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単純化した話を一つ
一人の農場主と99人の小作人が居ました。農場主は農作物が100単位取れたので、小作人に90単位の農作物を買えるお金を支払いました。
そして農場主は1単位を自分の食料とし、99単位の農作物を売ろうとしました。しかし需要を形成するお金が90単位しかないので9単位の農作物は売れず腐ってしまいました。
そこで農場主は農作物の生産を90単位に減らし、小作人を90人に減らしました。
そして90単位の農作物が取れたので、小作人に80単位の農作物を買えるお金を支払いました。
そしてまた、1単位を自分の食料とし、89単位の農作物を売ろうとしましたが、市場に80単位のお金しかないので、また9単位の農作物が売れ残り腐ってしまいました。
これがデフレスパイラルというものです。
この話で何が問題なのか、農作物の価格が市場にある需要、お金に合わせて下がらないからです。
農場主というのは価格決定力があり、儲けようとしますから、市場にある需要に合わせて価格を下げようとしないのです。それでデフレスパイラルが続くことになります。
ここで農場主、小作人、小作人たる消費者に拮抗力があったらどうなるでしょう。
農場主は拮抗力により小作人を簡単に解雇できないとします。そうすると99人に90単位の賃金を払い、99単位の農作物を売ろうとしましても売れないわけです。消費者に拮抗力が有れば、需要と供給の原理に基づいて、99単位の農作物が90単位のお金で買えるようになり、需給がバランスして経済が回転し持続可能になるのです。
しかし人間とは強欲なもので、市場支配力で儲けよう、資本力で儲けよう(持久力があるので需給原理に反し、売らないで価格を維持しようとする)などと考えるから、市場のバランスが壊れ、経済が破綻するのです。
デフレでも賃金よりも物価の下落の方が大きければ、需要が供給を上回りデフレは止まります。
しかし価格決定権を企業が持っているため、物価より賃金の下落の方が大きくなり、デフレスパイラルが続くのです。
価格決定権とは、市場における力で、その力により分配が左右されることにより市場が破壊されるのです。
閉ざされた市場ならパワーを拮抗させれば分配のバランスが取れ、需給が安定します。
しかしグローバル化という市場では企業がより多く儲かる海外に逃げてしまい、閉鎖された設備と失業が残ることになります。
昔ブラジルでは、地主が耕作地を放棄し耕作を止めてしまいました(農産物価格の低下のため)。農民は仕事が無くなり、耕作地は放棄されたままでした。
そこで農民が立ち上がり、農地占拠運動というのを始めました。
分業化社会とは政府が雇用を保証しなければ成りません。
失業者、遊休設備、原材料、エネルギーが有れば、それを有益に稼動させるのが政府の仕事です。
これは畑が有って農夫が居て、農具、肥料が有って、農夫が畑を耕すことが出来ず、飢餓に苦しんでいるのと同じことです。
分業化社会では多くの労働者は仕事を生み出すことは出来ません。
失業者、遊休設備、原材料、エネルギーを組み合わせれば仕事は簡単に生み出すことが出来ます。それが出来ない政府はよほど無能なのでしょう。
農夫と鍛冶屋と服飾職人の3人の社会があるとします。
この社会にお金が無く、しかもお金が交換媒体に成っているとします。
すると農夫は農具や衣服を買うことが出来ません。鍛冶屋や服飾職人はお金が入ってこないので農作物を買うことが出来ません。
すると農夫は農作物を自分の食べる分しか生産しなく成ります。農具が無いのでそれも厳しくなるかもしれません。衣服が無いので、寒くて野良仕事も満足に出来ないでしょう。
服飾職人は自分の衣類は作れますが、食べ物が無いので餓死するでしょう。
鍛冶屋は何にもすることがありません。餓死するだけでしょう。
ここに交換媒体である通貨を注入すれば、農夫も鍛冶屋も服飾職人も、それぞれの生産物を交換でき生活が出来ることになります。
現在の経済も同じことです。実体経済における交換媒体としての通貨が少なく、みんなそれぞれの生産物を交換できず、暇で困っているのです。
しかし政府、日銀は金融市場の通過、貯蓄する通貨を増やすことしか考えません。
社会に拮抗力が無ければ、寡占により超過利潤が生まれる、これはガルブレイスが「アメリカ資本主義ー拮抗力の概念」で示唆したことで、これは彼を一躍経済学の巨人と言わしめる元になったものです。
しかし現在では寡占による超過利潤、資本力による超過利潤など無いもののごとく振る舞い、こういうものが話題になることも無くなりました。
たぶん、こういうことが話題になることが嫌な人が多いからでしょう。
私有財産権、所有権という欧米流の概念にも多くの問題が有ります。
地球は誰のものか、誰のものでもない、人間が使わせて貰っているものだと考えます。それを人間は地球の色々なものに、私有財産権、所有権というものを設定し、俺のものだ、俺のものだと争います。
資源などがあれば、すぐに俺の国のものだと争いますね。多くの土地に私有財産権というものを設定し、それにより他者から収益を得ようとします。
この自然にあるもの、地球(その一部)に私有財産権、所有権を設定するのが間違い、争いの元なのです。
土地は自分が住むためなどの利用権、資源は採掘権という利用権にするのが正しいのです。自然に有るもの、地球(その一部)に私的財産権、所有権を設定し、それにより他者から収益を得るのが間違いなのです。
私的財産権とは人間が生み出したもの、付加価値にしか認められないものです。
自由、そんなものは大したものでは有りません。人間の問題は多くは富の分配から起こっています。
革命も富の分配に問題が有り起こります。アラブの春、オキュパイ運動、みんなそうでしょう。
そして反政府運動が起きるから、権力者が自由を無くそう、つまり弾圧を行うのです。
富の分配が公正でみんなが納得の行くものなら、反政府運動も起こらず、権力者が自由を無くそうとすることも無いのです。
もっとも犯罪による人権抑圧はあります。
私は資本主義というものは大した思想ではないし是認もしていません。しかし市場経済というものは人間の歴史と共にあり、人間が分業化社会を形成する以上、他に効率的な経済システムは現在は無いと思います。
しかし市場経済とは、経済主体間に拮抗力が存在しないため、絶えず破綻に向かっていくものだと考えます。
政治はそれを補完する役目を果たさなければ成りません。
経済主体間の拮抗力をなるべく出来るようにし、拮抗力の不存在から生まれた富の不公正な分配を、再分配により正さなければ成りません。
こういう根本的な思想により消費管理政策とは考えたものです。
http://kyudan.com/cgi-bin/bbskd/read.cgi?no=1110
富の再分配とは常に争いを生むものです。
これは富裕者から富を奪うものでは無く、経済成長を原資としたものです。
0成長で富の再分配を行おうとしたら富裕者から取るしかない。これはだいたい争いに成ります。今までは革命ですね。
経済成長を再分配の原資とすれば誰も損をすることが無く、争いをしなくて済みます。
富の再分配をどうするか、政治の核心的な問題です。
私は経済成長を不可欠、どうしても必要なものとは考えていません。
しかし富める者がより富んで行き、貧しい者がより貧しくなっていく社会では、人間の強欲さから考えて、よりパイを大きくするしか平和的に解決する道は無いと思います。
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