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小沢一郎は原敬を超えられるのか
明治憲法体制と政党内閣の時代(中編)
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権力闘争と原敬への憧憬
選挙制度と議会制度は人類最高の発明品だ。歴史上、多くの権力闘争は戦争で決着をつけた。勝てば予算(石高)とポスト(官職)を簒奪し、負ければ簒奪され、下手すれば晒し首だ。これが、血を流さず多数決の投票で決着がつく。それでも、第2回総選挙での激しい弾圧のように、血が流れる選挙は昭和初期まで続いた。
従って、戦争の代替物たる選挙と議会での権力闘争は不可避だ。多数派形成をめぐる権力闘争に勝ち抜かなければ、議席も政権も獲得できない。実現したい政策は法律にもならない。
小沢一郎は、1993年に著した『日本改造計画』で、強いリーダーシップの発揮には、国家への使命感とそれを実現する権力基盤が不可欠だと強調している。それを実現したリーダーとして、大久保利通、伊藤博文、原敬、吉田茂の4人を挙げる。
特に同じ岩手(旧南部藩)出身の原には、「特別の親しみ」を感じるようだ。同書を鳥瞰すれば、明らかに小沢は、自民党と官僚機構に挑戦する自分を原になぞらえている。薩長藩閥(山県閥)に挑戦した原への憧憬だ。もっとも、偉大な原に勝手になぞらえるな、との声も聞く。
理解はできるが、歴史の後づけでもある。冷徹な権力の論理から時に手段を問わない原が首相になってから、大衆の落胆と不人気ぶりはひどかった。「民本主義」で知られる吉野作造は蛇蝎のごとく嫌い、暗殺後のメディア報道は驚くほど冷淡だった。小沢どころの騒ぎでない。
評価するかしないかは別として、なりふり構わず権力の獲得に執念を燃やさなければ、薩長藩閥(自民党)からの政権交代は不可能だったろう。既に指摘したように、明治憲法は政党内閣の実現を警戒し国家の諸機関へ分立的に権力を与えた。この矛盾は薩長藩閥の結束によって統合され、安定した意思決定システムが保たれてきた。
しかし、薩長藩閥の意思決定システムは次第に時代からズレ始めた。着々と政友会の党勢を拡大する原は、時代の変化を見逃さない。やがて政友会は、権力の交代を実現して新たな意思決定システムの統合主体に登りつめていく。
その推進力たる原は、「敵に対して剛、第三者に対してはそれ程でなく、味方には融ける」と称された。その後の日本政治に原がもたらす功と罪を、見事に言いあてた言葉である。
大正政変の地殻変動
桂太郎と西園寺公望が政権交代を繰り返す「桂園体制」は、1901年6月から11年9ヵ月に及んだ。山県閥と政友会が提携関係を築いての安定だ。清華家の位に西園寺は、伊藤の後継総裁として山県閥に安心感を与え、桂との個人関係は良好だった。日露戦争では挙国的に協力し、講和後の日比谷焼打ちでは沈静化に務めた。
従って、1906年1月の西園寺への政権移譲は円滑だった。だが、これは政党内閣でない。政友会の入閣は内相の原と法相の松田正久のみで、政策路線は桂内閣の踏襲を余儀なくされた。衆議院は制しても貴族院は山県閥が制する。「ねじれ国会」で藩閥政府を揺さぶったが、政権与党となるや意趣返しを食らう。現在の民主党と同じだ。
加えて、公家出身らしく権力に淡白な西園寺は安易に妥協し、幹事長として党を仕切る原をイラ立たせた。「余り単純にて不熱心かつ周到の意思なく、骨の折るゝこと限りなし」。それでも、「情意投合」と呼ばれた提携関係と政権移譲は山県閥の主導で継続した。
しかし、その意思決定システムは時代からズレ始めた。その一因は大衆社会の到来だ。1890年に45万だった有権者数は、要件緩和もあって1908年に159万となっていた。権利に目覚めた大衆は、権力を独占する藩閥への批判を強めていく。
その大衆は、日露戦争後に不満を鬱積させていた。戦費18億円は公債13億円(うち外債7億円)で賄われ、4億円台の国家財政に利払いがのしかかる。今回は賠償金もなく、大陸権益は駐留費負担を意味した。国民所得は1.5倍となったが、租税負担は4倍となった。
ここで大正政変が発生する。1912年12月の第3次桂内閣は、強引な成立経緯から憲政擁護運動を呼び起こし、3ヵ月で総辞職した。大衆社会の地殻変動は山県閥の権力基盤を揺るがした。だが、それだけで政党内閣が近づいた訳ではない。山県閥の内部でも地殻変動が生じていた。山県有朋からの世代交代を模索した桂による新党構想だ。
大衆社会による時代の多様化で、本来は政策集団でない藩閥内閣の意思決定は困難となった。未曾有の国難が片づくにつれ、意思が一致しない場面が増えたのだ。桂は、閣内協定の作成や政策大綱の同意を駆使するなど、内閣の統合力確保に苦心していた。
だが、政策集団たる政党なら、初めから統合力は担保される。今も昔も、政党の強みはここにある。党が割れなければ大抵のことは困らない。こうして意思決定の世代交代を図る桂新党構想は、政友会を巻き込み、さらなる地殻変動を呼び起こしていった。
三党鼎立論とキャスティングボート
キャスティングボートは、どの勢力も過半数を握れない状況を利用する生き残り戦略だ。これで少数派は、自らを多数派に高く売りこめる。公明党と国民新党は、民主党か自民党が衆参両院で過半数を制したら困るし、真意が判然としない新党の乱立はこの期待が大きい。
1914年4月の第2次大隈重信内閣は、立憲同志会を与党に据えた。新党構想は桂の病死に直面したが、非政友会勢力を結集した同志会を生み出していた。決して山県閥の別動隊ではない。急遽総裁となった加藤高明はじめ、若槻礼次郎、後藤新平ら新しい世代の合理的な官僚も多く参加する、本格的な政党だった。
その同志会に山県はテコ入れした。政友会を潰すチャンスだからだ。1915年3月の総選挙は、大隈の「不遇の政治家」としての大衆人気が爆発し、244/381議席を獲得して同志会など与党3派は圧勝した。政友会は184から104と議席を激減し、初めて第1党から転落した。第1次大戦後の外交路線をめぐり1916年10月に大隈内閣は総辞職したが、同志会などの合同で197議席を擁する憲政会が誕生した。
政友会の1党優位に手を焼いてきた山県は、すかさず「三党鼎立論」を唱える。時は、山県直系の寺内正毅内閣だ。衆議院の過半数は握っていない。だが、過半数を握る憲政会はいまだ脆弱であり、手強い政友会は少数派に転落した。よって、「その勢力を分割せしめて互に相牽制せしむる…三党鼎立を以て中庸過大なき」がちょうど良い。
山県は、政友会と憲政会を分断してキャスティングボートを握る戦略に出た。この時に原は、大正政変後で辞任し元老に追加された西園寺に代わり、政友会の第3代総裁となっていた。西園寺を叱咤激励してきた原だったが、最初は躊躇した。トップとNo.2では責任の重さが違う。「党の為に倒れたりとせんか…甚だ不利」。
体調まで言い訳にしかけたが、ついに、「今日の逆境にては枉げて承諾一奮発」した。ここで原は戦略転換する。従前以上に山県との意思疎通を図る一方で、水面下では憲政会と通じ連携の保険をかけた。原は憲政会に伝える。「両党際立ちたる行動を取ること得策ならず…暫く隠忍すれば官僚は自滅する」。
大衆社会が進展すれば、隠忍していても藩閥批判は強まり政党の権力基盤は高まる。加えて第1次大戦後のバブルは、日露戦争後の経済停滞を払拭しつつあった。積極財政路線が可能となって、政友会の党勢拡大のチャンスは広がる。原がキャスティングボートを握る番だ。
原敬の執念と政友会の地方利益
首相就任時の原は「平民宰相」と呼ばれた。だが、祖父は家老職、父は側用人を務めるなど南部藩での家柄は高かった。伊藤や山県こそ長州藩の下級武士の出自だ。実は貴族院議員になるか迷った時もあったが、以後は大衆向けのパフォーマンスで爵位を辞退し続けた。実は小卒が最終学歴でない「庶民宰相」、田中角栄と似たイメージ戦略だ。
ただし、藩閥打倒の執念は筋金入りだ。朝敵・南部藩への「白河以北一山百文」の蔑称を後まで忘れず、自らの号を「逸山」と称した。だが、打倒一辺倒ではどうしようもない。権力内部に食い込まねばならない。藩閥では政党に理解を示す井上馨の薦めで新聞記者から外務省入りし、陸奥外相に遇され次官となり、伊藤が結成した政友会の幹事長となった。
党勢は原の敏腕で拡大する。西園寺内閣の内相時代は地方官に政友会人脈を植えつけ、帝大エリートや実業界から人材を集め、優秀な官僚には入党を勧め、「両院縦断」と呼ばれた貴族院への浸透も図った。気づけば、山県閥の権力基盤の相当を切り崩していた。
では山県の「三党鼎立論」をどう跳ね返すか。山県に分断されぬよう、水面下では憲政会と提携する。山県に会えば、理想主義に走りがちな憲政会を批判して、政友会の現実主義を政権担当能力としてアピールする。そして最大のカードは、大衆利用の恫喝だ。
これまで、「失策もあったが国家に貢献」してきた。なのに、「反政友会の動きを強めるなら自衛上、他の政党と共に大衆が望む大幅な減税、普通選挙導入などの極端な要求をせざるを得ない」。想像を絶する神経戦の権力闘争で、原はキャスティングボードを握り返した。
原の冷徹な現実主義は、政策的には際立つ主義主張が少ない反面、何より権力の獲得を優先した。「総裁専制」の伝統を持つ政友会で徹底的に党内の統合力を保ち、政治資金は惜しみなく党員に配った。党勢の拡大は、積極財政路線による地方利益の培養だ。「我田引鉄」と呼ばれた公共事業は、鉄道で政友会を全国に輸送した。
一方で、普通選挙はカードに過ぎない。政友会の支持基盤は、伝統的な地方豪農層に加え、商工業者や都市富裕層が主だ。普通選挙なら、憲政会や無産政党の支持基盤が増えてしまう。
山県閥との政権移譲による1党優位は容認しても、政党同士の政権交代は望まず憲政会への妨害を忘れなかった。原の執念は、大衆の利用価値は認めても、大衆を心から信用することはなかったのである。
原内閣の成立と新しい統合主体
1917年4月、寺内内閣は総選挙に出た。原が山県に、極端な要求を唱える憲政会を今こそ叩くべし、と囁いたのだ。結果、政友会は160/381議席を獲得し、憲政会は197から119へと議席を激減させた。
過半数を握る勢力はないが、手強い政友会が第1党に返り咲いた。そのうえ、政友会と憲政会が結束すればゆうに過半数を超える。大衆の圧倒的な政党支持の表明で、山県の「三党鼎立論」は困難となった。だが、原には最後に超えるべき壁があった。
後継首相の奏薦権を持つ元老会議だ。この時の元老は、山県のほかは松方正義と追加された西園寺の2人。実質上、決定権は山県にあった。山県は、原自身を高く評価しつつ、「政党内閣をよいとする『一点』だけは…到底同意できない」と述べた。
原はしばし熟慮した。恐らく山県は、「百計尽きたる後にあらざれば余を推薦するごとき事なし」だろう。だが、もし次期政権が「官僚系ならば全力を挙げてこれを打破」するつもりだ。権力闘争は、覚悟を決めなければ即座に負けだ。
そこに、地方に端を発した米騒動が起きた。これが鬱積してきた藩閥官僚への批判となって全国に広がると、1918年8月、寺内内閣は総辞職した。山県の選択肢が消滅した瞬間だ。翌月、元老会議は原を奏薦した。陸相・海相・外相は党外から選ばれたものの、初めて衆議院に議席を持つ首相による、政党内閣が成立したのだ。
原は、これまで以上に山県への方針説明に意を砕いた。満足感を与え政権妨害させないためだ。山県も甘くない。原にも伝わるよう、憲政会に政権批判を流布した。原も切って返す。1919年3月の選挙制度の改正だ。大衆の圧力と「両院縦断」で、もう貴族院は衆議院に抵抗しない。
だが、それは普通選挙の導入でない。大選挙区制から小選挙区制にしての中小政党潰しだ。さらに、議席数は381から464へと大幅に増員され、納税要件が10円から3円に緩和されて有権者は309万人となった。政友会が支持基盤とする商工業者や都市富裕層が拡大したのだ。
1920年5月の総選挙は、憲政会は110議席に止まり、政友会は278議席を獲得して圧勝した。続けて、官僚の自由任用、陸軍から田中義一の陸相就任、貴族院や財界からの大臣登用が進んだ。憲政史上で最高の権力だ。藩閥政府では、衆議院と大衆を権力基盤にできなかったのだから(図5)http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20120206/226919/?SS=nboimgview&FD=1793810980。
こうして政党は、ついに明治国家の意思決定システムの統合主体に登りつめた。これこそ、原が日本政治にもたらした最大の功だ。もっともそれは、最大の罪を伴ったのだが。
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