http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/587.html
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東京や大阪は今「教育改革」に熱心だ。「民意」による教育への政治的介入は一見正しいように見える。私も、官僚による介入よりは、「民意」を背にした政治家による介入の方がまだマシだとも思う。
が、どちらにしても、教育に関して全くのド素人には変わりない。
教育のことを最もよく理解しているのは、生まれつきの教育の天才か、でなければ経験豊かな現場の教師だ。
政治家や官僚などはある意味、教育から最も遠いところにいる。なぜなら政治とは、民主主義つまり多数決の原理に則って、その時々の現実に対応していくことであって、物事の本質を自由にどこまでも追求していく学問とは根本的に違うからだ。
さて教育の質は、教師の質で決まる。では誰が教師を作るのか。教師自身しかいない。教師自身の自己教育しかない。それがきちんんとできる人こそ教師に相応しい。
では教師の優劣を誰が判断できるか。教育の専門家である教師、中でもとりわけ優秀な教師、その人が校長に選ばれて判断するのが望ましい。もちろん、保護者、生徒の意見も十分考慮されねばならない。
つまり本来学校とは、教師、保護者、生徒の三者の完結した世界で運営されるべきであって、基本的にはそれで必要にして十分なのだ。
そこに部外者であるド素人の官僚や政治家がのこのこやってきて、学問の本質(すべての主観を排して事実にのみ従う)とは無関係の、単なる一時的な世論の過半数という政治的正当性しか持たない「民意」でもって、学校の中を引っ掻き回していいとするなら、教師、保護者、生徒たちは、自らが好ましいと思える教育環境を実現するためには、授業を一旦中断させて、外に出て政治活動をするしか方法がないが、これはおかしくないか?
以上の理屈から、私は教育への政治の介入は原則的に反対だ。そもそも教育は公権力から自由であるべきで、今すぐは無茶だが、いずれ数十年後には完全に民営化されるべきで、よって政治が今すべきは、その移行をどうやってスムーズに実現するかということを検討することなのだ。
前回の投稿の主張と、そのコメント欄での若干の訂正と捕捉で言いたかったことも、結局は上記につきる。
http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/150.html
最後に断っておくが、私はべつに全面的な反石原でも反橋本ではない。部分的に反対しているだけだ。あいつらダメだから私が代わりにやる、とはとても言えない。
が、例え相手が「民意」の代表であったとしても、最低限の礼儀を弁えてさえいれば、彼らに対するどんな批判も許されるはずだと思っている。
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