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政変は、権力闘争のリスクと同時に事態打開のチャンスである。この瞬間を見逃すリーダーの決断は空虚だ。かつての自民党には、保守合同後の岸信介、60年安保後の池田勇人、ニクソンショック後の田中角栄と、抜け目なく政変を次の時代へとつなげる政治家が群雄割拠していた。
小沢一郎が良かれ悪しかれ存在感を発揮しているのは、この要諦を皮膚感覚で知っているからだ。1993年の自民党の政権転落と小選挙区制の導入は、もともと経世会(旧田中派)内部の権力闘争に敗れた小沢が、これを「政治改革」のうねりに置き換えて実現したものだ。いずれ改めて論じるが、小沢は政変をチャンスに変え、ここから日本政治の意思決定のあり方を大きく動かしていった。
「明治14年政変」(1881年)に直面した伊藤はどうだったか。急進的な「政党内閣主義」を主張した大隈は追放され、薩摩・長州の藩閥グループは結束を強めた。その上で伊藤は、民権派グループの活性化を封じるべく、10年後の憲法制定と国会開設を政権公約とした。同時に、岩倉が病気静養で「帰京」していた間隙をつき、宮中グループを鎮定すべく宮中制度改革の着手を決定している。なかなか抜け目ないといえる。
しかし、伊藤の前途は多難であった。憲法制定に向け、法制官僚の井上毅、岩倉具視と宮中グループ、黒田清隆らは、絶対君主・反政党内閣の「天皇大権主義」を主張した。プロシャ型である。また福沢諭吉、大隈や民権派グループらは、「君臨すれども統治せず」の立憲君主による「政党内閣主義」を主張した。イギリス型である。
前者を採用すれば、「権威」は担保できるが「権力」の配置は変わらず困難なまま政権担当能力が失われる。後者を採用すれば、欧米列強に文明的な法治国家であることを示し、不平等条約の改正に道筋がつくが「権威」は離脱する。政党(国会)の政権担当能力も疑問だ。漠然とした願望や頭でっかちな理論に基づくシステムでは、時代の変化に対応する生命力は吹き込めない。
両者への理論的対抗を迫られた伊藤に訪れた好機は、政変で決定された欧米への憲法調査である。おざなりの調査ではない。長州藩の下級武士出身の伊藤は、尊王攘夷から一転してイギリスへ留学し、岩倉使節団に随行することで絶妙なバランス感覚を身に着けていた。それは、柔軟な現実主義であり、時代の変化に合わせ着実に改革を進めていく漸進主義であった。
司馬遼太郎は伊藤を「思想なき現実主義者」と呼んだが、近年の研究は、その漸進主義に確たる思想を見出している。天皇の「権威」のメンツを立て、国会開設による法治国家の建前を取りつつ、藩閥グループが「権力」の実質を獲得する。人体の成長に合わせる漸進主義の発想がなければ、できる芸当ではない。
欧米への憲法調査
1882年3月から1883年8月に及んだ長期調査は、容易に答えが見つかった訳ではない。プロイセンに渡った伊藤は、期待をかけた歴史法学者グナイストが日本の歴史に不案内であり、立憲君主や議会制度の導入に消極的なことに落胆した。ようやく活路を見出したのは、憲法制定後の指針や国家運営の全体像を具体的に示した、シュタイン国家学の知見だ。
伊藤は、渡欧前に傾斜しかけた「政党内閣主義」から決別した。「自由民権論の波及する所、政権統一の源を削除せしめたると云えども、誣言に非ざるが如し・・・前日の非なるを悔ゆる」。意思決定システムの根幹である憲法は、当然ながら国家や時代状況によって適用条件が異なる。イギリス型の「政党内閣主義」を急進的に日本に移植することは、「ヘボクレ書生」の「誣言」である。
当面は政権担当能力を欠く議会制度は限定的に導入し、天皇と行政を一体とした「行政国家」の構築が優先する。かといって、天皇と行政に権力を集中させるだけのプロシャ型の模倣ではない。まずは合理的な内閣制度や宮中制度、さらに国家エリートによる官僚制度、それを養成する高等教育制度を整備する。以上の国家諸機関の整備が前提になければ、議会制度は生命力を得られまい。
漸進主義的なシュタイン国家学は、諸機関を人体の器官になぞらえていた。我が意を得た伊藤は、詳細な人体解剖図を講義ノートに書き込みつつ、「心ひそかに死処を得るの心地」を得た。「天皇大権主義」から決別し、合理的に薩長藩閥の「権力」と天皇の「権利」の棲み分けを図る一方、議会制度(政党内閣主義)はその成長に伴って漸進的に国家の役割を与えていけば良い。こうして、両者の絶妙なバランスを図る伊藤の憲法構想の骨格が育まれていった。
「国家組織の大体を了解・・・皇室の基礎を固定し大権を不墜の大眼目は充分相立候」。伊藤は、渡航が容易でない時代に「立憲カリスマ」の権威と自信を得て帰国した。その直前には、闘病を続けてきた岩倉が没していた。太政官制の要であった強力な右大臣の喪失は、政変をもたらすリスクであると同時に、伊藤にとって制度改革のチャンスとなったのである。
明治天皇との葛藤
1884年3月、伊藤は宮内卿に就任した。まずは、緊張が続く明治天皇と信頼関係を構築する必要があった。明治天皇は、奔放でやんちゃだが明るくどこか憎めない伊藤を藩閥グループの中では最も好んでいた。後に、そのことを山県に嫉妬され続けたほどである。ただし、帰国した伊藤がしばしば欧米的な制度の導入を訴えたことで、生来の「西洋嫌い」が加速されていた。
「伊藤その智識議論においては此一人を推す」、「ただし西洋好きには困却する所なり」。明治天皇は、不満を募らせると「奥」へ籠ってサボタージュした。天皇の裁可がなければ、国家の意思決定はできない。外国要人との会合も滞りがちとなり、日本外交の損失にもなった。伊藤は、実に根気強い説得を繰り返した。
説得だけではない。皇室財産・皇室典範によって、宮中の財政基盤の確立とルール化を具体的に提案した。「権力」を譲渡した途端、「権威」すら危うくなっていくのは古今東西で見られる現象である。これは、身分保障のインセンティブである。
1884年7月、華族令が制定された。新しく華族となったのは29/509と全体の5.7%に過ぎない。爵位(権威)の配分は、権力者の常套手段だ。それだけに、既得者たる宮中グループにとって新規参入は権益侵害だ。これを最低限に抑えたことが、明治天皇からの信頼獲得につながった。同時に提案された貴族院の設置構想も、将来的な身分保障を匂わせた。伊藤は宮中制度の改革を実現して「権力」との棲み分けを図りつつ、両者を有機的に融合していくのである。
しかし、明治天皇と宮中グループの不安は完全には払拭しなかった。次の課題たる内閣制度への改革を潰しにかかったのである。それは、岩倉亡き後の右大臣を補任すれば、新しい内閣制度は不要との主張だ。
とはいえ、岩倉という強力な拠り所を失った明治天皇と宮中グループは、伊藤以外に右大臣の適任者を見出せなかった。自らに依存せざるを得まいと足下を見た伊藤は、就任拒否の戦略を貫いた。これで最後の抵抗は挫折し、1885年12月、内閣制度が創設されるに至った。
内閣制度の意思決定
創設された内閣制度は、天皇が頂点という建前を除けば、配下に国務大臣を従えた首相に権力を集中させるものだった。宮中グループは排除され、参議と同列であった省卿は廃止され、国務大臣が行政長官を兼任して各省の次官を従えた(図2)。この権限の明確化で、合理的な官僚制度の整備も本格化した。
初代首相に就任したのは伊藤である。「藤原一族」以外で関白・太政大臣に相当した権力者は、それまで平清盛・足利尊氏・豊臣秀吉・徳川家康など僅か数人。日本の歴史上でも、画期的な権力の転換点だった。ちなみに現在の野田佳彦は、ここから数えて第95代首相である。
同時に伊藤は宮内大臣を兼任した。宮内大臣は内閣という権力の外部に位置づけられることとなったが、不安が残る明治天皇との信頼関係を熟成させ、「権威」と「権力」の棲み分けをソフトランディングさせる意図だ。そして前述したように、明治天皇は伊藤の権力運営を信頼して「内閣(閣議)」臨御は激減した。「権威」は、ついに「権力」 を信頼したのだ。
しかし、意思決定システムが完全な生命力を得た訳ではない。憲法制定と国会開設という最大のハードルが残っていた。具体的な「権力の配置」を、ここで完全に解決しなければならない。1888年4月、伊藤は首相を辞任した。天皇の諮問機関として設置された枢密院の議長に就任し、憲法制定の審議に専念するためだ。
枢密院の審議では、伊藤、井上毅、宮中グループの間で激論が繰り返された。「天皇大権主義」の攻勢に晒された伊藤をたびたび救ったのは、審議に臨御した明治天皇の信頼と支持だった。伊藤の憲法構想の趣旨は、侍従を通じ明治天皇に逐一伝えられていた。その進講は33回を数える。
こうして明治憲法は制定され、1889年2月に発布された。明治国家は、ようやく意思決定システムの骨格を得た。後の展開を考えれば、内閣制度の創設から明治憲法の制定に至る過程こそ、伊藤が最も輝いて生きた時代であった。その後の伊藤は、成長に合わせた肉付けの矛盾に直面していくのだから。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/report/20120126/226523/?P=4
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