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科学的社会主義・日本共産党批判――マルクス主義の反人間(労働者)的・抑圧的本質を批判する。(その16)
http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/892.html
投稿者 Y. Kakasi 日時 2012 年 2 月 09 日 23:45:51: BW32mpuE76J86
 

 日本共産党の不破哲三社会科学研究所所長と、志位委員長のネット公開教室は、とてもわかりやすいので科学的社会主義・日本共産党批判をするのにとても役立ちます。今回は不破さんの第11回古典教室について考えてみます。まず是非講義を視聴してください。
http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/

 今回の内容は、エンゲルス『「フランスにおける階級闘争」への序文』の第2回です。要約にもあるように、エンゲルスの“遺言”となった『序文』(1895)は、マルクス主義政党として出発した「ドイツ社会民主党」(1890ドイツ社会主義労働者党から改名)が、ドイツ革命の見通しを誤らないようにという警告の文書となっています。つまり、普通選挙による多数派の形成は重要であるが、機が熟せば武装蜂起もありうることを述べています。

 当時のドイツ党指導部は、皇帝ヴィルヘルム2世の労働者保護政策に懐柔されたこともあり、武装蜂起の可能性を述べた『序文』の一部を削除して公表しました。エンゲルスにすれば、労働者の合法的な多数派獲得が進めば、権力側が追い詰められ合法性を破り、「公然たる攻撃を選ぶだろう」から準備を怠るなということでした。しかし、エンゲルス死後、ベルンシュタインが、マルクス主義の歴史決定論を批判するようになると「社会改良か、革命か」「武装蜂起か、議会主義か」ということが問題になり、ベルンシュタインは敗北します。(コメント欄で引用)
 
 ところで、不破さんが講義で言われるとおり、民主主義は多数を獲得することなので、「多数者革命」というのは正しいのです。しかし、問題はマルクス主義的革命に多数者の資格、つまり人間(労働者)の主体的自己解放、人間に特有の社会組織の主人、自然の主人、自分自身の主人(『空想から科学へ』)となれる可能性(資格)があるかということです。

 単に物質的生活向上や基本的人権の実現だけなら、資本主義の枠内での社会民主主義(改良主義)や福祉主義によってある程度可能です。しかし不破さんは、マルクス主義多数者革命(空想的共産主義)の立場から、強力を伴う「生産手段の社会化」を歴史的必然と考える理論を捨てません。 だから、不破さんは、ベルンシュタインを「マルクスは古くなったと言って一番右にひっくり返った」と批判します。マルクス主義者がプチブルと批判するベルンシュタイン主義(修正主義・社会改良主義)の評価については、科学的な検討(生活向上や中産階級の増大等の可否)を十分しないで、ロシア革命とマルクス主義の後継者としてのレーニンへの高い評価につながるのです。

 不破さんは、レーニンの『国家と革命(1917.8)』や十月革命後の一時期には、多数者革命不可能論(少数者革命論)というマルクスの読み違えによる理論的に誤った「荒れた時代」があったとしています。また、マルクスも言わなかった市場経済を導入した新経済政策(ネップ)や平和共存路線を評価し、レーニンによって不破理論を補強しています。しかし、レーニンが『国家と革命』で言いたかったのは、それらだけでなく、「国家の揚棄(廃絶)」や「プロレタリアートの独裁(執権)」「暴力革命の不可避性」です(コメント欄に引用)。
 これらを棄てると(「綱領」では極力抑制してありますが)、革命の過程で起こる少数者(反革命)の抵抗を抑えられないので、『序文』を継承し『国家と革命』を多少とも容認する不破さんの説明では、民主連合政府の成立はあり得ないでしょう。マルクス主義の創造的理解者であるなら、逸脱したロシア革命とその指導者レーニンへの評価よりも、帝国主義戦争前後に修正されてきた先進資本主義国家の利害調整機能や財政政策、改良主義や福祉国家政策についても触れるべきでしょう。

 前回まで述べてきたように、マルクス主義が反人間的・抑圧的理論であるということは、剰余価値説を表面的に理解しただけではわかりません。商品の等価交換法則によって、労働者の低賃金・劣悪な労働条件が、労働者(人間)の「必要労働」「再生産費用」であると歴史的に規定したところに問題があります。マルクスによると、階級的に規定された低賃金(再生産費用)は、等価交換だから「不正ではない」のです。しかし隠された搾取の不正を正すには、階級闘争の歴史的必然(唯物史観)によって、労働者階級が支配階級としての資本家を倒し、生産手段を社会化すれば、その支配組織である国家自体も死滅するというのです。

 ところが、現実に労働者の生活向上(人間的生活に必要な再生産費用の増大)に取り組んできた労働者や労働組合の活動家(政治家・革命家)からすれば、マルクス主義的・革命的社会主義の原則であった「生産手段の社会化」が実現しなくても、議会制民主主義を通じて労働者階級の生活向上と諸要求を実現する展望が見えてきました。「革命の時代」といわれる19世紀でしたが、資本主義の発展や普通選挙権も拡大し、労働者の生活や権利が拡大してきました。そのためドイツのベルンシュタインはエンゲルスの死後、マルクス主義を修正し、議会を通じて社会主義を実現するべきであると主張するようになりました。

 いったい「国家の揚棄(廃絶)」という想定は正しいのでしょうか、国家の役割が階級支配のためだけでないのは、生産手段の社会化と計画経済だけを考えても国家組織は必要になるので、共産主義で国家が廃絶されるというのは論理矛盾になるでしょう。国家(法)による調整を必要とする経済的政治的「利害」は、階級利害にとどまらず、地域的、集団的、個人的等の利害がありますし、また国家の行う徴税とその再分配が廃絶されることはあり得ないでしょう。さらに思想的には、反マルクス主義などを排除する必要があるでしょう。

 今回の講義の終わりには、フランスやイタリアの共産党にも触れられています。フランス共産党は、レジスタンスで活躍し国民の支持もあつかったのですが、ソ連の資金援助によって活動していたということもあり、ソ連崩壊後は実質的にマルクス主義を放棄したとされています。イタリア共産党は、早期にマルクス主義を放棄して「構造改革路線」をとり、右派のキリスト教民主党と「歴史的妥協」をはかって、共産党の名称も棄ててしまいました。

 そこで不破さんによれば、日本共産党は、ソ連依存ではなく「自主独立」の党であったからこそ、ソ連崩壊後も正しく「多数者革命」を継承発展させることができると強調します。そして日本に、民主連合政府による多数者革命が行われれば、人民の力・意志で、初めての新しい社会の仕組みをつくる変革が行われ、日本の国民はさらに進んだ変革に自信を持つようになる、と展望を語ります。

 さて不破さんの展望は、実現可能性があるのでしょうか。その展望をさらに追加の講義で、次の12回(2/7)に語られます。公開されるのを楽しみに待ちましょう。

 前回までは、表題<科学的社会主義・・・>を「★阿修羅♪検索」で検索してください。
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コメント
 
01. Y. Kakasi 2012年2月09日 23:49:58 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
●ドイツ社会民主党の理論家であったベルンシュタインは、イギリス亡命中にマルクスやエンゲルスとも親交がありました。エンゲルス死後、カント主義的立場から、科学的社会主義に対する批判を強めました。レーニンによって「背教者」とされたベルンシュタインの唱える社会主義は、イギリスやドイツにおける中産階級の増加を背景にして、科学的社会主義の歴史決定論を批判し、社会改良主義、修正主義を唱えて後の福祉国家主義への道を開いのです。
 日本共産党の綱領にある「資本主義時代の価値ある成果」の多くは、レーニン的社会主義の理念によってではなく、ベルンシュタイン的社会主義の理念によって北欧諸国を中心に実現されてきました。彼はマルクスを克服することはできませんでしたが、社会主義に人間の道徳と正義の理想が実現されることを求めていたのです。

 ベルンシュタインの『科学的社会主義はいかにして可能か 1901』からわかりやすい部分を引用しておきます。
 “労働者階級にとって民主主義を闘いとることの必要性を疑ったような人物は、ひとりもいない。なにが論争されたのかといえば、崩壊論がそれであり、また、ドイツの現在の経済的発展とその都市・農村労働者の成熟度とにかんがみて、突然の破局が社会民主党にとって好都合でありうるのかどうかという問いがそれである。私はこの問いに否定をもって答えてきたし、今なお否定をもって答える。なぜなら、私の考えでは、破局が生みたす可能性にくらべて、不断の前進のうちには、より大きな永続的成功の保証がひそんでいるからである。”(序文p9)

 “科学としての領域では、社会主義は理論の統一性を拡大する方向にではなく、逆に理論の壊滅に向かっているように見え、確信に代わって懐疑と放心とが社会主義の理論的代表者を捉えているかに思われる。・・・・・すなわち、社会主義と科学とのあいだには、そもそも内的関連が存在するのだろうか。科学的社会主義は可能なのであるか。そして――社会主義者として私はつぎの問いを追加するのたが――科学的社会主義はそもそも必要なのか。”(p304)

 “社会主義と科学との関係を論じるのである以上、まずわれわれは、社会主義という語のもとにそもそも何を理解する必要があるのかを明らかにしなければならず、そののち、つぎの問いに移ってゆくのでなければならない。いわく、科学的社会主義は可能であるか。そしてそれは、いかにしてであるか。”(p305)

 “社会主義にはつねに、ある理想主義的要素が混和している。つまり、それぞれそのものがこの理想であるか、それとも、このような理想に向かっての運動であるかのどちらかである。・・・・・それはあるべきものなのである。あるいは、あるべきものに向かって運動するものなのである。”(p306)

 “運動としての社会主義は、その最重要動機としての利害関心により導かれる。だが、ここではっきりと注意しておかなければならないが、この場合の利害関心とは、もっぱら個人的、ないしは経済的な自己関心と理解されてはならない。道徳的な(社会的に感受された)利害関心、理想主義的な利害関心というものも、やはり存在する。”(p307)(『社会主義の諸前提と社会民主主義の任務 1899』佐P昌盛訳 ダイヤモンド社 )

●レーニン『国家と革命』(宇高基輔訳 岩波文庫)
 “国家は「特殊な抑圧権力」である。エンゲルスの、このすばらしい、最高度に深遠な定義は、ここ[『反デューリング論』]では、このうえもなく明瞭にくだされている。ところが、この定義から出てくることは、ブルジョアジーがプロレタリアートを、ひとにぎりの富者が数百万の勤労者を「抑圧するための特殊権力」は、プロレタリアートがブルジョアジーを「抑圧するための特殊権力」(プロレタリアートの独裁)と交替しなければならない、ということである。「国家としての国家の揚棄」とは、まさにこのことなのである。社会の名においておこなわれる生産手段の掌握の「行為」とは、まさにこのことなのである。”(p31)

 “ブルジョア国家がプロレタリア国家(プロレタリアートの独裁)と「死滅」道を通じて交替するのことは不可能であり、それは、通常、暴力革命によってのみ可能である。エンゲルスが暴力革命にささげた賛辞は、マルクスのたびたびの言明にも完全に一致しているが、――(われわれは、暴力革命の不可避性を堂々と、公然と声明している『哲学の貧困』と『共産党宣言』との結語を思い出すし、またそれよりほとんど三〇年後の一八七五年の『ゴータ綱領批判』を思い出す。この『批判』では、マルクスは、この綱領の日和見主義を容赦なくむちうっている)――この賛辞は、けっして「はずみ」でもなければ、大言壮語でもなく、また論争上の脱線でもない。暴力革命にたいするこのような――まさにこのような――見解をもって大衆を系統的に教育する必要が、マルクスおよびエンゲルスの全学説の基礎にあるのだ。”(p36)


02. 2012年2月10日 00:24:11 : EVskgte9f6
JCPを擁護するわけでは有りませんが。

分業化の進んだ現在、調整役としての国家あるいは公務員の存在は否定できません。実際、JCPは民主党が言うところの議員定数削減には反対の立場です。

ここでkakasiさんに尋ねたいのですが。
かつてkakasiさんは市場における不等価交換という話をされていましたが、この点に限って言えばkakasiさんはマルクスを批判されていたように思います。一方、他の幾つかの点については、JCPがマルクスの主張を受け継いでいないと批判されている。

私にはkakasiさんが誰を批判するかはどうでもいいことなのですが、kakasiさんが何を最善としているかが判りません。もちろん、過去の論文を土台とした批判(=改善)でも充分です。ただ、そこでさえ未だにはっきりしないような気がするのです。

良かったら意見をお聞かせ下さい。
特に、等価交換あるいは道徳的な平等性が、極めて具体的に何を意味するかどうかについて意見をお聞かせいただければありがたいです。


03. Y. Kakasi 2012年2月11日 00:11:59 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
02)さん このような本質的なご意見(質問)をいただけることをうれしく思います。
 商品交換が、一般的に等価であるか、不等価であるかを規定することはできません(商業利潤、独占利潤は不等価的)。しかし経済学理論では、産業資本主義においては、等価交換が一般的に行われていることを前提としています。(『経済学辞典』で確認されることをおすすめします。)

 Kakasiたちは、少なくとも産業資本主義における剰余価値の搾取(労働者の低賃金)は、不等価交換であると考えています。だから、マルクスが「等価交換にもとづく剰余価値説」を理論化したからといって、決してマルクスだけを批判しているのではありません。等価交換は、ほとんどの経済学者が陥っている西洋思想的誤りだけれど、人間解放を唱えるマルクスが、人間性を含む労働力商品を低賃金と等価交換することは、論理的に、労働者から人間性(人間的生活と権利)を奪う理論(革命目的主義)になると批判しているのです。

 さらに今まで近代市民革命以後の民主主義の発展において、社会主義や福祉主義は、社会や国家による分配の公正・公平や基本的人権の保障を実現しようとしてきました。社会主義は、生産手段の社会化によって、労働に応じた公正・公平な分配をしよう、福祉主義は、基本的人権・最低生活の保障(セーフティネットとも)のために税金による分配をしよう、というものです。これらは「分配的正義」と言います。

 しかし私たちは、基本的人権を守ったり、公正・公平な所得を得ることは、生産手段の社会化(国有・公有)や国家的福祉政策だけでなく、人間と人間の交換関係(家族や地域、利益集団等を含む)にも、公正・公平の原理を実現していこうというものです。これは「交換的正義」と言います。

 「分配的正義」が、功利主義的損得勘定、合理主義的社会契約中心なのに対して、「交換的正義」は、家族関係のような情緒的関係から、組織の上下関係、労働力売買・評価・雇用関係、一般的商品交換等、すべての個別的人間関係を含みます。つまり、交換的正義では、愛情や信頼、互助や奉仕、公開や配慮、命令や服従、相互の共感的理解等の個別具体的な人間関係が重視され、主体的道徳的判断が行われます。分配的正義が客観的合理主義的なのに対して、交換的正義は主観的情緒的側面が重んじられます。

 交換的正義を重視することは、今まで学問的に軽視されてきた商品交換の不等価性(商業利潤、独占利潤、労働者搾取等)を透明にして、等価交換の欺瞞性を明らかにし、交換の公正・平等化を追求しようとするものです。それは同時に、マルクス主義の欺瞞性人間抑圧性を明らかにすることにもなります。それを一言で言えば、「交換契約の社会的責任をはたす」ことになり、さらに進めれば、近代の利己的自由・平等の個人主義から、「道徳的社会主義の実現をめざす」ということになります。

 机上の空論といわれればそれまでですが、言葉の創る理論や知識は、人間の心を捉えれば社会を変える力になります。不十分な答えですが参考になればありがたいです。


04. 母系社会 2012年2月11日 09:54:50 : Xfgr7Fh//h.LU : Fm7ffvNnyc

●例えば、Kakasiさんが外国人に、先の戦争で日本軍が自殺攻撃である特攻作戦
のような異常な戦術を行ったことを説明する場合には、戦前の日本がどのような
国家・社会であったのか説明しなければならないでしょう。

そのためには、戦前の日本ではファシストにより天皇は<生き神>とされ、
日本国民は<生き神>である天皇を自らの命を犠牲にしてでも守るように洗脳
されていたこと、それで日本軍は自殺戦法さえも正式な軍の戦術として採用したし、兵士も特攻を拒否すると家族が非国民と見なされて迫害されると考えて、
従わざるを得なかったなどと説明すると思います。

しかし、そのように説明したからといって、Kakasiさん自身が天皇は<生き神>
だと考えているわけではないのは明白です。とにかく、戦前の日本国民は、政府
の洗脳により天皇制ファシズムに取り込まれ、人間である天皇を<生き神>と思
わされていたという事実を説明し、なぜ、日本が特攻などという非常識な自殺
作戦が実行されたのか説明しただけでしょう。

マルクスは古典経済学な資本主義像の批判を通じて、自らの資本主義像を説明
したのであり、その説明で資本主義体制下の労働者は古典経済学が説明するよ
うな存在ではなく、労働力商品として、つまり人間が商品として扱われていると
理論的に提示したのです。

労働者は説明するまでもなく人間であり、商品であるわけがありませんから、
マルクスは資本主義では人間が商品として扱われていることを暴露したのであり、その不当性を告発したのです。

Kakasiさんのマルクス解釈は、Kakasiさんが戦前の日本を説明したことで、
Kakasi地震が天皇は<生き神>であると主張していると誤解するのと全く同じ
誤解であり、正反対の解釈=大誤解です。

正に、マルクスは資本主義の思想に取り込まれている人々は、天皇制ファシズム
思想に取り込まれた人々が天皇を神と見なしたように、労働者を労働力という
商品を所有する一種の資本家と見なし、資本を所有する資本家と対等な立場で、
労働力を商品として売買していると考えてしまうカラクリを明らかにしたのです。

労働力を商品と見なすことで、商品としての労働力提供の対価(賃金)は労働力
の再生産費となり、不当に安くされていると暴露したのであって、労働力を商品
として見なすことは正しいとか、それで良いとかと言っているのではなく、逆に、資本主義という経済システムは、労働者を商品に貶め、それにより労働者を搾取
する体制だと暴露したのです。

Kakasiさんは、自分が戦前の日本では、政府やマスゴミによる組織的・計画的な
洗脳により、天皇は<生き神>であると、多くの国民から見なされていたと説明
したことを、Kakasiさんは天皇は<生き神>であり、それは正しいと主張してい
ると非難されたら、誤解だ!と怒るでしょう?

●また、Kakasiさんは、マルクスが<労働>という言葉を、文脈毎に様々な
意味で使っていることを理解していません。

仮に、マルクスがKakasiさんのいうような労働至上主義者であるなら、「資本論」
でマルクスが、労働者の生業(生きるために仕方なくする労働)としての労働
時間の短縮と自由時間の拡大を何度も訴えているようなことはしなかったと思い
ます。

権力を掌握した各国のスターリニストにより、労働至上主義のような思想が流布
され、権力の維持に利用されてきたのは事実ですが、マルクス自身は、生業的な
労働時間は短縮することを何度も何度も訴えていました。

そして、将来的には生業としての労働から、広い意味での人間活動、つまり半ば
趣味でもあるような複数労働への転化=固定的な専門職をもたない状態=肉体労働と頭脳労働に分離された「分業」の廃止=を理想としていたのは、マルクスの(暫定的な)理想社会の構想からも明らかです。

ですから、マルクスを労働至上主義者のように考えるのは、とんでもない誤解であり、スターリニストの労働観を、そのままマルクスの労働観と誤解しているのではないかと思います。


05. 2012年2月11日 11:31:23 : qZQEQz3Uag
母系社会さんへ
あなたにケチをつけるつもりはありません。
私はあなたの説を補強したいのです。
私は左翼ですが、「スターリニスト」について理解できません。
マルクスはマルクス、エンゲルスはエンゲルス、レーニンはレーニン、スターリンはスターリンの感受性があると思います。
でもそのマルクスの感受性は、その上で、マルクスを必要とした周りの人の感受性に影響を受けている合作だと思います。
それは人間が社会的な動物だからです。
マルクスは上流階級の出です。
そのマルクスがドイツ出身の亡命した職人の必要性に応えて、自己の解放と労働者階級の経済的解放のための立場に立ちました。
「スターリニスト」はどんな諸関係を指しているのでしょうか。

06. Y. Kakasi 2012年2月11日 15:23:37 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
3)母系社会さん、コメントありがとうございます。
 母系社会さんは、正しくマルクスを理解されています。だからおそらく水掛け論にはならないでしょう。なぜなら誤解しているのは母系社会さんでもKakasiでもなく、西洋思想の限界の中で物事を考えてきたマルクスだからです。
 Kakasiたちは、マルクスとエンゲルスが、自らの社会主義理論を「科学的社会主義」と規定するのは、西洋思想的誤解であり、彼らの意図とは逆に人間抑圧の理論となっていると批判しています。
 おそらく母系社会さんは、社会主義を科学にしたといわれる「等価交換にもとづく剰余価値説」と「唯物史観」の認識論となる「人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定する」という公式を真理と考えられるのでしょう。しかし、Kakasiたちはこれがマルクスの誤りであると断じています。
 
 この説明は何度かしてきましたが、唯物史観の公式中の「人間の社会的存在がその意識を規定する」について付け加えておきます。それは、人間の意識が、単に社会的存在によって“ある程度”規定されることはあっても、人間の創造的意識が人間の存在や未来の活動を規定し、社会的存在を変革できる、ということです。簡単に言えば、人間存在における意識(理論・思想・知識=言葉で思考されるもの)を重視することです。

 ただ念のため、マルクスの『経・哲草稿』や『ドイツイデオロギー』『フォイエルバッハに関するテーゼ』等におけるマルクスの革命的意識や情熱を持ち出して、マルクスは革命的・階級的意識の役割の重要性を説いていると述べても、それは科学ではありません。
 マルクス主義者(と指導される労働者)は、社会主義が実現しない限り、いつまでも誤った理論(階級的意識)の呪縛を止揚できず、「プロレタリアートがプロレタリアートを止揚」できず、永続的に人間(自己自身)を不幸な抑圧された状態に束縛し続けることになるのです。

 母系社会さんの言われるとおり、マルクスが資本主義の不正やカラクリを明らかにしようとしたのはその通りです。しかし問題は、マルクスの弁証法的・合理主義的思考の方法が、西洋的限界内にあったということです。労働者が労働力商品として搾取されていることを解明するためには、古典派経済学から今日まで続いている、等価交換による商品交換理論――市民社会の自由で平等な自律的人間による社会契約論――の限界や欺瞞性(商品交換の非対称性、不等価性)こそ解明して、低賃金や劣悪な労働条件での交換が、いかに不等価で非人間的な交換であったかを示すべきだったのです。それは今日の格差社会にあってますます必要になっています。

 母系社会さんが、Kakasiが「大誤解」をしていると言われるのはよくわかります。現在の経済学の世界が「等価交換」を正しいとしていますし、唯物弁証法や認識論に至っては、現象学や科学的心理学においても百家争鳴の状態です。私たちは、今までの哲学や科学、経済学や政治学等の西洋学問の伝統(常識)を、できるだけ正確に理解した上で、「生命言語論」の立場から人類の知(科学)を革新しようとしています。
 いつ止めろと言われるかわかりませんが、共産党のネット教室が続き、小沢批判と検察擁護が続く限り、続けますのでまた建設的なコメントを期待しています。


07. 2012年2月11日 22:30:49 : EVskgte9f6
>>03
丁寧な返答、有難うございます。

kakasiさんの言われる不等価について私が質問させていただいた理由は、不等価というものの実態が明らかになるまでは、その改善も出来ないのではないかという考えからです。

市場における等価交換というのは需給のつりあいで達成されるもので、市場が機能する限り(定義的には)等価交換以外ありえない(と以前お伝えしたように思います)。つまり、kakasiさんの仰る

>商品交換が、一般的に等価であるか、不等価であるかを規定することはできません(商業利潤、独占利潤は不等価的)。しかし経済学理論では、産業資本主義においては、等価交換が一般的に行われていることを前提としています。(『経済学辞典』で確認されることをおすすめします。)

という主張は主客転倒のように思えるのです(等価交換とは市場の「中」で定義される)。

この主張を仮定して、それでは不等価交換とは何なのか。

実例としては、生産者の寡占化による供給力の集中化や、巨大資本による流通の制御など幾つか考えられます。これらのように具体化すれば個別に対応できると思うのですが、不等価交換という表現のままでは改善が困難ではないかと思います。だから、kakasiさんがおっしゃる『商品交換が、一般的に等価であるか、不等価であるかを規定することはできません(商業利潤、独占利潤は不等価的)』、という状態ではマルクス主義は兎も角、現行の市場の仕組みに対する批判としてkakasiさんの言われる事がどのような意味を持つのかが、私には理解しにくいのです。


その顕著な部分として、例えば、市場と市場原理主義との区分があります。

市場はそもそも物々交換の場であり、その利便性から自然発生したもので、等価交換というのは市場のあとから出たのだと私は思います(市場に貨幣が流通する以前から「搾取」に相当する行為はあったでしょう)。だから、市場に欠陥があるとしても、市場そのものの存在理由には肯定的なものが存在する、と、私は思います。また、道徳が普及し市場取引に何らかの変化が入れば、kakasiさんも市場は正常に機能していると判断できる状態になりうると思います。

一方、市場原理主義というのは需給バランスで価格が決定する(これを現代では等価交換と呼ぶわけですが)ことを最も妥当な仕組みとみなす思想をさす。ところが、これは、等価交換といいながらも実質は「需給均衡価格」と呼ぶべきもので、価値というのは個人の価値観によって異なるがゆえに、価値という言葉を国語辞典的に使うのであれば、等価交換は「ありえない」。そう思うのです。

ちょっと話は飛びますが、価値と同様に道徳も個人によって異なる。だから、そこを主軸に論理展開するのはなかなか難しいように思うのです(たぶん、kakasiさんはマルクスのような科学的なアプローチは非人間的と考えられていると思うのですが、科学的、すなわち第三者から検証可能な主張でなければ賛同も否定も不可能な状態になってしまうと思うのです)。


08. 2012年2月12日 10:56:11 : NyHjCf44pY
Y. Kakasi さま
 以下の主張について補強します。
「マルクス主義者(と指導される労働者)は、社会主義が実現しない限り、いつまでも誤った理論(階級的意識)の呪縛を止揚できず、「プロレタリアートがプロレタリアートを止揚」できず、永続的に人間(自己自身)を不幸な抑圧された状態に束縛し続けることになるのです。」

「マルクス主義者(と指導される労働者)は、社会主義が実現しない限り、いつまでも誤った理論(階級的意識)の呪縛を止揚できず」とありますが、これはユニークな社会観と思います。
 マルクスは社会を「総体」と言っています。
マルクスの社会観の発想には私たちの「同体」にちかいのがあります。
同体とは同じ筒の中のAとかBの関係のさまのことです。
これはシェリングからです。
 
 また「永続的に人間(自己自身)を不幸な抑圧された状態に束縛し続けることになるのです」は、同体の現象の変化のことです。
 同体の現象の変化はゲーテからです。
動物は節目をもつて生まれてきます。
植物は発芽してから節目をつくります。
同体の中での関係の変化で、同体の現象が変わります。
その関係の変化の端緒は発芽しての節目つくりです。

 母系社会さまが、マルクスの労働を「活動」としても把握されています。
その通りだと思います。
その活動が使えるのは節目ができた後の社会でのことになります。


09. Y. Kakasi 2012年2月12日 15:19:56 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
>>03 >>07 さん このような場で冷静な議論をしていただけるのをうれしく思います。なにせ表題はいささか論争的ですから・・・。
 さて
 「商品社会における価値交換は、そもそも等価なのか、不等価なのか?」
という問題は、自律した当事者がお互い納得して交換(等置)し、市場もそれを認めて均衡が取れているのだから、等価にしておこうというぐらいのことで、経済学者たち(マルクス経済学の人たちも)もあまり深く考えていないと思います。
>現行の市場の仕組みに対する批判としてkakasiさんの言われる事がどのような意味を持つのかが、私には理解しにくい。>
→という疑問は、マルクスの『資本論』が科学的運動法則を解明したとされていることへの批判のためです。一般的商品交換は、等価・不等価の基準を定められないけれど、労働力商品については多くの企業が、多くの労働者に対して不等価な交換によって利益を得ているということです。

 しかも労働力から得る利益(剰余価値)は、マルクスの言うように生産の過程であれば、等価交換だから「不正ではない」のです。しかしマルクスも認めるように、資本家は交換過程で知っていたのです。ということは、道徳的な立場からは、交換過程で搾取を前提に取引が行われているから、交換自体が不等価で欺瞞的なものである(交換過程搾取論)ことになります。さらに『資本論』が人間と人間労働を抑圧的(再生産費用の過少評価)に捉え、その抑圧性と歴史必然性が、共産党の独善性につながることは何度か述べたとおりです。

 この意味を、理解していただければ、ありがたいと思いますが、
>科学的、すなわち第三者から検証可能な主張でなければ賛同も否定も不可能な状態になってしまう。>
→と言われると、確かにその通りです。そこで、今まで単に商業利潤(安く買って高く売る)と独占利潤(独占的必需品を高く買わせる)と剰余価値(交換過程搾取論)の不等価性で説明しましたが、さらに商品交換の非対称性を「欺瞞性」として捉えてみます。

 商品A=商品Bにおける等価交換は検証可能か?
 A=Bが等価であるという限り、等価の基準は当事者相互の合意によります。市場もそれを認めれば市場の合意(需給の一致)、平均的な均衡価格として等価が決定します。近代経済学ではそうなります。
 しかしマルクスは労働価値説なので、検証抜きでこれを等価とします。交換の合意は人間の欲望や判断を越えたものと考えるからです。つまり、唯物史観の公式が適用され、一定の歴史的社会的状況では、A、B双方には同じ労働量が含まれているから「社会的存在が意識を規定」し、等価として交換されているということになります。

 実は、商品の価値を正確に計る基準などないので、等価と見なす近経もマル経も共に平均的なものにすぎません。だから最後に残された検証可能な方法は、当事者の価値評価の非対称性によります。つまり商品売買の当事者が、売り手と買い手で売買条件が違うのです。その条件はその商品の生産コスト(人件費、材料費、投下資本)、希少性、効用性、そして利潤(欲望・意欲・期待等)ですが、いずれも主観的部分があります。

 実はこの主観的部分の非対称性が、商売のおもしろさであり資本主義の活力源になっています。そして、この具体的非対称性における、等価・不等価の現実が、検証可能な経済活動なのです。平均的に均衡であったり、等置されることが等価を原因とするのではなく、価値が不等価であることが原因となって交換(等置A=B)が成立するのです。

 つまり、交換における具体的な非対称性=不等価性が、交換成立(A=B)の原因だから、これを不等価交換とするべきなのです。物事を科学的に見るためには、結果だけでなくその原因を正しく見る必要があるのです。結果としての等価は、必ずしも原因としての等価ではないのです。逆に、不等価であるからこそ等価という現象が生じるのです。

 長くなりました。社会現象の法則性を探求した天才学者たちに対する批判は、ほんとに難しいです。もともと検証できない理論を、検証によって批判するのは歴史の審判を待たねばならないのです。マルクス主義は歴史が検証しつつありますが、中国、北朝鮮、日本等はどうなるでしょう。次回に考えたいと思います。

08)さん コメントありがとうございます。
 シェリングについては勉強していないのでよくわかりません。同体はおもしろそうですね。調べてみます。


10. 2012年2月12日 22:51:14 : EVskgte9f6
>>09 丁寧な返答、ありがとうございます。

kakasiさんの仰ることは、おそらく「交換というものは、双方が得をすると信じた上で行われるものである」ということなのだと思います。

一例ですが、
海辺の住民が魚を取り、内陸の住人が野菜や果物を採って、互いに持ちよれば交換が成立します。人間にとって必要な食物で、かつ、それぞれの住民にとって欠乏しがちであるという状況だから交換が成立する。しかし、これらは物理的に見て異なる物体である。

このように交換というのは基本、それによって双方が得をするものだと思います。だから成立する。交換に参加する人々それぞれの立場に立てば、常に「不等価交換」であるし、そうでなければ交換は成立しない。

この例で重要なのは、不等価交換が、双方の生活の向上に寄与している点です。物理的に等価ではなく、交換の参加者それぞれにとっても等価ではない、そのような、いわば不等価な交換が参加者全員の利益になる。つまり、「成立する交換」というのは不等価交換なのだと思います。

いや、そうではない、交換全体を眺めて「交換の参加者が交換から受ける効用が全て等しい」(数値化できるという主張が無茶なのはわかっていますが、そこは御理解下さい)という意味で等価だ、と考えるとしても、それを判断するには神の様な能力が必要になります。従って等価かどうかの判断は今の人類には無理である。

ですので、私が思うに
・不等価交換の克服は不可能である
・不等価交換であっても交換の参加者全員が正の効用を受けることができる
・そのような不等価交換を促進する手段とは何かを考えるべきである
と考えたいのです。

また、人間は物理的な存在であるがゆえに、多少なりとも『科学的』視座から「人間における世の事物の効用関数」というものを見出していけると思いたいのです。この願いは私個人の「信仰」ではありますが、そうしていくことで、道徳や平等といった表現を、より検証可能なものに置き換えていけるのではないかと期待しております。


11. 一隅より 2012年2月12日 23:02:45 : PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA
Kakasiさん、皆さん。
どうも皆さんで、価値とか利潤とか使っている用語が同じものを指しているのかどうか私には分かりません。

そこで取りあえず以下ではごく日常的な用語で考えます。(それに貨幣〔であらわされた値段〕の存在も前提してしまいます。)
そうすると、こうなります。
  ↓
まずたとえば、「郊外でネギ1本50円で仕入れて、トラック・燃料の費用を50円かけて町中に運び、150円で売る。」
50円のもうけ。
この50円は誰のものか。

第二に、同じことを人を雇ってやらせたら、もうけの50円は誰のものか。


すみません、以上の質問をさせてください。

というのは、私にはどうも、Kakasiさんは問題の前半はマルクスと同じことを言っているのじゃないかと思われるからです。
そうすると上の質問の答えから、問題の後半でどの点からマルクスと異なってくるのか私に分かるのではないか。

あるいはそうではなくて、
そもそもの出発点からマルクスを(あるいは労働価値説を)批判する立場なのか。それはどんな立場なのか。
これも上の質問の答えから、うかがえるのではないか。

(質問はできるだけ狭く、「交換」と「儲け」の点だけにしました。お答えはもちろんもっと幅広く、主観、嗜好、意識などの点にまでわたることになるのかも知れませんが。)


12. 一隅より 2012年2月12日 23:16:29 : PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA
 ↑
追加

なお、マルクスの「資本論」は、マルクスの主張ではありません。
彼の、「(国民)経済学批判」です。
(「母系社会」さんも、そのような観点から述べられているのかとも思いますが。)


13. 母系社会 2012年2月13日 00:46:25 : Xfgr7Fh//h.LU : 1hDA8Wj5Nc
05さんへ

今一つ質問の意味がわかりませんが、「スターリニスト」の諸関係は、労働者とか、いわゆる小ブルジョアとか、固定的なものではないと思います。

もちろん、「スターリニスト」だから悪人とも思いません。

要するに、理論の問題だと思います。


14. Y. Kakasi 2012年2月13日 01:08:47 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
一隅さんの話(質問)は、わかりやすいです。Kakasiの話は、いつも難しくなるので反省しています。
 さて、質問に三を加えて、
一、商業利潤:安く買って、高く売る。
二、商業利潤:安く買って、安い費用(運送費+人件費)で、高く売る。
三、産業利潤:原材料と労働力を安く買い、大量に安く造って、高く売る。

一の儲けは本人のもの。
二の場合は、一に人件費の費用が加わるので儲けは50円にはならない。人件費を40円にすれば、10円の儲けが雇主に入る。
一と二では、マルクスとの違いはわからず、三ではじめてマルクスと異なります。三で、マルクスは、労働力を価値通りに等価で買い、価値以上に働かせます(剰余労働)。しかし、Kakasiは、上記のように労働力を価値以下で安く買うことが異なります。あとは人間の限界まで働かせ、技術革新で生産性を高め、利潤率を上げて、その儲けは資本家・経営者(・地主)で山分けをします。

 ここで労働価値説(等価交換という商品法則)をとるマルクスは、人間的生活の再生産ができない低賃金を、等価と見なして歴史的に合理化します。それを批判するKakasiは、労働者が人間的生活の再生産ができない不公正不当な低賃金で働かされるということになります。マルクスにとってはこの低賃金は、論理的には、革命による生産手段の社会化による以外改善されないのです。
 
 なお、Kakasiの価値説は、相対的主観価値説で、社会的価値(商品相場・市場価値・交換価値・平均価値・均衡価格)は、人間の主観的判断の材料になるけれども、主観を支配する絶対的固定的なものではない、というものです。
 また難しくなってしまいました。これはKakasiの能力の限界だけでなく、マルクスが弁証法の限界を理解できなかったことにもよるのです。

10)さん コメントありがとうございます。仕事の関係で次回に。晩安


15. Y. Kakasi 2012年2月13日 23:10:32 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
10)さん コメントありがとうございます。
 全体としてとても共感できる内容です。「人間における世の事物の効用関数」は面白い発想なので、具体的内容を知りたいものです。

>>10 kakasiさんの仰ることは、おそらく「交換というものは、双方が得をすると信じた上で行われるものである」>
→というのは、若干違います。これは取引関係の微妙なところですが、交換はwin win の関係ばかりとは限りません。資本主義的企業活動では、利己的利益の追求が、結果として相互の利益になると考えます。しかし、商売では「損して得取る」という言葉があるように、投機的要素が強い場合、損を覚悟で大儲けをねらうことも多く、理想通り行くとは限らないのです。だから「信じた上で」というのは、「信じるものは損をする」ということにもなりかねません。ただ近江商人の「三方よし」は、営業(商道徳)の基本だと思います。

>交換に参加する人々それぞれの立場に立てば、常に「不等価交換」であるし、そうでなければ交換は成立しない。>
→これは同じ意見です。一般的な経済学のように、交換が成立したのだから、結果として等価と言えるというのは「欺瞞」を生じる根源です。私利の追求を無くすことは難しいですが、経済学のように「欺瞞」に盲目になるのは無責任だと思います。商品交換における欺瞞性を減らすには、「相互の情報の共有」「情報の透明化」が必要条件になるのではないでしょうか。

>不等価交換であっても交換の参加者全員が正の効用を受けることができる。>
→というのは、Kakasiたちの「道徳的社会主義」も、そのような社会をめざしているような気がします。


16. 一隅より 2012年2月13日 23:23:52 : PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA
>>14、Kakasiさん

>「一、二、商業利潤・・・、三、産業利潤・・・」のところ。

ネギだと商業利潤になってしまうので、産業=たとえば「歯ブラシ」製造業にします。
数字も設定しなおして、「工場・機械などに(歯ブラシ1本あたり)50円、原材料・燃料に50円、人を雇って人件費に50円、で200円で売る」、とします。
これについて、3点述べます。

1.
安く買って高く売る、とは、何に比べて安くか、何に比べて高くか。
かけた元手にくらべて高く売る、(=あるいは売値にくらべて安く仕入れてつくる)、ではトートロジーです。
今は、かけた元手と売値との「差額」を問題にしているのですから。

創意工夫あるいは才覚をはたらかせて(たとえば最新の機械設備を導入して)他の同業者よりも安く買ったり高く売ったりということはあるでしょう。
しかし、それではまだ答えになりません。
その場合には、才覚のある者は多く儲け、そうでない者は少なく儲けるかも知れないが、それでも平均的な製造者には平均的な儲けがあるのですから。

この、(時代遅れで、一定期間のあいだに結局やがては潰れてしまう企業は別として、取りあえずは)「誰にでも多かれ少なかれはある、儲け」が問題なのです.
「安く買って高く売る」では、この「差額=儲け」がどこから来るかは、相変わらず説明されていません。

2.
Kakasiさんのいう通り、ネギの例で、「(仕入れ値、輸送費を支払ったあと、さらに)人件費を40円にすれば、10円の儲けが雇主に入り」、ます。
しかしこの40円と10円の線引きはどうしますか。どこに引きますか。
人件費(賃金分)が30円で儲けが20円、あるいは45円と5円というふうにはならないのですか。

なお40円と10円は、たとえば労働運動・組合活動で、41円と9円になったりはします。
また、労働力の需給関係で、41円と9円や、39円と11円になったりはします。
しかし、そのもとになるそもそもの「大まかな」線引きは、何を基準にされますか。

あるいは質問の仕方をかえれば、こうです。
歯ブラシ工場で、工場主は人件費ふくめて150円の元手をかけてつくった歯ブラシを200円で売り、その200円を受け取ります。
この200円は、な・ぜ・工・場・主・が(あるいは会社が、株主が)受け取るのですか。

なおマルクスだったら、この200円は歯ブラシをつくった者が(工場の労働者その他すべて歯ブラシをつくるにあずかった者が)、すべて受け取ってもよいということにもなります。
(もちろんその場合でもすべてを自分らで消費するわけにはいかず、社会の維持管理に必要な費用と、適度な拡大再生産に振り向ける分とは、控除しなければなりませんが。)


以上の1、2はおそらくは、Kakasiさんとマルクスとが、はじめから違うところです。
私には(相変わらずKakasiさんの説明が理解できないのか)、Kakasiさんの説明ではまだ不足で、1、「儲けがどこから来て」、2、「それを資本家とそのほかの者とがどういう基準でどう分けるのか」、は説明されていないと思います。

3.
最後は、おそらくKakasiさんとマルクスとは同じなのに、Kakasiさんがマルクスについて独特の見方をしているために難しくなっているのではないか、と私には思われる点です。

>労働価値説(等価交換という商品法則)をとるマルクスは、人間的生活の再生産ができない低賃金を、等価と見なして歴史的に合理化します。それを批判するKakasiは・・・
のところです。
「母系社会」さんも言っていると思いますが、マルクスは資本論で、労働価値説を基本に資本主義社会を説明してみせただけ、商品法則原理によればこうなると分析してみせただけで、べつにそれを「合理化」してはいないのではないでしょうか。

マルクスとKakasiさんと同じところというのは、そのような社会は不公平不公正に満ち満ちていると考えるところです。
ただ(マルクスは他では大いに、あるいは資本論でチクチクとは言っていますが)、「資本論」ではそれが中心の問題とはなっていないだけです。
「資本論」の副題が、「政治的経済学批判」となっているのは、その意味ではないでしょうか。


もしそうだとすると(Kakasiさんとマルクスとは同じ前提に立ってもいるのだとすると)、これから論ずるべきは、こうです。

「儲けをどのように皆で分けるか、その分配基準」、
「そのように皆で分けることのできる社会にどうやってするか、その方法は」、(なお、いわゆる資本家がとつぜん良心にめざめ、公平公正な分配ができるようになるということはないでしょう。それどころか今や資本は無人格化しつつある〔=株式持ち合いや、大銀行支配など〕のですから。〕

さらに、
「議会、選挙、政党民主主義の方法で上のことが実現できるか」、(資本家を従わせ公平公正に分配するための体制・法制をつくる?)

そして最後に、(これがおそらく最大の問題として残されることになるであろうが)、
「(皆でつくり産み出したものを皆で分けるときに)、社会の維持管理に必要な費用と適度な拡大再生産に振り向ける分とをどう控除し、それを誰が管理し、それをどのようにして最も適当に拡大再生産に振り向け、皆のため社会をますます豊かにしていくのか」、というその方法(と可能性)の問題です。
(そんなことのできる可能性はない、というならそもそも話は別です。)

なおこのことは資本論には書いてありません。だから資本論は、「分析・解明」なのであって、マルクスの主張では少しもないのです。


Kakasiさんが3の問題をどう考えるか、大いに知りたいです。

しかしそうすると、今はあまりに先へ進みすぎてしまうことになるかも知れません。
それはまだもう少し後のことと、期待して待っています。
その前に、1、2について、どう説明されるのか、も引き続き疑問としてあります。


17. 一隅より 2012年2月13日 23:58:53 : PnbUj1IYwR18o : ErQdBkXZLA
 ↑
追加

なお、念のため、>マルクスの『経・哲草稿』や『ドイツイデオロギー』『フォイエルバッハに関するテーゼ』等におけるマルクスの革命的意識や情熱を持ち出して・・・も(>>06)、
もちろん、「それは科学ではありません」。

マルクスの政治的主張は、「共産党宣言」その他でされています。
資本論では少しもされていません。

ただ、資本の集中、利潤率逓減、過剰生産の必然を説明しています。
(それは違う、そうではないというのなら、そう「科学的に」批判すればよいのです。)
またその原因が、社会の生産が複数の私的資本の個々別々・無連絡な資本投入行動からなっているためであること、がいわれます。

さらにそのコントロール不能のため社会的生産力の無駄遣いがあり、人類社会にとってマイナスであること、がわかるように書かれています。
たとえばその余剰生産力の解消のため、ときどきの不況・大失業と、戦争とが必要であること、などです。

マルクスの革命的意識や情熱は、他でと同様に資本論の背後にもあるにはあるだろうが、とりあえず論ずるには全く出てこない、不必要なものになっています。


18. 2012年2月14日 11:11:26 : Xyg7Ljbe76
Kakasiさん

あなたがたの「科学」とはなにを指すのか。
マルクスの言うところの「科学」とは?
説明が不足していますよ。


19. 母系社会 2012年2月14日 14:18:51 : Xfgr7Fh//h.LU : 7TCYLiF82U
18さん

その通りですね。

マルクスは、「ドイツイデオロギー」で、科学者や物理学者を
批判していますね。

マルクスが言う科学とは、我々が常識的な意味で使う科学という
言葉とは、意味が違いますね。

マルクスは、「矛盾律」を認めない弁証法の立場ですから、
「矛盾律」を根本的な原理として認めている大半の科学者とは、
根本的に立場が違うのですね。

Kakasiさんの唯物史観の理解も、根本的に間違っています。

日本共産党のマルクス主義は、ソ連で捏造されたスターリン主義的
なマルクス解釈がベースになっているので、ダメなのです。

是非、広松渉訳の「ドイツイデオロギー」(岩波文庫版)を読んで
もらいたいですね。

そこには、Kakasiさんが想像しているマルクスとは、
全く違うマルクスがいます。


20. 2012年2月14日 21:26:41 : EVskgte9f6
>>19 母系社会さん。

ごめんなさい、ちょっと教えてください。

>マルクスは、「矛盾律」を認めない弁証法の立場ですから、
>「矛盾律」を根本的な原理として認めている大半の科学者とは、
>根本的に立場が違うのですね。

矛盾律は、一部の数学や論理学では成り立つでしょうが、社会問題を扱う場合には必ずしも成り立つとは思えないのです。

一例ですが、自己参照可能な(つまり回帰的な参照が可能な)言語においては、否定・肯定を厳密に判断不可能な文章を書くことができます(ゲーデルが示したように)。数学でさえ、実数の濃度概念(つまり無限大にも大小関係がある)など、未だに厳密に考察し切れていないと思われるものが残っています。

ですので、矛盾律を認めるかどうかが科学的態度にとって根本的だとは中々思えないのです。もっと言えば、「単純な事柄に対しては矛盾律を肯定するが、複雑なことになると矛盾律を肯定しきれなくなる」、というのが殆どの人の立場ではないかと思います。

ですので、kakasi さんの言われる「科学的」と、マルクスが考えていた(と推察される)「科学的」の違いがどれほどなのか、同時に、どれほど重要性があるのかが、どうもはっきりしないのです。


21. 2012年2月14日 22:01:30 : C37tvx5KWo
>>20
母系社会さんとは違う角度から口を挿みます。
≫ですので、kakasi さんの言われる「科学的」と、マルクスが考えていた(と推察される)「科学的」の違いがどれほどなのか、同時に、どれほど重要性があるのかが、どうもはっきりしないのです。

●「違いがどれほどなのか」
今風の言葉にするとマルクスは潜在意識とか意識下を感じていた。
大脳に通す前のプロセスを「思考」の対象にしていた。
「対象」にかんして説明すると、現在意識が家の窓と想定をする。
潜在意識とその外にある空間をつないでいるのが窓、つまり意識なの。
この意識は、冬は水分などで窓が曇り、夏は日差しで窓が屈折する。
マルクスは水分での曇や光での屈折などの現象を感受性と呼んでいる。

●「どれほど重要性があるのか」
例えば「真理」の問題は、マルクスにとってみれば極めて実践的な課題なんだ。
それは、対象と感受性の合作になるからなんだ。


22. 2012年2月14日 22:46:03 : EVskgte9f6
>>21 さん。コメント有難うございます。
ちょっとここは投稿から脱線させて、気軽に書かせていただくことにしますが、ご了承下さい。

ちょっと「科学的」視座という話からは外れますが。

>潜在意識とその外にある空間をつないでいるのが窓、つまり意識なの。

意識が窓に相当するとマルクスは考えていた、という意見ですね。
彼がそう思っていたとしたら、ちょっと意外です。というのも、私は逆じゃないかと思っているからです。意識が一番深層にあり、無意識と呼ばれるものは外界からの刺激をフィルターする、あるいは、前加工して象徴化する働きを持っているのではないかと考えています(これは、意識という行為は最も深いところで行われるという、一般的な仮説です)。


>例えば「真理」の問題は、マルクスにとってみれば極めて実践的な課題なんだ。
>それは、対象と感受性の合作になるからなんだ。

仰るとおり、マルクスは現実社会の問題を生々しく感じていただろう思います。その意味で『実践的な課題なんだ』という意見に同感です。
ただ、他の方が仰っていたように、「資本論」のような分析の過程においてはマルクスの感受性は殆ど表に出てきません。私は、そのような、感受性を抑制した姿勢において、マルクスの科学的視座が認識されるのではないかと思うのです(マルクスの比類なき情熱に関しては疑いを持ちませんが)。

その上で、矛盾律の前提が、投稿の中でどのような位置を占めるのかが知りたいのです。例えば、マルクスの解釈において重要である、とか、現代の市場における問題点の認識において重要である、といったような意味で。


23. Y. Kakasi 2012年2月15日 00:45:41 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
● 一隅より さんのコメントはわかりやすいので、Kakasiの頭も良く整理されます。
1.について
>「安く買って高く売る」では、この「差額=儲け」がどこから来るかは、相変わらず説明されていません。>
→について。マルクスにとって「商品はきわめて気むずかしい物」と見え、「交換が商品の価値の大いさを規制するのではなく、逆に、商品の価値の大いさがその交換比率を規制する」(『資本論』第1章三・B・一)とされます。しかし、マルクスが。このように転倒した見方をしてしまうのは、弁証法的唯物論と労働価値説の偏見に歪められているからです。

 商品交換の事実において商品が気むずかしく見えるのは、商品を扱う当事者(商人・資本家・営業担当)が、「買いと売り」(交換過程)によって「商品の価値の大いさ」に、差をつけよう(儲け競争に勝とう)とするからなのです。この「買いと売り」における非対称性(不等価性)は、一当事者の頭の中で起こるばかりではなく、交換当事者間でも起こります。

 つまり、「郊外でネギ1本50円で仕入れて、トラック・燃料の費用を50円かけて町中に運び、150円で売る。」業者は、仕入れ(買い)50円、費用(買い)50円と算盤をはじいて、売りには50円を加えて150円とし、その差額を儲けとするのです。これを買った消費者は、ちょっと高いけど「味噌ごま」にすればおいしい!得した、ということになります(逆もあります、売れなくて腐った。買ってもおいしくなかった)。

 だから、商品所有者(a)が、買い(コスト=仕入れ50円+運送費等50円)に、儲け50円を加えて150円で売りに出し(供給)、貨幣所有者(b)が150円で買う(需要)という交換が成立すれば、(a)に50円の儲けが生じます。このとき(a)の儲け50円は、(a)の売りから(b)の買いという交換を通じて、(b)の所得から(a)に「移動」したことになります。

2.について
>そ[儲けですね]のもとになるそもそもの「大まかな」線引きは、何を基準にされますか。>
→について、儲けの「大まかな」線引きは、2段階になります。まず@主観的な基準としては、商品所有者(a)の頭の中で、ネギを商品とする費用(100円)と、良品なので100円の儲けにして200円で売れるだろうと考えます。(b)さんも、安くておいしいネギを買いたいと考えています。しかし、A客観的な基準として、当日の市場相場(歴史的社会的制約あり)をみると150円だったので、結局妥協して150円にすると(b)さんが買ってくれた。つまり、@売り手の思惑とA市場の相場が売買の「大まかな」基準になります。

 この際重要なのは、社会的交換価値として市場で商品価格が決まるけれども、もし(a)が、ネギに工夫を凝らして、新鮮野菜とレシピの包装をすれば、価値を加えた(費用もかかるが)商品として、200円商品を市場が認め、新たな商品価格と儲けの基準が成立することになります。つまり、資本主義的競争市場では、常に商品価格が需給で均衡しつつも、新商品の出現(効用と営利の追求)によって均衡価格(基準)そのものが変動しているのです。

>こ[ハブラシ価格]の200円は、な・ぜ・工・場・主・が(あるいは会社が、株主が)受け取るのですか。>
→については、工場の従業員の賃金は、原材料費等々と同じように商品製造のコストにすぎないからです。コストの初期費用は資本家が投資し、経営者(工場主)が生産販売計画を立て、工場、原材料、労働力を買って、その労働者を使用することによってハブラシを製造します。すべては企業(工場)経営者と資本(投資)家の収益になり、その収益に労働者による剰余価値が含まれます。

 ここで企業の利潤の多くは、Kakasiによれば、交換過程(労働者=人間の労働力の売買における非対称性=不等価交換)において、高い(多い・大きい)価値を持つ労働者の労働力を、企業は安く買って劣悪な労働条件で働かせます。マルクスによれば、労働者の労働力を価値通りに買い、生産過程で不払労働(剰余労働)として搾取します。Kakasi は不等価・低賃金の<支払労働分>と考えるし、マルクスは公正な等価で買った労働力の<不払労働分>と考えます。マルクスでは、人間の交換関係から道徳性を排除し、唯物史観に人間(労働者)を従えようとする人間抑圧の本質があります。

 以前(その12)に引用した『賃金・価格および利潤』から、その一部を再度引用します。マルクス主義の本質がよくわかります。
 「賃金制度を基礎としながら、平等な報酬、それどころか公正な報酬さえ要求することは、奴隷制を基礎としながら自由を要求するのと同じである。諸君がなにを正当ないし公正と考えようと、問題外である。一定の生産制度のもとではなにが必然で不可避なのかが、問題なのである。」(『賃金、価格、利潤』全集16 p130)

3.について
>Kakasiさんがマルクスについて独特の見方をしているために難しくなっているのではないか、> 
→について。たしかにマルクスについて「独特の見方」をしています。Kakasiたちのこの独特の見方が、マルクスの「労働解放=人間抑圧の弁証法理論」から、労働者と人間を救い解放するのです。

 マルクスは、上で引用したように『資本論』で、「交換が商品の価値の大いさを規制する(regulieren)のではなく、逆に、商品の価値の大いさがその交換比率を規制する」としました。Kakasiからみると、この転倒した理論は、交換という人間関係を、商品という物的関係によって規定します。だから、社会的に規定された労働価値説による交換価値が、交換における売買基準を規定することになります。

 1,で説明したように、商品交換における利潤は、@主観的価値の非対称性(売りと買いの力関係、両者の条件の違い)とA市場の需給関係による価格相場によって、「価値の移動」として決まります。だから産業利潤の場合も同じように、@とAの相互関係があって、労働力商品の価値より低い賃金として、労働者から資本家に価値が移動し、また原材料と生産商品の売買においても価値の移動があるのです(安く買って安く造って、高く大量に売る)。マルクスが解明したような、@、Aを規制する等価交換法則や労働者の抑圧的再生産費用が、労働者の低賃金・不払労働と資本家の利潤を規制するのではありません。

 マルクスは、「労働力の価値[労賃]は,その所有者の維持のために必要なる生活手段の価値[再生産費用]である。」と規定していますが、この低賃金の水準に対して、「公正な報酬さえ要求することは、奴隷制を基礎としながら自由を要求するのと同じである。」(上記)と主張するのです。今日(Kakasi)から見れば、これほど人間抑圧的・非道徳的暴言はないと思うのですがどうでしょうか。
 これ以上は、→http://www.eonet.ne.jp/~human-being/sub4.html
(4)剰余価値説について を参照してください。

 長く難しくなってしまいました。この難しさは、Kakasiたちの「独特の見方」が原因なのではなく、むしろマルクス主義の転倒した弁証法的な「独特の見方」が難しくしていると思われませんか? マルクスの資本の弁証法のように労働が主語になるよりも、人間の利己心(利己的利潤欲求)が主語になった方が、利潤追求の事実をわかりやすくすると思われませんか? 人間(労働者)の価値や公正・正義を求める心は、歴史や社会の変化で変わると思われますか? 生産力が十分に発展すれば、「人間は完全に意識して自己の歴史を作りうる」(『空想から科学へ』)と断定できるでしょうか?

 Kakasiは、自称マルクス主義者を観察していて、レーニンや毛沢東だけでなく身近な人たちについて、歴史的制約があるとは言え、彼らマルクス主義の描く未来社会が、空想的なばかりでなく、人間の進歩と人権・幸福の追求にとって有害に思えてなりません。最近では、小沢氏に対する検察・司法の恣意的な権力行使を擁護するなど、マルクス主義者のご都合主義的な反道徳的活動の典型ではないかと思うのです。

少々愚痴を述べてしまいました。
>「儲けをどのように皆で分けるか、その分配基準」>
→については、次回のコメントで考えてみます。
コメントが増えていますが、またの機会に・・・・再見 晩安


24. 2012年2月15日 12:14:36 : OTTz7QEtUs
Kakasiくん 一人がんばっとるな

科学的とは、検証しながら
冷静に理論を組み立てることだが、
たまに皮肉を交えて
カッカする事も必要だぜ。

マルクスは労働者の解放を目指して
いつもカッカしていたな。
まさにユダヤの預言者だよ。

でも世の中、階級対立ばかりじゃないからな
コイズムやハシズムのように無理やり対立を作って
拍手喝采を得ようとするやつらもいる。
検察やマスメディアのように悪人を仕立てて
正義ぶるやつもいる。ウヨサヨいろいろいるからな。

世の中変えようと思ったら、もっと燃えなきゃ。
覚悟はあるのかね。
単純なやつらにマルクスの呪文はしぶといぞ。
古いとか、死んだとかいろいろあるが
まだあちこちで生きているようだ。

もと無政府主義者のオレとしては、
応援のエールを送っとこう。孟子の言葉だ。
「自らにかえりみて縮《なお》ければ、
千万人といえども、われ往かん」

かっこいいいね、ひゅーひゅー。


25. 2012年2月16日 10:43:29 : fjs4Ekag5g
>>22
「ただ、他の方が仰っていたように、「資本論」のような分析の過程においてはマルクスの感受性は殆ど表に出てきません。私は、そのような、感受性を抑制した姿勢において、マルクスの科学的視座が認識されるのではないかと思うのです(マルクスの比類なき情熱に関しては疑いを持ちませんが)。」

私は『資本論』に「マルクスの感受性」がよく表に出ていると思いますよ。
「資本論」は若いマルクスの「交通形態そのものの生産」、つまり「生産関係の生産」にかんして述べていると、認識しております。
マルクスの特長は「隙間」を発見することです。
『経済学・哲学草稿』には「動物は、その生命活動と隙間なく一体化している」との趣旨が記しめされています。
反対に、人間は生命活動を感性的要求や感性的意識の対象とするとあります。
このようにマルクスは人間本人自身の日常生活での隙間、自然と社会の隙間、そして社会の隙間を発見しました。
社会の隙間が見れるマルクスの『資本論』には、個々の人間の感受性の違いから出発し、要求と行動の現象の違いなどが、お金に関係することで、その違いが「解消」され、個々の人間が、人間一般としてなんとなく普通の人間になっていくさまも記されています。
ですからマルクスにとってみれば「理論」ではなく、極めて実践的な課題です。


26. 2012年2月16日 22:12:38 : EVskgte9f6
>>25 さんの言われることも尤もだと思います。

言葉遊びにしないことを心がけつつ言うのですが、
理論とは現象を説明するものです。現象と乖離したものではない。
工学にみられるように、実践的な理論は沢山存在する。
というか、実践的でない理論というのは、むしろ少ない。

ここであえて言うなら、
マルクスの現象学的アプローチは工学的かも知れません。
科学的と言うより。


27. Y. Kakasi 2012年2月17日 00:37:17 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
いろんなコメントをいただきました。課題は多いようです。
とにかく一隅よりさんの質問に答えます。
>「儲けをどのように皆で分けるか、その分配基準」>
→については、Kakasiたちの考える「道徳的社会主義」においての分配でしょうか。その前提で考えてみますが、一応すでに一隅よりさんの要請で(その14)に提案してみました。その特徴は、「分配的正義」の実現だけでなく、「交換的正義」を重視するということです。
(その14)http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/266.html

 この中で、Eにある「私有財産の廃止」の説明が不十分なのは否めません。「私有財産と財産相続」に関して追加する必要があります。そこでFを加えておきます。
 F 個人の労働によって得られた、生涯生活を支えるための蓄財は奨励される。私有財産は、強度の累進相続税によって社会に還元される。
(説明不十分ですが、家族の絆や伝統継続には物質的保証が必要です。)

 その上で、まず社会主義や分配的正義の基準として、「財産への強度な相続税」と「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」という原則が前提になります。問題になるのは、市場的・常識的基準を定める場合に、能力差、労働量、業績評価等で、公正・公平な「分配基準」をどのようにするかです。

 分配基準は、国家・社会による「分配的正義」の実現と考えると、強制を伴う法的制度で行われます。修正資本主義または社民主義では「生産手段の社会化(国有)」が一部行われていますが、効率性・生産性の面で問題があり、民営化路線との間で対立があります。定着しているのは、最低賃金法等の労働法制、累進税制、生活保護法等福祉法制による再分配ですが、反社会主義からの反対意見も根強いのです。
 企業社会内での儲け(利潤)の分配については、資本家への配当、役員への報酬・賞与、労働者への賃金・賞与がありますが、生産手段(企業)自体を社会化し「労働者自主管理」の形態で、貨幣・物資・生産計画等の透明化ができれば、何億円もの法外な報酬はなくなるでしょう。道徳的社会主義にとっては、分配的正義の実現と連帯そのものが目的となります。だから、自己実現や達成感によって労働意欲や活力そのものが向上し、悪平等批判の根拠はなくなります。

 次に、「交換的正義」は、交換の不等価性を積極的に自覚し、実質的な対等の条件の上で、相互の利益(win win)をめざします。つまり交換的正義は、交換における相手の立場への配慮、私利と他利の統一による公益の実現をめざします。分配的正義は、社会的強制を伴い個人からは消極的にみえますが、交換的正義は人間関係において積極的道徳的意味を持ちます。交換的正義は、利己的動機(欲望)をもちながらも、相手への道徳的心情(公正・思いやり・共助)が伴うため、相互の満足を産み出します。
 「交換的正義」は、商品交換すなわち不等価交換による「儲け」「価値の移動」を問題にします。問題になる商品交換は、独占商品、労働力商品、詐欺的不当商品があります。しかしこれらも、20世紀に入って、マルクスの時代には考えられなかった、独占禁止法や労働者保護法などの「改良」が進んでいます。道徳的社会主義によって、商品交換の不等価性が、個人と個人、個人と組織の交換関係の透明化によって、さらに実質的な等価に近づくでしょう。そうすれば分配の基準の必要性も低下します。経営者の報酬が、労働の量と質において不等価とされるからです。

 なお、競争は、利己心を駆り立て意志や意欲を高め、活力を生みますが、何のための競争かを選択すれば、一律に否定すべきことではありません。つまり、競争には道徳的なものもあれば、利己的排他的で非道徳的なものもあります。企業組織の構成員を管理・支配し、利己的利益を追求のための手段とするような競争は否定されますが、職人や芸術家、スポーツや芸能で自己の能力を向上させ、社会に貢献するような競争は奨励されるでしょう。

>「議会、選挙、政党民主主義の方法で上のことが実現できるか」、(資本家を従わせ公平公正に分配するための体制・法制をつくる?)
→もちろん、道徳的社会主義は、様々の対立的な利害や考えをもった市民たちの、議論を尽くした多数決の民主主義を通じて実現できるものです。人間が、この地上に持続可能な福祉社会を建設するには、情念的な暴力的闘争よりも、納得できる議論と相互理解が必要です。
 また、そのような社会の管理と利害の調整には、道徳的・知的に訓練され、民衆に奉仕し支持される公務員・教育者と、正義と公正を求める市民の社会参加とボランティアが必要です。(その12)でも取り上げたように国際標準化機構では、「社会的責任」という概念を、世界のあらゆる組織に標準化(ISO/SR26000)しようとしています。このような試みが、個人の次元でも「社会的正義」として標準化していけば、道徳的社会主義の実現も夢ではないでしょう。
(その12)→http://www.asyura2.com/11/senkyo124/msg/298.html

長くなりました。十分な検討はしていませんが、今後の課題にしていきたいと思っています。貴重な質問をありがとうございました。


28. 2012年2月17日 09:50:31 : KQT6QsOAqk
>>26さん
「 ここであえて言うなら、
マルクスの現象学的アプローチは工学的かも知れません。
科学的と言うより。」

私も「工学的」に賛同します。
マルクスは、育った3人の娘に、亡命先のロンドンでフランス語、デッサン、声楽学の家庭教師を付けたんだよ。
これを見ると、マルクスの「学問」や「知識」とや「科学」と言うのは、「工学的」すなわち実用的なものと推測できるんだ。

マルクスの字面はどうかしらないが、彼の感受性は日常生活からある程度のことは分かるよ。


29. 母系社会 2012年2月18日 10:51:24 : Xfgr7Fh//h.LU : qK7RWUwpKQ
>>20さんへ

私は広松渉のファンでしかないので、既に読まれているかもしれませんが、
広松を読むことをお勧めします。

広松の歴史的相対主義を支持しますので、以下の断定調の文は全て「ではないか」と読み替えて頂きたいと思います。

>矛盾律は、一部の数学や論理学では成り立つでしょうが、
>社会問題を扱う場合には必ずしも成り立つとは思えないのです。

その通りだと私も思います。

>一例ですが、自己参照可能な(つまり回帰的な参照が可能な)言語においては、
>否定・肯定を厳密に判断不可能な文章を書くことができます(ゲーデルが示した
>ように)。数学でさえ、実数の濃度概念(つまり無限大にも大小関係がある)>>ど、未だに厳密に考察し切れていないと思われるものが残っています。

まず、この「否定・肯定を厳密に判断不可能な文章を書くことができます(ゲーデルが示したように)。」という文の意味が、今一つ良くわかりませんが、言語の多義性などで判断不可能という意味なら、その通りだと思います。

数学は全く苦手で、ゲーデルが数学も完全な学問ではないことを証明したという定理は良くはわかりませんが、どうもやはり矛盾を否定し、「同時」とかの「同一性」を認める矛盾律=形式論理学の弱点が現れた問題のようで、もしそうなら、当然の事態だと思います。矛盾律を支持する人は数学が前提とする矛盾律にまで遡って吟味し、弁証法を見直してもらいたいと思います。

数学を現実世界に適用する場合は、通常は対象を通時的にではなく、共時的に捉えるということで、共時というのは現実にはありませんから、「近似」であると自覚することが必要だと思います。

数学は、現実的有効性を最も重視し、通時的にはせいぜい数十年ぐらいの期間での
対象の変化を捉えれば良い<技術>では問題はありませんが、数百年、数千年、
あるいは数万年以上のレベルで対象を捉え、普遍性を求める<学問>で使用する場合は、少なくとも通時的な位相での対象像を前提として、自覚的に使用する必要があります。

あるいは、対象が数とか量という単位で捉えられる限定された分野=位相では使えるとも言えますし、一部の数学は変化を捉えるものもありますので、そうした数学なら、学問でも使えると思います。


>矛盾律を認めるかどうかが科学的態度にとって根本的だとは中々思えないのです。

 
私は、矛盾律を否定することが科学=学問=にとって根本的だと思います。

科学について触れるには前提があるので、まずこの前提を確認したいと思います。
20さんは区別して使用していると思いますが、まずは科学理論と科学技術は、
基本的には異なる知の体系ということ、そしてこの「科学的態度」の科学とは科学理論の意味だと思います。

弁証法の立場は、対象を、まずは歴史的に、通時的に見るということだと思います。

しかし、通時的な姿の解明だけでは不十分な場合は、通時的姿を前提にして、仮想的に対象の静止した姿=共時的な姿を考察するなら良いのですが、その場合は弁証法は適用できませんから、数学などの形式論理学の手法を「近似」として利用する場合もあると思います。

しかし、静止した姿を本来の姿と考えると、それが既に、常に、歴史的に媒介された姿であることが見失われます。ですから、学問=科学理論では歴史的に対象を見ることが第一次的に優先します。

機械などの場合なら、せいぜい数十年機能すれば良いので、<技術知>は共時的な知であり、対象の機能性そのものが重要です。通時的な姿=対象の歴史的な有り方とか、それが何であるかなどということは、せいぜい、既知の<技術知>では問題の解決が不可能な場合だけ、その限定された分野だけでしか問題になりませんし、それで良いわけです。

スターリン主義は、物心二元論を克服していませんので、唯物史観は人間界、そして自然弁証法は自然界と二元論的に分離しますが、一元的な唯物史観は単なる人間界の歴史観ではなく、人間界と自然界を総合したもので、エンゲルスが書いた自然弁証法の「量から質への転化」などの三法則は、論理学と存在論・認識論を総合した唯物史観というマルクス・エンゲルスの哲学的世界観を表したものであり、科学技術的な方法論ではないと広松は言います。

ところが、スターリン主義は、あの三法則を科学技術的方法論というような狭い解釈をしたので、実際のソ連の科学技術の現場でも、あの三法則よりも、むしろ、数学の方が有効ということから、マルクス主義はソ連でも、かなり早い段階で単なるお題目のようなものと見なされることになり、ソ連崩壊以前に、ソ連ではマルクス主義は既に崩壊してしまっていたのではないかと思います。

>もっと言えば、「単純な事柄に対しては矛盾律を肯定するが、複雑なことになる>と矛盾律を肯定しきれなくなる」、というのが殆どの人の立場ではないかと思い>ます。

おそらく、AはあくまでもAであり、「Aは非Aではない」というような矛盾律の
ものの見方は、我々人類誕生以来のものの見方であり、我々の言語体系もこれに基づく実体主義より形成されていますから、誰もが日常的意識では実体主義者だと思います。

それで、「複雑なことになると矛盾律を肯定しきれなくなる」というのはその通りであり、矛盾というようなことを考える場合は、何か解決し難い問題に突き当たった時の反省的意識状態でないと考えませんから、様々な顔を持つ複雑な対象を考える場合は、案外多くの人々が無意識的に矛盾したものとして捉えていると思います。

>ですので、kakasi さんの言われる「科学的」と、マルクスが考えていた(と推>察される)「科学的」の違いがどれほどなのか、同時に、どれほど重要性がある>のかが、どうもはっきりしないのです。

ご存知かもしれませんが、広松はもともとは物理学徒でしたので、哲学だけでなく、科学の動向にも詳しかったし、科学論など、科学に関する著作もしています。

そもそも、彼の根本的な認識論は理論物理学の研究で得たものだそうで、それを
「資本論」の「価値形態論」に見出して驚いたらしいのですが、面白い見方をして
いますので紹介します。

というのは、極最近、相対性理論が見直される可能性もでてきたらしいのですが、
広松によれば、相対性理論や量子力学理論は100年前の理論ですが、実はそれ以来、科学は大して進歩していないのであり、この100年は科学が停滞した時代だと言うのです。

その理由は、この100年間、相対性理論や量子力学理論に匹敵する大理論を人類
は獲得していないからだと言います。

そして、一見、科学はこの100年で大進歩したように見えるが、実は単に物理学
以外の諸科学が、物理学の成果を取り入れて、諸科学の物理学化が進んだに過ぎないというのです。

科学の中の科学といえば、やはり物理学であり、物理学の中でも理論物理学、特に
量子力学などのミクロ世界の研究分野が物理学の中心です。そこでは、確かに大理論は生まれていませんから、停滞していたと言えるのかもしれません。とにかく、広松によると停滞しているのであり、その原因は我々の時代のパラダイムである実体主義にあると言うのです。

そして、この停滞を打ち破るには、関係主義=非実体主義、因果律から弁証法的な
相互作用論への移行、つまり、広松が真のマルクス主義とする関係主義的マルクス
主義に基づく新科学が必要というのが広松の見立てです。

そして、確かに、量子力学では、原因→結果という因果律は放棄され、かつては因果論的な論証のために使われた数学は、観察したものを単に記述するだけに限定して使われるようになりつつあるようですし、一方で現代思想は、構造主義やソシュール言語論のように、非実体主義的・関係主義的な方向へとどんどん進んでいますし、科学哲学自体がヘーゲルやマルクスの理論を後追いしている状態です。

科学は宗教だけでなく、哲学も形而上学として切り捨ててきた面がありますが、人間の意識は人間の関係性を実践的に自覚化したものですから、誤認もありますが、全くの思弁などというものはあり得ないのであり、どんな言説でも部分的には正しい面もあるわけです。

哲学も宗教も現実世界での経験から思考していたのであり、逆に、実証性、論理的合理性を誇ってきた科学にも、「自然の斉一性原理」のような実証不可能な原理もあるわけで、正にそうした科学の驕りが、科学の停滞を招いている感があります。

*ゲーデルが示したことと同様の問題は、数学を活用しない学問にもあり、科学=
学問自体の限界性を示している深刻な問題だと思います。

あらゆる言説(理論・定義・命題・日常会話)にはそれ自体では論証はもちろん、
言及さえもされていない何らかの前提があり、その前提が正しければという条件付であるわけですね。

そして、その言説の前提を遡ってゆくと、最終的には何らかの原理や根本的世界観=パラダイム的世界観(近代の機械論的自然観)があるわけですが、その原理や根本的世界観も、一応説明することはできますが、やはりこれも無前提ではないので、厳密な論証も実証もできないものです。それを確信している個々人にとっては<真理>ですが、実は歴史的、文化社会的制限に制約されながら、我々が共同主観的に確信している共通認識、立場的判断、悪くいえば独断論的判断でしかないわけですね。

そして、大小様々な独断論的パラダイムは非論理的に、革命的に変化し続けるので
あれば、学問は前進するとは限らず、むしろ、歴史的事実としては、ギリシャ時代の知が中世西欧時代には失われていたように、後退したこともあるわけですね。

また、観察や再現実験は重要ですが、しかし、所詮は帰納法的証明方法ですから、理論の信憑性は増加しますが、厳密な意味で実証したことにはなりません。ということはパラダイムに遡って吟味しても、厳密な意味での論証、実証は不可能ということになります。

つまり、どんな天才も歴史という壁に囲まれた「井の中の蛙」に過ぎないのであり、マルクスの唯物史観のように歴史的相対主義の立場が正しいということになると思います。

矛盾律を肯定すると、最終的には自力で自己同一性を保つ、まるで絶対神のような不変的客観がどこかにあり、人間は、いつか客観そのものの認識は無理としても、その近似ぐらいには到達できるという考え方の方になります。カントはそのようなもの(物自体)は認識不可能と言いましたが、認識不可能なのではなく、もともと、そのような存在は無いのだと思います。

もちろん、無いと言っても、全く存在しないという意味ではなく、我々の世界では
不変的・固定的な姿を持たないので、そのもの自体は認識しようがないという意味
です。

というのは、確かに唯物論が示すように、私以外にも他者は存在しますし、人間以外にも、非人間的存在であるモノも存在しますが、しかし、全ては一瞬の休み無く変化し続けているようなものであり、もともとそれらには<本来の姿>のようなものは無いか、あるいは既に失われ、今存在しているのはそれの変成態でしかなく、しかも我々が認識できるのは、それらと人間との関係性でしかないと思うからです。


*この関係性の総体が唯物史観の「下部構造」であり、その内の自覚化・意識化された関係性の総体が「上部構造」です。


30. 2012年2月18日 15:09:05 : EVskgte9f6
>>28 母系社会さん
丁寧なコメント有難うございます。とても興味深いです。

 矛盾律の重要性については、たぶん、母系社会さんと表現の仕方が異なるものの、自分も近い捕らえ方をしているように思います。
 母系社会さんが仰る通り、矛盾律を成りたたせるために現実世界の現象を極端に単純化するのは本末転倒です(まさに科学の『驕り』だと思います)。一方で科学の発展は、理論・技術の矛盾を指摘し解決すること、つまり矛盾律を「成り立たせようと努力してきた」結果と見ることができると思います。この視点から見ると、(kakasiさんも母系社会さんも私も含め)多くの人は非常に近い立場ではないのかと思うのです(それは、矛盾律「原理」主義ではないという姿勢をとる点で)。

 以下、気軽に雑談モードで。

 ゲーデルの不完全性定理ですが、多義性とはちょっと違いますが、矛盾律を証明できないという意味で母系社会さんの解釈で合っています。
 形式論理学において、ある種の言語(の空間)では命題の真偽を完全に決定できないという話だったかな。例えば、文章A:「Aは間違っている」というAについて考えると、Aは正しくも間違ってもいない。つまり、not(A and not(A))≠Φ(空集合) になるから矛盾律が成り立たない、という説明でなんとなく判っていただけるかと思います。

 数学は理想化された論理体型と思われることが多いのですが、厳密でない部分もあります。純粋な理論体系を持つ整数論は数学の女王と呼ばれます。一方、他の分野、特に応用数学は必ずしも厳密な理論とは限らないかと思います。
 あと、数学は共時性だけでなく通時性も扱います。時間を変数にとる関数表現が代表例です。他にも、空間ー時間領域を変換したラプラス変換(もしくはフーリエ変換)などでは時間があたかも空間のように扱われます。特に、自動車やロボットで使われる近代的なフィードバック機構はラプラス変換の所産といって良いかと思います。また、実用化される数は殆どありませんが、汎関数は、所謂、変数関係そのものを変容させることが可能ではあります。

 弁証法はさておき、実体主義ではなく関係主義が科学発展に大切だという広松氏の主張は興味深いです。一度読んでみようと思います。


31. 2012年2月18日 15:10:12 : EVskgte9f6
ごめんなさい、上記 30 は
× >>28 母系社会さん
>>29 母系社会さん
です。

32. 2012年2月18日 15:12:51 : EVskgte9f6
さらに訂正。
× not(A and not(A))≠Φ(空集合)
○ not(A and not(A))≠全集合≠Φ(空集合) あるいは ≠ T ≠ F

33. 母系社会 2012年2月22日 15:54:00 : Xfgr7Fh//h.LU : 3zNDTqdYXU
●私の数学の知識は、正直に言えば中学レベル以下なので、さっぱり
わかりませんが(笑)、数学にも変化を本格的に扱う理論があることは
聞いていました。可能であれば、数学の変化を扱う理論を、中学生ぐら
いでも理解できるように、説明してもらえるとありがたいのですが(笑)

●広松がマルクスの基本的な立場と考える「歴史的相対主義」とは、
<断定しない>ということ、自分の意見は<暫定的意見>として、
「ではないか」として提示するということです。

なぜなら、マルクスは、間違いなく、未来の世代はマルクスの意見を修正
することを知っていたからです。

マルクスは「ドイツイデオロギー」で、「私の環境に対する私の関係が
私の意識である」と述べていますので、この言葉を唯物史観に当てはめ
ると「私の環境に対する私の関係」が「下部構造」で、この「私の関係」
を意識化したものが「上部構造」ということになると思います。

また、マルクスは初期の「経済哲学草稿」の頃から、物心二元論を克服
して、一元的に世界を説明することを目指していて、人間界と自然界と
は分離できないほど統合されていることを様々な書で述べています。

ですから、この「環境」は、経済というような狭い範囲だけでなく、
人間を取り巻く「全環境」の意味で、要するに「人間化された自然界」
と「自然化された人間界」の全存在と人間との関係、つまり、人間の
関係性の総体のことです。

そして、全存在は常に生成流転しているので、関係性も生成流転するし、
それに伴い意識も生成流転するので、未来の世代はマルクスの歴史的制約
を帯びた思想を間違いなく修正・止揚します。

(とは言え、社会と家族=特に母親と子供の関係のような変化しそう
もない関係性もありますが)

どんな天才の思考も、その時点での過去の総括で、未来は蓋然性として
しか語ることはできません。ですから、予め、修正されることを前提
として、人類の意識史の一部として語るということ、意識的に暫定的
なものとして語るというのが、弁証法の立場であり、歴史的相対主義
の立場です。

●実は、元々は「三浦つとむ」のファンでしたので、三浦と広松から学
んだことが混合しているかもしれませんし、広松哲学を、私自身が勝手
に解釈している部分もあるかもしれませんから、変だなと思ったら広松
の著作で確認してください。

広松派の学者の中で科学関係の学者には、科学哲学が専門の野家啓一
(東北大)がいて、この人は日本哲学会の会長ですが、ちくま学芸文庫
で「科学の解釈学」という本をだしています。

●とにかく広松渉という人は、間違いなく世界でも第一級の学者であり、
その厳密なな思考力は日本人離れしていて、他に類がありませんし、
その博識ぶりにはただ驚くしかありません。他に似た人をあげるとする
と、おそらく吉本隆明ぐらいでしょう。

広松のマルクス解釈とアルチュセールの構造主義的マルクス主義は、
後期マルクスを真のマルクスと解釈し、関係主義の立場に立つ点が
非常に良くにていますが、広松に言わせると、アルチュセールは
関係主義=非実体主義に徹しきれていないようです。

また、「三浦つとむ」は、社会科学系は関係主義=非実体主義、自然
科学系は実体主義という立場なので、我々の常識に最も近い立場で
マルクスを解釈していると思います。

やはり、広松のマルクス解釈の独自性は、マルクスは自然界も関係主義
=非実体主義の立場で考察していたと考え、関係主義=非実体主義を
自然科学の分野にも拡張した点です。

ここがマルクス支持派の内部でも賛否が大きく分かれる点で、広松は
自然物も非実体的存在と考えることから、俗流唯物論者から観念論者
という批判を浴びています。

また、広松は、たとえば広松の目の前にコップがある場合、「何かしら
あるもの」が、用材的な「コップ」として、「誰かしらあるもの」
である「広松」に現象していると、四肢構造で認識を考えます。

一見するとカント哲学の「物自体」の不可知論と似ているので、カント
主義者という批判も浴びていますが、これは前にも書きましたが誤解
です。カントの物自体は実体ですから特定の不変的な姿形があるのです
が認識不可能なもので、広松の「物自体」は生成流転の相にあるものな
ので、モノなら「何かしらあるもの」とか、人なら「誰かしらあるもの」
としか表現できないわけです。

(今、反原発運動で再び注目を集めている柄谷行人の「マルクスその
可能性の中心」は、広松のマルクス解釈と非常に良く似ていますので、
どこが同じで、どこが異なるのか、明らかにしてもらいたいです。)

●私たちは、都内で月一回、哲学や倫理学の勉強会を開催してますが、
この勉強会の講師をしている哲学の専門家(大学教師)によると、欧米
ではマルクス・ルネッサンスと呼ばれているようなマルクス主義の復活
現象が起きているのは確からしいです。

しかし、西欧では、広松説に良く似た構造主義的マルクス主義派は、残念
ながら、現時点では主流派とはなっていないようで、その大半は、分析的
マルクス主義派や数理マルクス経済学のような矛盾律を肯定する実体主義
の立場からのマルクス理論の再解釈運動なのだそうで、労働価値説まで
放棄したマルクス派もいるそうです。

ですから、間違った投下労働価値説的な労働価値説であれ、労働価値説や
弁証法的な発想法は維持しているスターリン主義派よりも、もっと後退
=俗流化したグループが現在の欧米の主流派マルクス主義らしいので、
今ではスターリン主義派も貴重な存在です(笑)

しかし、ゲシュタルト心理学から発達した心理学やカオス理論、システム
論などいわゆる複雑系などの従来の機械論的自然観・要素主義的世界観
とは異なる世界観に基づく学問が台頭してきていますが、これは、パラ
ダイムが実体主義的、因果論的パラダイムから、非実体主義=関係主義的
、相互作用論的パラダイムへと革命的な移行過程にあることを示唆・反映
しているのかもしれません。

しかし、欧米で分析的マルクス主義が主流化するような事態は、マルクスの
矛盾という概念・意味が、通常の意味の矛盾とは異なるので、マルクス理論
は誤解されやすいのだと思います。


34. 2012年2月23日 10:16:32 : 9Tkb4xTsZw
>>33 母系社会さん
質問です。
「スターリン主義派」とか「スターリニス」とは、どんな政治勢力を指しているのですか。
どのような政治実践、政治主張、政治組織をしているのですか。
人格はだれなのでしょうか。
わたしには、よくわからないのです。

35. 母系社会 2012年2月23日 18:26:10 : Xfgr7Fh//h.LU : ExKyqwgSlw
34さんへ

ロシア革命を起こしたレーニンやトロツキーなどの指導部の共通認識は、ロシア一国だけでは社会主義を建設することは到底不可能であり、ドイツやフランスなどの当時の先進国でもロシアに続いて革命が起こると予想し、そうした有力な国々との相互協力により、ロシア一国ではなく、ECのような国際的な社会主義体制の一部としてロシアを社会主義化しようとしていたのです。

ところが、ご存知のように、他の国の革命運動は全て失敗して革命が起きたのはロシアだけでした。それどころか、日本も含めてアメリカやイギリス、フランスなどが軍を派遣して、ロシア国内での反革命軍との内戦に介入して妨害したわけです。

かろうじて、外国軍に打ち勝ち、内戦にも勝利したのですが、天災も重なり内戦で国内経済は大混乱に陥ったまま孤立してしまいました。

そこで、内戦時代の軍事共産主義と呼ばれている軍事優先の経済体制を止めて、市場経済も部分的に認める混合経済への転換を行う新経済政策を実行したのです。

この新しい政策をレーニンやトロツキーらが実行した理由には、当面の混乱した国内経済を立て直すという現実的な意図だけでなく、ロシア一国では社会主義化は不可能という理論的判断もあったと思います。

というのは、マルクスも「ドイツ・イデオロギー」で既に「世界同時革命」を主張していたように、マルクスの時代ですら、経済は国際化・世界化されていたのですから、単に政治制度の革命だけでなく、経済体制の革命まで行う社会主義革命が成功するには、「世界同時革命」、少なくとも現在の西欧諸国や日本、中国などが同時的に、一斉に新経済体制に移行して、社会主義勢力が世界経済・世界政治を主導する状態でなければ、不可能なのは明らかだからです。

ところが、レーニンが死ぬと、スターリン派は一国でも社会主義化は可能だと唱えて、トロツキーなどの古参幹部を全員を殺害・追放し、新経済政策も止めてしまい、ロシア独特の指令経済体制をつくり、政治的には個人独裁体制を造り上げました。

残念なことに、ロシア以外の社会主義派の大多数は、ロシア国内の情況がわからず、また、スターリン派の巧みな情報操作や理論的な欠陥もあり、スターリンを支持して、トロツキーを敵視してしまいました。

実は、死ぬ直前のレーニンは、スターリンの粗暴な性格を危惧して、トロツキーを後継者にしようとしたのですが、トロツキーは、スターリンが古参幹部を排除しようとしているとは考えずに、事態の深刻さをまだ理解していなかったこともあり、自分がユダヤ系ロシア人であることから、ユダヤ人への差別意識が強く残るロシアの最高指導者になると、革命派全体に余計な負担を負わせることになることを心配して、レーニンの申し出を断ってしまったのです。

それで、スターリンが指導者となり、他の影響力のある古参幹部は、全員、陰謀により殺害・追放・沈黙させてしまったので、スターリンは理論問題まで左右するようになり、ソ連で公式のマルクス理論の解説書がつくられた際に、スターリンが解釈するマルクス理論がソ連公認のマルクス理論となったのですが、そうしてできた理論を基本的に受け入れ、また、トロツキーが追放された後のソ連を、ほぼ無条件的に支持していた時の各国の左派は、「スターリン主義派」と呼んで良いと思います。ですから、最後までソ連を無条件的に支持していたフランス共産党やアメリカ共産党などは、「スターリン主義派」そのものでしょう。

しかし、その他の党は、ご存知のように中国共産党も含めて、様々に変化しました。日本共産党は、一時はトロツキー派を敵視していましたが、今では驚くほど大きく変り、日本共産党支持の学者が、かなり正当にトロツキーを評価した著作を出すようになったらしいです。

そもそも、スターリンに一族のほとんどを殺されたトロツキー自身も、ソ連を社会主義ではないが、「労働者国家」であるとし、批判はしましたが、帝国主義とソ連が戦う際はソ連支持でした。

私個人は歴史的相対主義を支持するので、論争は重要ですが、誤りは相互にあると考えるべきであり、労働者の労働力商品化に反対なら、左派・社会主義派と見なして、反マルクス左派も含めて、左派は大同団結すべきだと思います。

しかし、残念ながら、日本共産党の理論的には「スターリン主義」の影響がかなり残っていると思います。

日本共産党は、仏教、その他中国の古代思想など、総じてアジアの哲学・思想は、実体主義ではなく関係主義的であり、マルクス主義と共通の世界観であることを認めて交流を図り、関係主義的理念でアジアは大同団結して、21世紀は西欧ではなく、アジアが世界を領導すべきだと思います。



36. 2012年2月23日 20:03:46 : GlOMshFnLo
>>35 母系社会さん

34です。
89年に社会主義世界体制が、91年にソ連邦が自壊しました。
これらの国際労働者階級の政治的獲得物が「スターリン主義」なのですね。
そして「81ヵ国」や「75ヵ国」「共産党・労働者党宣言」に参加した社会主義国、資本主義国、被植民地国の社会主義運動、労働運動、民族解放勢力が「スターリニスト」なのですね。
そうですか。
私は「スターリニスト」の中、育ち、「スターリン主義」を活動の指針にしてきたことになります。

日本共産党は『「スターリン主義」の影響がかなり残っている』のですか。
私は「トロツキズム」かと、思っていましたよ。
この党の根っこには、レーニン主義の核心であるプロレタリアートのヘゲモニーよる同盟政策がなく、組織も「民主集中制」もないので、「トロツキー」を信奉しているのかと、思っていました。

私は自分が解放されたいから使えるものは使いたい。
すでにソ連邦を先頭にした社会主義世界体制が無い状態だ。
ですから当面、帝國主義と対峙する関係を担える政治的当事者を構築することではないのでしょうか。
母系社会さんたちの政治的主導性に期待します。


37. 2012年2月24日 06:08:54 : Rk86xuPFbd
>>35 母系社会さん
34です。
補足です。
あなたの文章からは、あなたの立場が帝國主義と対峙する政治勢力の外に身を置かれていると、伝わってきます。
私は中でした。
あなたの立場は「歴史的相対主義」です。
私は感性について「実践的な人間的・感覚的活動として」とらえています。
私は、あなたの政治的に主張する「スターリニスト」であり、「スターリン主義」者です。
その立場から、私は「誤りは相互にあると考えるべきであり」と、見ていません。
ハイゼベルグの不確定性原理を「スターリン主義」は、ケチをつけました。
これは対象と観測という行為が電子の位置に影響を及ぼす原理のことです。
私は「スターリニスト」の中にいて、人間的な活動の結果としての自己変化が不問にされていると、気づきました。
この不問は、87年88年のゴルバチョフのロシア革命記念日でのスターリンへの政治的断罪です。
帝國主義と対峙している当事者性のケチをつける政治的行為に現れました。
私は帝國主義と対峙している当事者性の関係ですから、政治を感性の現れととらえます。
その現れは、人間的な活動の結果です。
そして、その結果(感性)を自己変化もできます。
スターリンに象徴される政策が、世界革命過程の当事者性に適合しているか、否かになります。
ですから、私は「誤りは相互にあると考えるべきであり」との「歴史的相対主義」に立ちません。
それは、帝國主義に対峙する国際労働者階級の利益を代弁する外に立場を置くことになるからです。
どうぞ、帝國主義と対峙する関係に身を置かれることを、節に希望します。
そして「世界を領導すべきだと思います」よ。


38. 母系社会 2012年2月24日 16:28:39 : Xfgr7Fh//h.LU : Fsyo1wBVjw
すみません、話がそれてしまいました。

一応、旧ソ連公認のマルクス理論の解説書・教科書の内容が「スターリン主義」の理論と言えると思いますが、この解説書に対する批判は、論者の理論的立場により様々ですが、一国で社会主義を実現できるという考えに反対なのは共通していると思います。

また、スターリンだけがマルクス理論を誤解していたわけでもなく、おそらく、マルクス理論が関係主義であること、非実体主義であることを正確に理解していたのは、マルクスとエンゲルスだけだったのかもしれません。レーニンも誤解していたと思います。レーニンは政治家でしたから、十分に研究する時間も無かったし、「経済哲学草稿」や「ドイツ・イデオロギー」のような重要な文献も、出版される前に死んだので、おそらくレーニンは読んでいません。

というか、ご存知だと思いますが、マルクスが書き残した文章は、現在でも全てが出版・公表されているわけではないのですね。また、既に出版されているものも、ソ連の教科書と矛盾しないように捏造されていたり、編集者や翻訳者個人の「主観的」解釈が入り、必ずしも正確ではないことが多くの学者から指摘されています。つまり、我々が読むことができる日本語の本も、注意が必要です。

今、世界中の学者が協力して、マルクスが書き残したものを全て、出版する作業が行われていますので、この作業が終われば、また新たなマルクス像が生まれるかもしれまえせん。

ソ連が崩壊した現在では、何が何でも、旧ソ連共産党を支持するという政党は皆無だと思いますが、一番、旧ソ連共産党に近いのは、現在のロシア共産党でしょう。

中国共産党の実態はわかりませんが、現在の中国共産党は、学者の研究は自由にさせているようで、トロツキーや広松渉の著作も出版されていますし、彼らのような人も、学術的に研究することも自由ですから、旧ソ連とはかなり異なります。

中国の学者と交流し、実際に何度か中国にも行ったことのある学者の話では、共産党の支配を前提とする批判=いわゆる同志的な批判なら、今の指導部は許容するというのが、基本的態度のようです。また、中国共産党に批判的な知識人も含めた中国の大多数の知識人が一番恐れているのは内戦であり、内戦を防ぐためには、現時点では中国共産党の一党独裁は仕方ないというのが、中国の反体制的な知識人も含めた大多数の知識層のコンセンサスになっているようです。

もちろん、報道されているように、直ちに一党独裁を止めろという知識人もいますが、大きな反体制運動にならないのは、現状のままで一党独裁を止めた場合には、中国は分裂して、内戦になる可能性が高いと多くの知識人は判断しているからのようです。

中国は一つの国というよりも、それ自体がもう一つの世界と考えるべきであり、国家としては、旧ソ連よりも未熟な状態なのでしょう。

日本共産党について言えば、私が知っている党員(幹部の党員ではありませんが)は、皆、普通の意味での活動家であり、新左翼系の言論が言う意味での「スターリン主義者」とはとても思えませんし、社共・左派の大同団結を希望する党員がいることは事実です。

現に、日本共産党の党員と新左翼系の人々が協力している現場もありますし、何年か前に、東大闘争でゲバルトまでして対立した元東大生たちの一部が、和解のための集会を開催したように、情況はどんどん変っていますね。

日本の左翼運動の様々な問題は、誰が悪いというよりも、真理は一つで、自分たちだけが真理を把握していると考えるような反マルクス的な真理観=実体主義的、科学主義的真理観=を信じていることに原因の一つがあると思います。

このような真理観だと、小さな考え方の違いで運動は、ほぼ必然的に分裂してしまうと思います。

私の考えでは、日本共産党の「民主集中制」(分派の禁止。実際は機能していないそうですが)というのはスターリン主義的な制度で、放棄すべき制度だと思います。

しかし、日本共産党が実際問題としてなかなかこの制度を放棄できないには、それなりの根拠があり、それが唯一の客観的な真理なるものがあるという考え方、そして、自分たちだけがその真理を把握していると考えるような独善的な、私の考えでは反マルクス的な真理観を多くの左翼が信じていることに原因の一つがあると思います。

これは、元々は科学主義的真理観であり、左翼だけの真理観ではなく、近代と言う時代のパラダイムですが、マルクスは、科学理論も「上部構造」と考えていたのであり、科学理論もイデオロギーですから、いわゆる真理もイデオロギー=共通認識=です。

近代の科学理論は、望遠鏡や顕微鏡により、巨大な「進歩」を遂げました。

通常、科学理論が根本で、技術はその応用というように考えられていますが、実は逆であり、産業(技術)は「下部構造」であるのは疑いようが無いし、科学理論は「上部構造」であることも疑いようがないので、産業が科学理論を創ったと考えるのがマルクス主義です。

産物が、科学者が何に関心を持つか、何をどうのような視点から研究すべきかを決定しているのであり、逆ではないのです。

だから、日本共産党が「科学的社会主義」なる名称を自慢げに自称していること自体が、そもそも、日本共産党がマルクスを誤解している証拠だと思います。

前に、広松派の学者で、科学哲学が専門の野家啓一氏(東北大)の「科学の解釈学」(ちくま学芸文庫)という本を紹介しましたが、この本が科学や科学哲学の歴史をふまえて、わかりやすく、広松派の科学観を説明しています。

それと、広松派は、人間の知的能力は、感性と知性とに分かれているのではないと考えます。それは一体化しており、人間は、一体的に判断しているというわけです。

従って、人間の認識というものはマルクスが言うように極めて実践的認識です。

だから、単に、客観的に労働力商品と捉え、次に、人間が商品化されているのはとんでもないと考えるのではなく、最初から、否定的なものとして端的に労働力商品と捉えているのです。

従って、実は政治の真髄は言論戦(宣伝・扇動・理論活動)にあるのです。

デモや選挙での投票行動は、その結果に過ぎません。

人間の能力を、感性と知性に分離して考えるのも、近代的の時代的なパラダイム
だと思います。


39. 2012年2月24日 22:21:43 : fLQY2uz2kM
>>38 母系社会さん
 返事、ありがとうございます。
雑談です。

『経済学・哲学草稿』の第3草稿に「社会的存在としての人間」の章があります。
そこでは、人間と社会と自然の関係が記めされています。
さらに特定の個人と類、男と女、死の関係も書かれています。
ここでマルクスの内面が読み取れます。

 特定の個人と類の個所は、(書かれていませんが)―――生が何もないように見える「無」(空間)の側と、そして死が特定の個人の側に―――生と死が重なり合っている関係が隠れています。

 また、男と女の個所は、(隠されていますが)性と死が重なり合っている関係が見えます。
この草稿は、マルクスが26〜27歳頃でしょう。
 
 そしてマルクスは『フォイエルバッハにかんするテーゼ』では「感性は実践的な人間的・感覚的活動の結果」とも記めしています。
自分の感性が所与ではなく、人間の活動の結果であるとのメモです。
これは潜在意識に働きかけると変化する意味です。

 まぁ、これらの草稿とメモを読んだときは驚きましたよ。
対象と観察者は分離されていないのですから。
マルクスは、自分を世界のなかに置いて文章を書いていたんですね。
ヨーロッパには、中世からの深い洞察があったんです。

「人間の能力を、感性と知性に分離して考えるのも、近代的の時代的なパラダイム
だと思います。」
ですから、上記の指摘は、その通りだと思います。
同感です。


40. Y. Kakasi 2012年2月25日 00:54:26 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
知らぬうちにたくさんコメントがありました。Kakasiに関係ありそうなものだけ答えておきます。哲学的なのは難しくてダメです。よく勉強させてもらいます。

>>18. 2012年2月14日 11:11:26 : Xyg7Ljbe76
>Kakasiさん あなたがたの「科学」とはなにを指すのか。
 マルクスの言うところの「科学」とは?説明が不足していますよ。
→→Kakasiたちの科学?生物学、生理学、動物行動学、心理学、言語学、政治経済学などでしょうか。検証可能性を重視しております。
 マルクスの科学は、社会科学の基礎理論を提供していますが、社会主義・共産主義について、これらを科学にしたというのは誤っていると思います。とりわけ「等価交換による剰余価値説」と「人間意識の存在規定性を無視する史的唯物論」は、科学でないことを実証しています。

あと幾つかいくつかありますが、また後ほど


41. 母系社会 2012年2月25日 06:20:11 : Xfgr7Fh//h.LU : XtXtmb2QbY
>>39さんへ

●人間の精神的能力を、感性と知性に分離したため、精神(心)とは別に、客観的に存在する対象を認識する過程を、3項図式で理解するようになったと広松は言います。

つまり、視覚でいうと・・・

対象−知覚像−心

これを、具体的に言うと・・・

コップ−コップの知覚心像−心

という図式です。

つまり、コップからの刺激(反射光)が目から視神経に入ると、その刺激が脳内に知覚心像をつくり、その知覚心像の色形などを心の知的能力が分析総合して、対象はコップであると心が認識するというものです。

その結果、そのコップと認識した対象物で水を実際に飲むことが出来るのだから、人間はコップという客観物をありもままに捉えられた=対象のコップという本質を認識できる=と確信します。

これが、素朴反映論(模写説)です。

科学者が、自らの観察や実験を客観中立的に認識していると考えるのは、こうした素朴な反映論的認識論に基づく日常生活的世界での確信があります。

ところが、これは人工物であるコップを、人間がコップと認識したに過ぎません。

つまり、日常生活に役立つ用材として、コップという液体を飲むための道具を構想して構想通りにコップを実際に造り、それをコップと認識したのです。

つまりは、その人は認識する前から、対象が何であるか知っていたのであって、未知のものを発見したわけではありません。

むしろ、人間は未知のものが我々の周囲=生活圏=には存在しないことにこそ驚くべきではないでしょうか。

ところが、人間の日常生活圏だけでなく、「自然」も、マルクスが指摘したように、また、実際にも日本の森や林の90%以上が植林であるように、ほとんどが人間化された自然=人工物ですから、この確信は単なる確信ではなく、信仰になっています。

本質は特別な性質=実質=という概念ですから、性質の一種ですが、上記のような素朴反映論に基づいて、人間は対象の内在的な本質や性質を把握できると確信すると、人間は特別な訓練=義務教育から始まり、大学・大学院までの一連の科学教育=をした者は、対象の客観的な姿形を認識できるという現代的信仰=近代科学=が完成したので、宗教を支配のために利用できなくなった支配階級は、この科学信仰を利用して、非支配階級を支配するようになりました。

それが、今日の審議会政治です。

どんな問題でも、その道の専門家なる御用学者を集めて、専門家・科学者の権威で、支配階級に都合の良い政策を実行して、民衆を支配するのです。

つまり、産業が科学理論を生み出すのであり、客観的な科学などありえません。

●相対性理論が明らかにしたのは、地上で1メートルの長さの棒には、本来的な意味での長さ=客観的な長さなるもの=は存在しないということでした。

長さ、距離、つまり、空間と時間は運動系毎に異なり、光が属する運動系では、時間と空間は消滅するのですから、仮に光に意識があるとすると、光には空間や時間という概念は無いことになります。

そして、宇宙には格別な運動系=絶対的普遍性を主張できる特別な運動系は存在しないのですから、客観的なモノの長さなるもの存在しません。ということは、モノには客観的な姿形が無いという事です。

また、ミクロ世界の研究者にとって時間とは過去から未来へだけでなく、逆に、未来から過去に流れるものであるのは常識なのだそうです。

更に、有名ですが量子力学や相対性理論により切り開かれたミクロ世界の研究で、真空から突然物質(反物質)が現れる=要するに無から有が生まれる=ことが観測されているそうです。それで、真空は真空ではないという解釈が生まれました。

つまり、無は存在しないというのが定説化しつつあるようです。全有は全無と同じですから、このことはただ事ではありません。

あるいは、ミクロ世界では、原因や結果という関係が明確には特定できないくなり、因果律の原理は既に放棄されています。

ですから、数学による論証なるものも放棄され、数学は単に場の状態の記述だけに使われるだけです。

そして、物質という概念も大きく変わり、物質とは「場の状態」であるというのです。しかも、電子には自己同一性が無い可能性まであります。つまりは、水素原子には電子が一つあるわけで、確かに観測する度に一つの原子が観測されるのですが、その電子が前に観測した電子と同じ電子であるかどうかわからないのです。

そして、「自然の斉一性」は科学の重要な原理であり、この原理で145億年前にビックバンが起きて宇宙は誕生したなどと科学者は主張できるのですから、この原理を肯定するなら、つまり、科学を支持し、科学の中の科学である物理学、そして物理学の中の物理学たる量子力学や相対性理論を支持するなら、ミクロ世界とマクロ世界は基本的には同じ世界ですから、マクロ世界でも因果律は放棄されるべきということになります。

つまり、マクロ世界でも科学理論(技術ではない)=学問では因果律は通用しませんので、検証や実証とは何か、何をもって検証したとか実証したと主張できるのかが、問われているのが現在です。

更に言えば、そもそも、現代では、観測とは何かが問われているのですから、素朴反映論が崩壊しつつあるのです。

検証性だ、実証性だと騒ぎ立てて、マルクス主義を葬り去ろうと画策した論理実証主義は、とっくの昔に自滅しました。

分析哲学なるものは死んでいることに気づかない亡霊であり、結局は、論理実証主義、分析哲学が原理とする<矛盾律>という形式論理学的原理が誤りなのです。

彼らは、自分自身の親についてはDNA検査などしなくとも親だと信じているくせに、他人の親子にはDNA検査していないから、疑わしいと主張していたのです。

ですから、科学という言葉を、実証という意味で使うのは無知の極みです。

マルクスが言うように、無知が栄えたためしはありません。


42. 母系社会 2012年2月25日 06:24:00 : Xfgr7Fh//h.LU : XtXtmb2QbY
>>39さんへ

●人間の精神的能力を、感性と知性に分離したため、精神(心)とは別に、客観的に存在する対象を認識する過程を、3項図式で理解するようになったと広松は言います。

つまり、視覚でいうと・・・

対象−知覚像−心

これを、具体的に言うと・・・

コップ−コップの知覚心像−心

という図式です。

つまり、コップからの刺激(反射光)が目から視神経に入ると、その刺激が脳内に知覚心像をつくり、その知覚心像の色形などを心の知的能力が分析総合して、対象はコップであると心が認識するというものです。

その結果、そのコップと認識した対象物で水を実際に飲むことが出来るのだから、人間はコップという客観物をありもままに捉えられた=対象のコップという本質を認識できる=と確信します。

これが、素朴反映論(模写説)です。

科学者が、自らの観察や実験を客観中立的に認識していると考えるのは、こうした素朴な反映論的認識論に基づく日常生活的世界での確信があります。

ところが、これは人工物であるコップを、人間がコップと認識したに過ぎません。

つまり、日常生活に役立つ用材として、コップという液体を飲むための道具を構想して構想通りにコップを実際に造り、それをコップと認識したのです。

つまりは、その人は認識する前から、対象が何であるか知っていたのであって、未知のものを発見したわけではありません。

むしろ、人間は未知のものが我々の周囲=生活圏=には存在しないことにこそ驚くべきではないでしょうか。

ところが、人間の日常生活圏だけでなく、「自然」も、マルクスが指摘したように、また、実際にも日本の森や林の90%以上が植林であるように、ほとんどが人間化された自然=人工物ですから、この確信は単なる確信ではなく、信仰になっています。

本質は特別な性質=実質=という概念ですから、性質の一種ですが、上記のような素朴反映論に基づいて、人間は対象の内在的な本質や性質を把握できると確信すると、人間は特別な訓練=義務教育から始まり、大学・大学院までの一連の科学教育=をした者は、対象の客観的な姿形を認識できるという現代的信仰=近代科学=が完成したので、宗教を支配のために利用できなくなった支配階級は、この科学信仰を利用して、非支配階級を支配するようになりました。

それが、今日の審議会政治です。

どんな問題でも、その道の専門家なる御用学者を集めて、専門家・科学者の権威で、支配階級に都合の良い政策を実行して、民衆を支配するのです。

つまり、産業が科学理論を生み出すのであり、客観的な科学などありえません。

●相対性理論が明らかにしたのは、地上で1メートルの長さの棒には、本来的な意味での長さ=客観的な長さなるもの=は存在しないということでした。

長さ、距離、つまり、空間と時間は運動系毎に異なり、光が属する運動系では、時間と空間は消滅するのですから、仮に光に意識があるとすると、光には空間や時間という概念は無いことになります。

そして、宇宙には格別な運動系=絶対的普遍性を主張できる特別な運動系は存在しないのですから、客観的なモノの長さなるもの存在しません。ということは、モノには客観的な姿形が無いという事です。

また、ミクロ世界の研究者にとって時間とは過去から未来へだけでなく、逆に、未来から過去に流れるものであるのは常識なのだそうです。

更に、有名ですが量子力学や相対性理論により切り開かれたミクロ世界の研究で、真空から突然物質(反物質)が現れる=要するに無から有が生まれる=ことが観測されているそうです。それで、真空は真空ではないという解釈が生まれました。

つまり、無は存在しないというのが定説化しつつあるようです。全有は全無と同じですから、このことはただ事ではありません。

あるいは、ミクロ世界では、原因や結果という関係が明確には特定できないくなり、因果律の原理は既に放棄されています。

ですから、数学による論証なるものも放棄され、数学は単に場の状態の記述だけに使われるだけです。

そして、物質という概念も大きく変わり、物質とは「場の状態」であるというのです。しかも、電子には自己同一性が無い可能性まであります。つまりは、水素原子には電子が一つあるわけで、確かに観測する度に一つの原子が観測されるのですが、その電子が前に観測した電子と同じ電子であるかどうかわからないのです。

そして、「自然の斉一性」は科学の重要な原理であり、この原理で145億年前にビックバンが起きて宇宙は誕生したなどと科学者は主張できるのですから、この原理を肯定するなら、つまり、科学を支持し、科学の中の科学である物理学、そして物理学の中の物理学たる量子力学や相対性理論を支持するなら、ミクロ世界とマクロ世界は基本的には同じ世界ですから、マクロ世界でも因果律は放棄されるべきということになります。

つまり、マクロ世界でも科学理論(技術ではない)=学問では因果律は通用しませんので、検証や実証とは何か、何をもって検証したとか実証したと主張できるのかが、問われているのが現在です。

更に言えば、そもそも、現代では、観測とは何かが問われているのですから、素朴反映論が崩壊しつつあるのです。

検証性だ、実証性だと騒ぎ立てて、マルクス主義を葬り去ろうと画策した論理実証主義は、とっくの昔に自滅しました。

分析哲学なるものは死んでいることに気づかない亡霊であり、結局は、論理実証主義、分析哲学が原理とする<矛盾律>という形式論理学的原理が誤りなのです。

彼らは、自分自身の親についてはDNA検査などしなくとも親だと信じているくせに、他人の親子にはDNA検査していないから、疑わしいと主張していたのです。

ですから、科学という言葉を、単に実証という意味で使うのは、今日では誤りです。


43. 2012年2月25日 11:24:55 : zIcN4tErBM
Y. Kakasiさん
18です。
返事ありがとうございました。

>>40
 「検証可能性を重視しております。」

 昨年3月以降、庭の植物に奇形が数多くありました。
根、茎、花などの器官の変形です。

 そして人間も。
私も含めて周りの知り合いに、膚、喉などに違和感があります。

 直感的に放射能か、と思っています。
私が住んでいる地域は、年間100ミリシーベルト以下です。
さらに、植物に放射線を浴びせると、奇形になるそうです。
そして何割かは、遺伝子も変形するそうです。

私は確かに、学校で呼吸器・消化器は植物の葉が形態進化したものと、習いましたが。
ところが人間は、仕組みが植物より複雑なので、年間100ミリシーベルト以下については安全だそうです。
遺伝も心配ないそうです。
このように、「科学」は私の心配ごとの膚、喉の個別は放射能との関係が「検証」できないので、生活には役に立たないです。

 生活の向上に役に立つ「科学」をお願いします。



44. 母系社会 2012年2月25日 15:27:42 : Xfgr7Fh//h.LU : XtXtmb2QbY
すみません。

二重投稿になってしまいました。


45. 2012年2月25日 21:12:33 : nWdZmPk2zo
母系社会さん
39です。
>>41
>>42
長文、ありがとうございます。
きょう、紹介された野家啓一氏(東北大)の「科学の解釈学」(ちくま学芸文庫)を買ってきました。
若い時分は岩崎允胤と宮原将平で勉強をしました。
市役所や県庁との交渉に必要だった本です。
役人仕事の基準は、規則や施行令でしょう。
住民側の論理をつくりあげるのには、条規の穴探しや、パラダイム崩しなんですよ。
その為の本だったんですよ。

そうね。目は色と形を見る頭の道具です。
頭の中で、現象から、それをあらしめているものへ近づくんです。
こころそのものもなにかの一部なんでしょうかね。
ではまた。


46. Y. Kakasi 2012年2月28日 00:11:59 : BW32mpuE76J86 : OjZLjGfsFM
いろいろ意見がありました。
 Kakasiの問題意識は浅いので、常識的な意見しか述べられません。
 哲学には弱いのですが、仏教思想には関心を持っているので、関係主義は縁起思想と関連づけられれば全く同意できます。だからKakasiの立場は、「実体的関係主義」と言えるかもしれません。

 マルクス批判も単純で常識的なものです。
 「等価交換」などおかしいと思われませんか。交換契約をしても、損した得した、割に合わない、欺されたというのは、平均的交換価値(価格)の中に山ほどあるではないでしょうか。

 資本主義制度の金儲けは、等価交換の外見が誤りであって、経済学自体が自由平等の名において詐欺を行っているのです。そしてそのような商品交換の面白さ、楽しさ、快適さ、期待の充足、物珍しさ、達成感、優越感等が、資本主義の活力になっているのではないでしょうか。

 また、人間の意識は社会的に規定・形成されながらも、自らの経験と判断で新たな意識を想像・想像し、自らの存在を切り開いていくものではないでしょうか。マルクスは根本的な人間観・社会観・歴史観で誤っています。人間の意識は、言語的に形成され、その創造性によって生活を豊かにし、社会や歴史を造ってきました。ただ人間はそのことを十分に知らなかったために、自己の思想や信条、財産や権力・社会的立場を守り拡大しようとして争ってきたのです。

長くなりそうなので、(その17―06)に続けます。
→→http://www.asyura2.com/12/senkyo126/msg/587.html


47. 2012年2月28日 15:41:21 : EVskgte9f6
>>42 母系社会さん。大変興味深い話です。

以下、雑談モードで。


コップの例は
「それがコップである」という用途までも規定するものですね。
ですので、母系社会さんの言われる「認識」というのは
(象徴化された)概念への当てはめということになるのかな。
概念があいまいな場合、認識とは何を指すのか、中々難しいと思います。

例えば、ここに一本のサツキの木があるとします。
季節は5月で、花が咲き乱れています。
人がそれを見たとき、サツキを認識し、それと同時に、
他のサツキとは別のサツキ(の株)であることも認識します。
この例でさらに厄介なのは、サツキは枝分かれするときに突然変異
することが多く、同じ株でも異なる遺伝子の花が咲き、形も微妙に
変わってくることです。
そこまで目視確認できるかどうかは個人差がありますが、
道具を使えばそういうことも認識できます。
(ここまでくると、認識=観測ではないか、という声が聞こえてきそうですが
現代科学では、ほぼ同義ではないかと思います)

つまり、私は、認識には、規定概念へのあてはめ、の外にも
何かあるような気がするのです。
(規定概念へのあてはめ、という意味では「解釈」と表現したいのです)

・・・

科学の検証可能性については、私は検証可能性を認める考え方です。

もちろん、100%完璧な再現実験を行うというのは不可能ですから
可能な限り条件を近づけて何度も実験を、ということになります。
ですが、何度も実験し、個々の現象の相関関係を明確にすることで
「どの程度まで検証できたか」を調べることは可能だと思います。

母系社会さんが例として取り上げられた、時間逆行粒子の問題は
そう考えざるをえないものとして取り上げられたものです。
確率的存在論では、素粒子の位置が不連続に観測されるため
光速を超えるとみなさざるを得ない。ただし、極めて局所的です。
これが原因でブラックホールは蒸発すると考えられていますが、
これをブラックホールの吸収現象の逆行と見るべきか、
蒸発と見るべきかは解釈によるように思います。

また、確率的なものであっても、大抵の場合、たくさん集まれば
必然的になってきます。例えば、日本人の体重は一人一人違いますが
10000人づつの合計で比べれば、おそらくその差は相当少なくなります。
それで原子レベルの物体が安定して存在できる訳です。

また、因果律については、
ある現象の観測者同士での同時性はなりたたなくとも、
その現象と同じ物理座標系での観測に固定すれば、
かなり強固な因果関係が成り立ちうるわけです。
この手の話は量子力学で顕著なのですが、存在というのは姿形を変える
ものなので、姿形を変えても、変わらない物理的な量(不変量といいます)を
探すのがエネルギー関係の物理学の常道となっています。

私は、自然科学というのは確実なものを追求するもので、検証可能性というのは
追求できるものではないのかなあ、と思います。


48. 2012年2月28日 15:58:34 : EVskgte9f6
そうだ、一点気になることがありました。

>やはり、広松のマルクス解釈の独自性は、マルクスは自然界も関係主義
=非実体主義の立場で考察していたと考え、関係主義=非実体主義を
自然科学の分野にも拡張した点です。

>ここがマルクス支持派の内部でも賛否が大きく分かれる点で、広松は
自然物も非実体的存在と考えることから、俗流唯物論者から観念論者
という批判を浴びています。

関係主義は関係を重視するのであって、実体を「否定はしない」わけで
それに対して俗流唯物論者とか観念論者という、広松氏に対するこの批判は、
少々、ずれているような気がします。

私の勝手な想像ですが、
「実体があるから関係がある、関係をこれまで以上に重点的に考えてみよう」
というのがマルクスの態度だったのではないかと思います。


49. 2012年2月28日 16:48:01 : bLbWrDAasE
>>48さま
横から口を挿みます。
『私の勝手な想像ですが、
「実体があるから関係がある、関係をこれまで以上に重点的に考えてみよう」
というのがマルクスの態度だったのではないかと思います。』

なかなか面白い解釈です。
私はマルクスは関係主義と思います。
マルクスとエンゲルスは『聖家族』を書きました。
そこには、「思弁的構成の秘密」章があります。
一度、読んでください。
雑談ですが、「松の木を松の木として見る」のは難しいですね。



50. 母系社会 2012年2月29日 00:45:07 : Xfgr7Fh//h.LU : hlZ5Lbs6Fo
>>45さんへ

●私も久ぶりに、「科学の解釈学」を読み返していますが、やはり大変
わかりやすいですし、大変面白いですね。

広松哲学は、広松的に解釈した相対性理論やハイゼルベルグの量子力学
を前提とする理論であり、広松は、こうした現代の最新の理論物理学や、
科学哲学が切り開いた世界観と、関係主義的に理解したマルクスの
唯物史観という世界観が整合的=相即的であることに気づいたわけです。

つまり、ある意味で、マルクスは150年ぐらい先行していたことに
気づいたのですね。

マルクスと同様の世界観を、ニーチェ(パースペクティブ論)も独自
に獲得していたので、ニーチェは現代哲学に再評価されて大復活した
わけで、現代哲学が唯物史観を誤解したままだとしても、唯物史観と
同じ立場に移行しつつあるのだと思います。

とにかく、近代科学に大打撃を与えた相対性理論・量子力学とも
唯物史観は整合するのですから、驚く他ありません。

相対性理論は、近代科学派=科学主義者=俗流唯物論者=スターリン
主義者の理論・世界観に大打撃を与えましたが、彼らは相対性理論を
自分たちの理論的立場と整合するように解釈することで、結局は、
この危機を乗り切ってしまいました。

もちろん、唯物史観はマルクス一人の成果ではなく、ヘーゲルや、
その他当時の様々な哲学者と、ギリシャ以来の西欧理論哲学の成果
でもあるわけですが、マルクスの弟子たちが誤解したために、相対性
理論の出現という絶好の好機を逃してしまい、今や絶滅危惧種そのもの
です。

もし、一人でもマルクスの関係主義を正確に理解する弟子がいたら、
相対性理論の出現により、マルクス主義が絶滅危惧種のような状態
になることはなかったかもしれません。

アインシュタインやハイゼルベルグが、仏教をはじめとするアジアの
関係主義的思想・宗教を、好意的に評価したことは有名ですが、残念
ながら、マルクス主義との同一性、関連性まで認識することはありま
せんでした。

マルクスが関係主義者であったことは、マルクスが「人間」とか、
「社会」、「貨幣」、「資本」などの、特別に重要な概念の全てを
<関係性>で規定していることからも明白なのですが。

●マルクスは、「パラダイム」という言葉は使用しませんでしたが、
ほぼ同じ意味で「支配的思想」(ドイツ・イデオロギー)という言葉
を使用していましたね。

ですから、現代の最新の「科学哲学」とも相即的=整合的ですし、
むしろ先行していたというのが実情ですし、最新の「科学哲学」ですら、
基本的には観念論者である新カント主義者よりも遅れている点もありました。

広松によると、マルクスも流石に途中で迷いも生じたらしいのですが、
最終的には科学(理論)も上部構造に入れることで、科学理論も
「イデオロギー」であると考えたそうです。

現に、物理学者、科学者が、自然科学的対象を通時的に捉えずに、
つまり、既に物質が媒介されたものであることを捉えずに、自力で
自己のアイデンティティを維持できるモノ=自存的自己同一体=
<実体>と捉える傾向を批判して、近代科学の実体主義の立場とは、
明確に一線を画しています。

●全知全能の神ではない人間は、マルクスも広松も我々も、誰でも、
先入観を完全に無くすことはできません。

むしろ、人間は何らかの先入観を獲得したので、他の動物よりも
複雑な認識が可能となったのであり、「進歩」したのだと言えます。

そうした人間の先入観の一つが、最初期の人類社会から続いている
と思われる<擬人化>という知的習性=先入観的認識方法ではないか
と思います。

近代になり、一応、デカルトがこの<擬人化>という先入観を克服
して、自然物から<魂>を追放して「機械論的自然観」を創り上げ、
近代科学の基礎を築きました。

これで、人類が「大進歩」したのですが、結局は、近代科学は
<擬人化>という先入観を完全には払拭できずいると思います。

つまり、<魂>の代わりに、いわゆる「第一性質」をモノの内在的
性質としてしまい、この、色あり香りありの我々の日常的意識に現前
する「風景的世界」から、色や音などの「第二性質」を取り除いた
「物理科学的世界」が、客観的な<真の世界>という物理科学的世界観
を人類は築いたのだと思います。

しかし、この「物理科学的世界」が、客観的な<真の世界>と言えるには、
反映論的認識論が成り立つことを「論証」しなければなりません。

しかし、それには、なぜ、人間は遠くにいるために小さく見える人を、
見えるがままの小人とは認識せずに、我々と同じ大きさの人=これを
<対象像>と言います=と二重的に認識するのか、同様に、四角いビル
を正面から見ると、ただの四角い平面的なビルの像が見えるだけなのに、
立体的なビル=<対象像>=と認識できる、つまり、我々は見えるもの
をそのままの姿で認識するのではなく、それ以上の<対象像>として
認識できるのかを、反映論=模写説では論理整合的には説明できません。
(一見、この論証は簡単なようですが、ことごとく反論可能です)

それで、この「物理科学的世界」の方が、実際に我々が日常的に経験
している色あり音ありの「風景的世界」よりも、確かな世界とは言
えないわけです。

まぁ、少なくとも、相対性理論を前提とすると、この「物理科学的世界」
は、我々が属する運動系での世界でしかなく、文字通りの客観的な世界=
人間がいなくても実在するような世界=ではありませんね。

とにかく、量子力学的世界の研究では、我々の近代科学的常識は通じない
奇想天外な研究が大真面目で行われているのですから、我々もできるだけ
柔軟にものごとを考えても良いし、そうであるべきだと思います。


51. 2012年2月29日 12:05:10 : EVskgte9f6
>>49 さん、文献の紹介ありがとうございます。
大著のようで、私に読めるかどうか自信がありませんが、
折を見て読ませていただきたいと思います。

関係主義、という言葉に対する私の印象が、おかしいのかもしれません。
「関係」という観点から世界を眺める態度という印象を持っています。
ですから、別の観点(例えば「実体」)から世界を眺めることと、
必ずしも対立するとは思えないのです。
(それで、関係主義は実体を否定はしない、と)

「実体があるから関係がある、関係をこれまで以上に重点的に考えてみよう」
と書いたのは、天才マルクスが関係主義的態度で分析を試みた動機には、
実体主義よりも適切に分析ができるという判断があったのではないかという
意味で、思想の土台として実体主義も持ち合わせていたのでは、という想像です。


話は変わりますが、
すみません、>>48 への訂正です。
× それに対して俗流唯物論者とか観念論者という、広松氏に対するこの批判は、
○ それに対して俗流唯物論者による、広松氏に対する観念論者という批判は、


52. 2012年2月29日 15:25:31 : 5m8VS6folk
母系社会くんのお友だちは、<KY>が多いようだね。

Kakasiくんも<KY>のようだが、お友だちは内容が空疎。

このスレにはふさわしくないよ。広松が泣いてるぞ。

広松って誰だか知らないがな、なんとなくわかる。


53. 母系社会 2012年2月29日 16:01:34 : Xfgr7Fh//h.LU : nY1LbEigfk
>>47さんへ

●人間が、認識対象を用材的に本質規定しているという奇妙さを指摘したのは
ハイデッカーだそうですが、確かに、普遍性や客観性を主張する科学=学問が、
単なる用材としての規定を採用してるのは奇妙です。

サルトルの 『嘔吐』には、主人公が公園のマロニエの根を見て「吐き気」をもよ
おす場面がありますが、少年期には我々を取り巻くモノが、本当に大人から
教えられた用材的なものであるのか疑わしく思える時があると思います。

私の場合は、寝ている時に布団が本当に布団であるのか疑わしくなり、身体が
布団に包まれているので、物凄い恐怖に陥ったことがありますが(笑)、
こうした問題では、エンゲルスが何かの本で、ある対象、例えば鉄を再生産
することができるようになったら、たとえ鉄という存在に何か不明な点があった
としても、それが何であるか解らないとは言えないのではないか、要するに
再生産が可能かどうかを基準にするという極めて実践的な、現実的な判定基準を
提起していたと思います。

まぁ、このようなエンゲルスの判定基準にも、確かに一理あると思いますが、
一方で、対象の認識に完全な普遍性や客観性を求めるのは原理的に不可能であれ、
再生産できれば良いというのも安易過ぎる気がして、今一つ何か釈然としない
説明のようにも思いました。

●しかし、元々「物自体」なるものには固定的な姿形がないので、原理的に
「何かしらあるもの」としかいえないのであり、我々が認識できるのはそれとの
関係性であること、そうした関係性として生活者としての<私>は、生活のための
用材として「あるもの」を、そのものとの関係性から、用材的に「コップ」として
認識すると広松から教えられ、納得しました。

より、正確には言えば、生活者としての<私>なら、例えばこのコップは父親
専用だから<私>は使ってはいけない「コップ」というよに、実践的な対象
として認識しているわけです。

ところが、もし<私>が工業デザイナーのような仕事をしていれば、工業品
としてコップを見て、これはある有名な工業デザイナーの剽窃物でニセモノ
だとか、普通の物理学者なら、その学者が属する学派特有のパラダイムで、
それが実体主義的なパラダイムなら、機械論的自然観や要素主義的な視点で、
実体的な客体として認識するというのが広松の認識論ではないかと思います。

つまり、「誰かしらあるもの」である<私>が、ある時は何らかの職業人
として、またある時は生活者としてのある枠組み=先入観=で認識するという
のが広松の四肢構造説です。

ですから、この「一本のサツキの木」を視覚的に認識すると言っても、
認識主観が誰なのかで、認識内容も異なるのではないかと思います。

我々素人が観光客として見る場合は、サツキの花が咲き乱れて綺麗だなという
ぐらいしか認識しないでしょう。

植物学者なら、「サツキを認識し、それと同時に、他のサツキとは別のサツキ
(の株)であることも認識」し、突然変異で「同じ株でも異なる遺伝子の花が
咲き、形も微妙に変わって」いることも認識するでしょう。

しかし、その学者が所属する学派のパラダイムの違いで、「異なる遺伝子の花」
の分類は異なる場合もあるでしょう。

確かに、現代科学は、ほぼ素朴反映論の立場ですから、認識=観測であり、
「ほぼ同義」だと思います。

ところで、半分技術的な分野の話ですが、新薬や新治療法を治験する場合、最初
は患者側に心理的効果が出てしまうプラセボ効果だけを防ぐための「単盲検法」
を行っていましたが、患者側だけでなく評価する観察者(医師)の「観察者バイ
アス」も防ぐために、現在では第三者が行う「二重盲検法」が導入され、他の
一部の学問にも、この方法は導入されているそうです。

こうした先入観を防ぐ試みは、当然、実体主義をパラダイムとする現在の科学
でも認知されて実行されているわけですが、大元の実体主義的パラダイム自体
が、巨大な先入観となり、認識を規制・制限しているのが現状です。

量子力学や複雑系の科学など、半ば機械論的自然観や実体主義的パラダイムから、
離脱しつつある分野もありますが、大部分の科学では、現在も実体主義に基づく
研究がなされているわけです。

もちろん、実体主義が全く無効ということではなく、最先端の量子力学が、
厳密に適用すると、宇宙全体が原因となってしまうような因果律を放棄し、
マルクス主義的な相互作用論や非実体主義、関係主義に移行しつつあるように、
現在では、実体主義の可能性は、ほぼ出尽くしてしまった感があるわけです。

諸科学が実体主義的な物理学を導入することで、この100年間は飛躍してきた
ように、今後は、非実体主義的に再編・改変された量子力学を諸科学が導入して、更なる飛躍をするようになるかもしれません。

もちろん、この非実体主義も、いつかは別のパラダイムに置き換わるかもしれ
ませんが、最も重要なのは・・・

何らかの、パラダイム的な<先入観>無しには、人間は認識できないということ
です。そして、これを自覚化したのが「歴史的相対主義」の立場です。

動物は、ある意味で人間よりも「賢い」ので、人間のように同種同士の殺し合い
を防ぐために、先入観を持つのを回避したのかもしれませんね(笑)


54. 2012年2月29日 19:02:56 : EVskgte9f6
>>53 母系社会さん。丁寧な説明ありがとうございます。

ここでの「認識」が、どのような意味合いなのか考えていたのですが、
なんとなくわかったような気がします。

随分むかしに読んだ朝永振一郎氏の「量子力学1」で
量子力学の発端は、黒体放射の研究が発端で、
物質を高温にしたときの発光スペクトルと極低温のときのスペクトルの形状が
異なるというのがきっかけだったと書いてあったと思います。

このスペクトルの違いを「認識」した学者は、
「スペクトルの形が異なる」ことを認識した事は確実でしょう。
一方、その「認識」に何らかの意味や解釈を含めていたかどうか。

たぶん、今議論の対象としている「認識」には
そういう「知覚」に近い「認識」は含めないということなのだと思います。


もう一つ、私がよく理解していなかった点が、
自然科学(因果律)と関係主義の関連についてなのですが、
こちらもなんとなくわかったような気がします。

>最先端の量子力学が、
>厳密に適用すると、宇宙全体が原因となってしまうような因果律を放棄し、
マルクス主義的な相互作用論や非実体主義、関係主義に移行しつつあるように、

ということで、相互作用の有限な量・数・場を仮定するというところが
関係主義との関連なのかな、と理解しました。
(間違っていたらご指摘下さい)
というのも、科学的な検査自体がそもそも「関係主義」的なものですので
実体主義的「解釈」を採りながらも、関係主義の立場も必然的に入ってしまう
からです。

また、関係主義というというと個別の相互作用を考えがちだと思うのですが
重力波や電磁波のように極めて多数の相互作用があります。
有限かも知れないが、因果関係は非常に多い。もしかすると無数に近いかも
しれないな、と思ったりもします。


ところで、
>動物は、ある意味で人間よりも「賢い」ので、人間のように同種同士の殺し合い
を防ぐために、先入観を持つのを回避したのかもしれませんね(笑)
いやいや、彼らも先入観を持っているかもしれません・・・


55. 2012年2月29日 21:55:17 : EVskgte9f6
随分遅くなってしまいました。
>>33 母系社会さん。

>●私の数学の知識は、正直に言えば中学レベル以下なので、さっぱり
わかりませんが(笑)、数学にも変化を本格的に扱う理論があることは
聞いていました。可能であれば、数学の変化を扱う理論を、中学生ぐら
いでも理解できるように、説明してもらえるとありがたいのですが(笑)

時間変化を扱う理論で一番メジャーなものというと、時間関数です。

例えば、物体の時間的変化を表すには
・x = f(t) , x:座標, t:時間
などとします。

一例として、物を落としたときの高さ y が
・y = -(1/2)g・t^2 + h, g: 重力加速度, t:時間, h:最初の高さ
と表されるのは有名かと思います。

これを周波数成分に分解して考えるのが、フーリエ解析やラプラス変換です。

関数f(t)のラプラス変換 F(s) は
・F(s) = ∫f(t)・exp(-st) dt, 積分範囲は(-∞,∞)
で定義されます。

s は(実質的に)周波数を意味する変数です。
つまりF(s)はf(t)という時間運動を、周期関数(三角関数)の合成として
表現しなおしたものになります。
(指数関数 exp(iwt)= cos(wt) + i・sin(wt) ということに注意して下さい)

この変換で面白いのは、
三角関数それ自体は周期関数であって、変化しないものだということです。
それが、多数の三角関数の合成によって、変化する(周期を持たない)
関数の表現が可能になります。

ところで、周波数での表現が、なぜ重要になるかと言いますと、
工学分野ではフィードバックによる共振が発生することがあるため、
共振する周波数が、運動内部にどれぐらい存在するかを把握する必要が
あるからです。タコマ・ナローズ橋が崩壊した事例を見ていただけると
共振が如何に深刻かがわかると思います。
(動画で検索されると、面白い映像が出てきます)
そのためフィードバック系ではラプラス変換が良く用いられます。

周波数変換で、さらに面白いのは、f(t)が周期関数である場合、
f(t)が特定の周波数の整数倍の成分に分解可能なことです。

この性質を利用して、たとえばMPEGなどの動画圧縮では
画像の一部を切り出して、それが無限に繰り返されるというモデルを構築して
特定の周波数の整数倍の成分に分解しています。
そして、分解した結果から、成分の大きいものだけを残すことで
いわゆる「圧縮」という作業を行っています。

これは実践における話で、現象学的な話では無いのではありますが、
数学で時間を扱う場合の一つのイメージとして考えていただければと
思います。

うまく説明できていないかもしれませんが、
ご参考になれば幸いです。


56. 2012年2月29日 22:08:04 : EVskgte9f6
すみません。早速訂正。
×・F(s) = ∫f(t)・exp(-st) dt, 積分範囲は(-∞,∞)
○・F(s) = ∫f(t)・exp(-st) dt, 積分範囲は(0,∞)

57. 2012年2月29日 22:58:54 : GhZdmbak4P
>>54さま
『ところで、
>動物は、ある意味で人間よりも「賢い」ので、人間のように同種同士の殺し合い
を防ぐために、先入観を持つのを回避したのかもしれませんね(笑)
いやいや、彼らも先入観を持っているかもしれません・・・』

私は「彼らも先入観を持っている」と、思いますよ。
パブロフの大脳反射実験が、そうでしょう。
ベルの音は、受身で連想があると推測できます。
人間も受身の人は連想が得意でしょう。

その件で、マルクスは『フォイエルバッハにかんするテーゼ』の5で、「しかし、彼(フォイエルバッハのこと)は感性を実践的な人間的・感覚的活動としてはとらえない」と記しています。
マルクスによると感性は所与のものではないと。
感性に働きかける関係を結べば、感性は変化するとのこと。
マルクスは受苦的存在が能動的に変化する場としての身体を述べています。
先入観と能動性の関連は面白いですね。


58. 母系社会 2012年3月02日 15:13:21 : Xfgr7Fh//h.LU : e69CvCaLwA
>>47さん、すみません。

「サツキの木」の件に続いて、更に「検証可能性」と「因果律」についての議論
があることを見落としていました。

●「検証可能性」については、原理的、論理的には限界があることになりますね。

確かに、厳密に同じ条件での再現実験は不可能ですね。しかし、近代物理学、
特に古典物理学では、原理的には可能とし、現実の実験での誤差の影響はわずか
だから無視できるという前提で再現実験を行ってきました。

ところが、現代物理学の雄である量子力学のミクロ世界の実験ではこうした微細
な違いが大きな影響を与えるので、無視できない大問題になります。更に、
不確定性理論などの問題もあるので、物理学徒であった広松は、こうしたミクロ
世界での様々な問題を踏まえて、自己の広松哲学を展開しています。

しかし、広松が提起する問題は無視して、反映論や実体主義が正しいと仮定しても、必ずしも「検証」は可能と言えない理由の一つには、理論と実験の関係の
問題があると思います。

たとえば、AとBという物質を混ぜると熱を出すと予測する理論があったと
して、実際にAとBを混ぜたら熱が出ても、それで明らかになるのは、AとBを
混ぜると熱が出るという「技術的知」、「事実知」であり、その現象を予測・
説明した理論を必ずしも証明したことにはならないからです。

天動説が絶対的真理として信じられていた時代では、天道説を「証明」する
「観測的事実」としての太陽が東から昇り西に沈むという自然現象は、それこそ
毎日起きていたので、天動説は毎日「実証」されていたわけですが、実際は
天動説とは全く逆の、その時点では未知であった地動説の「観測的事実」でした。

このように、常に、観測や実験が行われていた時点では未知のシステムの働きの
可能性があるので、「実験的事実」、「観測的事実」は、必ずしも理論の
<真理性>を保障するわけではないですね。

検証とは完全に証明することで、確証とは信憑性が増すとい意味だそうですが、
この意味では、帰納法的な実験は検証的ではなく確証的なもので、再現実験だけ
でなく、様々な実験や観測でその理論の正しさが「証明」されたかのような結果
が出ても、これは帰納法的なので、原理的に理論を「検証」したことにはなら
ないわけですね。

それで、ホッパーは「反証性」を提起しましたが、これも「反証されたのは
何か」、つまり、理論なのか、実験装置なのか、とかの問題が出てきますし、
そもそも、実証や反証の対象とはならない命題・理論もあり、そのような理論
は科学ではないとすると実証不可能な「自然の斉一性原理」を自ら放棄する
ことになり、科学自体が自滅してしまいます。

というか、実証不可能な「自然の斉一性原理」を放棄すると、「自然の斉一性
原理」を前提とする実験自体、つまり反証実験自体が不可能となりますから、
今でも、ホッパーの反証主義を信じている科学者が多い日本の科学は、極めて
反マルクス主義的な、資本主義体制を維持するための支配階級のイデオロギー
であることがわかります。

とは言っても、もちろん再現実験の成功が多ければ多いほど、信憑性は増大
しますね。

●人間の認識・意識はそうした理論的な問題だけでなく、実験や観察も含
めて、総合的な妥当性、<判断>として集団的に、共同主観的に決定する
のだと思います。

ですから、47さんが、ある具体的な事例を限定的に検証可能としても、
私が不可能と考えても、それ自体は「同権利的」な判断で、別のケースでは
逆の立場となることもありえると思います。

その際に、評価・判断の基準となるのが個々人が帰属する学派とかの社会的グル
ープ独自のパラダイムであり、更に文明的、時代的、文化社会的な大パラダイム
ですね。

しかし、そうした大小のパラダイムも独立自存のものではなく、「下部構造」=
人間の対自然的、対社会的(間人間的)な関係性の総体から抽出し、意識化した
ものなのだと思います。

ただ、「共同主観的に決定する」と言っても、人間は独立自存の<主体>として
客観的に「決定する」のではなく、知性はもちろんですが、感性的な、知覚的な
能力までもが、各社会が歴史的に形成した規制に拘束されているわけですね。

ですから、虹の色は日本人や米英人では7色ですが、ドイツ人は5色で、世界
には3色とか2色しか識別しない民族までいますし、動物の鳴き声も民族毎に
違って聞こえるそうですし、欧米のクラッシク曲も、雑音としてしか聞こえない
民族もいるわけで、こうした点からも人間は客観的に世界を見ているとはとても
言えません。話が脱線しました(笑)


●因果律の件ですが、たとえば、駅のホームに3人の人が並んで電車を待って
いたとします。

そこにある男が来て、最前列の男が普段から殺したいほど憎んでいる男だと気付
いて、電車が到着直前に、その男が3人目の最後の人の背中を強く押したとします。

この場合、次々に後ろから押された人が前に倒れて、最前列の男が電車に轢かれ
ても、列の2番目の人や3番目の背中を押された人が前に倒れたのが原因とは
誰も考えないでしょう。

その理由は、2番目と3番目の人は、ただの意思のない物体と同じだからです。
つまり、意思のない物質が何らかの自然の必然的な法則性に従って、他律的に
運動をした場合は原因とは見なせません。原因と見なされる事象には、何らかの
意思的なものがなければなりません。

従って、自然界に厳密に因果律を適用した場合、自然必然的連鎖の果てに、宇宙
全体がある事象の原因とでも言うしかなくなります。もし、何らかの物質や事象、
法則が原因と見なされた場合は、事実上、それらを意思を持つ生物と見なして
いることになってしまいます。

ただし、技術は別で、因果律で近似的に原因を探して良いというか、因果律を
活用しないと技術はなりたちませんね。

学問でも、近似的・暫定的なものとして、自覚的に使用するなら良いと思います。


59. 2012年3月02日 21:58:18 : EVskgte9f6
>>58 母系社会さんのスタンスが分かってきたように思います。

1)最初に明確にしておきたいことは、母系社会さんの仰るとおり、確実なものというのは(有限な存在である個人には)見出せないということです。おそらく母系社会さんの視点は、そこに集中しているのではないかと思います。

2)その一方で明確にしておきたいことは、この世の様々な事柄について、様々な説明が「可能」なことです。それが確実・事実であるかは関係ありません。説明が可能であるということは、(有限な存在である個体にとっては)現実の説明とみなして差し支えない、つまり、「神にとっては過ちでも、人間にとっては事実」がありうるという事です。
例えば、人間はAM,FMといった電磁波を認識する能力がありません。だから、町中にAM,FM波がとびかっていようがいまいが、関係ありません。ラジオさえなければ、AM波やFM波が、あろうがなかろうが、それは、どちらの説明でも「構わない」のです。

1,2を踏まえたうえで関係主義について考えると、関係主義は「関係」の「存在」を認めるのですから、実体を認めている。なぜなら関係主義も実体主義も、世界を仮定していることだけは間違いないから。そもそも、関係を定義するためには「複数の実体」が必要で、「複数」という時点で、実体には何らかの違いが存在せねばならず、「関係」だけに視点を特化して世界を把握することは原理的に無理です。

となると、関係主義も実体主義も、それが眺める対象(世界)は同一である、もしくは同一のものにしようとしている、と考えざるを得ません。つまり、実体主義も関係主義も、世界の説明可能性を与える一つの道具であり、その意味で等価である。


私が気になっていたのは、母系社会さんの仰る「検証不可能性」というのが、神の視点に立てるかどうか、という意味なのか、有限な存在である人間の認識から見て事実と認めうるかどうか、という意味なのか、でした。

おそらく母系社会さんは、神の視点には立てない、と、仰っているのかな、と思いました。それなら同意です。


#余談ですが、因果関係についてはミシェル・フーコーが良い台詞を残していたかな? 「Aの後にBが起こったからといって、AがBの原因とは限らない」


60. 2012年3月03日 13:17:23 : oJXdnEfTdc
>>45です。

母系社会さん
>>50
紹介された野家啓一氏(東北大)の「科学の解釈学」(ちくま学芸文庫)を読みました。
用語が難しいなぁ。

90年頃までの国際共産主義運動においての「階級性」=「党派性」=「客観性」に該当するのではないだろうか。

これはスターリン同志によって提案された。
「科学」の土台は「産業」にあたる。
「産業」とは社会の「実践」にあたる。
「社会」を握っているのが資本家階級だから、「科学」はその階級に奉仕する。
「客観」を担保されている「科学」はありえない。
まぁ、このようなことだった。

私からしてみれば、政治的にトロッキストの広松氏が、彼の体を通して、当時存在したソ連邦を先頭にした社会主義世界体制に対して、どのような立場と評価をしていたか、だろうね。

「階級性」=「党派性」=「客観性」の焼き直しに見えるが。
国際共産主義運動の隊列が無い中では、野家市の主張は、とても重要だ。

>>59さん
実体主義か関係主義かで、立場が違ってくるのは、現象をどう解釈するかではないでしょうか。
いのちは、この「空間」のどこかにある。
卵子と精子が結合してからではないでしょ。
もともと、どこかにあるのでしょ。
それが受精という形式でいのちとして、私たちの感覚に感じることができるのでしょう。
死の現象も、そうでしょう。
そのことで、いのちが、どこかに去っていくことではないでしょう。
最初から、どこかにいのちがあるのでしょう。
「無」と言われる「空間」に。
マルクスは『経済学・哲学草稿』にそのような自然と人間と社会の自由な交流を記しています。
もともと、どこかにある。
資本家階級は、「宇宙の始めと終わり」について想定をしています。
マルクスの宗教批判はこの批判でしょ。
「神の視点には立てない」とは、「宇宙の初めと終わり」の立場に立たないことの表明でしょ。


61. 母系社会 2012年3月03日 15:59:07 : Xfgr7Fh//h.LU : e69CvCaLwA
>>59さんへ

>母系社会さんのスタンスが分かってきたように思います。
>1)最初に明確にしておきたいことは、母系社会さんの仰る
>とおり、確実なものというのは(有限な存在である個人には)
>見出せないということです。おそらく母系社会さんの視点は、
>そこに集中しているのではないかと思います。


「確実なものというのは見出せない」と考えているというのは、
概ね、その通りですね。

「概ね」という意味は、一部は確実な知と言えるものもあると
思うからです。


>2)その一方で明確にしておきたいことは、この世の様々な
>事柄について、様々な説明が「可能」なことです。それが
>確実・事実であるかは関係ありません。説明が可能である
>ということは、(有限な存在である個体にとっては)
>現実の説明とみなして差し支えない、
>つまり、「神にとっては過ちでも、人間にとっては事実」
>がありうるという事です。
>例えば、人間はAM,FMといった電磁波を認識する能力があり
>ません。だから、町中にAM,FM波がとびかっていようがいまいが、
>関係ありません。ラジオさえなければ、AM波やFM波が、
>あろうがなかろうが、それは、どちらの説明でも「構わない」
>のです。


なるほどそうですね。


>1,2を踏まえたうえで関係主義について考えると、関係主義
>は「関係」の「存在」を認めるのですから、実体を認めている。
>なぜなら関係主義も実体主義も、世界を仮定していること
>だけは間違いないから。そもそも、関係を定義するためには
>「複数の実体」が必要で、「複数」という時点で、実体には
>何らかの違いが存在せねばならず、「関係」だけに視点を特化
>して世界を把握することは原理的に無理です。


広松は、あくまでも唯物論者ですから、広松自身とは別に他者や
、他のモノがあることを何度も認めています。

広松も「関係の第一次性」と言ってまして、二次的には関係性
を形成し、また、それゆえに関係性によって規定される関係の
<項>(59さんが言う「実体」)自体の問題もあることは当然
ながら認めていると思います。

というのは、当然ですが、広松は広松自身の対他関係は様々である
ことを認識していたわけで、そのように、広松が対他的に様々な
関係性を結ぶのは、他のモノ自体の物理的組成が様々で、そのこと
により、様々な機能的連関性を結んでいると考えていたはずです。

広松が言いたいことは、人間の性格やモノの性質や属性、本質と我々
が考えているものは、通念では、人やモノが内在的に具えているもの
とされていますが、実は、それはヘーゲルが明らかにした反照規定の
機制で、関係性が各<項>に物象化されて、あたかもモノの内在的な
性質であるかのように我々が錯視しているものということです。

確かに、「関係」だけでなく、モノ自体も認識できれば良いのですが、
残念ながら、我々が認識できるのは原理的に関係だけと考えるのが
広松の認識論なのですね。

これは、人間の意識が一瞬の休み無く変化し続けているように、存在
自体も一瞬の休み無く生成流転しているので、仮に存在自体を、直に
認識できるとしても、何が何だか理解することはできないと想定して
いるのではないか、と思います。

しかし、たとえば誰かが毎日通勤に使用している自動車の場合でならば、
昨日の通勤の使用で、多少消耗=変化が起きたはずですが、自動車
としての機能は今日も維持していれば、当たり前のことですが、今日も
通勤に使用できるのわけです。

すると、移動手段としては同一の機能を発揮してくれるわけで、
それ自体は物理的に、通時的に変化しても、その変化がその機能を奪う
までは、その自動車の所有者との関係性は一定の間は無変化なわけです。

要するに、そのモノ自体は生成流転していても、逆に、関係性はある期間
は同一性を保っている、関係は存在自体よりは安定的と考えていたのでは
ないかと想像しています。そうでないと、関係性も認識不能となるからで
、我々は誤認しているとしても、関係が安定的なので、関係を誤認できる
のだと思います。誤認であれ、正しい部分もあるので、誤認さえできない
となると、生存不能なりますね。

ところで、哲学の「実体」という言葉は、何らかの素材的なものに、
何らかの性質が具わっているものという意味で、しかも、性質の一部は
他の実体との関係で多少は変質することはあっても、一応、自力で
「本質」的な自己同一性を維持している存在です。

完全な、究極的な「実体」は、一切の他の存在からの影響を完全に排除して、
文字通りに自力で完全な自己同一性を維持しているとされている全知全能の
<神>です。

そして、実体主義では、そうした実体がまず存在し、次に他の実体と
関係を結ぶと考えますが、関係主義では、まずは関係があるということ、
そしてその関係性が<項>であるモノに物象化して、あたかも<項>が
実体であるかのように現象していると考えるわけです。

これは、ある図形が円であるのは、それが円という性質・本質を内在的に
保有しているからと考える=実体主義=か、それとも、ある図形が円である
のは、「日の丸の旗」で言えば、白布に赤色で円が描かれているのが
「日の丸の旗」ですが、白い布に赤い色で円を描くと、白布は、白い「地」
の部分と赤い円の部分に分節化されるわけですが、この「地」と円形の二つ
の比較による差異の知覚や、この世界が様々な四角や三角とかの異なる図形
で分節化されていること、それでそれらの比較による差異の知覚で、円は円
と認識されると考える=非実体主義=かの違いです。

色も同じであり、仮に、この世界が赤色だけなら、色という概念さえ生れ
ないし、そうであれば当然、赤色という色の認識も持たないと考える
のが非実体主義です。

そうではなく、世界が赤色だけでも赤色なのだから、赤色と認識するはずと
考えるのが実体主義ということになります。果たしてどちらが正解なのか、
答えは自明でしょう。

つまり、極簡単に、誤解を恐れずに認識とは何かということを言えば、認識
とは、関係性の比較による差異の知覚ということもできると思います。

だから、人間という存在を知ろうとする場合には、人間に近い類人猿や
コンピュターなどの最先端の機械と比較しますし、日本人を知ろうとする
場合には、他の民族との違い・差異を調べます。

日本人自体を眺めても、日本人の特徴はわかりませんね。だから、対象自体
の直の認識は不可能であるわけですが、実体主義的な認識論である反映論・
模写説は、可能と考えているわけですね。


>となると、関係主義も実体主義も、それが眺める対象(世界)
>は同一である、もしくは同一のものにしようとしている、
>と考えざるを得ません。つまり、実体主義も関係主義も、
>世界の説明可能性を与える一つの道具であり、その意味で等価
>である。

確かにその通りですね。

ただ、いずれにしろ、人間は自分が正しいと思う言動をするしかありません
し、普遍性を求めるしかありませんが、その際に、例えば他人が存在する、
他のモノが存在する、人間は生物として少しでも長く生き延びようとしている
、その他、紙に火をつければ燃えるとかの「事実知」などは確実な知と
して主張して良いのですね。

相対主義だから、何でも相対的で、確実な知はないと主張しているのではない
ということですね。

しかし、その他の抽象的な、理論的確信=私の場合なら「関係主義」=は、
確信しているのですから、確信として主張して良いのですが、一方で、
「井の中の蛙」としての確信でもあることを忘れずにいることが重要だと思う
のです。

そうでないと、真理を巡って人間はカルト集団となって、分裂してゆく傾向性
を克服できません。

政治党派の核分裂的分裂と内ゲバなどの厳しい対立は、近代に成立した実体主義
的な進歩主義的真理観が一因だと思います。

共産党がスターリン主義的な「民主集中制」をなかなか放棄できない背景的な
理由や、政治党派の独善的な態度も、進歩主義的な真理観が原因です。

宗教教団の核分裂的分裂も、こうした真理観が原因なので、近代以前から
何らかの傾向性としてあったのでしょうが。


>私が気になっていたのは、母系社会さんの仰る「検証不可能性」
>というのが、神の視点に立てるかどうか、という意味なのか、
>有限な存在である人間の認識から見て事実と認めうる
>かどうか、という意味なのか、でした。

>おそらく母系社会さんは、神の視点には立てない、と、仰って
>いるのかな、と思いました。それなら同意です。

その通りですが、この宇宙、この世界には、格別な運動系などないので、
そもそも、我々人間が全知全能になっても、神の視点が存在しないし、
その意味では、客観的な唯一絶対の物理的な真理自体が無い、逆に言えば、
この我々の運動系の真理も、真理の一つという言える権利があるという
ことになりますね。

それは、仏教やマルクス主義の生成流転する物自体という存在観とも一致
しているというか相即的で、整合的とも言えますね。

>#余談ですが、因果関係についてはミシェル・フーコーが良い
>台詞を残していたかな? 「Aの後にBが起こったからといって、
>AがBの原因とは限らない」

その通りですね。


62. 2012年3月03日 17:18:06 : EVskgte9f6
>>60 さん。興味深い話です。

「いのち」の話となると、ちょっと私の手に負えそうにありません。
というのも、「いのち」という単語で想起される概念は、人によって
相当違うだろうと思うからです。

例えば、生物学などでは、自己複製する複合物を生物と規定しており、
いくつかのアミノ酸の連結したものが最初の生命という仮説が有力です。
この場合、
>最初から、どこかにいのちがあるのでしょう。
という考え方を進めると、アミノ酸を構成する原子、さらには
原子を構成する素粒子も「いのち」となります。これは別の概念だと思います。
というのは、この場合の「いのち=素粒子単体」は自己複製しないから。
こんな感じで、一つの言葉で、大きく異なる概念を示す場合、
解釈(もしくは説明)の違いというわけではないように思います。
ですので「いのち」は、すみません、私の手に負えません。


>資本家階級は、「宇宙の始めと終わり」について想定をしています。
>マルクスの宗教批判はこの批判でしょ。

この部分は、私にはよく分かりません。
マルクス(ではなくてエンゲルスかもしれませんが)の宗教批判は
もともと未知なる自然への解釈であった宗教的思想が
資本主義の下では支配関係の道具になってしまった、
つまり、自然ではなく、人間の人為的行為を説明するための道具になった
ことへの批判と理解していました。
(いわゆる宗教は弱者の逃げ場、強者の免罪符、社会の麻薬論)

「宇宙の始めと終わり」(あるいは、世界の始めと終わり)を
「当時の西洋キリスト教的視点に立つ」という意味で考えるのであれば、
なんとなく分かるのですが、それで合っていますか?
科学が進展し、機械の助けを借りて色々な物理現象を間接的に
認識できるようになったので、矛盾を抱えた宗教的説明は捨てるべきと
いう意味で。


63. 2012年3月03日 18:15:54 : oJXdnEfTdc
>>62さん
60です。
勉強になります。
私の書き方が、あなたの感受性とズレておりました。
さらに、「いのち」にかんしての提案と「宇宙」にかんしての提案の隙間を埋める文章を抜かしておりました。
会話ではないから、あなたに、失礼を与え、大変申し訳ありません。

いのちの定義ではありません。
子どもが、この世に出てきたときとか、身内がこの世から去っていく現象のことです。
私たちは誕生したとか、死亡したと呼んでいます。
そして自分自身や、子どもを観察しますと、生きていることがわかります。
呼吸しているから生きているのではなく、生きているから呼吸の現象だと思います。
まぁ、このようないのちのことです。

『「宇宙の始めと終わり」(あるいは、世界の始めと終わり)を
「当時の西洋キリスト教的視点に立つ」という意味で考えるのであれば、
なんとなく分かるのですが、それで合っていますか?』

その通りです。


64. 2012年3月03日 18:25:48 : EVskgte9f6
>>61 母系社会さん。丁寧な説明ありがとうございます。

これまでのやり取りを通して、母系社会さんと私は、言葉や軸足は違えど、よく似た考え方かな、と思えてきました。全体的に非常に同感できます。それを特に強く感じたのが、

>>おそらく母系社会さんは、神の視点には立てない、と、仰って
>>いるのかな、と思いました。それなら同意です。

>その通りですが、この宇宙、この世界には、格別な運動系などないので、
>そもそも、我々人間が全知全能になっても、神の視点が存在しないし、
>その意味では、客観的な唯一絶対の物理的な真理自体が無い、逆に言えば、
>この我々の運動系の真理も、真理の一つという言える権利があるという
>ことになりますね。

(宇宙全体を眺めることができると絶対静止系を定義できてしまいますので、そこはちょっと違うかもしれないとは思ったのですが、些細なことです)物事・現象を完全に把握することは不可能、そして、現実を説明可能な主張であれば、それを真理とみなす権利がある、という点で同感です。


母系社会さんは相対主義の立場を取られるていることは、しっかり理解していますので、以下は反論ではなく個人の感想ということを前置きしつつ、ちょっとだけ(笑)

>そうではなく、世界が赤色だけでも赤色なのだから、赤色と認識するはずと
考えるのが実体主義ということになります。果たしてどちらが正解なのか、
答えは自明でしょう。

まず一つ思ったのは、認識するかどうかで存在を判断するとなると、これは物性(というか実体に付随する性質)とは離れた話になるのではないか(真理かどうかより説明可能性としてより単純であるという話)。
もう一つは、世界が赤色だけになれば、非実体主義における色という関係も無くなるのではないか、つまり、非実体主義も実体主義も同じ現象を別の方法で捕らえており、従って片方が存在しない場合は、もう一方も存在しない、どちらが優れていると言うわけではない、と感じました。

ところで、物理学の世界で、実体主義(といえばいいのか自信がありませんが)が主流を占めてきたのには色々理由があると思うのですが、何よりも大きいのが説明が単純という点だと思います。

電気回路設計などでは、複雑な回路を設計するときに、単純な回路を解析して、その結果を重ね合わせることがあります(スーパーインポーズ理論とも言う)。こうすると、動作を理解しやすい。計算機の分野ではオッカムの剃刀というのが有名ですが、物理学では昔からそういう思想で「解釈を選択」してきたんじゃないかなと思います。

現代では多少変わってきているようで、気象予報が格子状に地域を分割し、差分方程式というのを立てて、地域間の相互作用(まさに関係主義かな?)を計算することで予測しているのは有名な話かと思います。これは主に計算機の能力が上がってきたから可能になった話で、機械系でも化学系でもどんどん相互作用を計算するようになってきたみたいです。

どんどん話が脱線しますが、
計算機の恩恵を一番受けたのは、光学レンズだという話を聞いたことがあります。屈折という非線形作用を、曲面で計算しなければならないので、昔は単純な形のレンズにしなければ設計できなかったそうです。今はスパコンで計算するようになり、小型で高性能のレンズ(の組み合わせ)が実現し、カメラが小型化しました。技術の進歩は偉大です。


65. 母系社会 2012年3月04日 19:25:47 : Xfgr7Fh//h.LU : ECqCgTYBAw
>>60さんへ

>私からしてみれば、政治的にトロッキストの広松氏が、彼の体を通して、
>当時存在したソ連邦を先頭にした社会主義世界体制に対して、どのような
>立場と評価をしていたか、だろうね。

●広松は、旧ソ連に批判的な左翼の一部が旧ソ連を「国家資本主義」と規定
することに反対して、広松自身は旧ソ連を「国家社会主義」と呼んでいました。

下は「ウイキペディア」の広松の略歴です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

略歴

廣松渉の政治思想には共産党員であった母の影響が強いと言われる。
1946年、中学1年生の時に日本青年共産同盟に加盟。 1949年4月、
高校進学と同時に日本共産党に入党する。1950年の50年分裂では
国際派に所属し、 1951年に国際派の「全国統一会議」が解散した後は、
党に戻らず全日本学生自治会総連合(全学連)などで活動。
福岡県立伝習館高等学校中退後、大検に合格して大学進学資格を得て、
東京学芸大学に入学するも、中退して東京大学に再入学をする。

当初、廣松渉はエルンスト・マッハに対する関心が強かったが、
指導教官の勧めもあってカント研究に専念することになる。その後、
東京大学大学院に進学。1965年に博士後期課程を単位取得退学している。

政治的な思想面では1955年7月の日共第六回全国協議会(六全協)
を受け復党するも、翌1956年に出版した共著書『日本の学生運動』
が問題とされ離党した。1958年12月に共産党と敵対する共産主義者
同盟(ブント)が結成されると以降、理論面において長く支援し続けた。
1967年創刊の『情況』は、廣松が当時の金で100万円援助して、
創刊されたものだという。創設者の古賀暹によれば、いったん断ったが、
喫茶店で上半身の服を脱ぎ、さらしから100万円を出し、「男が一度出
した金を引っ込めることはできない」と言われたことから、創刊を決意
したと言う(荒岱介『破天荒な人々 叛乱世代の証言』(彩流社2005)
古賀暹インタビュー)。 ソ連・東欧の社会主義体制が崩壊しつつあった
1990年にはフォーラム90sの発足にも関わった。

1965年から1970年まで名古屋大学でドイツ語、哲学などを教える。
1970年に学生運動を支持して辞職。しかし1973年に大森荘蔵の要請
で東京大学教養学部の非常勤講師となり、1976年に助教授、1982年に
教授に就任した。1994年3月に東大を定年退職。河合文化教育研究所の
専任研究員となったが、既に病床にあったため一度も出勤しなかった。
1994年5月22日肺癌にて死去。

以上、引用終わり

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私が知る限りでは、この略歴は概ね正しいと思います。いくつか付け加える
と、広松は中学生の頃から、北九州の共産党組織の一員として実践活動をして
いたのですが、この頃に朝鮮戦争が起きた影響で共産党も弾圧されて、各地の
組織は半独立状態となったらしいのです。

それで、当時の北九州の共産党組織は、朝鮮半島から米軍が追い出されたら、
次は九州からも米軍を追い出して、九州に共産党政権を樹立することを目的
として活動したそうです。

広松も、朝鮮半島で戦う米軍の軍事行動を妨害するために、九州の米軍用の
軍需工場に忍び込んで、破壊活動を行うというようなというような非合法
活動をしていたらしいです。この辺の時代の活動については、当然ですが
余り詳しくは語っていません。

伝習館高等学校は中退ではなく、伝習館での活動を理由に退学させら
れたと記憶しています。

それから、ブントが結成される前の大学生の頃、学生運動の方針を巡り、
共産党系の学生同士で対立が起きて、広松は反対派から査問=リンチされて
怪我をしてます。

また、その後のブントが分裂した後、広松が関係していたブント系の小さな
党派の活動との関連で、広松は襲撃されて大怪我をしたのですが、そのことが
その党派に知られると広松のシンパ達が憤慨して、大規模な内ゲバになること
を危惧して、自ら襲撃されたことを隠し、また、病院に行くと警察にバレル
ので、看護士であった奥さんが看病して直したらしいです。

●ろくに理論自体の吟味・検討はせずに、政治的な行動の誤りを、理論の誤
りの証拠のように見なしたり、逆に、ろくに理論自体の吟味・検討はせずに、
政治的な行動が正しいから、理論も正しいと見なす人もいますが、こうした
考え方はどちらも危険であり、誤りでしょう。

ナチスは健康の問題にも熱心であったため、当時、タバコの害について最も
熱心に研究したり、広報活動をしたのはナチスだったそうで、タバコ資本
にも操られていたアメリカは、戦後、タバコの害を宣伝するような奴は
ナチスだというキャンペーンを行ったそうです。

理論と政治的判断・行動とは関係がありますから、関連させて評価するべき
問題があるのは事実ですが、区別して評価すべき問題もあります。

政治的な判断は、理論だけでなく、現状分析的な、現実世界の評価とも関連
させて、妥協的政策を採用せざるを得ない時には妥協するとか、技術的な
側面もあるからです。

ですから、私は広松理論は概ね正しいし、現時点では関係主義を基本に
マルクス主義像は見直されるべきだし、そうでないと反マルクス派の誤解は
永遠に解けないのではないかと思います。

また、科学=学問も関係主義を基本にすべきで、世界が関係主義的な考え方を
するようになれば、「盗人にも三分の理」というような相対的な物事の見方に
なるので、欧米の善悪二元論的な思考法の害、つまり、自分たちは全くの<善>
で、<善>である自分たちに歯向かう者は<悪>と決めつけ、動物のように同属
である人間を殺す思考法を克服できるようになると思います。

それと、何よりも、前にどなたかだ言っていましたが、関係主義を採用すると、
とても楽に生きられるようになるという「御利益」がありますね(笑)

>国際共産主義運動の隊列が無い中では、野家氏の主張は、とても重要だ。

全くその通りですね。

野家氏は日本哲学会の会長なので、哲学の学会でも、広松派は一定の勢力を
維持しているのかもしれませんから、この点でも、まだ希望がありますね。


66. 2012年3月04日 20:11:40 : gC4OXwfgYc
母系社会さん
>>65

「それと、何よりも、前にどなたかだ言っていましたが、関係主義を採用すると、
とても楽に生きられるようになるという「御利益」がありますね(笑)」
こりゃ一本とられたなぁ。


●「広松自身は旧ソ連を「国家社会主義」と呼んでいました。」
そうか、広松氏はソ連邦を「国家社会主義」と呼んでいたのか。
戦争中の「自由主義者」の立場に近いなぁ。
彼らは所謂「第2次世界大戦」を「米国・英国・和」の自由主義国と、「日本・ソ連邦・独・伊」の「国家社会主義」の争いと見ていた。
その限りで「自由諸国との戦争反対」だった。


「●ろくに理論自体の吟味・検討はせずに、政治的な行動の誤りを、理論の誤
りの証拠のように見なしたり、逆に、ろくに理論自体の吟味・検討はせずに、
政治的な行動が正しいから、理論も正しいと見なす人もいますが、こうした
考え方はどちらも危険であり、誤りでしょう。」
むかし、三井田一男さんの教えで「公式は大切」を習った。
その通り。


広松さんは苦労された。
最初が日本共産党では、実体主義者の集合体なので、窮屈だっただろう。
次が第1次と第2次ブントかい。
本屋で写真を見ると、鼻筋が通り、顎が尖がっている。
マルクスと同じ行動のタイプだが、違う点は、非日常と日常の境で言えば、非日常タイプだね。
生活が安定すると、能力が発揮しにくい。

私はむかしの人間。
でも母系社会さんから多くのことを習っている。
これからも教えてほしい。


ところで、以下の文脈は、母系社会さんの、どんな発想が文字になったの。
「ナチスは健康の問題にも熱心であったため、当時、タバコの害について最も
熱心に研究したり、広報活動をしたのはナチスだったそうで、タバコ資本
にも操られていたアメリカは、戦後、タバコの害を宣伝するような奴は
ナチスだというキャンペーンを行ったそうです。」


67. 母系社会 2012年3月07日 01:09:05 : Xfgr7Fh//h.LU : x0v3Iloses
>>66さん

>「それと、何よりも、前にどなたかだ言っていましたが、関係主義を採用
>すると、とても楽に生きられるようになるという「御利益」がありますね(笑)」
>こりゃ一本とられたなぁ。

これは、私自身が何度か体験しているので本当のことですね(笑)
だから、皆、関係主義者になれば良いと思います。

関係主義=相互作用論ですと、因果律も否定する立場なので「お前が一方的に
悪い」とはならなくなるからですが、資本主義社会では、人間は主体的個人
ということになっているので過剰な責任感が生れますね。これが、自殺の
一因かもしれませんね。

この個人主義的な人間観が、労働は先行世代も含めた歴史的な協働行為である
こと、従って、特許権を認めたり、ある個人が生産したものは、その人個人の
ものという所有観=私有財産観=は誤りであることを隠蔽してますね。

認識論では主観が共同主観化されていることを無視した近代の「主観ー客観」
図式の認識論となります。

認識をこの図式を前提として考える限り、どうしても超えられない壁が出来て
行き詰ってしまうので、20世紀初頭まで盛んであった認識論は、「主観ー客観」図式の認識論を超える一歩手前まで到達しながら、下火となってしまい、この
「主観ー客観」図式の認識論は生き延びたらしいです。

一方で、マルクス主義では、どんな流派であれ、人間を「諸個人」と捉える
ことは共通認識となっているはずですから、マルクス主義の認識論は
「主観ー客観」図式の認識論を採用しないはずですが、どうやらそうでもない
らしく、新左翼も含めたマルクス主義の主流派は、意識的・無意識的に、この
図式を前提とした反映論で認識を考え、広松の認識論は誤りだとしているので
はないかと思います。

というのは、たとえば、洗面器の中のお湯の温度を測る場合でなら、
お湯が入った洗面器に温度計を入れてお湯の温度を測りますが、その時に、
彼らは、温度計と洗面器入っているお湯は別の存在で、温度計の温度は、
洗面器に入っているお湯の温度を測っていると考えます。

つまり、温度計は「知る側」で、お湯は「知られる側」にあると考えますが、
実際は、温度計とお湯から成る一つの<系>の温度を、温度計は測っている
のであって、「知る側」=「知られる側」という関係・事態で、これが
ハイゼンベルグが述べた「我々は・・・観客であるばかりでなく、共演者でも
ある」と言ったことの意味であり、我々は、この温度計の立場で認識している
のですから、「主観ー客観」図式の認識論は誤りということです。

そして、お湯に冷たい温度計を入れたので、その温度計分、お湯の温度は下
がったと考え、どのくらい下がったかを計算し、足せば、温度計を入れる前の
お湯の温度はわかると考えますが、これは機械論的な自然観に基づいた温度の
補正です。

というのは、機械論的自然観では、自然は機械が様々な部品から成るように、
自然も様々な部品から成ると考え、それらの部品が単に成素複合的に組み合
わされたものと考えているので、たとえば、ある自然物の重さは、各部品の
重さを単純に足したものと考えます。

しかし、こうした自然観は実証されたことは無い先入観的自然観ですが、
こうした自然観を前提に、温度計がお湯の温度を下げた分だけ単純に足せば、
温度計を入れる前の温度はわかると考えるわけです。

これは、この温度が誤りという意味ではなく、考え方、発想法の問題で、他の例
ではある成素が取り除かれると、他の部分も消滅するとかの場合もありえるわけで、自然は機械のような存在ではないわけですね。

広松は、楽に生きられるからと関係主義を唱えているのではなく、この関係主義
的発想法に基づく認識論・存在論が、商品の価値概念に大きく関わるからです。

それと、西欧の哲学は一元論を目指していますので、広松も一元論的に自然界と
人間界を説明することを目指して<関係一元論>を採用したわけですが、これは、一元論と言えば一元論ですが、関係は複数の<項>がないと成り立たないので、
実質的には多元的論的一元論となっているのではないかと思います。


>「広松自身は旧ソ連を「国家社会主義」と呼んでいました。」
>そうか、広松氏はソ連邦を「国家社会主義」と呼んでいたのか。
>戦争中の「自由主義者」の立場に近いなぁ。
>彼らは所謂「第2次世界大戦」を「米国・英国・和」の自由主義国と、
>「日本・ソ連邦・独・伊」の「国家社会主義」の争いと見ていた。
>その限りで「自由諸国との戦争反対」だった。

広松は、主権国家の消滅を目指しているハズのマルクス主義党が、一国社会主義
を理念としたために、世界からの軍事的脅威に晒されていたこともありましたが、逆の、国家権力そのものである秘密警察が国民を監視するような国家主義的国家
を創り上げてしまったことを重視したのではないかと思います。

また、ノーメンクラトゥーラと呼ばれる特別に優遇された官僚階層による独裁的
政治体制を維持するため、ソ連という国家の防衛を最優先にして、そのために
他国の社会主義勢力を自国のために利用したことを重視したのではないかと
思います。

しかし、それでも資本主義でもなく、また、生産手段の社会化でもありませんで
したが、国有化という形での公有制を維持し、指令経済的ではあれ「計画経済」
体制を築いてことで、「国家社会主義」と呼んだのではないかと思います。


>広松さんは苦労された。
>最初が日本共産党では、実体主義者の集合体なので、窮屈だっただろう。
>次が第1次と第2次ブントかい。
>本屋で写真を見ると、鼻筋が通り、顎が尖がっている。
>マルクスと同じ行動のタイプだが、違う点は、非日常と日常の境で言えば、
>非日常タイプだね。生活が安定すると、能力が発揮しにくい。


広松は、「個人テロ」の標的にされても、理由を告げずに身を隠して秘密にした
ため、仲間からも急にいなくなり、不信感をもたれたと思いますが、それまで
しても内ゲバという悪弊を回避しようとしたのですから、非常に稀な人物だった
と思います。

東大の教授になったことを非難した人もいましたが、広松のような人物には安定
した研究環境を与えて、一冊でも多くの著作を残させた方が、結局は人類のため
になると思います。

研究を続けながらも、ある程度は現実の政治にもかかわり続けたので、マルクス
のような人物だったと思いますが、私の場合は、広松の理論は支持しますが、
その政治的判断の全てを支持しているわけではありません。

広松は、共産党が「プロレタリア独裁」を放棄した時には激しく非難して、原則
主義者であることを示しました。

この判断の正しさは、昨今の小沢氏への政府・官僚・マスゴミの総力をあげた
失脚陰謀などを考えますと、「プロ独」で反対派を一掃(と言っても、物理的
抹殺ではなく、降格・左遷とかの方法ですが)しない限り、改革・革命は不可能
だと思いますので支持します。

しかし、一方で、広松が創価学会との「創共協定」を非難したのは支持できま
せん。

確かに、宗教は支配の道具として利用され、また、多くの教団幹部は自ら支配の
道具として利用されることを受け入れてきたわけですが、民衆にとっての宗教が
果たしている役割は、こうした面とは別にあると思うからです。

というのは、子供を失った親の悲しみなど、政治的・社会的制度の改革・革命
だけでは救えない人間の苦悩があると思うからで、また、宗教が社会秩序=体制
維持的機能だけでなく、どんな社会にも共通する社会ルールの維持=の維持に果
たしている役割も大きいと思うからです。

子供を失った親の悲しみなどは、将来は哲学や文学・思想が救済すべきですが、
少なくとも、それまでは宗教の独自の役割があり、また、秩序維持機能も巨大
だと思います。

ですから、左派は、宗教とは根強く対話し、保護すべき対象であり、弾圧など
とんでもないことで、宗教を敵視する政策は、マルクスも含めた左派の大きな
誤りだと思います。


>私はむかしの人間。
>でも母系社会さんから多くのことを習っている。
>これからも教えてほしい。

とんでもありません。

こちらこそ、いろいろ教えていただきたいと思います。


>ところで、以下の文脈は、母系社会さんの、どんな発想が文字になったの。
>「ナチスは健康の問題にも熱心であったため、当時、タバコの害について最も
>熱心に研究したり、広報活動をしたのはナチスだったそうで、タバコ資本
>にも操られていたアメリカは、戦後、タバコの害を宣伝するような奴は
>ナチスだというキャンペーンを行ったそうです。」


大した意味はありません。

「ろくに理論自体の吟味・検討はせずに、政治的な行動が正しいから、理論も
正しいと見」なして、ドイツ人の健康を守ろうとしているからという理由で、
ナチスを支持した人もいたかもしれないと思ったからです。


68. 2012年3月07日 06:36:12 : OzZZwAnO6I
母系社会さん
66です。
>>67

>関係主義=相互作用論ですと、因果律も否定する立場なので「お前が一方的に
>悪い」とはならなくなるからですが、資本主義社会では、人間は主体的個人
>ということになっているので過剰な責任感が生れますね。これが、自殺の
>一因かもしれませんね。

そうですね。
移り変わるものとしての実体主義=個人でしょうね。
実体主義が壊れるには、例えば、実家を出て経済的に独立して、家、水道、電気の契約の当事者となる過程が必要なのでしょう。
その行為では、主体が実体として把握されています。
しかし、主体とは現在意識と潜在意識の関係にかんすることです。
潜在意識は、海。
マルクスは、偶然的個人、平均的個人、抽象的個人を経て市場の中で、階級的個人に再編されると記しています。

>この個人主義的な人間観が、労働は先行世代も含めた歴史的な協働行為である
>こと、従って、特許権を認めたり、ある個人が生産したものは、その人個人の
>ものという所有観=私有財産観=は誤りであることを隠蔽してますね。

私たちの場合は、明治6年の「地租改正」で土地=自然が、社会として自分のものになりました。
そのことによって、自然の一部の人間が、自然と切り離されたのでしょう。
その過程は大日本帝国憲法発布まで続きます。
さらに、日清戦争で必要となった兵士の予防接種でしょう。
そのことにより「主観」と「客観」の図式は定着していくのではないだろうか。
いまも、義務教育では予防接種があるのだろうか。
いまさらに、政府は国民全員にインフルエンザの予防接種を義務ずけしようとしております。
病原菌が外からきても、中のバランスが崩れて病気という現象になっても、
もとは菌と人間の自発的な共同行為なのです。
政府は、国民の「主観」と「客観」の図式を刷りこもうとしております。

>一方で、マルクス主義では、どんな流派であれ、人間を「諸個人」と捉える
>ことは共通認識となっているはずですから、マルクス主義の認識論は
>「主観ー客観」図式の認識論を採用しないはずですが、どうやらそうでもない
>らしく、新左翼も含めたマルクス主義の主流派は、意識的・無意識的に、この
>図式を前提とした反映論で認識を考え、広松の認識論は誤りだとしているので
>はないかと思います。

そうそう。
所謂、日本共産党の民主集中制は実体主義の個人の図式が前提となっている。
連合赤軍の唯銃主義や、トロッキスト両派の内ゲバは、「諸個人」の政治闘争でなく、実体主義の軍事の発想である。
「関係主義=相互作用論」での「諸個人」との関係作りが、共産党の「戦術」。
レーニンの「プロレタリーアのヘゲモニー」=同盟政策です。
私たちの政治闘争の教科書はクラシン。
でも、私は国際共産主義運動の側に身を置いて、分かったのは。
フルシショフの「全人民国家」論や、69年の75カ国共産党・労働者声明での「社会主義は自らの基盤でできている」という意味の政治的文章で、「主観ー客観」図式でした。

>広松は、楽に生きられるからと関係主義を唱えているのではなく、この関係主義
>的発想法に基づく認識論・存在論が、商品の価値概念に大きく関わるからです。

私は楽に生きられるからですよ。

きょうはパソコンの前に坐る時間がとれません。
のこりは後日に書きます。
ではまた。


69. 2012年3月08日 12:27:08 : MCEufck16q
母系社会さん
68です。
>>68
>というのは、たとえば、洗面器の中のお湯の温度を測る場合でなら、
>お湯が入った洗面器に温度計を入れてお湯の温度を測りますが、その時に、
>彼らは、温度計と洗面器入っているお湯は別の存在で、温度計の温度は、
>洗面器に入っているお湯の温度を測っていると考えます。


私もお風呂のお湯の「量り」かたを話しております。
母系社会さんと共鳴関係にあるのでしょう。
私の場合は、「計測」ではありません。
人間の能動性を養うためで。
人間の感覚器官とお湯がひとつになるまで。
お湯と手がひとつのもののなかの移動、配分の関係をわかってもらうため。

風呂にお湯をはる現象、その現象の現れを見るには、お湯を片手で十分に混ぜること。
何度も。
それは、片手とお湯が違和感がなくなるまで。
そして、濡らしていない片手を入れこと。
この行為で、連想と人間の勘、知識・体験の総体を使います。
それで、お風呂のお湯と言う現象の現れを体得する人間の能動的な働きとなるからです。
このことが、すべての現象に対する能動的な観方、捉え方になるからです。
家庭用のお風呂、そして赤ちゃんのためのお風呂。
大人は鈍いから40度前後から、赤ちゃんは子宮の温度37.2度からスタート。
素材は日常生活から。
マルクスは『経済学・哲学草稿』で人間の感覚器官と自然との合体による創造的行為を記していますね。

>広松は、主権国家の消滅を目指しているハズのマルクス主義党が、一国社会主義
>を理念としたために、世界からの軍事的脅威に晒されていたこともありました
>が、逆の、国家権力そのものである秘密警察が国民を監視するような国家主義的>国家を創り上げてしまったことを重視したのではないかと思います。


>一国社会主義を理念としたために

私は現象の現れに関心があります。
その現象をどう観るか、どう捉えるかに興味があります。
自壊したソ連邦は人の関係を「主観ー客観」図式で観て、捉えていました。
その結果が、「一国社会主義を理念とし」ました。
それは母系社会さんのご指摘通りです。
レーニンはこの世を去る前に「旧い人間関係」から「新しい人間関係」を築くことを提案しておりました。
それは

>主観が共同主観化されていることを無視した近代の「主観ー客観」図式の認識論

を日常生活の体験で変わることのできる、経験を社会で組織することでした。
残念ながら、「平和共存」や「全人民的国家」論には、その方向がありませんでした。
ですから、ソ連邦は突然、自壊したものではありません。

>広松は、「個人テロ」の標的にされても、理由を告げずに身を隠して秘密にした
>ため、仲間からも急にいなくなり、不信感をもたれたと思いますが、それまで
>しても内ゲバという悪弊を回避しようとしたのですから、非常に稀な人物だった
>と思います。

所与の感受性は自然に形成された結果です。
マルクスも感受性は結果だから、働きかければ感受性も変化すると記しております。
広松氏が自分の感受性を対象化したときから、現在意識と潜在意識の関係ができてきます。
広松氏は、自分の所与の感受性をどう捉え、それをどう変えようとしたのでしょうか。
>それまでしても内ゲバという悪弊を回避しようとしたのです

これは広松氏の能動的行為の結果だと思いますよ。
このような広松氏の言動は、感受性の中の「ひとつのもののなかの移動、配分の関係」だと思います。
そのことを、母系社会さんは以下に的確に表現されています。

>これは、この温度が誤りという意味ではなく、考え方、発想法の問題で、他の例
>ではある成素が取り除かれると、他の部分も消滅するとかの場合もありえるわけ>で、自然は機械のような存在ではないわけですね。


結論です。
母系社会さんは、

>広松は、楽に生きられるからと関係主義を唱えているのではなく、この関係主義
>的発想法に基づく認識論・存在論が、商品の価値概念に大きく関わるからです。

と書かれています。
確かに、広松氏は商品にかかわることを書かれたのです。
それは、商品と言う現象です。
どうしてそのような現象になるのかと言う、その観方、捉え方も重なっております。
さらに商品と言う現象なのですが、実は人間の感受性にかんして書かれているのです。
それはマルクスの『経済学・哲学草稿』『フォイエルバッハにかんするテーゼ』『ドイツ・イデオロギー』の発想です。
マルクスが対象化した無意識です。
発想は感受性です。
しかし、広松氏の自分の潜在意識の方向づけが「商品」だったのです。
マルクスはあくまでも発想は感受性でした。
ただ、国際労働者協会の要求が「商品」だったのです。
それで『資本論』になりました。

ではまた。


70. 母系社会 2012年3月10日 16:18:43 : Xfgr7Fh//h.LU : BXCjrv01AE

>>68、69さんへ

>そうですね。
>移り変わるものとしての実体主義=個人でしょうね。
>実体主義が壊れるには、例えば、実家を出て経済的に独立して、家、水道、
>電気の契約の当事者となる過程が必要なのでしょう。
>その行為では、主体が実体として把握されています。
>しかし、主体とは現在意識と潜在意識の関係にかんすることです。
>潜在意識は、海。
>マルクスは、偶然的個人、平均的個人、抽象的個人を経て市場の中で、
>階級的個人に再編されると記しています。

人間という存在は本当に不思議な存在ですね。

広松によると、20世紀初頭までは、新カント派などにより盛んに認識論は
研究されたのですが、おそらく実体主義の枠内で、その限界にまで到達した
ために、どうしても超えられない壁にぶちあたり、急に議論が収束した
らしいです。

その後は、新カント派が達成した成果は無視されて継承されず、旧ソ連で
は、意識については、パブロフなどのように生理学的に議論することは
許されますが、そこまでしか認めず、意識・観念などを論じると、それ
だけで直ちに観念論だというレッテルが貼られて軽蔑の対象となるような
俗流唯物論が唯物論であるという情況となりました。

ですから、エンゲルスが「自然弁証法」で、「人々は脳の分子・化学運動
に思惟を実験的に還元することであろう。だが、思惟の本質がそれで尽く
されるであろうか。{尽くされはしまい}」とで予測した通りの事態、
つまり還元主義全盛時代へと左派は退化してしまったわけで、これは今でも
根強く続いているのではないでしょうか。

というのは、デカルトの「物心二元論」は、物質一元論で克服されたなどと、
多くの左派が還元主義丸出しの暢気な議論を信じているからです。

物質一元論は、唯物論の立場を表明する意味しかないのであり、仮に、
ある脳波の波形や脳細胞内の物理化学的変化が「私」とか「橋」という特定
の概念の思考と判明しても、それはそれで何らかの技術的成果とはなるで
しょうが、それだけの意味しかありません。

認識論でいえば、誰だかはわからないが、確かに自分以外に誰かがいるとか、
何であるかはわからないが、確かに何かがあるとかなどの絶対に否定できない
確かな認識、つまり、真理があるわけですから、こうした真理とか、逆の誤謬
とは何かが解明されなければなりませんが、こうした課題は、認識・意識に
ついての生理学的なアプローチでは絶対に解明できません。

それで、世界中の左派が観念論狩りしている間に、こうした左派と同じ素朴
反映論というカント以前まで退化した認識論を信じる論理実証主義者が、
数学の完全性という新しい信仰を掲げて、数学化=科学化という真理
基準でマルクス主義を葬りさろうとしましたが、逆に、数学の不完全性
が明らかとなり、また、数学自体が自然界との連関性というクビキを
放棄して、数学は現実世界とは無関係に自由に研究すると宣言したので、
数学化=科学化という真理基準を掲げていた論理実証主義者は、肝心の
数学から見放されて自滅してしまいました。

その後、左派は、流石に素朴反映論は放棄して、上部構造の下部構造へ
の一定の反作用を認め、認識論では、感性的な知覚像をそのまま認識
しているのではなく、知性が知覚像を補正して補正された知覚像を認識
しているという修正反映論へ進化して、これが左派の認識論として
定説化しています。

しかし、広松によると、これも近代という時代に制約された認識論に
過ぎないと言います。というのは、近代的パラダイムでは、意識現象は
身体内の現象であるという絶対的な信仰があるからです。

この信仰により、我々が日常的に知覚=現認している色あり、音あり
の風景的世界は、明らかに感覚的なものが混ざっていますから、意識界
の一部であり、意識・観念的存在なので脳内、少なくとも身体内に存在
するものという規定になり、現実の世界の像ではないとされ、現実の
世界は、こうした風景的世界像から、色や音を排除した「物理学的世界」
ということになります。

すると、我々が見ている自分の手や足、胴体のカラー像は我々の心の
中にある心像ということになり、脳内にもう一つ目や視神経という視覚
装置が必要になってしまいます。

それで、広松は大胆にも、色あり音ありの風景的世界像は、正にそれがある
と見えるところにあるとして、脳内、身体内の像という規定を否定します。

つまり、何と広松は、我々の意識の末端は身体の外にまで広がっている
というのです!

しかし、広松は一応は唯物論者ですから、そうは言っても、観念論を主張
しているのではありません。

この秘密を解く鍵が、マルクスが資本論で述べている反照規定の論理です。
例の有名なパウロとペテロの話です。

自分は人間であるという認識を持つペテロは、パウロの個別具体的身体像
を、パウロの具体像であると共に、人間の普遍像として二重化して認識
するということ、つまり、パウロの普遍像が、パウロと同じ人間という
認識を持つペテロに反照して、ペテロの身体像として認識されるわけです。

パウロは、ペテロにとっては自己像を写す鏡の役割を果たしているわけで、
ヘーゲルの反照規定は、パウロの姿を見ることで、ペテロは自己の像を見る
ことが出来るという人間の認識の重大な機制を明らかにし、マルクスも継承
しました。

ですから、広松もこれを継承して、あるコップを見た場合は、「何か
しらあるもの」が、現認されるリアルな色付きの特定像であると共に、
普遍的な「コップ」という存在として、二重化されて現象していると考え、
広松は、我々の意識の末端=風景世界=は身体の外にまで広がっている、
意識現象は身体内に限られた現象ではないと言うのです。

意識現象は身体内に限られた現象と、我々が「自我」に目覚めて以来、
絶対的真理と教えられてきた命題です。

ですから、我々としては、クラクラしてしまうしかありません。

確かに、広松が指摘するように、意識を身体内の現象と限ると、医者が
手術をしている時に見て手術している血が流れる患者の身体は、現実の身体
ではなく、医者の心の中の像に過ぎないということになり、これもおかしな
事態です。

というわけで、人間は真に不思議としか言えません。


71. 2012年3月10日 17:42:04 : Mx8LTdX8lo
母系社会 さん

>>68
>>69です。
返事、ありがとうございます。


>この秘密を解く鍵が、マルクスが資本論で述べている反照規定の論理です。
>例の有名なパウロとペテロの話です。

>自分は人間であるという認識を持つペテロは、パウロの個別具体的身体像
>を、パウロの具体像であると共に、人間の普遍像として二重化して認識
>するということ、つまり、パウロの普遍像が、パウロと同じ人間という
>認識を持つペテロに反照して、ペテロの身体像として認識されるわけです。

>パウロは、ペテロにとっては自己像を写す鏡の役割を果たしているわけで、
>ヘーゲルの反照規定は、パウロの姿を見ることで、ペテロは自己の像を見る
>ことが出来るという人間の認識の重大な機制を明らかにし、マルクスも継承
>しました。


子どもの脈を捕るときの現象です。
「風邪」などで、子どもの脈を捕ります。
ああ、ずいぶん速いな!と感じます。
同時に、私の脈を捕ると、私の脈が子どもの脈になっているのです。
私もこのような「反照規定」は、マルクスから学びました。
私と、子どもの関係。
ともすれば、対立している関係。
でも、実際は、まったく違う関係があるのです。

ですから、潜在意識は海。
その海に、私とか、子どもの個体の潜在意識が氷山のように浮かんでいる。
海上から少し見える場所が現在意識。
私はマルクスの『経済学・哲学草稿』を、そのように読みました。

1850年3月の「中央委員会から共産主義者同盟へのよびかけ」にある、マルクスとエンゲルスの「戦術」観も同じ脈絡です。


>広松は、我々の意識の末端=風景世界=は身体の外にまで広がっている、
>意識現象は身体内に限られた現象ではないと言うのです。

私もそのように思います。
同意します。


72. 2012年3月12日 11:23:18 : gFtdrIsG1F
母系社会 さん

>>68
>>69
>>71です。
追加を述べます。

>ですから、広松もこれを継承して、あるコップを見た場合は、「何か
>しらあるもの」が、現認されるリアルな色付きの特定像であると共に、
>普遍的な「コップ」という存在として、二重化されて現象していると考え、
>広松は、我々の意識の末端=風景世界=は身体の外にまで広がっている、
>意識現象は身体内に限られた現象ではないと言うのです。

>意識現象は身体内に限られた現象と、我々が「自我」に目覚めて以来、
>絶対的真理と教えられてきた命題です。

>ですから、我々としては、クラクラしてしまうしかありません。

面白いです。
以下はマルクスの『経済学・哲学草稿』からの引用です。

「つまり、人間の感覚は、直接に実践のなかで理論的な力を獲得していく。
感覚はものごとへの関心ゆえにものごとにかかわるが、ものごと自体は、
おのれにたいしても人間にたいしても、対象的・人間的にかかわるのだ。
ものごとが人間にたいして人間的にかかわるからこそ、実践おいてわたしは
ものごとと人間的にかかわることができる。
こうして、なにかに役立つとは人間に役立つということになるから、
欲求や享受は利己的な性格を失い、自然がそのままで役に立つということも
なくなる。」

ここでマルクスは、私と言う現在意識に先立つ世界の経験を述べています。
つまり、「私」と恐怖が同じ感性の側面であるのです。
マルクスはこの「自己」を暴露しています。

マルクスの人生は、プロシアからイギリスへの亡命の冒険でした。
結婚前後でしょうか、仕事を失ったのは。
義人同盟に請われて代表となりました。
亡命者に頼まれて、自分の人生を費やすのです。
共産主義者同盟の活動でいのちが危なくなる状態や、一文無しになる状況があった。
子どもも亡くした。
しかし、マルクスは「自己を破棄する運動として共産主義運動」に身を置いてきたのでしょう。

この社会、資本家的生産様式が維持されているのは、個体に、私と「恐怖」があるからです。
でも、マルクスが「自己を破棄する」人生の手本です。


母系社会さんの以下の発想は「プロレタリア独裁」になります。

>これは、この温度が誤りという意味ではなく、考え方、発想法の問題で、他の例ではある成素が取り除かれると、他の部分も消滅するとかの場合もありえるわけで、自然は機械のような存在ではないわけですね。

仏教では「同体」です。
同じもの中の、配置、関係です。
歴史的な資本家的生産様式


73. 母系社会 2012年3月13日 02:39:11 : Xfgr7Fh//h.LU : VFSBrUvwgo
>>68さん

>そうそう。所謂、日本共産党の民主集中制は実体主義の個人の図式
>が前提となっている。連合赤軍の唯銃主義や、トロッキスト両派の
>内ゲバは、「諸個人」の政治闘争でなく、実体主義の軍事の発想である。
>「関係主義=相互作用論」での「諸個人」との関係作りが、共産党の
>「戦術」。
>レーニンの「プロレタリーアのヘゲモニー」=同盟政策です。

私は連合赤軍と内ゲバの世代で、私が入学した大学は某新左翼党派が、
旧ソ連・北朝鮮並みの軍事支配をして他派を弾圧していました(笑)

反スターリン主義を掲げる新左翼党派が、スターリン主義そのものの
暴力支配を行う党と化してしまったのですから、驚く他ありません。

「一国社会主義」の場合も、周囲は全て敵国ですから、スパイ・工作員が
入り込むかもしれず、必然的に閉鎖国家=警察国家にならざるを得ません
から、それだけでも社会主義・共産主義の実現は不可能だと思います。

広松の「歴史的相対主義」は相対主義と言っても、「事実知」と
「理論的知」は区別して、「事実知」としての他者の存在や他のモノの
存在、労働者が搾取されたり、資本に隷属せざるを得ない状態に
置かれていることは「真実知」として認め、一方で「理論的知」の方は、
相対的なもの、暫定的なものと考える立場だと思います。

すると、理論的な立場の違いで様々な党派に分かれていても、自派の理論が
絶対的に正しいとか、真理だとは言えませんから、そうした理論の違いの
問題や、その違いから生じる政策の違いで、内ゲバなどの命がけの争いを
することは、自派の方が対立する他派よりも、絶対的に正しいとは言えなく
なるので馬鹿馬鹿しいことになり、党派間の争いに一定の歯止めがかかる
と思います。

また、「三浦つとむ」の「相対的真理」の考え方も、真理と誤謬は一体化
していると考え、真理が比較的多いものが真理であり、誤謬が比較的に
多いものが誤謬という考えで、真理と誤謬は相対的な差に過ぎないという
真理観なので、これも「歴史的相対主義」と同じように、党派間の争いに
一定の歯止めをかける考え方だと思います。

実体主義ですと、どうしても機械論的自然観になりますし、物質自体、
あるいは物質的世界自体は生成消滅していても、それらの間に働く
法則はそうした生成消滅する実体的世界を超えて、普遍的な唯一絶対的
真理として存在するということになり、そうした法則との距離で理論
には優劣があり、自派は他派よりも優れているということになりますから、
内ゲバも誘発しかねませんね。

まぁ、内ゲバは理論的な問題だけでなく、現実的利害や、何事も共通性
よりも異質性を重視しがちな性向にも原因があるのかもしれません。

しかし、何よりも、連合赤軍の場合のような倫理的問題が大きく作用して
いる気がします。


74. 母系社会 2012年3月13日 16:56:15 : Xfgr7Fh//h.LU : rxFvaaceKY
>>55さん

詳しく解説して頂いて、ありがとうございます。

大変、申し訳ありませんが、やっぱりギブアップです。

今、理解できるのは加減乗除までです(笑)

とにかく、私の数学の知識は中学レベル以下なのでわかりませんね。
これは、高校1年の時に国立は無理と悟って私立の文系と決め、
高校数学を、一切、徹底的に放棄したからです(笑)


75. 2012年3月14日 08:32:44 : IbUJyTi2fE
母系社会さん
68です。

>>73
私は母系社会さんを通して広松渉氏を勉強させて頂いています。
労働組合の先輩は私に広松氏の著書を薦めていました。

今回、広松氏に接して、私の中に見田宗介氏がでてまいりました。
私は広松氏と見田氏が、どんな関係にあるのかを知りません。
しかし、マルクスは「自分の感覚は他の人間を通して初めて人間的感覚として自覚される」(『経済学・哲学草稿』)と記しています。
この現象は、私が子どもの脈を測る関係です。
そのような母系社会さんと私、そして母系社会さんと広松氏、そして広松氏が影響を受けた共鳴関係が、私の中に、見田氏を登場させたのでしょう。

私が知つている見田氏は「時計化された時間」を生きる「人間類型の創出と再生産」の人間にかんすることです。
それは、資本家的生産様式を先導している米国を支配しているの人間像のことです。
国際共産主義運動では資本家的生産様式の始まりが16世紀となっています。
この様式が作り出した人間のタイプのことです。
行動的なマルクスもこのタイプですね。

見田氏が指摘する「時計化された時間」を生きる「人間類型」の人は、そもそも「実体主義」的傾向を、体の中にもっているのではないでしょうか。

年を召されていますが、連合赤軍や内ゲバ党派につながる、かっても全学連や全共闘の指導的位置の人は、人間類型が少し違う気がします。


76. 母系社会 2012年3月15日 20:30:07 : Xfgr7Fh//h.LU : UTkMJoU7NI
>>75さん

>しかし、マルクスは「自分の感覚は他の人間を通して初めて
>人間的感覚として自覚される」(『経済学・哲学草稿』)
>と記しています。

これは、人間という存在には、自分だけで考えたこと、感じたことは、
そのままでは、心の底から確信することができない心理的習性がある
ことを指摘した言葉でもあるのではないでしょうか。

人間は、時と場合によっては思考だけでなく、自分の視覚でさえも、
そのままでは信じられません。

たとえば、喫茶店でくつろいでいる時、突然、その喫茶店に、血だらけの
「落ち武者」が入ってきて倒れこんだのを見た場合、もちろん驚いて
反射的に逃げ出したり、声を出す場合もあります。

しかし、もし、周囲の他の客が何も騒がずに静かにしていれば、現代に
「落ち武者」が現れることなどありえないわけですから、自分は幻覚を
見ているのではないかと思い、とりあえず他の客の様子も見ながら、
事態を見守る場合もあると思います。

この場合、自分の視覚よりも他者の視覚を信頼しているわけです。

ですから人間は、まずは自分の考えを他者に伝えて肯定してもらうことで、
一旦、自分の考えを他者の考えにしてから、その他者の考えとなった自分
の考えを確信するという回り道をして、確信するのだと思います。

当然ですが、賛同する他者が多ければ多いほど信憑性は増大しますし、
賛同者が増えるには、その考えの論理性や「実証性」の高さも関係します。
(もちろん、要素主義的・機械論的自然観などの近代科学のパラダイム
を前提とした「実証実験」が適応不可能な位相の命題もあります)

賛同者が増えて強い確信となり、ほとんどの他者が否定しなくなった
考えが<真理>ということになります。

要するに人間は、真実かどうかを、広松が主張するように「共同主観的」に
判断する生物であり、こうした習性があるので、個々人の主観はどんどん
「共同主観性」を帯びたも「共通認識」となり、その結果、人間は社会生活
が可能となるのだと思います。

見田宗介氏の本は読んだことがありませんが、広松と似た発想の人のよう
ですので面白そうですね。


77. 2012年3月20日 10:05:16 : nlw5Ksftso
母系社会さん
75です。
相手をしてくださり、ありがとうございました。
私のなかで、マルクスにかんする理解が深まりました。

マルクスのキーワードは「恐怖」です。
それが、実体主義的傾向を増幅させるのです。
私も含めて個々の人は、深いところでつながっております。
それゆえ、自分の体を通して、社会と自然を往来できるのです。(『経済学・哲学草稿』)
しかしながら、歴史的に期間も、地域も限定された資本家的生産様式は、
その往来を制約します。(『フォイエルバッハにかんするテーゼ』)
これが、偶然的、平均的、抽象的諸個人の現象となります。(『ドイツ・イデオロギー』)
そのような社会的諸個人が市場を通して、人間をつなぐ絆として、自分と他人のたがいがであう場として、また、人間の現実に生きる場として自覚するのです。

現実の政治とは、人と人が絆として、出会う場として、自覚する場としての陣地戦となります。
陣地戦とは軍事ではありませんから、人と人の再編とか編成になります。
マルクスの立処は、徹底した関係主義です。
このマルクスの関係主義は、西洋のなかから生じたものです。
西洋のいまの主流は実体主義です。
しかし、このような関係主義が西洋のなかから生じたのは、驚きを感じるとともに、人類の財産にする必要性があります。

日本の中にも、明治以来、西洋のなかから生じたものが数多くあります。
例えば、合気道での動きなどです。
身体的動作で関係主義を獲得したことは「進歩」です。

このようなマルクスを持ち出さない関係で、関係主義が社会に定着するのは、共産主義運動の希望です。
自己(恐怖)を破棄する運動としての共産主義運動は、これからもごつごつしたまわりくどい過程をたどるのでしょう。
しかし、共産主義者はその過程を経過として観て、掴まえることを訓練されているから、わくわくすることです。

では、これからもよろしくお願い申しあげます。
スターリニストから


78. 2012年11月26日 17:01:25 : wXPShKYgaw

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