http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/901.html
Tweet |
自殺対策に『GKB47』などというフレーズを考える人たちは、自殺で肉親を失った人の苦しみとは無縁のところにいる人々に違いない。
このフレーズを考えたのが行政だということは、行政が下界に住むしもじもの人間を見下していることの表れだ。
本来人の命に触れることは危険なことである。
意志の力だけで人間は動かせるものではない。
人間は意識の領域だけで生きているのではない。
そこには無限の広がりを持つ無意識の領域がある。
心の闇というのはその領域のことだ。
自殺はその心の闇に関係している。
それは簡単に人に触れられない領域であり、触れるときには細心の注意が必要なものである。
しかしこの『GKB47』にはその領域に土足で足を踏み入れた。
これは人気グループのAKB48をパロディー化したものだ。
自殺をパロディー化すれば人の尊厳は失われる。
しかも行政が上から目線でそれを行うということは、政府がそのことに正当性というお墨付きを与えたということだ。
自殺する人を『GKB47』としてパロディー化すれば、自殺者は浮かばれない。
自殺者救済どころか、これでは自殺者は世間の笑いものになるだろう。
人間は意識しだいでどうとでもなると考える人が増えているように、人間は行政しだいでどうとでもなると考える人もまた増えている。
その考え自体が尊大すぎるのだ。
人間観の貧困がこの国を覆っている。
だから『ゆとり教育』などの愚民化政策を行っても何も感じないのだろう。
自分を高いところに持ち上げて、そこから他人を見下すことを当然と考えている人が行政組織のなかで増えている。
新自由主義の横行はこの傾向に拍車をかけた。
自殺さえパロディー化する行政の感覚が子どもたちにどういう影響を与えるのか、そのことが心配だ。
日本の教育の失策も、行政を覆うこのような尊大さのなかに原因がある。
批判が強かったから撤回すればいいというものではない。
考えられないことが起こったということが重要である。
同じようなことは過去にも起こっているし、これからも起こるであろう。
今回のことで行政組織の間に何か変化が起こったという機運はない。
単に臭いものにフタをしたという感じだ。
臭いものの根は絶たれていない。
人間観の貧困がその根っこにある。
http://blog.goo.ne.jp/akiko_019/e/cc1a8aa5c1aee8cadd66a02b517c139c
この記事を読んだ人はこんな記事も読んでいます(表示まで20秒程度時間がかかります。)
▲このページのTOPへ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK125掲示板
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。