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科学的社会主義・日本共産党批判――マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その17)
http://www.asyura2.com/12/senkyo126/msg/587.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2012 年 2 月 21 日 21:47:23: BW32mpuE76J86
 

 日本共産党の不破哲三社会科学研究所所長の古典教室12回は最終回
となりました。今回は、「マルクス、エンゲルス以後の理論史」という題で、レーニンの業績と活動を述べ、「マルクス・レーニン主義」の名で歪んだ社会主義独裁体制を築いたスターリンとその後継者の過ちを批判しています。そして日本共産党が、ソ連の干渉や、「誤った理論」とたたかいながら自主独立路線を守り、科学的社会主義の理論を現代に生かすために努力してきたと、自画自賛の歴史と立場が語られます。
 その内容については、「『レーニンと資本論』をめぐって不破哲三さんに聞く」(『赤旗』1998/9/15~23)と併せて視聴されるとさらによくわかります。
古典教室→http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/
「レーニンと資本論」→http://space.geocities.jp/sazanami_tusin/

 さて、今まで科学的社会主義・マルクス主義の反科学性と人間抑圧性を述べてきましたが、批判の基本は単純なものでした。マルクスが資本主義的生産様式の基本とした剰余価値説は、労働者搾取が「等価交換」によって行われているというものです。この認識の誤りは、アダム・スミス以来の西洋経済学が、商品交換成立の結果をすべて「等価」「均衡」とみなすのみならず、思考や認識の「結果」を合理的(法則的)と考える西洋的思考様式が根底にあるというものでした。

 今回の不破さんの講義は、ロシア革命によって建設されたソ連が、本格的な社会主義と言えるものではなく、世界史的には「生成期(幼年期)」の社会主義で、マルクス主義とは似て非なるものだということでした。そして、不破さんたちの立場(自主独立、多数者革命論)が、今後の社会主義の未来社会論のあるべき方向をいかに正しく示しているかというものでした。

 しかし、なぜ、マルクス主義の名において誤った社会主義が成立し、失敗してしまったのか、なぜ、高度に発達した資本主義が延命し、問題を露呈しながらも繁栄しているか、また、マルクス主義を理論的支柱とする共産党がいつまでも多数派を形成できないばかりか、少数派として定着しているのかが十分説明できていません。指導者が誤っていたからというのでは、自らの責任も問われるでしょう。

 マルクスやエンゲルスにも誤りはあるし、レーニンも誤っていた。彼らの思想の眼目は「人間の自由な発達」であり、マルクス・エンゲルスの魂をつかんで古典を21世紀の現代に生かすことが必要だ。日本共産党は、発達した資本主義社会で社会主義を成立させるという人類の課題にとりくむ党です。と言うだけでは多数派を形成することはできません。

 不破さんは優れた理論家で、マルクス主義を誰よりもよく理解し、現実の政治変革に生かそうとされていますが、マルクス主義の誤りと限界のなかでは、人類史に貢献できる未来社会論を構築することは不可能です。社会科学(経済学)の中で整合性ある説明のできない「等価交換」を、資本主義的生産様式解明の理論的前提(商品論)としたマルクス経済学と社会主義革命理論は、労働者の社会的地位の向上にとって積極的な側面もありましたが、それらを相殺して余りある多くの悲劇をもたらしています。

 マルクス主義は、ロシア革命、中国革命、キューバ革命、ベトナム革命等、旧来の帝国や植民地の専制支配から解放する理論としては、革命正当化の有効性を発揮しました(開発独裁)。しかし、生産手段の社会化を厳密に行おうとした国はことごとく失敗しています。国家権力を階級支配の道具に過ぎないとする国家観は、革命後の社会においては、マルクス主義労働者党(共産党)の一党支配を必然とするのです。「人間の自由な発展」をめざす独裁政党が、革命後は人間の自由な発展を抑圧する機関となるのです。

 不破さんは今一度、今日の混迷する社会主義の現状からマルクス以前に戻り、マルクス思想の根源に疑問を持ち、「人間とは何か」「人間にとって労働や生産・発展、商品とは何か」「利潤の根源とは何か」「人間の解放とは何か」等々や、『資本論』によって正しく資本主義の原則が解明されたのかどうかを、問い直す必要があるのです。「等価交換」にもとづく欧米のすべての経済学(社会科学)は、現代社会の政治経済の混迷を正しく分析し有効な処方箋を示すことはできませんでした。マルクスもまた、人間の交換関係を市場の平均化(需給・等価・均衡・発展・循環・没落)という概念で法則化してしまったのです。

 不破さんは、ソ連の社会主義の失敗に対して、それはマルクス主義でも本格的な社会主義でもなかったと言われますが、その失敗がマルクス理論から生起した事実を否定することはできないでしょう。また、マルクス主義自体に、スターリンや毛沢東やチャウシェスク等の独裁者を生じさせる原因があったことを否定できないでしょう。天才的革命家レーニンがもっと長生きし、トロツキーが政権を継承しておれば、二人の知性と教養、洞察力と柔軟性によって、世界の社会主義はもっと発展していたかもしれません。しかしこれらの革命の失敗を、個人的資質や歴史的社会的未成熟のせいにしてはならないのです。

 不破さんは、ソ連の崩壊がマルクス主義の未来社会論(社会主義論)の失敗だと言う人々に対して批判しています。すなわち「マルクスは、資本主義の分析では成功したが、社会主義論では失敗した」という間違った偏見は、ソ連はマルクスとは縁もゆかりもないとしてきた共産党だから批判できると自分たちの自主独立路線を正当化し、あわせてマルクス主義をも弁護します。しかし、現実には、ソ連崩壊が、マルクスの資本主義分析も社会主義論も失敗していることを示しているのです(唯物史観の想定外)。

 またソ連の社会主義建設の失敗は、ロシア革命の指導者達が、ロシアと世界の革命を進展させると期待した先進国ドイツの革命が失敗したことによって、スターリンの「一国社会主義」を採用せざるを得なかったことによる、と解釈する向きもあります。しかしむしろ、ソ連の失敗を招いたマルクスの誤りは、民主主義の進展によって先進国に資本主義の「修正」(福祉国家)が起こり、また、マルクス主義共産党が多数派を形成できなくなったことで、革命が不可避なものでなくなったことでも検証できます(理論的欠陥が明らかなので今後も不可能)。

 さらに、今までのマルクス批判は、ネット上でも見られますが、マルクス主義を体系的に批判したものではありませんでした。Kakasiたちの批判は、前回まで述べてきたように、科学的社会主義の基本となる剰余価値説と唯物史観の誤りを、経済学の非常識である「等価交換批判」と、認識論を革新する「生命言語理論」(ネット検索可)によって解明し、「道徳的社会主義」を提唱するものです。社会主義を持続的なものとするためには、商品交換の不等価性と人間言語の存在規定性を解明することによって、資本主義的契約関係を公正公平な制度に変革し、社会正義と道徳性を不断に追求できるしくみをつくることで可能となるのです。

 不破さんは、この講義で、労働者階級の希望とされたソ連が崩壊したことが、マルクス主義の欠陥によるのではないことを説明し、諸国の独自な社会主義の未来論を追求する必要を述べています。しかし従来の社会主義論のように、生産手段の社会(共有)化によって分配的正義を実現するだけでは、計画的分配のための官僚(統制)主義は避けられません。だから、交換的正義によって社会的不公正を隠蔽する交換過程を透明化し、そこに公正と道徳を実現して初めて人間的共同体が成立するのです。

 今回の古典教室で不破さんの講義は終了です。ご苦労さんでした。次回は、志位委員長の「綱領教室」2/21です。政局ばかりじゃ退屈でしょう。志位さんの未来社会論が楽しみです。
(Kakasiの投稿検索は、★阿修羅♪内の検索を、「科学的社会主義」でクリックしてください。サイトでは→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/page9.html です。)  

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コメント
 
01. 2012年2月22日 08:29:35 : 9pmCv7djFc
科学的社会主義とユダヤの関係も講義してほしい。

02. 2012年2月22日 12:48:43 : OTTz7QEtUs
見出しがなかなかいい。

誰だったか,資本主義が終わらない限り、マルクスは生きつづける、
などと言っていたが、マルクスを生かしている人間がまだいるんだ。

等価交換による労働者搾取など、
弁証法のイドラで狂った革命家と、学者の戯言にすぎない。

資本主義制度のもとでの搾取というのは、
労働者を価値以下で合法的に買取り、酷使するペテンの制度だ。

金儲けというのは、等価交換の仮面をかぶって、
不等価交換しようとする欺瞞的人間の行為だ。

そんなことは、世間の人間が一番よく知っているぞ。

ペテン師マルクスや経済学者は、資本主義を延命増長させている。

マルクス主義による人間疎外をアウフヘーベンしよう!!!!


03. 2012年2月22日 15:46:55 : 5m8VS6folk
Kakasiさんに質問したい。
 経済学がすべて「等価交換」を前提していたといわれますが、「不等価」を前提とする経済学は本当に無いのですか。

 「商業利潤」でネット検索すると次の文がありました。
「商業資本は流通資本にほかならず、再生産過程のうち流通過程だけで機能し運動している資本ですから、価値も剰余価値も生産しない。・・・・商人資本の得る利潤は流通過程の操作だけから部分的に生じるもので、資本主義的生産の未発達を前提している。」

 マルクス経済学では「価値も剰余価値も生産しない。」とありますが、商業(流通)過程で、価値がA資本からB資本に「価値が移動した」とは書いてありません。「利潤は流通過程の操作だけから部分的に生じるもの」とあるのも意味不明です。どうなっているのでしょう。

 こんな文もありました。
「商業に“分け前”を多くあげても、商業は消費者ではなく販売者なので“分け前”は現実のものにはならない」これもよくわかりません。暇があればよろしく。


04. Y. Kakasi 2012年2月23日 18:25:21 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
01)さん コメントありがとうございます。
不破さんの講義を希望されているのでしょうか。とてもわかりやすいですから・・・。
 Kakasiの考えでは、マルクスとその理論は、ユダヤの文化をはるかに超えているので、興味本位で追求しても意味はないだろうとおもいます。興味本位なものなら、「マルクス ユダヤ」でネット検索されると面白いかも・・・・。

02)さん とても元気なコメントありがとうございます。
 「等価交換による労働者搾取」というマルクスの考えを、批判的に理解していただけて感激です。誤解は多いけれど、なかなか理解していただけないのは、Kakasiの説得力の限界のようです。反省をしておりますが、真理は単純なので、あとは工夫しながら継続は力なりで続けます。

03)さん 根本的な質問なので、少し時間をください。


05. Y. Kakasi 2012年2月25日 00:26:38 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
03)さん 返答が遅れました。
Kakasiも「商業利潤」検索してみました。ほとんどがマルクス経済学のものでした。03)さんの疑問は、前回(その16)http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/892.html で述べた、「等価交換」に絡む「商業利潤」と「産業利潤(剰余労働)」の違いをふまえたものだとおもいます。

<交換は平等で、生産は不平等>
 「等価交換」は、自由で平等な市民社会の市場では、交換の成立も対等な関係だから、契約成立の時点で等価であるとされます。しかし、労働者が工場で実質的な不平等であることは、交換が成立(等価)しているのだから文句の言いようがないのです。交換過程で平等だから、生産過程では我慢しなさい。これはマルクスだけでなく経済学者全体の了解事項であり、前回もコメントしたように、この点では資本家に平等や公正を要求することは論外だったのです。だから誰も資本制社会を「不等価交換」で解明することはできなかったのです。(専門家ではないので、そのような学者がいれば教えてください。マルクスが批判したプルードンは、交換を重視している。)

<形式的平等は、革命によって実質的平等となる>
 マルクスにとっては、公正や正義の道徳や社会の改良よりも、資本主義的生産様式が引き起こす恐慌と、それに伴うプロレタリアートの団結と革命が歴史的必然として期待されたのです。欧米では形式的論理(等価交換)が優先するのですが、それがマルクスにとっては工場での実質的不平等を産み出すけれども、最後は革命によって実質的平等をもたらすと考えたのです。金持ち(資本家)と貧乏人(労働者)は、ともに自由で平等で等価な関係だけれども、両者の格差(実質的不平等)は革命が成功して初めて、実質的な自由で平等な発展の時代になると考えたのです。

<発達した資本制社会では、商業利潤は産業利潤の分配による>
『資本論』を全3巻読まれればわかることですが、マルクスは商品の売りと買い<商品の貨幣への転化(W―G)=売り、貨幣の商品への転化(G―W)=買い>、そして商業利潤<G―W―G’>について、何度も説明しています。
 しかし、「安く買って高く売る」「商品をそれが値するよりも高く売る」というのは、商業資本の支配する時代は通用するが、産業資本の時代になると、転倒した見方になります。「現象において示されるままの」「単なる外見」だけを見ても、発達した資本主義的生産様式における資本の運動法則の謎は解けません。産業利潤の取得すなわち剰余価値の搾取は、等価交換で買った労働力商品の使用価値を、生産過程で消費することによっておこなわれます。未発達な商業資本の利潤(商業利潤)は、遠隔地から商品を安く買って高く売って得られた(不等価交換による)が、産業利潤は等価交換のもとでの剰余(不払)労働(搾取)によって取得され、商業利潤は剰余労働の分配を受けることになる、というものです。

<価値は労働が生産するが、その移動・交換は等価とは限らない>
 その理由は、マルクスによれば「流通過程では、何らの価値も、何らの剰余価値も、生産されない。」からです。価値の生産を重視するために、「交換における価値の移動」を排除して、等価交換を価値法則として合法則化してしまったのです。Kakasiの考えでは、価値(商品)は所有者間で非対称的に移動する(交換される)ものであるにもかかわらず、労働力商品の価値=人間の価値を過少評価(抑圧)してしまったのです。交換・流通過程は、価値を生産しませんが、その交換比率は等価であるとは限らず、価値(商品)所有者間の非対称性(不等価性)を利用(悪用)して商業利潤も産業利潤も得られるのです。

<マルクスは利潤の源泉を価値の生産過程に限定したが、価値の不等価な交換・移動によっても集積される>
 マルクスは、社会全体の総資本の運動法則を解明しようとしました。つまり、社会の総労働と総資本の戦いを弁証法的法則として解明するのが『資本論』の目的でした。そこでは個別の商品売買は、等価交換でよかったのです。つまり、交換や流通の過程は、自然法則(価値法則)が主体となって、人間の価値判断(人間の意識・交換過程)を規定してしまうのです。個別資本(各企業)の利潤を問題にするのではなく、総資本の運動を解明する限りで個別資本が問題になるのです。だから、利潤という価値が、「誰から誰に移転するか」ということが重要ではなく、集積された総利潤がどのように分配されるか(平均利潤率)が問題とされるのです。

 だから、03)さんの、引用は不完全なので、マルクスとして正しくは、発達した資本主義的生産では、商業利潤の源泉は、産業資本が生み出した社会的総剰余価値(総利潤)の一部分ということになります。しかし、Kakasiたちの立場では、商業利潤の源泉は、交換過程における買いと売りの市場取引で取得され、産業資本の総利潤の分配によるものではありません。また、産業資本の利潤自体も、原材料や労働力の市場での安い買いと、高度な労働使役(搾取)、生産物の高い売りによって取得されたものということになります。


06. Y. Kakasi 2012年2月25日 11:40:10 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
上の説明を、『資本論』の記述を引用して追加しておきます。

「貨幣と商品との形態転換によって、これらの形態の一から他への貨幣の単なる[等価交換による]転化によって、いかにして[産業]利潤が生ずるのかは、全然見当がつかない。また、ここでは、彼[アダム・スミス]は流通部面でのみ運動する商人資本をもって始めるのであるから、説明も全然不可能になる。」(『資本論 第二巻』10章向坂訳[ ]は引用者)
★→→ここでスミスが、商業利潤と産業利潤を混同していることを、マルクスが批判しています。

「商人[商業]資本は、流通部面の内部で機能する資本以外の何ものでもない。流通過程は総再生産過程の一段階である。しかし、流通過程では、何らの価値も、したがってまた何らの剰余価値も、生産されない。ただ同じ価値量の形態変化[G―W―G]が行なわれるにすぎない。そのものとしては、価値創造または価値変化[G―W―G’]には何の関係もない諸商品の変態以外には、実際、何も行なわれない。生産された商品の販売で剰余価値[G’]が実現されるとすれば、それは、その商品のうちに、すでに剰余価値が存在するからである。」(『資本論 第三巻』第16章向坂訳)
★→→剰余価値は交換過程(の市場)の不等価で決まるとすれば、何の問題もありません。しかし、生産過程で総利潤を決めてしまうから、商業利潤の決定において、マルクスのような面倒な説明が必要になります。

「いかにして商人[商業]資本は、生産[産業]資本によって産み出された剰余価値、または利潤のうちから自己に割当てられる部分を、引寄せるのか?
 商業利潤は、単なる追加である、商品の価値以上への商品の価格の名目的引上げである、というのは、ただ外観だけのことである。
 商人は、彼によって売られる商品の価格からのみ、彼の利潤を引出すことができる、ということは明らかである。また、彼の商品の販売で彼が得るこの利潤は、彼の購買価格と彼の販売価格との差額に、前者にたいする後者の超過額に、等しくなければならない、ということはもっと明らかである。」(同上第17章 向坂訳)
★→→マルクスにとって、商業利潤は「ただ外観だけ」の「単なる追加」です。販売価格の超過額は、不等価に見えるようだけれども、「自己に割当てられる部分を、引寄せ」ただけなのです。だから、不等価交換の「安く買って高く売る」「商品をそれが値するよりも高く売る」というのは転倒した見方から生じることになります。

・マルクスは、交換の過程を単純に、商品の貨幣への転化(W―G)=売りと、貨幣の商品への転化(G―W)=買いとしますが、Kakasiたちにとっては、利潤はこの単純な関係から生じる。それは買いと売りとの非対称性=不等価交換(G―W―G’)によります。。商業の原理は、マルクスの言うような単なる「産業生産の召使い」(『資本論三巻』第20章)ではありません。産業資本は、従来からの商業利潤の不等価交換の原理を取り込みながら、機械を導入して労働者を搾取しているのです。

なお、ヨリ具体的には、前回(その16)の23、27で説明しているので、是非ご覧ください。『資本論』の転倒した発想を理解すると、マルクス主義による悲劇の根源がわかって頭がすっきりしますよ。頑張れ。マルクスの好きなモットーは、、「すべてを疑え」ということでした。

もうゴマカシはうんざり
本当のことを探す
★阿修羅♪


07. Y. Kakasi 2012年2月28日 01:17:57 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
(その16―46)→http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/892.html
 からの続きです。

 さてそこで、母系社会さんから、広松哲学についての根本的な問いかけがありました。
 Kakasi自身は『ドイツ・イデオロギー』『唯物史観の原像』『マルクス主義の成立過程』『マルクス主義の理路』『マルクス主義の地平』『資本論の哲学』『世界の共同主観的存在構造』『今こそマルクスを読み返す』を読み、広松渉著作集 全16巻で未読のものに目を通したぐらいしか知りません。現象学とマルクス理論は、西洋思想の限界の理論であり、誤っているという先入見がありますから、広松哲学も一時的流行と考え十分関心を持ってきませんでした。今回良い機会を与えていただき、ポイントにしたい点をコメントしておきます。

 この投稿への反論は、共産党系学者の教条的なものだろうと思っていましたが、「等価交換による剰余価値説」へのまともなものはありませんでした。経済学全体が、価格の平均的等価性や需給均衡という市民社会の契約合理性を、無批判に前提としているので、簡単には核心的反論をできないと思います。母系社会さんの指摘は、広松哲学が中心なので苦手な分野ですが、Kakasiなりに『マルクス主義の地平』と『資本論の哲学』をどのように読んだかを報告しておきます。

★ まず広松は『マルクス主義の地平』で、『ドイツ・イデオロギー』の唯物史観の有名な記述を引用した後で次のように述べています。
 「ここにみる通り、人間の歴史的存在が人間の意識を決定するというのが趣意である。いうところの『存在』は『存在被拘束性』というときの“存在”に近いものであって、認識対象ないしは存在者一般を意味するものではない。因みに、『意識とは意識された存在である』。ただし、『人間の存在とは彼の現実的な生活過程の謂いである』と明言されており、この故に、『意識が生活を規定するのではなく生活が意識を規定する』というようにザインがレーべンで置換されているのである。存在が意識を決定するという命題は、意識の歴史的・社会的被規定性を表わす命題として受取らなければならない。
 この命題を正しく理解し、かつ唯物史観が元来何を説明しようと図ったのかを諒解しうるとき、わけても晩年のエンゲルスが一連の手紙で強調している意識の相対的な能動性と下部構造に対する上部構造の反作用という命題も、唯物史観と整合ずることを知る。」(p211-2)

 広松は、エンゲルスが、「存在被拘束性」を『ド・イデ』では確定していたのも拘わらず、晩年に「意識の相対的な能動性」を強調しているとしています。さらに晩年の書『フォイエルバッハ論』では、「人間各人が、自分の、意識的に意欲した目的を追求することによって、人間が歴史をつくる」と引用して、人間の主体的な「観念的動因力」を認め、その背後にある「起動力=歴史的原因」を闡明するべきことを引用して、次のように述べています。

 「今や明らかであろう通り、歴史の主体たる人間の“自由なる”意志行為、これを裏打ちする観念的動因、この自由行為や観念的動因を一応承認したうえで、この動因それ自体を説明すべく、それを規定しているより根底的な起動力を遡求していくこと――階級闘争はもはや、かかる下向の一階梯・一局面たるにすぎない――、論理的にはかかる思考の途を辿って、マルクス・エンゲルスは経済的下部構造にまで下向を進め唯物史観を確立したのであった。」(p214)

 広松哲学の意義は、マルクス主義に人間の主体性(被投的投企)を取り戻そうとしたと思われますが、しかし、マルクスの『経済学批判 序言』における公式では、「下部構造に対する上部構造の反作用」は明言されていません。このことは、『資本論』の記述自体が、労働・生産・商品・貨幣・資本の自己運動という弁証法的発展の形態をとっていることをみれば、明らかです。人間の「観念的動因力」の背後にある「起動力=歴史的原因」を闡明するべきことが明らかであるとしても、それらのすべてが唯物史観や『資本論』の記述で解明されたわけではありません。

 例えば、資本家が労働者を支配する起動力は、利潤や競争や価値法則と言えるのか、なぜ交換が発達してきたのか、なぜ生産力の発展が可能であったのか、なぜ西欧の労働者は革命よりも生活の向上を求めてきたのか、なぜ途上国ロシアや中国で革命が起こったのか、革命のためにマルクス理論は必要であったのか、そもそもブルジョア社会では、理論や思想・宗教等のイデオロギー的上部構造が下部構造にどのような影響をもたらしてきたのか、また「自由行為や観念的動因」とは何なのか、等が十分解明されていません。

 とりわけKakasiたちの立場からすれば、『ド・イデ』で、言語の役割を捉え切れていない点、マルクス・エンゲルスが生涯倒錯した世界観をもつに至った根源をみておきます。それは広松の引用に続き、言語を述べた次の文です。
 「言語は意識と同じように古い――言語は実践的な意識であり、他の人間たちにとっても現存するところの、従って私自身にとってもそれでこそはじめて現存するところの、現実的な意識であり、そして言語は意識と同じく他の人間たちとの交通の必要、必須ということからこそ成立する。」(『全集3』p26)

 前半はおおむね正しいのですが、後半、言語の成立は、「他の人間たちとの交通の必要」からと述べています。しかし、この捉え方が言語の定義として決定的に不十分なのです。言語の成立にとって交通(相互伝達)は必要条件ではありますが、十分条件ではありません。というのも、自己の意図を他者に伝達するためには、自己の意図や情報を、まず認識する必要があるからです。認識することによって行動しまた伝達するのです。つまり言語的認識=言語的思考による対象の把握・構成によって、意図や情報を伝達するのです。

 だから言語は単に交通・伝達の道具としてでなく、認識・思考の道具であり、認識された内容(意味・知識・イデオロギー)によって、他者ばかりでなく自己自身の存在や行動を意味づけ方向づける手段でもあるのです。この点は、意識(言語・知識・イデオロギー)が、生活や生産の過程、生産力と生産関係自体にも創造的な役割を果たし、人間の歴史を豊かに発展させてきたのです。

 広松哲学では、言語の役割を重視しているようですが、その生物学的・人間的本質を捉えているとは言えません。彼は『世界の共同主観的存在構造』で、言語の機能を「指示、述定、表出、喚起」の四つの契機からなっているとしていますが、これでは言語的認識(思考)による創造的・発展的機能を説明できません。なぜ人間の欲望や労働や生産、その他すべての文化的営みが発展的なのか、マルクスや広松哲学では説明できません。

★『資本論の哲学』から→Kakasiたちは、マルクスの商品・貨幣論に見られる物象化論は、実体的ではなく、また科学的でもないと批判します。つまり、等価交換や価値形態論、貨幣生成論に「人称性」を与え、不等価であっても、または不等価であるからこそ交換が促進され、貨幣の必要性が高まると考え、商品交換に商品所有者(人間)の交換(利潤追求)動機を重視します。マルクスは貨幣に物神的性格や謎的性格を与え、いかにも商品や貨幣が人間の交換行為を支配しているように記述しています。しかし、商品の物象化や貨幣の謎は、決して謎ではなくマルクスの創作にすぎないのです。
 一般のマルクス信奉者は、「貨幣物神の謎は、商品物神の謎が人目に見えるようになり、人目をくらますようになったものに過ぎない」(『資本論一』第二章)という表現をそのまま実体的に受け取ります。しかし、広松氏は、マルクスの叙述を、物象化的倒錯視に陥っている商品所有者(読者)に合わせたものとして把えなおします。

 すなわち「かれわれが留意すべきことは、よしんば一定の倒錯視ないし物象化的錯視にもとづくものであれ、それが歴史的・社会的に不可避的な現相である場合、マルクスはそれを単に錯視だといって卻けてしまうのではなく、それのもつ一応の“妥当性”、“一応の客観性”を踏んだうえで対象の理論的定式化を図るという行ぎ方をしていることである。」(『資本論の哲学』p249)という叙述に見られるように、読者の倒錯視に合わせて「一応の“妥当性”、“一応の客観性”」のもとに捉えなおしたもということになります。つまり、一般のマルクス信奉者が、物象化論を実体的である(商品には投下労働が等価値含まれている)と考えるのに対して、広松説では、教条的な解釈を避け、マルクスは等価交換に商品所有者を絡ませ、倒錯視は「一応」の理論的定式化であったと考えます。

 だからKakasiの結論は、教条主義にしろ、広松哲学にしろ商品交換を実現する商品所有者間の実体的関係(非対称的・不等価的交換関係)を解明しない限り、剰余価値の解明・利潤の解明・資本主義の解明はなされないということになります。つまり、マルクスは商品自体の人間支配性を強調し、広松哲学は人間を加味し、Kakasiたちは人間の意識や判断等の主体性を全面に置くのです。

 広松氏は、実体があって関係があると考える物的世界観に対し、関係があってこそ実体があると考える事的世界観を提起しました。しかし、Kakasiたちからいうと、実体と関係を分離することはできない。実体の中に関係を見なければいけない。だから生命言語論の立場は、強いていえば実体的関係主義となるのです。広松哲学は、商品論の中に人間を見て現象学を生かそうとしていますが、等価交換の実体を見ない限り、人間の本質を把握することはできないでしょう。

●43)さん 検証の仕方、論理の組み立て、反論の仕方が誤っているのではないでしょうか。
 「科学」で検証できなくても、いくらか知的に役立っているように思います。生活の向上に役に立つ「科学」を、今求められてもそれは無理だと思われませんか?


08. 2012年2月29日 15:03:40 : 5m8VS6folk
Kakasiくんに賛成。

問題は等価交換だよ。オレも低賃金で仕事せざるを得なかった。

それだけの価値しかないと、こき使われたわけだ。

オレはもっと価値があったんだ。

価値どおりの交換なんて、頭の弱い人間をだます言葉なんだ。

弁証法とか、現象学とか使わなくとも、謎や秘密は無くて、搾取は搾取、

金儲けは、合法的に相手からより多くを手に入れることなんだ。

人間の持つ価値を食いつくすことなんだ。

納得したがどーすりゃいいんだ? Kakasiくん。


09. 母系社会 2012年3月12日 17:39:52 : Xfgr7Fh//h.LU : boCkIBofug
>> Kakasiさんへ

(16)でまだ議論してまして、このコメントに気付きませんでした。

いろいろ、言いたいことがありますが、まずは下記の点について、
ご意見をお聞かせ下さい。


●HPを見たところ、Kakasiさんは文字言語を認めず、音声言語を言語と
する立場らしいのですが、私は言語には音声言語だけでなく、文字言語
や手話なども含めるべきだと思います。

しかし、今回はその問題ではなく、Kakasiさんが<人間は言語で思考
している>と言う時の「言語」という言葉に関して質問をしたいので、
今回はこの問題は取り上げません。

音声の中でも、ある特定の音声=音波は音声言語として、ある特定の
対象を指し示したり、特定の意味や概念を媒介する役割を果たしてい
ます。

私は、言語とはあくまでも表現されたもので、音声言語なら、この「ある
特定の音声=音波」自体が言語だと思うので、言語で思考しているのでは
なく、言語が媒介する意味や概念などで人間は思考・思惟していると
思います。

しかし、Kakasiさんは<人間は言語で思考している>というのですから、
おそらく、Kakasiさんの言語とは、音声言語の音波自体だけではなく、
言語が媒介する意味や概念も含めた言語という意味ではないかと推測し
たのですが、この場合の「言語」を広義の言語と呼ぶとすると、
私の場合は、「ある特定の音声=音波」だけを言語と考えているので、
狭義の言語と呼べるかもしれません。

Kakasiさんは、広松が言語の機能を「指示、述定、表出、喚起」の四つの
契機に限定し、言語で思考することを見落としていると批判していますが、
おそらく、これは広松とKakasiさんの言語という意味が異なるからでは、
ないか、広松の言語とは狭義の言語の言語、つまり、音声言語であれば、
ある特定の音声=音波自体を指しているのではないかと思います。

そこで、第一の質問として、こうした解釈が正しいかどうかをKakasiさん
にお聞きしたいと思います。

また、誤りなら、Kakasiさんは言語という言葉で何を指しているか、
具体的に言えば、音声言語の場合の「ある特定の音声=音波自体」か、
その内語(私は内語説は誤りだと思います)も含めているのか、あるいは
意味や概念、文法まで指しているのかを教えて下さい。

もし、仮に、両者の言語という言葉の意味が異なるのであれば、広松も
Kakasiさんと同じ意味で言語という言葉を使用した場合は、Kakasiさん
と同じ見解になる可能性があるのですから、広松の言語観が誤りか
どうかの前に、まずは、広松の言語という言葉とKakasiさんの言語とが
同じ意味であるかどうかを検討すべきではないでしょうか。

そこで、第二の質問として、仮に、両者の言語という言葉の意味が違う
とKakasiさんがわかった場合ですが、もし、Kakasiさんが広松と同じ
意味で言語という言葉を使用したら、広松と同じ主張になるかどうか
について、Kakasiさんのご意見をお聞きしたいと思います。

●私自身は、現代のような独占資本が生れた段階では、価値法則は
屈折した形=中途半端な形=でしか実現されていないし、マルクスも
初期の資本主義時代までしか、価値法則は文字通りには貫徹しないと
考えていたと思います。

資本主義という経済システムは、Kakasiさんが指摘する不当性・
不公平性で成り立っている経済システムではなく、何らかの方法
でそれらが無くなり、価値法則が完全な形で貫徹されても、成り
立つ経済システムだと思います。

私が前に指摘した『資本論』第三巻第十章で、「商品の交換価格が
それの価値とほぼ一致する条件」の件についてのご意見をお聞かせ
下さい。(「その15」への2月2日のコメントです)

もう一度書き写すと・・・

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

マルクスは『資本論』第三巻第十章で、「商品の交換価格がそれの価値
とほぼ一致する条件」、つまり<価値法則>がほぼ実現する条件として、
三条件を提示しています。

@は、商品交換が、「偶然的・臨時的な交換ではなくなること」、Aは、
商品の生産が需要とほぼ一致していること、Bは、自然的な、人為的な
独占で「取引当事者の一方が価値よりも高く売ることができたり、価値
よりも安く手放さざるをえないとかいう事情がない」ことの三条件です。

Y. Kakasiさんは、主にBの件を取り上げているのだと思いますが、この
ように、この不公平な取引の問題は、既にマルクスやエンゲルス自身が
見聞きしていて、理論的には検討済みの問題なのです。

そうでなければ、この問題をこの三条件の一つとして、取り上げるはずが
ありません。

マルクスが生きていたころは、既に資本主義がかなり発展した段階であり、
「平均利潤の法則」に媒介されて市場価格が形成され、生産価格も形成
されていた時代ですから、生産価格が商品交換を規制する原理になって
いたので、<価値法則>が平均的には実現されていた時代は終わって
いました。

ですから、<価値法則>が商品交換を直接統制・規制していた時代の
商品価格は、生産価格の先行者であり、マルクスの時代には、過剰生産
による恐慌が起きていたことからもわかるように<価値法則>の時代は
終わり、<価値法則>は生産価格を形成する要因の一つに過ぎず、不完全
な形で、屈折した形でしか実現されていないことは明らかで、その点は
二人とも認識していました。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


●それから、Kakasiさんが使用している「実体」という言葉の意味も教えて
下さい。

具体的に言えば、哲学用語の実体なのか、日常的な日本語としての実体かが
知りたいのです。

でないと、実体的関係主義というような言葉の意味がわからないからです。

よろしくお願いします。


10. 2012年3月19日 09:47:06 : 9a4cnQj8kQ
Y. Kakasiさん
43です。
以下、ありがとうございました。

>●43)さん 検証の仕方、論理の組み立て、反論の仕方が誤っているのではないでしょうか。
 「科学」で検証できなくても、いくらか知的に役立っているように思います。生活の向上に役に立つ「科学」を、今求められてもそれは無理だと思われませんか?


11. Y. Kakasi 2012年6月02日 15:46:37 : BW32mpuE76J86 : dvldzIXlGA
投稿は(その18)に続きます。

http://www.asyura2.com/12/senkyo127/msg/201.html


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