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前回(その14)http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/266.html
の続きで、一隅よりさんのご意見がもっとも本質的なものなので、今回は、Kakasiの考えを整理をしておきます。水掛け論や言いっ放しにならないように注意しますのでよろしく・・・・。
前提が多いので厄介ですが、Kakasiたちは商品交換一般について
「市場で売買契約が成立すればすべて等価交換である」とは考えません。ということは労働価値説でなく、また等価交換を前提とする一般的な経済学の立場を批判するということですが、これを議論すると長くなるので今はやめます。
さて、詐欺や脅しや不正取引は、違法であることがわかれば犯罪であり一般的にも等価交換とは言えませんが、市場経済は自由競争が前提であるため、不正や不等価が隠された交換が、日常的に行われています。不正で信用をなくすような取引は、競争で淘汰されるというのは市場主義者の言い分ですが、現実はそのように甘くありません。今日では多くの法的ルールが定められています。しかし、例を挙げるまでもないですが、道交法と同じようなもので、法の網の目をすり抜けようとするのが優勝劣敗競争の実態でしょう。派遣法のように同一労働差別賃金を法自体が認め、不正を容認しているのが現実です。
一般に商業の譲渡利潤や独占市場の独占利潤、外国貿易等は不等価交換(交換の非対称性の典型)であるといわれています。Kakasiたちは資本主義のもとでの労働者の賃金(交換価値)も、原則的に資本家に有利な不等価交換になっていると考えます。だから労働者の低賃金(搾取)を、「再生産の費用」として合理化・正当化(不正でない)とするマルクスの考えは、人間としての労働者を抑圧するものとなります。
Kakasiの考えは、マルクスや一隅よりさんのような「労働者が自己の労働力を手放すのは自身の交換価値(再生産費用)と等価な限りにおいてである」という前提を認めません。「等価でなくても」資本家に労働力を売らなければ、(人間らしい)生活ができないのです。つまり労働者の再生産費用(交換価値・賃金)は、資本家による労働者酷使の背景があった初期資本主義の時代だけでなく、今日においても、「正常なる生活状態を維持する足りる」ものとは言えない状態があるのです。どうして低賃金を労働者(人間)の再生産費用と等価であると決めつけられるのでしょうか。労働者は、本当に「再生産費用と等価な限りにおいて」自己の労働力を手放しているのでしょうか。
マルクスは、労働者の「必要なる欲望の範囲」を、抑圧された状態での「歴史的産物」であり、「一国の文化段階に依存している」と述べています。マルクスにとっては、労働者(人間)が資本家(人間)並みの欲望をもたないものと前提しているのです。マルクスは、抑圧された社会での、不利な条件にある労働者の再生産費用(賃金)を、階級的に抑圧されたものと捉えずに歴史的に等価として与えられたものだから、「決して不正ではないduruchaus kein Unrecht」とするのです。これは皮肉ではなくマルクス的事実を端的に表現しているのです。
労働者の賃金は、単に文化的に規定された労働者の最低限の再生産費用をまかなえるだけの交換価値分でいいのでしょうか。現在の再生産(必要なる欲望)をまかなえないからこそ我々労働者は、組合を作って賃上げを要求するのではないでしょうか。我々労働者は、人間だからこそ一日の労働力使用分にふさわしく、また人間らしい欲望を充たせる再生産費用(賃金)となるように賃上げを要求するのです。また最近では、不当に労働力の評価に格差をつけることにも反対しています。
Kakasi的「経済上の事実」は、労働力(人間)の価値が、どの社会的状態にあっても、マルクスが考えるほど低くはないということです。なぜなら労働力とは、資本家に使用される間も単なる使用価値ではなく、人間の価値だからです。マルクスが等価と考える労働者の再生産費用(賃金)は、マルクスの時代であっても低すぎます。その意味で、マルクスは、一方では、使用価値の不正使用を告発して労働者を解放しようとする道徳的側面をもつのですが、他方で、交換価値の被抑圧的水準(低賃金)を歴史的に合理化(正当化)するという反道徳的・人間抑圧的性格を持つのです。彼は、交換の過程では等価なので不正はなく、労働力の使用価値の不正使用を創作して、搾取の不当性(とその隠蔽性)を暴露したことにするのです。
マルクスは「(労働力商品は)価値の源泉であり、しかもそれ自身が有するよりもヨリ多くの価値の源泉であるという、この商品の特殊なる使用価値」という表現をしています。しかし、この意味深長な記述は、Kakasi的事実ではありません。労働力が価値の源泉というのは正しいとしても、労働力自身が有するよりも「ヨリ多くの価値の源泉」というのは正しくありません。資本家が使用する労働力は、人間的労働力に応じた量の価値の源泉です。この人間的労働力の価値を過小評価して、不等価で買おうとするのが資本家です。この資本家の詐術と欺瞞と致富欲が、剰余価値を産み出します。
資本家の欺瞞性は、使用価値(労働力の使用結果)におけるマルクス的搾取にあるのではなく、交換(売買・流通・契約)過程における等価の欺瞞性にあります。その証拠にマルクス自身も、「不正ではない」としたそのすぐ後で、「我々の資本家には、彼を喜ばせるこの事情が前からわかっていたのである」と述べています。これはもちろん売買契約(交換価値の決定)の前に、労働力を搾取(使用)するとことがわかっていたということです。つまり、Kakasiの立場からすれば、マルクスは、労働価値説と等価交換の誤った前提のままに、交換過程でなく労働過程での労働者搾取を理論づける必要があったのです。
マルクスの基本的な考え「等価が交換されるとすれば,剰余価値は成立せず,非等価が交換されるとしても,また何らの剰余価値も成立しない。流通又は商品交換は何らの価値を生まない。」(『資本論』第4章第2篇注31直前)というのは、利潤や剰余価値の捉え方、商業利潤の本質理解の限界を示しています。マルクスには、人間の価値の本質は労働であり、労働による生産と再生産が、所有関係を含むすべてを規定(自然と人間・社会を支配)するという『創世記』的前提があります。だから、交換過程よりも労働(生産)過程が重視されます。
しかし、Kakasi的前提は、人間の生産する生産物や所有物(価値)は、誰から誰に移動するか、または交換されるかによって規定され、商品社会における利潤や剰余は、交換契約による所有移動であると考えます。『資本論』的に言えば、労働力の使用価値支配は、搾取的売買契約に始まり、労働過程における全人格的支配に終わるということになります。労働力商品に関しては、交換価値と使用価値は、人間の所有する一体のものであって労働過程においても分離することはできないのです。マルクスのように分離することによって交換価値の評価を低めることは、マルクスが意図しなかったとしても、人間労働者(の労働力)の価値を低め、自然史過程(自然必然性)の支配下に置き、人間的解放を抑圧することになるのです。
ということで、長々と書きましたが、Kakasi的立場や、表題の意味は理解していただけるのではないかと思います。マルクス主義とは対立しますし、平行線に終わるだろうことも予想されますが、議論を続けることができれば何かが生まれそうな気がします。よろしく。
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