26. 2012年2月21日 15:47:47
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陸山会事件、虚構のシナリオ 源流・西松建設事件の“生け贄” 田中 周紀 民主党元代表の小沢一郎被告の資金管理団体「陸山会」をめぐる政治資金規正法違反事件の裁判。今月10日と11日に行われた小沢に対する被告人質問で、小沢は改めて無罪を主張した。次の山場は2月17日。陸山会の会計事務を担当していた元秘書で衆院議員の石川知裕が、自らを含む小沢の元秘書3人の政治資金規正法違反事件の捜査段階で取られた供述調書について、東京地裁がこれを証拠として採用するかどうかが、この日に決まる。 この調書には、小沢と石川の共謀の様子が生々しく記されている。だが、元秘書3人の事件の裁判では「検事の威迫と利益誘導によって作成された」と認定され、大部分が証拠として採用されなかった。司法関係者の間では、この調書は小沢の裁判でも同様の扱いを受ける可能性が高いとされており、4月下旬の判決公判では小沢に無罪が言い渡される可能性があるとみられている。 そもそも小沢の事件の発端となったのは、東京の準大手ゼネコン、西松建設の外国為替及び外国貿易法(外為法)違反事件と政治資金規正法違反事件だった。この事件の裁判では元社長の国澤幹雄が罪を認めて禁固1年4カ月、執行猶予3年(求刑は禁固1年6カ月)の有罪判決を受けている。 だが、この事件自体、検察側が指摘する通り国澤が主導したものだったのか。事件そのものが、検察側が描いたシナリオに沿って強引に作られたものではなかったのか。関係者の証言に基づいて、その真相に迫る。 “中興の祖”の意向だった政治団体の設立
戦前からダムやトンネルなど官公庁が発注する大型の土木工事を得意にしてきた西松建設。土木畑出身の柴田平(故人)が1983年に社長に就任して以降、業績は急速に拡大した。 柴田は、官公庁を中心とする大規模な工事を請け負うゼネコン(ゼネラル・コントラクター:総合建設請負業者)の宿命をよく理解していた。ある元西松幹部はこう証言する。 「柴田さんの口癖は『ゼネコンは政治家の力が影響する業界。政治家と仲良くしなければ仕事は取れない』だった。自分自身も政治家と積極的に付き合い、“建設族のドン”と言われた金丸信(元自民党副総裁・故人)とは肝胆相照らす仲。政治献金の額も多かった」 その金丸の脱税事件と一連のゼネコン汚職事件をきっかけとして、95年1月から政治資金規正法が強化された。政治家はそれまで、複数の政治団体で企業献金を受けることが可能で、年間100万円以下なら、献金した企業名を政治資金収支報告書に記載して公表する必要はなかった。 しかし、改正法は企業の政治献金について、(1)受けられるのは政治家が代表を務める政党支部と政治家ごとに1つしか指定できない資金管理団体、(2)資金管理団体への献金は年間50万円以下、(3)年間5万円を超える献金をした企業や、政治資金パーティー1回当たり20万円超を支出した企業名の公表、(4)資金管理団体への献金は2000年に禁止――などとして、規制と公表の基準を格段に厳しくした。 柴田は95年6月、12年間続けた社長のポストを同じ土木畑出身で腹心の副社長、金山良治に譲って会長に就任したが、依然として代表権を持つ「実力会長」として西松に君臨した。前出の元西松幹部は「政治家とカネで深くつながることによって業績を拡大してきた柴田さんにとって、規正法の改正は由々しき事態。新たな献金の手段を求めて模索していた柴田さんに知恵を授けたのが、盟友で顧問の渕野正雄さん(故人)だった」と話す。 渕野は土建業界では「トンネルの神様」として知られた現場一筋の土木畑。同じ体質の柴田とは気が合い、お互いに信頼しあっていた。95年8月、渕野は柴田を訪ねてこんな進言をした。 「他のゼネコンの中には政治団体を新たに設立して、その名義で献金するやり方を始めているところがある。現にH社とT社はもうやっている。これなら企業献金の上限を超える資金を政治家に提供できるし、企業名が表に出ることもない。H社とT社が検察側に確認したところ『特に問題ない』と言われたそうだ。うちも作ってはどうだろうか」 地検が了解しているなら問題はない。柴田はさっそく、専務取締役(事務本部長兼社長室長)に引き上げたばかりの国澤に、政治団体の設立を進めるよう指示した。中央大学商学部を卒業し、61年に西松に入社した国澤。「土木でなければ人ではない」という風土の西松で、現場での資金管理の手際良さを柴田に認められ、出世街道を順調に歩んでいた。 「渕野がこんなことを言っている。事務部門を統括する君が中心になって検討してくれ」 柴田の指示を受けた国澤は、経営企画部長の宇都宮敬に具体案を練るよう指示。柴田からも直々の指示を受けていた宇都宮は、渕野と図ったうえで国澤に具体案を説明した。 口の堅い西松の幹部を会員にして、賞与を増額して支払い、上乗せ分を新団体の口座に会費として入金させる。そして、これを献金の原資にする。これを聞いた国澤は柴田に報告し、代表権を持つ副社長以上の役員の会議で設立が承認された。 新団体の名称は「新政治問題研究会」(新政研)とした。営業管理部長の風間森夫を退社させて代表に充て、献金の事務にあたらせることにした。当時の事情を知る元西松幹部は「『ライバル会社が既にやっている』『検察が了解している』という前提条件があったため、会議に出席した代表取締役は誰一人としてこの手法が違法だと思っていなかった」と語る。 95年11月に設立された新政研の政治献金額は、設立の年こそ約1100万円だったが、翌年には約6600万円に急増し、他の政治団体に比べて目立つ存在になった。献金額を分散させる必要に迫られた西松は98年10月、新たに「未来産業研究会」(未来研)を設立する。カネの集め方は新政研と同じ。事情を知る元幹部がこう証言する。 「検察側は、専務だった国澤さんが新政研や未来研の設立を主導したように仕立てているが、それはあくまでも柴田会長の意思であり、代表権を持たない国澤専務は手続きとして指示・了承していたに過ぎない。柴田会長がすでに亡くなっている以上、検察側は後に社長になる国澤さんに政治団体設立の責任をすべて負わせるストーリーを作らざるを得なかったのだろう」 「実質ナンバー2」だった社長
経理畑出身ながら柴田の信頼が厚かった国澤は99年6月に副社長に昇格し、2003年6月には金山の後を継いで社長に就任した。だが、国澤の社長就任は、金山が社内の権力バランスに配慮した結果であり、国澤にとっては“棚ボタ”のようなものだったという。国澤は西松始まって以来の事務系出身の社長だった。国澤に近いある関係者が証言する。 「金山社長の後任は側近の満下直紀副社長とみられていたが、土木営業本部長の宗澤修郎副社長(故人)や建築営業本部長の石橋直専務(国澤の後任で社長に就任)も有力な対抗馬だった。金山社長は『この中から自分の後任を選べば、後々の社内の権力バランスに禍根を残す』と考えて、次善策として国澤副社長を社長に指名した」 アルコールを一滴も飲めない国澤は、現場一筋の前任者たちとは違って、工事や営業の現場に詳しくない。柴田が得意としていた政治家との付き合いも、柴田から紹介された大学の同窓生の二階俊博・元自民党幹事長ら2〜3人に過ぎなかった。「二階さんとの関係にしても年に数回食事をする程度。巷間言われていることとは違い、何かを頼めるほど親しくはなかった。小沢元代表とは一度も会ったことがないはず」(関係者)。 そんな国澤が選択したのは、自らの独断ですべてを決めるのではなく、案件を取締役会に諮って決める合議制だった。前出の関係者は「工事を受注するかどうかについても、国澤さんは取締役会に諮って決めていた。1億円以下の出金については、基本的に現場任せ。政治献金をどの政治家にいくら渡すかを決める権限も、現場の営業本部長や支店長に任せて報告を受けるだけ。自ら進んでナンバー2の立場を選んだ」と話す。 国澤が合議制を採用した結果、新政研と未来研を使った政治献金の相手先とその額も、各営業本部長や支店長が独自に決めることになった。両団体を合わせた献金やパーティー券の購入の総額は合わせて約4億7800万円。2004〜2006年には「陸山会」に1400万円、自民党・二階派の政治団体「新しい波」に778万円など、与野党首脳や建設族議員たちに配られていた。 小沢に対する献金の窓口となったのは仙台市にある東北支店である。1995年秋、常務取締役東北支店長に就任したばかりの宗澤が専務取締役事務本部長の国澤に泣きついた。 「西松は岩手県や秋田県の公共工事で“天の声”を囁く小沢事務所と関係が悪く、宗澤さんは苦労していた。小沢事務所の求めに応じて、95年中に小沢の政治団体『改革国民会議』に1000万円以上の献金を決めた宗澤さんは、出金の最終決済権者の国澤さんに窮状を訴え、『柴田会長も了解している』と説得した」(元西松元幹部) 柴田が了解していると聞いて、国澤はすぐに許可を出す。献金額などについて小沢の公設第一秘書の大久保隆規と直接交渉に当たったのは当時の東北支店次長の岡崎彰文。岡崎は2001年に本社に戻って取締役に昇格するが、総務部長兼経営企画部長として新政研代表の風間に献金の振り込み先の指示を続けた。ある西松関係者は「岡崎さんの総務部長就任は、小沢事務所とのパイプ役であることを重視されたから。驚くべきことに、岡崎さんは総務部長の職を解かれてからもパイプ役を続けていた」と話す。 検察側の冒頭陳述によると2005年秋、国澤は岡崎から「新政研と未来研の会員になっている社員から、徴収される会費の金額面で不満が出ている。危険な状態なので、この献金スキームを終わらせたい」と相談を受けた。だが、国澤はこの時点で決断できず、翌年に常務取締役(管理本部担当)の長岡恵紀から再度相談を受けて、新政研と未来研を使った献金スキームを終わらせたことになっている。だが、事実は違う。 「建設業界内では脱談合宣言に向けた動きが始まっており、国澤社長は2005年秋の時点で新政研と未来研を解散するよう指示していた。ところが、建築営業本部長の石橋副社長が『まだ民間工事の斡旋が期待できる』と強く反対したため、両団体は資金集めこそ止めたものの、解散にまでは至らなかった。この事実は国澤社長には伝えられなかった」(元幹部) そのため、2006年10月に両団体が解散していないと長岡から聞かされた国澤は、「まだやっていたのか」と驚くことになる。この時点で両団体の資金残高は合計で約500万円あったが、長岡は具体的な残高を国澤に伝えずに「小沢側に残りを支払って解散させたい」と説明した。 「この時、国澤社長は『(小沢側には)払っても払わなくても苛められるのだから、払う必要はない』と通告した。しかし、担当の判断で最終的に500万円は小沢側に支払われ、国澤社長はこれを了承したとして逮捕された」(同) 当然のことながら、国澤は東京地検特捜部の調べに対して容疑を否認した。だが、結局は「認めなければ会社を潰す」「部下を逮捕する」という担当検事の“脅し”に屈して渋々認めた。容疑事実の金額について、検事は当初「100万円」と説明し、国澤も「その程度なら」と了解した。だが、最終的には国澤に伝えられないまま「500万円」に増額され、後でこれを知った国澤は強いショックを受けたと言われる。 外為法違反の罪でも虚偽のシナリオ
西松事件には政治資金規正法違反事件のほかに、海外で作った裏金を現金で違法に国内に持ち込んだ「外為法違反事件」がある。ある捜査関係者は「事件としてはむしろ外為法違反の方が先。この事件の家宅捜索で出てきたのが、ダミーの政治団体を使った政治献金に関する資料で、その意味ではこの事件こそ小沢の政治資金規正法違反事件の発端」と解説する。 この事件では国澤と元副社長(海外担当)の藤巻惠次、それに元海外事業部副事業部長の高原和彦ら合わせて5人が2009年1月に逮捕され、国澤と藤巻が起訴された。検察側の冒頭陳述によると、西松ではかねてより海外で捻出した裏金を、無許可で国内に持ち込み、公表できない営業活動資金に充てていた。国澤は95年6月に事務本部長に就任すると、この裏金の管理を所管するようになり、藤巻も94年4月に海外事業部長に就任して以降、持ち込んだ社員から裏金を受け取り、経理部に引き継ぐなどして関与するようになったとされている。 西松の内部調査によると、98年から東南アジアなど海外で捻出された裏金の総額は約9億円。うち約3億3000万円が、2002年から2007年にかけて国内に不正に持ち込まれた。東京地検特捜部は、西松が香港で取得したペーパーカンパニー「コープリー・オーバーシーズ・リミテッド」の口座から高原が引き出して8回に分けて国内に持ち込んだ計1億円のうち、時効にかからない5回分の計7000万円について立件した。 さらに検察側の冒頭陳述は、国澤について「(海外から持ち込んだ裏金を)自らが社長として行う公表できない営業活動資金に充てようと考え、日本への輸入を指示した」と指摘する。だが、営業活動を土木と建築の各営業本部長に任せている国澤が、受注に向けた営業活動を自ら展開していた事実はなかった。 1億円のうちの2000万円が2005年に死亡した自民党の大物幹部に、さらに2000万円が大分のキヤノン関連工場の建設をめぐる脱税事件で実刑判決を受けたコンサルティング会社元社長の大賀規久に渡されていたが、この相手先は国澤が直々に決めたわけではなく、建築営業本部長らが決めたことを承認したまでのことだった。 こう見てくると、国澤には刑事事件の被告人として立件されるような責任はなかったと言わざるを得ない。「政治家との密接な関係なくして仕事は取れない」という企業風土の中で、現場に権限を委譲した事務系出身の国澤は、土木と建築の両営業本部長の身代わりとなり、検察のシナリオに沿って有罪判決を受けた。これを“土建王国の生け贄”と言ったら言い過ぎだろうか。 田中 周紀(たなか・ちかき) 1961年生まれ。共同通信社とテレビ朝日で国税当局を担当。2010年にテレビ朝日を退社。著書に「国税記者」(講談社)など
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