http://www.asyura2.com/12/senkyo125/msg/266.html
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下の曲を聴きながら読んでいただくと元気が出てきます。「★阿修羅♪」の賑やかな議論に圧倒されないために、音楽を聴きながら書いています。今日の混迷した時代に、「地上の星」の一つになれるよう表題の批判を続けます。
http://www.youtube.com/watch?v=v2SlpjCz7uE
前回「一隅より」さんからとても貴重な質問・意見をいただきました。それは、Kakasiたちの提案する「道徳的社会主義」を「透明化され公正公平な商品交換経済より成り立つ社会主義社会」とまとめて、そのような社会がモラルとして成立可能なのか、むしろマルクス主義的に経済原理をはたらかせてその行き詰まりから社会主義を実現するほうが現実的ではないかという提案(反論?)でした。
Kakasiたちの道徳的社会主義(社会参加)の考えは、次の原則に要約できます。
@ 市場経済と社会主義、自由と平等は、正義と道徳(万民の幸福)による調整によって両立する。
A 社会主義は社会的利潤の追求をめざし道徳的・建設的であるが、資本主義は個人的利潤の追求をめざすことによって反道徳的・破壊的である。
B 修正資本主義では、民主主義の成熟とともに、労働者保護政策、財政金融政策、福祉(社会保障)政策等の分配的的社会主義化が進んでいる。
C 道徳的社会主義は、Bの分配的正義だけでなく、市場の透明化と公正公平、企業倫理、社会的責任、社会連帯等の交換的正義(win win関係)を推進することによって安定的・持続的成長をめざす。
D 道徳的社会主義において、会社法人(企業の資産・組織・活動)は、民主的経営・管理、と交換・分配的正義(公共の福祉)を前提として、経済社会の中心的存在となる。
E 道徳的社会主義は、不正不当な個人的蓄財や個人的独占、社会的格差を助長する反社会的資産は制限されるが、「生産手段の社会化(私有財産の廃止・公的所有)」は社会主義の絶対的前提とはならない。
以上は厳密な要約ではありませんが、個人の自由と自律と連帯にもとづく「交換的(市場的)正義」を重視する新しい社会主義の理念です。新しいと言っても、それほど奇抜なものではなく、今までの資本主義や社会主義の論議をふまえた、常識(良識)の範囲内の理論(結論)です。「道徳」という概念には、多くの人に違和感があると思われますが、その違和感は、地球環境の有限性と経済成長の限界という目前の現実を考えれば、氷解するものです。人間の意識(知識・理念・イデオロギー)は、人間の社会的存在(在り方・生き方)を規定するものであり、地球の限界をふまえて人間と社会の発展を制御し、持続的な平和的生存を可能にするのは道徳(倫理)的意識なのです。
さて本題である日本共産党志位委員長の「綱領教室第10回」についての批判です。演題は前回に続き「民主主義革命と民主連合政府(2)」ですが、まずは志位さんの巧みな講義を是非視聴していただきたいです。 http://www.jcp.or.jp/kk_kyousitu/#fragment-2
まず特定の価値観を絶対的なものとして押しつけないという観点から、「イスラムなど異なる文明間の対話と共存を通じ、共通の価値観を見いだし相互尊重をはかる」ということがめざされています。ここで、異なる文明の立場を相互に理解し尊重することや、国連憲章にあるようなより普遍的な価値観を追求するというのは問題ないようにみえます。しかし、「共通の価値観をめざす」こと、すなわち「国連憲章にあるような普遍的価値観」を追求することに関しては、普遍性の西洋的限界を問題にしなければなりません。
つまり、国連は、賞味期限を過ぎている、もはや時代錯誤になりつつあるということです。それは、@第二次世界大戦の戦勝国中心の組織であること、A「世界人権宣言」における人権観の限界、B世界連邦的権力(世界政府)樹立への展望がないことの三つの点で、限界があるということです。世界連邦は、欧州連合や東アジア共同体等地域連合のまとまりさえ不十分なのに、夢のまた夢ではないかと思われるかもしれません。
しかし、マルクス主義を標榜する共産党である限り、「万国のプロレタリアは団結せよ!」という国際主義の理念は必須のものです。単に綱領にある「社会制度の異なる諸国の平和共存および異なる価値観をもった諸文明間の対話と共存の関係の確立」と「共通の価値観の追求」というだけでは、未来の展望は開けないでしょう。もちろん「万国のプロレタリアは団結せよ」というスローガンを共通の価値観とすれば、偏狭で時代錯誤な価値観とならざるを得ないでしょう。
Aの「世界人権宣言」については「生命言語説」(ネット検索可)からの説明が必要です。つまり第1条で「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」とありますが、このような単純な人権では、有限で複雑多様な人類社会の共通の価値観にするのは困難です。(説明はコメント欄へ)
また国際的な統治機構(世界政府)の構想の欠如は、国際的国家資本主義競争(国益競争)の永続を意味し、生産手段の社会化など望むべくもありません。成長の限界に直面している「宇宙船地球号」の内部での国際競争では、一国社会主義は、独裁的支配体制か地球号内での国家的対立や社会的混乱以外ありません。
もともとマルクス主義では、労働者階級の空想的団結が優先されて、国家間や労働者内部での利害対立は十分想定されていませんでした。帝国主義戦争や民族対立が現実のものになっても、レーニンなどは世界革命を期待し続けたのです。その根源は、マルクスが共同体・国家間の商業取引を含む商品交換(市場経済)の不等価性(非対称性)を十分吟味してこなかったこと、および意識形態(言葉、知識、観念、理論、法等)の重要性を認識できなかったことによります。
次に綱領「憲法と民主主義」については有益な話です。とくに憲法制定時の内閣発行『新憲法の解説』からの引用は示唆に富んでいます。文明は戦争によって成立したのであり、「文明が戦争を抹殺」するにはどうすればいいのか。文明と戦争は対立概念ではないし、憲法9条の「戦争放棄」は、戦争抹殺の方法を示していません。綱領では日本の平和が言及されていますが、戦争抹殺と世界平和の方法については、志位さんも述べていません。
私見では、戦争の抹殺・抑止には、アメリカやロシアや中国の軍をコントロールできる世界政府軍が必要と考えます。戦争や私有制の根源は、生命や人間の存在そのものにもあるので、戦争抹殺のような単純な発想よりも戦争抑止、しかも今日のような均衡抑止よりも「世界政府による絶対抑止」が必要です。憲法9条は、違憲性のある自衛隊を、国連軍の一員として絶対抑止の一翼を担い、日本と世界の平和に寄与させる役割があります。もっともその前に、マルクス主義(共産主義ではない)の誤りが世界的常識となる必要がありますが・・・・。
天皇制については、民主主義や平等と両立しないが、将来情勢が熟したときに、国民の総意によって解決されるべきものとされています。明治憲法の絶対主義天皇制は批判できても、象徴天皇制そのものを批判するのは難しいようです。なぜなら象徴天皇制を批判するには、日本人の依存(甘え)的国民性そのものを批判する必要があるし、それをすれば共産党の指導(前衛)性そのものが問われることになるからです。結局世論を考慮しての問題の先送りにならざるをえないのでしょう。まずは平和憲法体制の維持、加憲や創憲も認めないという結論になります。天皇制についての私見は、哲学の成熟しなかった日本に、哲学が確立すれば自然に解決する問題だということになります。
次に「経済的民主主義」についてです。志位さんの結論は、綱領を読めば解説はいらない、社会改良主義そのものです。すなわち、「ルールなき資本主義」の現状を打破し、労働者の長時間労働や一方的解雇の規制を含め、ヨーロッパの主要資本主義諸国や国際条約などの到達点も踏まえつつ、国民の生活と権利を守る「ルールある経済社会」をつくる、というものです。「ルールなき」というのは「新自由主義」「市場万能主義」を意味するのでしょうか、実際には、強者優先・競争優先のルールがあるのだから説得力はないし科学的とは言えないでしょう。
マルクスも日本共産党も、ずっと説明を続けているように、「利潤の本質」を捉え損なっているのです。
問題はむしろ次回(1月24日)の講義になるのでしょうか、統一戦線や民主連合政府という時代錯誤な提案についてです。大企業の労働組合や小選挙区制が、共産党にとってどうにかならない限り未来は厳しいものです。次回の講義で何らかの展望が開けるのでしょうか。
前回までは<BW32mpuE76J86> または表題を検索してください。
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