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今、日本の政治や経済で、それがどんな方向性を持ち、政策として実施されたら、誰が得し誰が損するのかということは、国政に興味を持つ者であれば、誰しもが知りたいことの一つだろう。もちろん政治は損得勘定だけではないが、少なくても日本の政治は利害得失が極めて大きな要素となっている。
現下日本マスコミの最大の罪悪は、国政(国策)の方向性やその内実が国民生活に寄与するかどうか、あるいは対外的にその政策実行が国益を害するものか否か等を、国民が考えないように、その志向性に幕を掛け、常態的な思考停止に置いてしまう報道に徹している。もっと端的に言うなら、マスコミの報道姿勢は、この日本を操る権力実態の大衆愚民化政策に基づいている。
それを説明する事例はあまりにも多過ぎて、かえってピックアップしづらいのだが、まずは日本のテレビ番組を指摘するだけで十分だろう。どの局を見回しても、愚劣なお笑い番組が放送の大半以上を占めている。娯楽番組そのものは、国民の慰撫(いぶ)や明日への希望を保つスパイスとして必要なものであろう。だが、日本のお笑い番組やワイドショーは、アート的な価値が皆無どころか、有害な愚民化内容で占められている。
私は古典落語や創作落語あるいは漫談、漫才など、既存の伝統話芸に基づいた芸は素晴らしい日本の文化だと思っている。だが、今日のお笑いをもたらした、ビートたけし氏、明石家さんま氏、島田紳助氏らの笑いの質は、この日本に鵺(ぬえ)のように居座っている対米隷従既得権益複合体にとって、実に都合の良い愚民化報道の材料を提供している。
分かりやすく言えば、彼らが築いたお笑いの基本態様は「他者棄損」を手法としているのだ。人間個人の存在様態は単色で説明できるような単純なものではなく長所、短所、個性、その他さまざまな属性に彩られており、全体として一人のパーソナリティを保っている。ビートたけし氏らが開発したお笑いは、他者のマイナス要素を過度にピックアップして、無理やりお笑いの形に仕立て上げるという、言わば下衆(げす)の基本形を持っている。
これが育ちざかりの子供たちに与える効果はいじめの構造を蔓延させ、その教育上の悪影響は甚大である。一方、大人たちが彼らのお笑いを見た時は、即物的な笑いを得るが、その後味は無機質な空虚感だけである。ここまで言えば、読者は今、日本のテレビ界を席巻しているお笑いの本質が、既得権益複合体にとって大変都合がいいという、私の論旨をご理解できるだろう。
対米隷属色が濃厚になった中曽根政権に始まり、小泉政権に至って華々しく開花した新自由主義は、歴史的に根付いていた連帯感や共同体意識を溶解させ、人々の社会的存在様態を徹底的にアトム(原子)化した。ミルトン・フリードマンを始めとするシカゴ経済学派が創設した新自由主義は、様々な国家群の独自性、固有性を破壊することによって、国際金融資本が金融収奪をするために敷設した悪魔の経済思想である。
これに対して、防衛するどころか、彼らの走狗となって積極的に働いた政官財複合体は国賊としか言いようがない。新自由主義がもたらす人々のアトム化、共助性の否定、自分さえよければ他人は犠牲となっても構わないという風潮は、ビートたけし氏らが築いてきたお笑いの基本構造とぴったり一致する。
つまり、江戸時代から連綿と続いているお笑いの伝統話芸に対し、前衛の形をとって出現した新様式のお笑い芸は、それまでの伝統芸をアウフヘーベン(止揚)して、新たな芸風に進化したという構造とは全く別のものであり、明らかに日本固有の伝統文化の破壊しかもたらさなかった。これは国民を愚民化したまま都合のいいように支配誘導しようとする、既得権益複合体をサブカルチャーの側面から強く補佐する構造となっている。
別な言い方をすれば、今のテレビがのべつ幕なしで流し続けているお笑い番組は、深層において強い政治性を持っているという話である。その目的は視聴者が本当の政治を考えないこと、日本の権力構造の実態を考えないようにすることにある。ビートたけし氏が日本の芸能界やカンヌ映画祭などで特別扱いされているのは、彼が偉大なアーティストだからではなく、彼が日本を操る権力実態や国際金融資本にとって都合の良い芸風を築いたからに他ならない。この形は、明石家さんま氏、島田紳助氏、爆笑問題の太田光氏などにも当てはまる。
ビートたけし氏が監督となって一連の映画作品が世に出されているが、私の個人的感想を言えば、全く評価に値しないしろものとしか言いようがない。彼の映画には彼の内面を支配する索漠とした凄絶な虚無感や、希望とは正反対のどす黒い狂気が滲み出ている。現行憲法では思想表現の自由が謳われているから、何を表現しようと自由であるが、同時に評価も自由である。こんな愚にもつかない作品群が評価される背景には、明らかに政治的意図が存在する。
もっとはっきり言えば、新しく漫才ブームを築いた時代は二つの潮流があり、一つはコント55号に代表される古典芸能の様式を受け継いで止揚した芸風だった。これは萩本欣一氏の人格を語るまでもなく他者を持ち上げる芸風である。これに対し、ビートたけし氏らの芸風は徹底した他者棄損であり、笑いの質は蔑視や嘲笑を基本としている。これがどれほど日本社会の品格を地に堕とし、日本人の知的佇まいに悪影響を及ばしたか言い尽くせないものがある。
ビートたけし氏や爆笑問題の太田光氏が、経済学者の植草一秀氏をテレビや誌上で誹謗中傷した事実は、決してお笑い手法の勢いから出たものではなく、明らかに政治的情報統制の一環として出たものである。つまり、漫才ブーム以来、テレビが提供し続けるお笑い番組は、国民の興味から政治の本質を逸らす目的で流される負の政治キャンペーンに他ならならない。
対米隷属既得権益複合体は、国民に真相を知らせず、自分たちの権益保護を持続するためと、国民の貴重な労働成果や血税を搾取すること、宗主国アメリカ様に貢(みつぎ)物を贈るために、テレビ放送を使って国民の知的な政治参加を妨害し続けている。テレビのワイドショーも同じ構図にある。一応政治に触れてはいるが、肝心のことについては徹底的に情報統制を行っている。
つまり、テレビや新聞からは本物の政治情報は決して得られない。それどころか、絶え間ない愚民化放送で、国民が政治を真面目に考えられないように情報攪乱しているのである。その意味で、インターネットの阿修羅掲示板は、国民が政治的な正気を保つうえで役に立つ唯一の言論空間であろう。アメリカも既得権益複合体もここを潰したくてうずうずしていることだろう。
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2012/02/post-0579.html
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