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今週は、大阪市が市の職員に対して実施したアンケート調査について考えてみる。
調査票の文面が2月9日付で市役所の内部に配布されると、その全文は、ほどなく、複写画像をPDFに加工した形のファイルとしてネット上に流出した。
この種の「内部文書」が、いともあっさりと外部に流出してしまっているところにも、大阪市役所がかかえている問題は、ある程度露呈している。
「こんな情報管理の基本中の基本が守られていない職場だからこそ、強力な管理体制が必要なのだ」
と、アンケート調査を推進している側の人々は、むしろ意を強くしたことだろう。
ここでは、情報管理の問題については、これ以上踏み込まない。
アンケートは実施された。そしてその内容は既に外部に漏れている。当原稿は、この前提から出発する。
アンケートの特別さは、質問項目の仔細を検討するまでもなく、橋下徹市長の署名が書きこまれたその前文を読めば明らかだ。以下、引用する。
《アンケート調査について
市の職員による違法ないし不適切と思われる政治活動、組合活動について、次々に問題が露呈しています。
この際、××××・特別顧問のもとで、徹底した調査・実態解明を行っていただき、膿を出し切りたい考えています。
その一環で、××特別顧問のもとで、添付のアンケート調査を実施いただきます。
以下を認識の上、対応よろしくお願いします
1) このアンケート調査は、任意の調査ではありません。市長の業務命令として、全職員に、真実を正確に回答していただくことを求めます。
正確な回答がなされない場合には処分の対象となりえます。
――中略――
また、仮に、このアンケートへの回答で、自らの違法行為について、真実を報告した場合、懲戒処分の標準的な量定を軽減し、特に悪質な事案を除いて免職とすることはありません。
以上を踏まえ、真実を正確に回答してください。
以上
大阪市長 橋下徹 》
反響は、またたく間にネット上を駆け巡った。
「あきらかな思想調査だ」と言う人々がいる。
「不当労働行為」だと断言する専門家もいる。
「憲法違反」を指摘する向きもある。
私個人は、このアンケートが法律的に有効であるのかどうか判断できずにいる。
今後、訴訟が起こるかもしれない。別の場面で違法性が問われることになるかもしれない。どっちにしても、答えが出るのはまだしばらく先の話になるだろう。
この原稿では、法的な有効性とは別の視点から、このアンケートが浮かび上がらせた問題を読み解いてみたいと思っている。
最初に答えを言ってしまうと、私は、このアンケートは、失敗だと思っている。
「失敗」の意味は、アンケート調査のもたらす結果が、市当局ならびに橋下徹大阪市長が企図した通りの結末には結びつかないだろう、ということだ。
アンケートの文面にひと通り目を通した後、私は、ツイッター上に、以下のような感想を放流した。
「思想調査によって異分子を排除するメリットと、組織のメンバー全員に踏み絵を踏ませることによって生じるデメリット(自立思考の放棄、疑心暗鬼)を天秤にかけて、それでも異分子を排除したいと考えるリーダーはパラノイアですよ。」
「命令に疑問を持たない部下だけでできている組織は自壊する。」
「忠誠心の低いメンバーを排除すれば強い組織ができると思うのは早計で、実際には逆サイドに走る選手のいないサッカーチームみたいなどうにもならないものが出現する。そういうチームは行進には向いていても試合では決して勝てない。」
私の結論は、この時点で、すでに固まっている。
詳しく説明しても良いが、二度手間になるので省く。読んで字の如く、私は、この種の対敵工作は、「角を矯めて牛を殺す」ということわざのとおりの結果を招来すると思っている。
さてしかし、上記のツイートは、かなりの数のリプライ(返事、あるいは反論)を呼び寄せた。
いくつかについては、ツイッター上で回答したが、本当のことを言うと、ああいう場所での論争は、こちら側から見て反論しやすいリプ(返事のこと。「リプライ」の略)をいじくりまわしているだけだったりする。
反論しにくいリプは、放置した。
返事をもらえなかった質問者は、オダジマが「逃亡した」というふうに感じたかもしれない。
弁解すれば、私が返事をしなかったのは、140文字ではこちらの意図を伝え切ることができないと考えたからだ。
せっかくこういう場があることなので、ひとつ、お寄せいただいた言葉についての回答を並べてみることにする。無論、すべてに対してではないが。
一番多かった反応は、以下のような主張だ。
「橋下さんのやり方は言われている通り、たしかに無茶かもしれないが、大阪市の現状を見れば、これぐらいの荒療治が必要なことはあなたにだって想像できるはずだ」
「病根を断つためには、ある程度極端な手段に訴えなければならない」
「市長のやり方の強引さを指弾する前に、なぜ、市に巣食う不逞職員の罪状を問題にしないのか」
私自身は、大阪市庁の実態をつぶさに見てきた者ではない。だから、大阪市の中にどれほどの不良職員がいて、それらの望ましからざる市職員が、どのような被害と不効率を市政にもたらしているのかについても、具体的な事実は、ほとんど何も知らない。
とはいえ、昨年の大阪市長選挙において、橋下市長に勝利をもたらした原因のひとつに、「腐った役人をなんとかしてほしい」という市民感情があったことは承知している。
その意味では、アンケートには「民意」が反映されているのであろう。
ここまでは良い。私は、譲歩する。アンケートの背景には市民の支持がある。
問題は、効果だ。
アンケート調査の結果、狙い通りに不逞職員をあぶり出すことができれば、市の業務は、かなりの部分で正常化するかもしれない。これは、虚心に考えれば、大いにあり得る結末だ。とすれば、短期的に現場が混乱するのだとしても、中長期的には役所の業務は効率化し、このことは市民にとって大きなメリットになるはずだ。
冷静な口調(文体)で、アンケート調査の意図を擁護している人たちは、当調査が手段として無理筋である点については、ある程度認めている。彼らの主張の主眼は、アンケートが正当で立派な手続きであるというところにはない。彼らが言わんとしているのは、現状の大阪市役所のような著しい腐敗をただすためには、多少とも「無茶」な手段が必要だということだ。
なるほど。
この意見には、一定の説得力がある。
無茶であっても乱暴であっても、たとえ反対者が指摘するような副作用があるのだとしても、とにかく「癌」を取り除かないことには何もはじまらない。その強い決意が、橋下市長に峻厳な態度をとらせている。事情はとても良くわかる。
譲歩ついでに、この度のこの「外科手術」が、市長の思惑通りに、成功するというシミュレーションを受けいれても良い。
現実問題として、これだけ強烈なアンケートを浴びせれば、市長が敵視する「組合」の中枢は、相当なダメージを受けるはずだ。と、市政を停滞させている元凶が彼らであったのだとすれば、その「元凶」の勢力が衰えることは、そのまま市の活性化につながる。ありそうな話だ。
が、それでもなお、私は、アンケートには賛成できない。
つまり、冒頭で述べた「アンケートは失敗する」という予断を引っ込めて、「アンケートは案外効果的に機能するかもしれない」というふうに前提を書き換えたのだとしても、やっぱり私はこのようなアンケート調査を強行することには、どうしても同意しかねるのだ。
ここから先は、ちょっと迂遠な話になる。
辛抱して耳を傾けてほしい。
私が言おうとしているのは、政治の世界では、たとえ結果が正しくても手法として間違っている施策は採用できないということだ。
独裁的な手法が目に見える効果をあげることがわかっていても、行政機関は手法として正しくない施策を採用してはいけない。それは、効果が緩慢でも、結果が出るのに時間がかかっても、政治的な何かを実現するための手続きは、常に民主的な過程を踏まなければならないということでもある。
私がいま申し上げているのは、非常にぬるま湯的な主張だ。
それ以上に、「きれいごと」であるかもしれないし、「いい子ぶった」ご意見だと言われたら、ほとんど反論できない。
が、民主主義というのは、そもそも、建前を大切にする決意のことだ。
われわれは、迂遠であっても建前を遵守する体制を選んだ。だから、ここのポイントでは、決して譲歩することができない。
別の言い方をするなら、民主政治というのは、効率や効果よりも、手続きの正しさを重視する過程のことで、この迂遠さこそが、われわれが歴史から学んだ安全弁なのである。
ひとつたとえ話をする。詭弁だと思う人はそう思ってもかまわない。
独裁をめぐる議論は、「効果」と「正統性」の対立であるという意味で、体罰の論争と大変に良く似ている。
体罰を容認する人々のすべてが野蛮なヨット教師タイプというわけではない。
「ガキなんてのは殴って育てないと強くならない」
「大切なのは上下関係をはっきりさせることで、そのためには物理的な力の誇示が不可欠だ」
みたいなことを主張するタイプの体罰推進論は、いまや少数派だ。
より穏当な体罰容認論者は、体罰をひとつの「必要悪」と考えている。
彼らは、体罰が手段として「悪」であることを認めた上で、その「教育的効果」の絶大さゆえ、「正しくコントロールして」使用することの利点を説く。
あらためて言葉にするなら、彼らは、
「信念のある教師が、その限界と効果を十分にわきまえ、なおかつ、暴力に伴うリスクと責任を引き受ける覚悟を持った上で発動する体罰なら、認めても良いのではないか」
ぐらいな、非常に慎重な姿勢でその使用を認めているわけだ。
なんだかとても素敵な話に聞こえる。
が、それでもなお私は体罰を容認する考えには賛成できない。
理由は、体罰の効果の覿面(てきめん)さにある。
そのあまりに顕著な効果は、体罰を発動する側とそれを受け止める側の双方を狂わせる。
仮に、体罰の効果によって、それを受けた子供の態度があらたまるのだとしても、その効用がその子供の人格形成にどのような影響を与えるのかは、また別の問題だ。
より重要なのは、殴る側の教師に、体罰へ依存が生じることだ。
以下、私の個人的な体験を述べる。
私は、何回かほかの場所でも書いたことだが、中学校時代に、かなり手ひどい体罰を浴びた経験を持っている。
私を殴ったのは、中学1年と3年の時に担任だったO崎という名前の数学の教諭だった。
教師の側からすると、教室がざわついていてどうしようもないような時に、誰か一人を教卓の前に引っ張り出してきて、ひとつふたつ殴りつけると、たちまち教室の空気が「締まる」という事情がある。
無能な教師は、この「効果」に依存する。
で、私は、その無能なO崎教諭のターゲットになっていたわけなのだ。
たぶん、3年間で300発は殴られている。うん。いま思い出しても腹が立つ。
無論、私の側に問題がなかったわけではない。私は小生意気な生徒だったし、集中が持続できないタイプの子供でもあった。
が、時に私は、ほとんど言いがかりとしか思えない理由(「なんだその目付きは」とか)で、殴られてもいたのだ。
なぜそんなことが起きたのかというと、結局のところ私は「騒がしい教室をしずめるための犠牲の羊として」殴られていたということなのだ。
O崎教諭の立場に立ってみると、殴られ慣れていてたいしてダメージを受けないオダジマは、殴りやすい対象だったということだったのだと思う。
ということはつまり、O教諭が狙っていた「効果」は、「生徒の人間的成長」や「オダジマの道徳的覚醒」ではなくて、単に「たった5秒で、騒がしい教室に静寂をもたらすこと」だったということだ。
これは、「体罰の教育的効果」であろうか?
いや違う。「体罰による秩序回復効果」に過ぎない。
かくして、「効果」は嗜癖を生み、教師は体罰を濫用しはじめ、教室は恐怖を媒介とした表面的な秩序を手に入れる。おなじみのストーリーだ。
O崎教諭とて、新任の教諭だった時代の最初の授業からいきなり生徒を殴っていたのではないと思う。
ある時、何かのきっかけ(どうせ感情的な暴発だと思うが)で、体罰を使って、以来、その「効果」に嗜癖するようになったと、おそらくはそんななりゆきだったのだと思う。
為政者による恫喝を含んだ思想調査は、教師の体罰に似た効果を持っている。すなわち、上の立場の者が下位の人間に脅迫を加えれば、職場からは、ゆるんだ空気が一掃されて、緊張感と秩序が回復するということだ。
と、この「効果」は、慣性を獲得する。市役所は「より忠実な職員」を優遇し「より同調的な組合員」をリーダーに選ぶみたいな組織に向けて自動運動をはじめ、リーダーはリーダーで、「恫喝」の「効果」に嗜癖することになる。
ナチスの独裁においても、その初期には、蜜月の時代があった。すなわち、ワイマール体制のもとで停滞していた懸案事項や、古い体制に取り付いていた腐敗を一掃して、秩序と清潔という目に見える「効果」を顕現していた時期があったということだ。だからこそ彼らの党は、正当な選挙を通じて圧倒的な議席を獲得することができたのである。そうでなければ、あれだけの勢力を獲得することはできなかったはずだ。
卒業してから、クラス会などで会うと、O崎教諭は、いつも懐かしそうに話しかけてくる教師でもあった。
実際、彼の側に悪意はなかった。それどころか、本人の意識の中では、私は特別に目をかけて面倒を見た生徒ということになっている。だから、O崎の方は私が恨んでいるとはまったく思っていない。実に面倒な人だった。
ヒトラーにも悪気はなかったはずだ。彼は、自分の生まれ故郷を彼が「邪悪」であると信じている対象から守ろうとしただけなのだと思う。
もちろん、橋下市長にも悪意は無い。彼は、心から大阪を良くしようとしているのだと思う。
だからこそ、やっかいなのだ。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20120216/227276/?rank_n
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