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<サンデー時評> 小沢さんの「天下国家論」を聞いて
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20120118-00000000-sundaym-pol
サンデー毎日 1月18日(水)16時0分配信
◇岩見隆夫(いわみ・たかお=毎日新聞客員編集委員)
文章は勇んで書く場合と、半分義務感のような気分で書く場合がある。できれば前者ばかりだと幸せだが、そうもいかない。
なかでも、小沢一郎元民主党代表についての批評は、正直言って気が進まない。この二十年以上、私は小沢問題をあちこちで何回書いたかわからないが、ほとんどが批判的論評である。同じようなことを表現を変えて書かざるを得なかった。いい加減にうんざりだ。
しかし、小沢さんは腕力のある実力者であり、しばしば政局のキーマンだったから、避けて通るわけにはいかない。昨年暮れ、民放テレビの政治番組で、ズバリ発言で定評のある浜矩子同志社大教授が、相変わらず小沢さんが政局の中心にいるが、と問われ、
「なぜ、小沢なのか。メディアは不退転の決意で小沢を無視したらいい」
と言い放った。それができればすっきりする。だが、進行中の小沢裁判で今回のように小沢さんに対する被告人質問が行われれば、新聞、テレビは大々的に報道するし、小沢インタビューを売りものにする週刊誌も少なくない。四月に予定される判決は、今年の政治の流れに相当の影響を与えそうだから、メディアも裁判経過を伝えないわけにはいかない。
だが、浜さんが言うように、読者、視聴者のなかにも、
「もう結構だ」
と小沢報道に拒否反応を示すうんざり派が少なくないと思われる。なぜなら活字と電波が大量に流れれば、小沢さんの存在だけは否応なくふくらむが、中身は小沢さんによる〈正義の主張〉の繰り返しだけで、聞きあきた、と言われても仕方ないからだ。
一種の根くらべである。無視できるはずもなく、小沢問題とは何か、を問い続けていくしかないのだろう。
さて、一月十日と十一日、東京地裁で開かれた政治資金規正法違反事件(虚偽記載)の第十二、十三回公判、被告人質問の一問一答を細かく読んだ。法廷技術的なことは私にはわからないが、小沢さんの答弁はほとんど、
「記憶にありません」
「覚えていません」
「知りません」
「ありません」
など否定語の連続だった。この非協力ポーズでは、裁判官の心証もさぞ悪いだろうなあ、と思うしかない。東京・世田谷に秘書寮用の土地を購入した代金四億円をめぐる疑惑が焦点だが、手続きはすべて「秘書に任せた」の一点張りだった。たとえば、
−−二〇〇四年十月五日に問題の土地の売買契約が締結されたが、報告は受けたか。
「受けていないと思う」
−−登記については。
「担当者の裁量の範囲のことで、報告は受けていない」
というのである。そんなことがあるだろうか。四億円の買い物である。いかに信頼された大物秘書でも、大金を用立てた主人に細かく報告するのが常識ではないか。小沢事務所は常識的でなかったらしい。四億円くらい大した額じゃない、というニュアンスも伝わってきた。
◇「信頼」と「報告」についてピンとこないロジックだ
私がいちばん奇異に感じたのは、「秘書に任せた」ことの口実として、小沢さんが次のように語っている点である。
「彼らの自主的判断でやってもらうようにしている。自分がいちいち干渉したのでは任せた意味がない。私の関心は、口幅ったい言い方をすれば天下国家だ。それに全力を集中する日常を送っている」
こうも言っている。
「政治家と秘書は信頼関係がないと成り立たない。任せた仕事についていちいち聞く物理的暇も精神的暇もない。それ以上に関心をもって全力を尽くさないといけない仕事がある。秘書もそういう私の性格を知っている」
この理屈は世間に通用するだろうか。世間は世間、おれはおれだ、と唯我独尊の小沢さんは言うに違いない。
しかし、である。小沢さんは「天下国家……」の前に「口幅ったい……」などと小沢さんらしくない形容詞をつけたが、辞書によると〈言うことが身分不相応でなまいき〉という意味だ。心中、いくらか臆するところがあったのか。
当然である。「全力を尽くさなければならない天下国家の仕事があるから」と小沢さんは言うが、どの政治家も携わっている政治活動のことだ。大物と小物では仕事の質が違うという響きも「天下国家」という言葉から伝わってくる。
しかし、どんな政治活動でも、政治資金は不可欠の重要なファクターだ。大物であるほど比重は大きくなる。選挙のたびに小沢さんがみせてきたハデな金の配り方をみれば、それは歴然としている。
ところが、肝心の資金の出し入れは秘書に任せ切りで、報告も受けない。受ける物理的暇(時間)がないという。土地の売買契約や登記の報告なんか五分か十分、車の中でもすむことだが、その暇もないと小沢さんは法廷で証言した。おかしいのではないか。分刻みの激務をこなしているのかもしれないが、手足となって働く信頼する秘書たちが住む寮がいよいよできるという時だ。むしろ、報告を聞きたいのが人情ではないか。
信頼と報告の関係について、小沢さんのロジックはどうもピンとこない。信頼する家族の間でも、たとえば父親が遠隔地の娘に送金したとする。娘からは、
「届きましたよ。ありがとう」
と報告がくる。自然なことである。いわんや、政治家と秘書、家族関係よりも緊張がある。信頼され任せられればうれしいが、同時になおさら報告義務を感じるのが普通ではないか。信頼と報告は矛盾しないどころか、一体のものである。
とにかく、小沢裁判のなかに〈天下国家〉が出てきたのは意外だった。そんなことに拡散しないほうが裁判は細密に進むのに、と思った。また、週刊誌インタビューなどで、検察との関係について、〈民主主義〉という言葉がひんぴんと使われる。このことは別の機会に書きたい。
大きなことに包含してしまうのが小沢式論法の癖だ。無理がある。
<今週のひと言>
二谷英明に似てる、と言われたことがあったなあ、昔。合掌。
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