11/senkyo122/msg/635.html
そこでは、「社会主義への移行の問題」、すなわち「資本主義社会における民主主義革命のあり方」に焦点を絞って、志位さんの講義の問題点を明らかにしました。
社会主義への移行の問題は、マルクス主義の二つの誤った原則(「等価交換による剰余価値説」と「唯物史観」)を前提にする限り解決ができません。「生産手段の社会化」は、マルクス主義的社会主義では、党組織と官僚による労働者・国民支配にならざるを得ません。つまり、定式による「社会化」は、政治的上部構造である意識的・イデオロギー的形態ですが、それにふさわしいイデオロギーは、唯物史観では成立し得ないのです。なぜなら唯物史観では「人間の意識がその存在を規定するのではない」からです。この理論的矛盾は、マルクス主義が自己自身を否定する以外解決しないのですが、志位さんたちにはその見通しがないからです。
被支配者が支配者になるという敵対の逆転、すなわち、労働者独裁の移行段階では、階級闘争という唯物史観イデオロギーを体現した政党と官僚による敵対者(資本家はいないのでKakasiのような反対者)への抑圧・支配が続くのです。マルクス主義をご都合主義的に利用しようとしても、また、エンゲルスの晩年の言葉(「多数者の本来の利益のための革命」=『フランスにおける階級闘争 序文』)をつまみ食いしても、二つの誤った原則の非科学性を承認(自己否定)しない限り、未来の「多数者」にはなり得ません。日本共産党の生きる道は、マルクス主義の原則そのものを批判し放棄する以外にはないのです。
志位さんは、エンゲルスの「多数者革命」は、今日では、「多数者が目標をあらかじめ自覚(理解)した革命」としています。しかし、問題の核心は、その「目標」が何かということです。志位さんたちには「科学的社会主義」という目標があるわけですが、Kakasiたちは、これを似非科学、空想的共産主義、人間抑圧の理論と批判しています。志位さんは、状態(階級的立場)と意識(イデオロギー)の間にはギャップがあり、これを一致させるには、「複雑な歴史的過程」を必要とすると言いますが、このギャップを埋めるには科学的社会主義の放棄しかないでしょう。この問題は、マルクス・エンゲルスのつまみ食いでは解決できないほど根が深いのです。
志位さんの講義は、この根本的な問題をスルーして、目標を曖昧にし、意識(思想・価値観)の意義・役割を過小評価して、多数者を「統一戦線」に結集しようとするのです。つまり、志位さんたちは、唯物史観・剰余価値説に基づいて、非常に意識的・イデオロギー的活動をしているのに、自らはその意識性に気づかず、または隠して「客観的・階級的利害(基盤・状態・地位)」で一致する大衆と「統一戦線」を組もうとしているのです。労働者・大衆と階級利害が対立するのは、大企業の役員や大資産家約6万人(0.1%)だから、99,9%の大衆は統一戦線に結集できるというのです。
綱領では「目標」について、綱領(一三)で次のように記述しています。 「(一三)民主主義的な変革は、労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など、独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人びとを結集した統一戦線によって、実現される。統一戦線は、反動的党派とたたかいながら、民主的党派、各分野の諸団体、民主的な人びととの共同と団結をかためることによってつくりあげられ、成長・発展する。当面のさしせまった任務にもとづく共同と団結は、世界観や歴史観、宗教的信条の違いをこえて、推進されなければならない。」
ここで、民主主義的な変革の目標は、「独立、民主主義、平和、生活向上」であり、統一戦線は反動的党派とたたかいながらつくりあげられ、成長発展するとされています。しかし、これらはいずれも重要な問題ですが、「共同と団結」の前提としては不十分です。「当面のさしせまった任務にもとづく共同と団結」というのは、それぞれの主張や組織原則の違いはあっても、相互に信頼できる前提が必要でしょう。定義の明確でない「反動的党派」とのたたかいは、敵を作って攻撃し合う階級闘争一元論の泥沼に落ち込んでしまいます。
そこで「共同と団結」を推進するには、公正と正義という道徳的基準と、それらを保証するための情報の透明性と討議が必要になります。科学的社会主義の世界観を絶対化し、「信条の違いをこえて」と言いながら、自己の信条を巧妙に押しつける独善的な姿勢は、綱領の中にもよく現れています。「人間の意識がその存在を規定するのではなくて・・・・」(唯物史観の公式)と言いながら、自分の誤った意識(信条・歴史観・世界観等)で自らを救世主のように規定し、人民を自己の目標に導こうとするのです。
ただ、多数派の形成とは、人民(世論)の支持を得ることなので、人民の欲求や願望、不満や心情に対応することが必要です。支配階級が、権力を使ってあからさまな、人民支配をする場合には扇動も有効でしたが、民主主義(普通選挙)が進み、ある程度生活が豊かになると多数派の形成が困難になってきました。社会主義の多様化、革命の非人間的側面の暴露、資本主義の修正による福祉国家の成立、商業主義マスメディアの影響力等、マルクス的共産主義にとって不利な状況が生まれてきました。
では、なぜマルクス主義は、まだ現実的な勢力を維持しながら、同時に、増大しないのでしょうか。それは志位さんたちが、何よりも人民の被支配・被抑圧状況からの解放をめざしていると信じながら、同時に、「人間を解放する弁証法」を見いだしていないからなのです。志位さんは99.9%の利益を代表すると言っていますが、実は「99.9%の無知」を実現しようとしているのです。マルクスは、資本主義の没落を「否定の否定」と言いましたが、更なる否定・マルクス主義そのものの自己否定無くして、人間の解放はあり得ないのです。
志位さんや共産党は、資本主義体制を維持しようとする権力の分析に優れています。その点で「綱領教室」後半の「巨大メディア」批判は見事でした。しかし、そのメディアが、権力中の権力である特捜検察と結託して、小沢冤罪事件を引き起こしたことについて、むしろ率先して「政治と金」を前面に出し、検察擁護と小沢批判を繰り返したことは、いかに共産党が人民を無知に追い込もうとしているかを示しています。これこそ公正と正義に反し、権力の闇を覆い隠しているのです。
21世紀のマルクス主義は、残念ながら自己変革の勇気を失い、民主連合政府や統一戦線という旧態依然のご都合主義と偽善的民主主義に陥らざるを得ないのです。でも「少しは期待していますよ」と言わざるを得ないのは、人権や民主主義の根幹になければならない公正や正義(の道徳)が、あまりにも行われていないからです。偽善でもいいから、悪党小沢よりはるかに悪質な権力の大悪人たちを追求するべきなのです。巨大メディア以下にはなってほしくないですね。
赤旗「政治と金」→http://www.jcp.or.jp/akahata/web_keyword/key078/
さて長くなりました。書いている途中で「綱領教室」の内容が、「赤旗」の記事になりましたので是非見てください。
→→http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2012-02-23/2012022309_01_0.html
この教室もあと一回になりました。「上部構造での戦い」の勝利は、「マルクス主義の自己否定」なしではありえないことが、次回でもっと明らかになるでしょう。
(Kakasiの投稿検索は、★阿修羅♪内の検索を、「科学的社会主義」でクリックしてください。サイトでは→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page9.html です。もうゴマカシはうんざり、本当のことを探す ★阿修羅♪ ガンバレ!)
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