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空気から読む、我が国のターニングポイント 日本の行く末を決する大善裁判長の決断
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2012年02月12日 世相を斬る あいば達也
日本を取巻く世界の情勢や趨勢・潮流。そして、日本が独自の抱える多くの課題を列挙するつもりはない。拙コラムの読者であれば、漠としたものであっても、何となく把握している前提で語ってみる。
今や政局前夜の様相を迎えているのに、何を呑気なことを言い出すのだと云う違和感を持つ方も多いだろうが、政局前夜と云うモノが、熱病のような副作用を持つことを、自らの肝に銘じる為と云う事である。自制し、冷静な観察眼を失わないための、クールダウンの一つだ。筆者は小沢一郎を支持するが、小沢一郎ただ一人の政治で、日本を完璧に正しい方向に導けると信じるほど敬虔な信者でもない。やはり理想的理念と現実的対処法は、常に何処かであい矛盾する事象が起きる事を許容するポジショニングで思考しようと思っている。
「国民の生活が第一」の政治理念にしても、如何なる国民を持って“国民”を指し示しているか、抽象的なひと言で済まされない問題がある。米倉も勝栄二郎も国民だからである。(笑)おそらく、既得権益構造と縁のない、多くの人々と云う事だろう。ところが、これが結構悩ましい問題を抱えている。国地方の公務員(警官、自衛隊、消防、教師等々も含む)、財界は国民とは言わないが、それを構成する社員は国民である。ゼネコンに連なる多くの土建建設業に従事する労働者も、選択に関係なく既得権益集団の中で生計を立てている。このように考えていくと、“国民”と云う括りの曖昧さが見えてくる。
「オキュパイ・ウォール街」ではないが、1%と99%との対立といっても、99%の中の半数は、1%の富裕層の事業によって生計を立てている。資本と労働の関係において、既得権益構造と関わりのない国民と云うのは、意外に少なくなる場合もある。筆者のように、国家利権から遠ざかった生き方をしていても、一定の範囲で企業とつき合う以上、権益構造からの益を得ていないわけではない。つまり、“風が吹けば桶屋が儲かる”の如く、回り回って利権構造のオコボレを享受している可能性は捨てきれない。
“国民”と云う言葉で簡単に政治の方向性の多義な面を簡単に語ったが、野田佳彦が大好きな“国益”と云う言葉等でも、同様の曖昧さと多義があると云う事である。プロパガンダ的意図を持たない限り、政治の理念や政策の方向性と云うもの、その曖昧さを常に包含している。マクロ経済の理論にせよ、一国の経済政策、金融政策にせよ、プラスマイナスの効果を差し引きしてみると、案外同じような結果に至る事もある。
このように考え出すと、禅問答のように際限がなくなる。政治理念にせよ、政策にせよ、それは一長一短であり、表裏一体な場合も多いと云う事だ。それなら、政治なんて誰がやっても同じではないか、と云う事になるのだが、共産党や公明党に全面的に政治を任せようと云う国民は少数だろう。此処に、思想や宗教に強く影響される政治への懸念が生まれる。これがきっと有権者が空気のように感じている「妥当性」なのだろう。理屈で説明がつかない空気なのだが、厳然と日本国民には存在するようだ。
ある人が日本人の社会に存在する“空気”は日本の言語に由来するのではないか、と言っていたが、結構当たっているかもしれない。筆者のコラムを英文に訳すと、3倍近い文字数が必要になる。漢字一文字と云う行事があるが、漢文の意味するところ、用法一つで幾通りにも解釈出来たり、一つの漢字、四つの漢字で、長文を省略する妙技が日本語には存在する。挙句に、漢字、平仮名、カタカナを駆使する事で、縦横無尽の言語空間を産む訳だから、まさに特異の世界である。日本が世界の中で特異存在になりがちな面には、この“空気”の存在を無視は出来ないだろう。
またまた横路に逸れたが、政治には「妥当性」が必要と云う事だ。筆者は、この妥当性に、「公正性」、「公平性」、そして最後に国民が持つ“空気”と調和する「正義」が必要なのだろうと思考する。小沢一郎にまつわるバッシングをどのように解釈するかも、やはり最後は国民の持つ“空気”と調和する公正公平、「正義」に合致するかどうかが決め手になるのだと思う。各政策でプラスかマイナスかは、結果的に大きく違わないものである。なにせ、同じパイの中で、一部要素を何処に移動するかの話であり、実は大同小異な事かもしれない。他人が儲かるか自分が儲かるかだ。(笑)実は日本人は、この比較優劣感情に弱いのだが、別の項で語ることにする。
直近の政治に近づいて、この政治課題を考えると、小沢一郎裁判の有罪無罪は、真実云々は別にして、「最後は国民の持つ”空気”と調和する公正公平、「正義」に合致するかどうかが決め手」に大きく影響する事になるだろう。マスメディアがどれ程騒ぎたてようが、無罪の判決を得るかどうかは、小沢一郎が内閣総理大臣として、次期リーダーの為に、革命的行政官僚制度の改革を成し遂げられるかどうかの瀬戸際である。仮に、有罪の判決が出た場合は、裏方に徹するだろうが、情勢は厳しいものになる。
それでも、筆者は個人的に小沢一郎の政治理念を支持しているので構わないが、日本がドラスティックに変貌する事はなくなるだろう。民主自民が連立を組もうと、みんなの党が連立に加わろうと、維新の会が躍進しようと、千路に乱れる政治が続くだけで、完璧な米国の属領となり、国民の富も4,50年ですべてを消失させることになるのだろう。これは、もう“運”としか言いようがない。そういう意味で、今度の小沢の裁判の行方は、日本の将来の行方を占う意味でも、意味深いものになる。
野田政権が何をしようとしても、もう興味を抱かない。彼らがやっている事は、霞が関官僚がやっている事と同義であり、責任の所在さえ皆無の政権に、公正も公平も正義の欠片も見つける事は出来ない。武士の情けすら知らない、恥知らずの弱い者いじめに徹する自民党等と云う政党にも、公正も公平も正義の欠片もないし、挙句に日本人の恥の文化さえ見失っている。このような自民党が何十年も政権を握っていたにも拘らず、よく国民は成長したものだ。政治的無知と無教養だが、勤勉だったのだろう。
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