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僕なんかでいいのかな、と思った。当事者、関係者、支援者。そして、この事件を調べている人は多い。本だって、100冊以上が出ている。1972年の連合赤軍事件だ。今年は、40年ということで、朝日新聞に原稿を頼まれた。それに僕は当時は〈敵〉だった。ひどい事件だと思ったし、信じられなかった。
連合赤軍の5人が「あさま山荘」に立てこもり警官隊と銃撃戦を演じた。40年前の2月だった。国民はテレビの前に釘づけになった。5人は逮捕されたが、その後、「査問・粛正」が発覚した。連合赤軍は内部の「リンチ」などで14名もの死者を出していた。陰惨な事件だ。これで日本の左翼は終わった。革命運動は終わった。そう思った。
「革命なんて考えるからだ」「ただの仲間殺しではないか」と言われた。それで断罪され、忘れられるかと思った。しかし、次々と本が出版されている。100冊以上になる。映画にもなった。漫画にもなっている。40年経っても、まだまだ謎なのだ、あの事件は。なぜ、あそこまで思いつめたのか。なぜ、敵ではなく、仲間を殺したのか。
40年前の事件が起きた時は、僕はよくわからなかった。警察やマスコミと同じ次元で批判していたと思う。又、仲間を殺す論理が分からなかった。山の中に閉じこもり、話し合う。闘いの方針を話し、そのうち、皆が「立派な兵士」にならなくては…と決意し、確認し合う。そこまでは分かる。左翼であれ、右翼であれ、そんなことはよくやる。そのうち、「自分はこの点が未熟だった」「これは失敗だった」と自己批判する者も出る。こんなこともよくある。
しかし、そこで終わらなかった。閉鎖的な状況だったからか。少ない仲間を、一人一人「立派な革命戦士」にしようと焦ったからなのか。肉体的暴力が加わった。初めは〈愛〉だったんだろう。立派な革命家になってもらいたい、共産主義化してほしいと思って殴った。相撲部屋の「かわいがり」のような気分だった。と、事件に加わった植垣康博さんは言っている。彼は逮捕されて、27年間、獄中で暮らし、今は静岡市でスナックを経営している。彼とはよく会って話を聞いている。「運動部のシゴキのようでもあった」と言う。
事件のリーダー・森恒夫は高校時代は剣道部で、主将だったという。ある時、激しい稽古の中で、森は気を失った。カツを入れられ、我に返った時、全く新しい自分になったような感じがした。「その時の体験が大きいと思います」と植垣さんは言う。しかし、人間は一発殴ったくらいでは失神しない。「援助総括」で、皆で殴る。そして、死んでしまった。初めは過失死だったかもしれないが、リンチはこれ以降も続く。そこで反省し、なぜそこでやめなかったのか。いやならなぜ、逃げ出さなかったのか。リーダーの森恒夫や永田洋子になぜ反対できなかったのか。
そんな謎に立ち向かうように、100冊以上の本が出た。これからも出るだろう。今年初めに朝日新聞の記者に言われた。「その100冊を鈴木さんは全部読んでるでしょう。その中から何冊かを取り上げて、連合赤軍事件について書いて下さいよ」。えっ、僕でいいのかよ、と思った。「外部の人の方が、客観的に見れるし、全体像がつかめるでしょうから」と言う。
朝日新聞(2月5日付)の「ニュースの本棚」だ。僕は100冊なんて、とても読んでない。しかし、かなり読んでるし、又、植垣さんを初め、関係者にもかなり会っている。だから、頑張って書いた。代表的な本としては3冊を挙げた。永田洋子の『十六の墓標』、植垣康博『兵士たちの連合赤軍』、パトリシア・スタインホフ『死へのイデオロギー 日本赤軍派』だ。そして本文の中でさらに何冊かの本を紹介した。
数年前、ロフトプラスワンで対談した時、植垣さんは言っていた。「この事件をどう理解していいか、皆、分からない。警察もマスコミも、裁判所もそうだ。だから、あの事件を、自分のわかるレベルに落として、理解したつもりになっている」と。
永田の「女性特有」の異常な性格のせいだ。森恒夫の「恐怖政治」で、他の人間はすくみあがったのだ。一種の集団ヒステリー状態だった…と。これは、連合赤軍事件を語るようで、実は〈自分〉を語っているのだ。あの事件は「踏み絵」でもある。
朝日の原稿を書くために、主要な本は、読み直した。今も読み直している。そして、今でも新たな発見がある。あの事件で死んだ大槻節子さんは、連合赤軍に参加し、山に登る前の日記を残している。それが本になっている。『連合赤軍女性兵士の日記 優しさをください』(彩流社)だ。立松和平が、〈「革命」を信じていた時代の若者たち!〉と本の帯に書き、「序にかえて」でこう書いている。
〈遠くまでいったのはまさしく連合赤軍に参加した人々であった。そのうちの一人が大槻節子だった。時代の列車から最後まで降りなかったからこそ、時代の極北まで駆け抜けたといえるのだ〉
そうか、列車から降りなかったのか。こんな列車には乗っていられないと、降りた人は沢山いたのに。それに、はっきりとした行く先も分からない。それでも「革命」を信じて乗っていったのだ。あまりにも真面目で、あまりにも考えすぎたからだろうか。
今、読み直して驚いたが、1970年11月の三島事件にふれて大槻さんは、こう書いていた。
〈三島の切腹、憂国の行動、まさしく彼らしき彼そのものの行動と死。うすっぺらな繁栄の、うすっぺらな安定の、地の影をまざまざと身によみがえらせる、暗うつなニュースだった。
美、美そのものの展開、そしてあまりに形而上学的な、観念的な感覚的な行為と死〉
〈彼は狂気ではなかったし、たんに狂信でもなかった。何ものかが彼をして意識的にそう高め(?)させた。と考えることは、私自身の内の“三島”なのだろうか。何かそう決めつけたくない〉
こんなことを感じていたのか。自分の中の“三島”だと言っている。とすれば、左翼だと思い、我々の「敵」だと思っていた人々の中にも、同じように衝撃を受け、内なる“三島”を感じた人は多いのだろう。他の連合赤軍関係者にも聞いてみよう。今月は、他にも『創』(3月号)に「連合赤軍40年」を書いた。又、『週刊金曜日』では植垣さんたちと座談会をやった。2月中旬には出るだろう。又、『田原総一朗の遺言』がDVDになって売られている。レンタルも出している。第1巻は「連合赤軍事件と永田洋子」だ。事件直後、田原さんが撮ったものだ。それが40年経って甦る。
連合赤軍を描いた山本直樹の漫画『レッド』は今も続いているし、今年はさらに、事件関連本が出るだろう。これは決して、終わった事件ではない。結果は陰惨なものに終わり、失敗したが、革命への愛や夢や理想はあった。少なくとも途中までは…。それが、どこから変わったのか。それは考える必要がある。又、革命運動の「プラス面」は全て忘れられ、「マイナス面」だけは受け継がれている。つまり、自分のことだけ声高に叫び、小さな違いも許さず、他人のあげ足をとるのだけがうまくなり、排外主義的で…。テレビの討論会だけでなく現代日本がそうだ。まさに、「連合赤軍化する日本」ではないか。連合赤軍事件は決して終わったのではない、今も続いているのだ。
http://www.magazine9.jp/kunio/120208/
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